昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

今年初めての花撮り歩る記(1)

2012-05-27 17:29:02 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
  夕べからの当地特有の霧が俄かに晴れた午後のこと、思いがけなく気温も15度ほどにもなりました。
 日々の買物などの折々に目にした住宅街の花々が気になり、家に閉じこもってばかりでは、身体にも精神的にもあまり良いことでは無いだろうし、何よりもあの世で亡妻が一番心配しているだろうと、カメラを手に出掛けることにしたのでした。
 
 まず家の外に出て思ったのは、いつの間にかこんなにも暖かくなったのかと驚くほどの暖かさでした。
それで車はやめにして、とりあえず近くの住宅街を歩いて来ようと、歩き始めたのです。

歩いて間もなく、意外に季節の移ろえは早くて驚くほどで、私が家に閉じこもって居るうちに、家々の庭には花が咲き誇っていたのです。
今日の外歩きの目的は花撮りですから、カメラ片手に絶えずきょろきょろとあちこちに眼をこらして歩くのですが、カメラの対象は他所様の庭の花だけにかなり気を遣います。
カメラの先に窓などが無い場合はそれほどでも無いのですが、対象の花の先に窓がある場合には、花撮りをすっぱり諦めることもしばしばです。
もうどう看做されても白髪頭の年寄りですが、怪しい野郎と見られるには、まだまだ達観出来ず抵抗が残ります。

そんなことを色々と心配しながらも、どうにか撮って来たのが下の写真です。

エゾムラサキツツジ

同        上

スイセン

レンギョ

チューリップ


住宅街の桜

2012-05-24 16:03:26 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
  日本一開花の遅いと言われている釧路Y公園の桜が、ようやくこの度満開になったのとのテレビニュースがありました。
 昨年までは、この桜の満開時期には亡妻と一緒に、市内の公園はもとより隣り町の公園まで行っておりましたから、今年は一緒だった亡妻の想い出が辛くて、一人ではとても行く気にはなれません。
 それで買物などの外出の折々に、住宅街の公園や住宅の庭の桜を見て回ることにしたのです。
 確かに公園などの桜に比べると、その規模とか種類の数にはとうてい及びませんが、広い公園や住宅の裏庭などにたった一本咲いている桜なのですが、遠くの公園までは行けない方々には、それぞれ替えがたい趣があって、それはそれで貴重でとても有難い桜なのです。
 そんなことに思いを馳せながら、住宅街をあちこちと走り回って撮って来たのが、下の写真です。

住宅街で撮った桜

同       上

同       上



道端のかわいい千島桜

2012-05-21 20:18:01 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 先日のこと、郊外の知人を訪ねた帰りのこと、少し遠回りになったのですが、住宅街の狭い道路を避けて街の外側の道路を走ったのです。
 信号で止まった時に眼についたのは、道路脇の花壇の千島桜でした。
もとより桜の開花は日本一遅い当地のこと、開花はまだ当分先きのことと思っておりましたから、それがたとえ千島桜だとしても目を疑ったほどです。
 その道路は昔の軌道後で、片側三斜線もある極めて広い道路でしたから、後続の車の迷惑にはならないだろうと、直ぐに車を停めてカメラの納めたのです。
 千島桜は当地では珍しいものでは無くて、もう枯れかけてはおりますが、我が家にも一本あって、住宅街のあちこちで見られる桜です。
 その日私が目にしたのは、五十センチにも満たない低木だったのです。
もともと千島桜は、普通の桜に比べて低いことは低いのですが、これほど低いのは初めてでした。
一緒に並んで咲いている水仙と殆ど背丈だったのです。違法駐車のことも一瞬忘れて見つめていたほどです。

地べたに這うように咲く千島桜

そばの水仙と同じ背丈の桜



一人で迎えた結婚記念日

2012-05-18 17:33:31 | 日々の雑記
      ※ 花束と ケーキを供えて 遠き日の
          亡妻を偲ぶる 結婚記念日


 このたび妻亡き後での初めての結婚記念日を迎えました。
想えば私たちが結ばれたのは、昭和三十年五月十八日でしたから、もうかれこれ57年前の昔のことで、二人は共に二十二歳の時でした。
 金婚式を無事に済ませ、亡妻は3年後のダイヤモンド婚式を楽しみにしていたのでした。
 
当時私たちは、美唄市の三菱砿業所の同じ職場に勤めており、私たちはそこで結ばれました。言うなれば二人は職場結婚だったのです。
そこ頃の私は、樺太からの引揚者家族で、早くに両親を失っておりましたから、きょうだい達と共に兄家族の居候暮らしをしておりました。
一方亡妻も又、父親を炭砿事故で失ってから、家族と離れて姉夫婦と同居しながら、母親たち家族への仕送りを続けておりました。
そんな訳で私たち夫婦は、居候同士の因縁で結ばれたのでした。
私たちは、その頃の炭砿町では珍しい共稼ぎで、新生活を始めたのですが、苑3年後に長女が出来た折に亡妻は退職しました。
亡妻と一緒になってからの57年間は、本当に色々なことがありました。その間亡妻に支えられたことが何と多かったことか。
まさに私の人生は亡妻が居てこそのものだったと、今日しみじみと知らされました。
炭砿閉山による離職、そして再就職と再度の離職を経て釧路市に移住して、伯母の家に住み込みで働いた後、また二度三度と職を替えました。
そして職の最後には小規模企業ながらトップの座に就くことが出来ましたので、亡妻を楽にさせることが少し出来ました。
しかし私の引退後間もなく心臓と大腸の発病で再び看病などで、亡妻には本当に苦労を掛けてしまいました。今はただただ後悔するのみです。
 
 そして今日妻亡き後での初めての結婚記念日を、あたり前のことながら、たった独りで迎えたのです。
亡妻がとても花好きで、痛む膝などをいといながら毎春のように草花を植えておりました。そしてそれは今年も入院する間際まで続けられたのです。

 私は今日あらためて亡妻との57年間の在りし日を偲び、切ないながらも何かほのぼのとした亡妻の温かさを感じて過ごしました。



私とブログ

2012-05-12 20:24:09 | 日々の雑記
 私にとってブログは、孫たちがそれぞれ成長して就職もし、又は大学進学して地元を離れてしまい、めったに会えなくなった現在では、唯一残された生甲斐と云えるでしょ。
 私は生来人見知り勝ちで、人付き合いが苦手でしたから、出歩くことがあまり好きではありませんでした。
 又その上人一倍仕事人間だったせいで、家にいるより職場で過ごす方が多かったものですから、いざ引退して家で過ごす時間が多くなって、毎日がただただ長く憂鬱になるばかりでした。
 一番心配した妻が、事あるごとに買物などに引っ張り出そうとするのですが、
妻を乗せて行くだけで、店などに入ることは無く、車で待つだけのことが多かったのです。
 そんな私の閉じこもりを心配した娘が、パソコンを勧めてくれくれました。
初めは余り気乗りがしなかったのですが、ワープロしか知らなかったものですから、直ぐにワードやエクセルの便利さに魅せられました。
 しかし便利さと言えば何といってもインターネットでしょう。ネット検索の素晴らしさに嵌まってしまい、お気に入りの項目がかなりの数になりました。
 
 ブログを始めたのも娘の勧めでした。平成16年4月から始めましたが、そのブログが私を一変させました。
 それまで出不精だった私がデジカメを持って、ブログのネタ探しに午前と午後の区別無しに出歩き始めたのです。
 その結果が、毎月の血液検査に現れました。長いこと高血圧と肝臓(γーGTP)の悩やまされ薬を服用していましたが、それが下降し始めたのです。
 こうしてブログは日々欠かせない物となったのですが、想えばそのブログのための外歩きは、湿原でも河畔でも、また各公園でも殆ど妻が一緒でした。
 
 今後の私のブログは、亡妻と一緒に歩いた想い出で占められるでしょう。
 良い歳をして女々しい爺と思われるでしょうが、 独り身になってしまった今の私には、ブログは生きてゆくためには必要で、やはり無くてはならない大事な生き甲斐なのです。
 どうぞ皆さま、その歳に免じて宜しくお願いいたします。


とんだ失敗・・・!

2012-05-06 17:18:31 | 日々の雑記

 亡妻がこの世を去ってから約半年、一人での買物にも充分慣れた筈なのに、このたびとんでもない失敗をやらかしました。
 今日は、亡妻がずうっと贔屓にしていた川向こうの量販店での、5パーセント値引きの特売日でした。
亡妻は生前その日を利用して、米など値の張る物を買っていましたから、私もそれに倣って、米や雑貨類を買いに出掛けたのです。
 そしてその日の買物で、とんでもない失態をやらかしてしまったのです。
と言うのは、いつもの特売日のように、米は勿論のことトイレットペーパーなどの雑貨類も買い込んでレジに並びました。
いつもそうなのですが、この特売日には混雑するのです。どのレジにも10人近いお客さんが並びます。
買物は気晴らしにもなりますから、むしろ好きなのですが、レジで待たされるのが大の苦手でした。
ですから、特売日などの買物は出来ることなら避けているのですが、値がはる米とか雑貨類などを買う場合は別です。

さて今日のことですが、いよいよ次が自分という時でした。早めに財布を出そうとズボンのポケットを探ったのですが、ポケットは空っぽでした。
何としたことでしょう、まったく信じられない事で、その時穿いていたズボンは余所行きでは無かったのです。
そんなに急いでも居なかったし、またズボンの色だって全く正反対なのに、ぜんぜん気が付かないなんて、我ながら信じられませんでした。
とにかく列から抜け出して、品物をカートごとサービスカウンターに預けました。そして大急ぎで家に取って返して無事に支払いを済ませました。
危なく大恥をかくところでした。
それにつけても亡妻が居たらなあ・・・と、辛くて切ない思いにとらわれながら家に戻りました。