昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

じゃこしか一代記(10)小学校で開墾と援農

2007-04-28 18:49:11 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
                       1・<開 墾>・・・学校の裏山・・・
 
 昭和20年春、私は高等科の一年生になっていた。世は正に戦争末期の様相を呈し、食料不足は日を追うごとに厳しさを増してゆき、配給だけでは追いつかず人々は自発的に家の周りの空き地を耕し、また近くの山の傾斜を開墾して馬鈴薯や南瓜などの野菜づくりをはじめた。
 港には増産体制で掘り出された石炭が山と積まれていたが、積み出す船舶の数が極端に少なくなっていた。
 漸く割り当てられた船の多くは、日本海と太平洋の殆どを制していた米国潜水艦の餌食になるばかりで、折角の石炭も野晒し状態、船が出せないと云う事は、帰り荷である食料品などが全然入って来ないということだった。

 もうその頃では学校へ行っても勉強どころではなくなり、防空壕づくりと食料増産の為の開墾に駆り出されるようになった。
 私達一年生に割り当てられた開墾地は校舎すぐの裏山で、作業は木の根っこの堀出しからはじめられた。ブルドーザなどの重機類がいっさい無かったころだったから、すべて生徒達の手作業による人海戦術でおこなわれた。
 まず木の株の周りを掘り起こしてから、それぞれの根っこにロープを巻きつける引っ張り起こすのである。生徒ばかりだったが、数が揃えばその力はバカに出来ない。木の株と笹原だけの荒れ地が、わずか一ヶ月ほどで立派な畑に変わり、さっそく種芋が植えられた。
 この時に覚えたじゃが芋づくりは、後年になって大変役立ってくれた。

                      2・<援 農>・・・遠足を兼ねて・・・ 
 
 当時は男性で健康でさえあればよほどの老年者で無いかぎり、召集をうけて戦場に駆り出されていた。それは農家でも例外でなく、特に老人ばかりの小規模農家の人手不足は深刻だった。
 「一億総突撃」の時代だったから、当然のように小学校の高学年生の労働力にも目がつけられた。
 当時高等科一年生(12歳)になっていた私達も、かなり離れた隣町の農家の手伝いに行かされるようになった。
 建前は、体力増強をかねた遠足だったが、往復約三時間の徒歩と畑作業は重なったからかなり辛いものがあった。そのうえ普通の遠足とはちがって、何ごとも軍隊調で行われた。歩くのも校庭から街外れまでは「歩調取れ!」の号令で、腕を大きく振り腿を高く上げて行進させられ、さらに軍歌を大声で歌うことも強いられた。
それは街を離れ山に入ってからはいくぶん緩和されたが、帰りは農作業の後だけに特に身体にこたえて辛かった。 
 援農と云っても、十二歳に成るかならずの子どもに出来る農作業は数少なかった筈で、当時私たちがやらされたのは「蕪」の苗植えだった。「樺太」でも成長する特別の種類であったのだろうか。
 約六十年も昔のことだからあまりはっきりと記憶していないが、「ルパタカ」とか」仙台蕪」と呼ばれていた。成長すると赤ん坊の頭ほどの大きさに成るらしいが、苗はせいぜい子どもの拳ほどの大きさであった。
 その蕪の苗は、日頃の食料不足で四・六時中腹を空かせていた私達には格好の獲物で、苗の下半分を食べてから植えることが誰からとも無く広まった。
 当然悪いとは知りながら私もそれにならったが、それらの苗が無事に成長したかどうかは判らない、その後間もなく終戦となったから・・・。

じゃこしか一代記(9)小学校での想い出

2007-04-23 17:19:28 | じゃこしか爺さんの想い出話
       
                 <初めに>                

 今日ブログに載せようとするのは、あの想い出すのも忌まわしい戦時中の出来事です。そうかと云って、嘗ての戦争を賛美するものでもなく、また戦争そのものを懐かしく思っているわけではありません。
 むしろ父の命が奪われ、さらに長兄がシベリアに抑留されたことを思うと、戦争にたいする恨みつらみばかりが残っております。またあの戦争さえ無ければ、母も他の兄たちも早死にする事は無かったはずです。
 いわばマインドコントロールされた一億総国民が、一方向へ追いたてられていた、不幸な時代の、とある少年の辛い想い出につながる一つの出来事なのだと、分かって頂ければ幸いに思います。
           
             ・・・ゴム靴とゴム毬の支給・・・
 
 太平洋戦争が激しくなるにつれ、生活への制約は日毎に厳しさを増して行きました。食料品・衣料品などの必需品はことごとく統制化されて、満足に手に入らなくなってゆきました。それは子どもたちも同じで、不自由さは日増しにつのり、通学に必要な衣類はもとより履物にまで及んだのです。
 当時の履物は内履き外履きをとわず、ズックの運動靴かダルマ靴と呼ばれるゴム靴が一般的でした。その靴にしても当然配給制でしたから、破れたからとすぐに買うことはできません。きめられた配給日まで待たねばならず、また配給日だからといっても、必ず手に入るとは決まっていなかったのです。
 配給品の数には制限がありましたから、早い者勝ちだったのでいかにして早く並ぶかが大事で、それのまた各家庭での配給切符の残りにも左右されました。
 どこの家庭でも、常に衣服を優先していたので、靴などは後にまわされて満足なものは殆ど見られず、継ぎをあてたり綿糸でかがったりしたものが多かったのです。たとえ満足なのが在ったとしても、それらは兄たちからのお下がりなので、たいていはブカブカと大き過ぎて足に合っていませんでした。

 それは確か、太平洋戦争が始められた、翌年の2月のことだったと思います。ある日の朝礼で校長先生が珍しく笑顔一杯で話し始めました。
 先日南方の戦線でシンガポール(昭南島)を占領したことは、みんなも既に知っているでしょう。その戦勝祝いの贈り物が、夕べこの学校にも届きましたので、後で教室へ戻ってから貰って下さい。

 教室へ戻り一人ひとり先生から手渡された物は、新品のゴム靴とゴム毬でした。 それもまだうっすらと白い粉が付いているピカピカの新品、一気に教室中に喜びの声で沸き返りました。
 どうやら占領した南方の原料で造られたようで、ゴム毬は軟式のテニスボールと同じで、ゴム靴は生ゴム状のとても柔らかでした。ゴム靴のほうは、運動などで急停止すると靴の先だけが、今にも破れんばかりに伸びるのです。
 先が破れて親指が突き出るのではないかと、心配でならず手加減するのですが、直ぐに夢中になって走り廻ってしまいます。
 しかしその時のダルマ靴は、ゴムの質が上等にできていたのか、そうは簡単に破れることもなくとても長もちしました。

まさか今ごろ・・・白鳥が

2007-04-20 18:47:54 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 しばらく外歩きをしていなかったので、一番暖かくなる頃合いを見はからって、対岸の遊歩道に出かけた。しかし家ではあまり感じなかった風が、川沿いの道路におりたとたんに吹きつけてきた。それも海からのかなり強い向かい風である。
 せっかく出て来たからには少しも歩かずに退散するのも癪だったのですぐに住宅街をながれる支流の仁々志別川の河原にコースを変えた。
 風はまったく無いわけでもなかったが、周りに立ちならぶ住宅がちょうどよい風除けとなってくれて、先ほどの風のいきおいを半減させていた。

 枯れ草ばかりがつづく河原路をのんびりと歩いてゆくと、やく百メートルばかりの先の川の中ほどで羽ばたく白いものを目にした。はじめはカモメでも風を避けているのだろうと簡単に思っていたのだが、近付くにしたがいそのその大きさに違いを感じた。白鳥ならもうとっくに帰っていないだろうし、あるいは先ごろ新聞に載っていたアオサギかも知れないと、静かに近寄って見た。
 なんとそこで目にしたのは、まったく居るはずのない白鳥だったのである。ただ先だってまで本流にいた群とは違って、首の居ろぐあいは真っ白ではなく灰色がかっていたから、べつの種類なのか、あるいは幼鳥のたぐいなのか、わたしには良くわからなかった。

 わたしたちの足音にでも気づいたのか、5羽の白鳥はいったん遠ざかりはじめたが、こちらを危険の無いジジィとババァと思ったのか、逆に方向を変えて近付いてきた。
 さらによほど人馴れしているのか、ぜんぜん恐れる風情もない。おそらくここへ来る前にも、人の手から餌でももらい続けていたのだろう。

 まさか4月もなかば過ぎてから、白鳥にふたたび出会えるなんて少しも思っていなかっただけに、その嬉しさは格別だった。
 
遠くで羽ばたいている5羽の白鳥

足音で遠ざかる白鳥

いかにも親しげに近付いてきた白鳥


「じゃこしか」の由来

2007-04-17 20:44:36 | じゃこしか爺さんの想い出話
 今さらなのですが・・・
わたしのハンドルネーム「じゃこしか」の由来は、現に実在する「目名~牛目・科名~シカ科の麝香鹿」にあります。
 もともとは、シベリヤから樺太などの岩山に生息する北方動物で、集団を好まず単独で行動し、餌漁りに広範囲にさ迷い歩く習性があるとのことです。
 その習性になぞらえて、一攫千金を夢みて一旗揚げようと樺太にわたり、あちこちの土地を稼ぎ歩いた人たちを「じゃこしか」と呼んだそうです。いわば「えどっことかドサンコ」の類いと思われます。さしあたりわたしなどは、「じゃこしか二世」と云ったところでしょうか。
 おそらく方言なのでしょうが、揶揄的な言葉として「じゃこふんばる・じゃこのふんばり」」などがよく使われておりました。

 ちなみに判っている範囲で、麝香鹿の特徴を載せておきます。
小形の鹿で角は雄雌ともになく、体の上側は暗黒褐色で、下側は褐色と白色が混ざり、首の後から腰にかけて乳白色の模様があるとされていますが、1960年代に天然記念物に指定されると同時に絶滅危機種にも指定されています。
 なお雄は、3年過ぎるところになると、腹部の麝香線が発達して特殊な匂いを発するようになります。これが「麝香」と珍重されて多獲に遭い、ついには絶滅種にまで激減したとおもわれます。
 
 絶滅種に指定されてから約50年も経っておりますから、残念ながらすでに途絶えてしまったかもしれません。

   写真はいろいろと検索した結果見つけた「麝香鹿」

    同上


冬への逆戻り

2007-04-15 20:53:03 | 日々の雑記
 今年の冬は暖冬で多いにたすかった。だから今年のサクラも早いだろうと楽しみにしていたのだが、その期待も四月に入ってからは、ものの見事に裏切られてしまったようだ。
 四月ももう半ばというのに、来る日もくる日も強風の連続のうえにときおり、雪やあられがまじることもあって、まんぞくにウォーキングさえできない有様だった。ゆうべもの細かい雪がちらついていたが、どうせたいしたことは無いだろうとおもっていた。しかし明けて今朝になってみると、今年の冬でさえあまり見ることの無かったほどの、なんと12センチもの積雪だった。

 春の雪はかなり大粒のいわゆる「牡丹雪」がふつうで、その雪は空を覆うほどいっぱいに落ちてきても、地面に着くかつかないうちに消えてしまいます。
 しかし今朝の雪にだけは、その春の淡雪の儚さは微塵もなく、戸外はただただ真っ白けの世界に変えていた。まさに冬への逆戻り現象だったのだ。
 なにしろ今日までの半月間は、ろくなウォーキングにも出掛けられず、狭い部屋での室内歩きにエアローバイク、それに段上りの室内運動に明け暮れていた。
 それだけに今朝の雪にはガッカリさせられてしまった。また当分ウォーキングは無理だろうと諦めるよりほかはなかったが、そこはやはり春の淡雪・・・午前中のうちにあらかた消滅していた。
 裏庭の木々の枝から刻々と消えてゆく雪と、ときおり明るさが戻る空を見ながら運動をつづけ、明日の外歩きに明るい期待をもって過ごした一日だった。

せっかく目の前にあった春が・・・冬へ逆戻り!






追憶・じゃこしか一代記(8)小学校で・<学芸会>

2007-04-13 18:05:05 | じゃこしか爺さんの想い出話
   
                     <学芸会>

 毎年秋に行われる学芸会で、学年の劇の出演者にクラスから選ばれ、主役にばってきされたことがあります。
 何しろかれこれ六十年も昔のことですから、あまり詳しくは覚えておりませんが、戦争も一番華やかな頃だったので、その演目も当時の世相をテーマーにしたものだったとおもいます。
 バックの音楽「海ゆかば・・・」が静かにながれる劇の中で、私は海軍に憧れる一人の少年を演じていました。実際にもそのころの少年の誰しもが、当然のよう軍人をめざしていた時代でしたから、身をいれて演じていたのを想い出します。
 ただ劇の演目にはあまり関係の無いことなのですが、相手役の中にTさんという女生徒がいて、或る日とつぜんに練習を休んでしまい、それ以後まったく姿を見せなくなりました。とにかく気になってしかたがなかったのですが、かといって先生方に直接聞くのもはばかられて、ただただ子ども心に幾日も悶々と過ごしていました。
 その後しばらくして出演者の一人から、いまTさんは流行り病いの「猩紅熱=ショウコウネツ」に罹って入院中で、劇には出られないのだと聞かされて、ガッカリしたことを覚えております。今にしておもえば、少年の日のはかなくも淡いの恋心だったのかも知れません。女性徒に対してそんな気持ちを抱いたのは、その時が初めてでした。そんなたあいもない記憶が、いまなおおぼろげに残っております。きっとそれがわたしの初恋だったのでしょう。
 とにかくその劇は評判が良く大成功でしたが、両親が観に来ていたかどうかは分かりませんし、また今のように父兄たちに公開していたかどうかも、まったく記憶ののこっておりません。


                       <運動会>
 
 生徒の夏の楽しみはやはり運動会でしょう。
日頃体操に時間で鍛えた実力を、多くの親たちなどの前で存分に発揮できる、年に一度の日だったのです。
 朝早くから若駒のように張り切り、男子はランニングシャツに赤や青などの線を縫いつけたパンツに白の運動足袋、女子は開襟シャツにブルマーそれに運動足袋を履き、更に紅白の鉢巻や運動帽でグランドに駆けつけるのが常でした。
 なお男子たちは、足が軽く持久力が付くからと、代々上級生から言い伝えられていた、蓬の葉を搾って腿と臑に両足に塗り付けたものです。

 親たちが来なくなって生徒だけの運動会になったのは、たしか戦争も後半になってからはずです。生徒はみな昼飯の日の丸弁当だけ持って出掛けのです。
 当時の運動競技は、一般的な徒歩競争やリレーなどもありましたが、やはり戦時中だけに戦争色の濃い、騎馬戦・棒倒し・旗取りなどの競技が多かったと思います。また競技とは別に、武道の基本形とか技などを採り入れた体操や組体操もあったと記憶しています。


追憶・じゃこしか一代記(7)小学校で・<遠足>

2007-04-10 18:41:18 | じゃこしか爺さんの想い出話
 

                       <遠 足>
   
    (1)・・・展望台・・・
 
 わたしが約14年間育ち暮らした塔路町は、4キロほど内陸に入った盆地に在りました。その名のとおり町をとりまいている山のなかで、東側の一番奥にあって一際高い山が、町民から親しまれていた「天望台」です。
 標高がどれほどだったのか今ではまったく覚えていませんが、とにかくどっしりとした姿の良い山で、朝な夕なにか町民に安心感を与えてくれる、とても貴重な存在でした。

 この展望台の頂上からは街全体が一望できるうえに、スズランの群生地としても有名でした。時季になると5・6年生と高等科の生徒の遠足によく利用にされていました。穏やかに見えながらじっさいにはけっこう嶮しかったので、低学年のばあいは途中の中腹まででした。
 5年生になって初めて頂上まで登ったのでしたが、その初めての眺めの良さは最高でした。また頂上のあたりはとても起伏に富んでいて、男子生徒らには最適な遊び場となり、昼食の時間も忘れ遊び廻っていたものです。しかし戦争も後半になって、この頂上に陸軍の監視所がおかれてからは、そこに近付くことは一切禁止されてしまったのです。

 またこの天望台の麓には、昔アイヌの人たちが住んでいたことから「アイヌ」と呼ばれ、そのころも数件の農家があって、ジャガ芋やかぼちゃなどの野菜を作っていた。       
ま たこの麓一帯は蕗などの山菜が豊かなうえに、近くの塔路川の支流にはイワナも棲んでいたので、春先には山菜採りに、夏休みにはイワナ釣に良く出か掛けたものでした。


  (2)・・・塔路湖・・・
 
 遠足で良く出掛けた先きのもう一つは、山とは全く正反対の浜塔路町の(塔路湖)でした。広さはどの位だったか分かりませんが、子どもの足でも時間さえ掛ければ一周出来たのですから、たいした広さでははなかった。
 私たちは岸辺の深さがせいぜい膝上少しの辺りで、主に「トゲウオ~トンギョと呼んでいた」を捕まえて遊び、時には魚たちが水草に作った巣を壊したり、また巣の中の雌を追い出したりして遊んでいたのです。

 またこの湖には「主=ヌシ」が棲んでいて、人を襲うとの噂されていましたから、遠足のほかに夏休みなどにも出掛けたこともありましたが、一人では絶対に近付くことはしませんでした。
 どうやらそのヌシの正体は、かなり年数を経た「イトウ」だったようで、それを釣り上げたと人たちの話では、優に2メートルを超えて居たそうですから、そのころでもめったに見られぬ大物だったのでしょう。
 それほどの大物ならば、小さな子どもくらいは楽々呑み込んでしまうだろうと云われ、子どもたちはしばらく近寄ろうしませんでした。
 またその後湖岸を利用して陸軍の飛行場が造られるにいたって、自然と足が遠のき遠足にも遊びにもほとんど行くことは無くなってしまいました。

ボケ防止に

2007-04-06 20:44:56 | 日々の雑記
 
                 ボケ防止に
 最近目にした一本に、「ボケ防止にはへたじょうずは抜きにして、詩歌や俳句などの創作が最適」とあった。もとよりそのような才能はまったく無いのだったが、せめて「PPK=ピンピンコロリ」をめざして心掛けようと思うしだいです。

                 河畔にて  
 
 近頃は風の日が多かった。朝からよく晴れていたので、今日こそ歩きに出ようと勇んでいたのだが、そのやさきの昼前あたりからいつもの風が出てきた。
 このところ室内歩きばかりが続いていたから、少し身体がなまって来たようで、身体は重くかったるい感じもする。
今日は少し無理してでもと、老妻と連れだって河畔の遊歩道へ向かった。
この河畔は、つい先頃まで30羽ほどの白鳥の親子が群れていたところだ。しかし今は、白鳥どころかあれほどうるさく白鳥につきまとっていた、カモメはもとよりあの執拗なカラスの姿さえ見えない。

歩きはじめてまもなく、あんじょう心配していた風が吹きはじめてきたが、それは良い具合に追い風だった。
久しぶりの外歩きだったが、風に押されて軽がると予定の歩数をこなしてしまった。しかし帰りは向え風だった分だけ時間がかかり、けっきょくはいつもとおなじになってしまった。
帰りがけに気づいたのだが、この風のなかで釣り人を発見した。「ヒメマス」にはまだかなり間があるはずなのに、いったいぜんたい何が釣れるのだろうか。

  ※ 下手はへたなりに、ただ楽しめばよいとのことだったので、恥をしのんで下記の駄作を載せてみました。

       ☆ 白うさぎ跳ぶがごときに
         波のたつ
         春の岸辺に釣り人のおり




 


追憶・じゃこしか一代記(6)小学校で

2007-04-04 18:46:23 | じゃこしか爺さんの想い出話
                     <冬の通学>
 通学に慣れてゆくに従って近道などの通学路を覚え、また上級生の跡について行き、最短距離の道を知るようになってからは、要領よく途中で遊びながら行くことを覚えました。
 しかし夏季間は時間を浮かせて色々と遊ぶことも出来ましたが、冬の通学では、厳しい寒さのために途中での道草などの余裕は全くありません。寒さを凌ぐ為に、母が造って呉れた分厚い靴下カバーを重ねて履き、更に靴の中に米俵の藁を敷き詰めたりもしたものです。
 それでも我慢出来ない時には、温まるまで良く走ったものです。なおこの冬の通学時には、一年生が我慢出来ずに途中で泣き出す者が、あちこちで見られました。中には高等科の生徒に背負われて行く者さえおりました。
 そのような寒さの中でも、上級生から倣い覚えたものや、自分たちで考えた遊びで楽しく通学したものです。まさに子どもたちは遊びの名人でした。
   
   1・・・馬糞蹴り・・・ 
 とにかく通学に慣れて来ると、家から真っ直ぐに向かう事はしないで、たいていは途中遊びながら行ったものです。今のように車が多いわけで無く、むしろ珍しい時代でしたから、タイヤーなどでアイスバーンが出来るわけも無く、除雪された道路は寒気と通行人の足で固められ、いつも歩行には丁度良い硬雪状態だったのです。
 私たちはグループを組んで、良く「馬糞蹴り」をしながら通学したものです。
「馬糞蹴り」と云うのは、当時の運搬業の主役は馬でしたから、馬糞だけは季節を問わず道路上に幾らでも転がっています。
 先ずカチンカチンに凍った馬糞の中から、なるべく硬くて真ん丸なのを選び出します。次にジャンケンでグループの中から鬼を一人決めてから、合図で一斉に逃げ始めます。鬼は馬糞を蹴りながら追い駆けて、その馬糞を相手に当てたら鬼の勝ち、当てられた者が今度は鬼に代わって追いかけるといった、極々単純な遊びなのですが、これが意外と楽しい上に、身体が温まるうえに学校にも早く着くことが出来ました。まさに一石二鳥の通学方法だったのです。
 
   2・・・スキー通学・・・

 新雪が積もった朝などは、長靴よりもむしろスキー方が便利だったので、時々スキー通学をしました。その時には普通の通学路で無くて、山を越えて行くのです。いわゆる山スキー或いはツアースキーと云ったところでしょう。

 私たちが住んでいた住吉町の炭砿住宅(八軒長屋)は、殆どが切り開いた山の中腹に建てられていましたから、家を出て少し登っただけで頂上に着くことができます。後は尾根伝いに松林の中を縫うように進むだけで、直に学校の裏山に辿り着くことが出来ます。そこから後は学校目掛けて、一気に滑り降りて行くだけです。
 弟や近所の子供たち列をつくって、松の原生林を滑って行く、この通学方法もまた気分爽快で楽しく、その上仲間意識や結束が固まり、とても有意義なものでした。

   3・・・雪スケート通学・・・
 
 新雪も踏み固められて来ると、今度はスケートの出番となります。ただスケートと云っても、氷上で滑るものとは異なります。しかし形そのものには余り違いは無く、ただその違いはそれぞれスケートの刃の厚さだけなのです。
 氷上を滑るスケートの刃はまるで包丁のようですが、雪スケートの場合は厚さが6ミリほどあって、硬雪であれば氷上同様に充分滑れるのです。勿論氷上並みにスピードも出る上に、技術さえ伴えば回転やスピンだって可能です。
 私は誰にも習ったことも、また資格が在ったわけでも無いのですが、スキーはもちろん、この雪スケートの達人だと自負していました。
 ですから、通学途上の坂道を滑り降りる時などは、いつも両腕を翼のように広げ、更に片足滑りで得意になっていました。片足で一気に滑ることの出来る者は、その当時の生徒の中に、私より他にはいなかったのでした。


四月の雪

2007-04-03 18:26:32 | 日々の雑記
 以前のことなら4月の雪など決して珍しく無いのだが、暖冬暖冬と云われて久しい昨今、それに静岡ではまだ4月になったばかりなのに、観測史上初の31・8度の真夏日を記録したと大々的に報じられていた。しかもそれは全国で初めてとのことだと云う。

 因みにこちらでは同じ日の朝から時ならぬ雪に見舞われて、辺りは冬さながらの冬景色に一変していた。

 今年はサクラが早々と開花して、各地の見事に咲きそろった各種のサクラと花見風景などが、最近のブログに数多く載せられるので日々楽しく拝見させて貰っていた。
 実はこちらでも今年は暖冬のお蔭で春は早いだろうと、僅かながら膨らみを見せて来たシャクナゲの蕾を眺めて、大いに期待を持っていただけに今回の雪は恨めしく、またとてもガッカリさせられた。

 気の所為か、蕾はふたたび縮んで固くなり、またシャクナゲの葉っぱ閉じてしまったかに見えた。

雪を被って如何にも寒そうな木々たち

                   同上