1・<開 墾>・・・学校の裏山・・・
昭和20年春、私は高等科の一年生になっていた。世は正に戦争末期の様相を呈し、食料不足は日を追うごとに厳しさを増してゆき、配給だけでは追いつかず人々は自発的に家の周りの空き地を耕し、また近くの山の傾斜を開墾して馬鈴薯や南瓜などの野菜づくりをはじめた。
港には増産体制で掘り出された石炭が山と積まれていたが、積み出す船舶の数が極端に少なくなっていた。
漸く割り当てられた船の多くは、日本海と太平洋の殆どを制していた米国潜水艦の餌食になるばかりで、折角の石炭も野晒し状態、船が出せないと云う事は、帰り荷である食料品などが全然入って来ないということだった。
もうその頃では学校へ行っても勉強どころではなくなり、防空壕づくりと食料増産の為の開墾に駆り出されるようになった。
私達一年生に割り当てられた開墾地は校舎すぐの裏山で、作業は木の根っこの堀出しからはじめられた。ブルドーザなどの重機類がいっさい無かったころだったから、すべて生徒達の手作業による人海戦術でおこなわれた。
まず木の株の周りを掘り起こしてから、それぞれの根っこにロープを巻きつける引っ張り起こすのである。生徒ばかりだったが、数が揃えばその力はバカに出来ない。木の株と笹原だけの荒れ地が、わずか一ヶ月ほどで立派な畑に変わり、さっそく種芋が植えられた。
この時に覚えたじゃが芋づくりは、後年になって大変役立ってくれた。
2・<援 農>・・・遠足を兼ねて・・・
当時は男性で健康でさえあればよほどの老年者で無いかぎり、召集をうけて戦場に駆り出されていた。それは農家でも例外でなく、特に老人ばかりの小規模農家の人手不足は深刻だった。
「一億総突撃」の時代だったから、当然のように小学校の高学年生の労働力にも目がつけられた。
当時高等科一年生(12歳)になっていた私達も、かなり離れた隣町の農家の手伝いに行かされるようになった。
建前は、体力増強をかねた遠足だったが、往復約三時間の徒歩と畑作業は重なったからかなり辛いものがあった。そのうえ普通の遠足とはちがって、何ごとも軍隊調で行われた。歩くのも校庭から街外れまでは「歩調取れ!」の号令で、腕を大きく振り腿を高く上げて行進させられ、さらに軍歌を大声で歌うことも強いられた。
それは街を離れ山に入ってからはいくぶん緩和されたが、帰りは農作業の後だけに特に身体にこたえて辛かった。
援農と云っても、十二歳に成るかならずの子どもに出来る農作業は数少なかった筈で、当時私たちがやらされたのは「蕪」の苗植えだった。「樺太」でも成長する特別の種類であったのだろうか。
約六十年も昔のことだからあまりはっきりと記憶していないが、「ルパタカ」とか」仙台蕪」と呼ばれていた。成長すると赤ん坊の頭ほどの大きさに成るらしいが、苗はせいぜい子どもの拳ほどの大きさであった。
その蕪の苗は、日頃の食料不足で四・六時中腹を空かせていた私達には格好の獲物で、苗の下半分を食べてから植えることが誰からとも無く広まった。
当然悪いとは知りながら私もそれにならったが、それらの苗が無事に成長したかどうかは判らない、その後間もなく終戦となったから・・・。