昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

カーリング女子

2006-02-28 18:30:51 | 日々の雑記
 今月の12日から始ったイタリアトリノ市でのオリンピックは、昨日17日を以って無事に終了した。開始前からテロなどが取り沙汰されて、また一部施設の不備等も伝えられ随分と不安を抱かせていたのですが、そんな物は全て杞憂に過ぎなく、この国ならではの華やかかな開会式に魅了され、それ以後の各競技の放映に惹かれ、寝不足の夜を過ごした事は今更云うまでも無いことです。

 さて今回のオリンピックの開始前から、色々と前評判の高かった日本の金メダル獲得は各方面の予想に反して、大会終了ギリギリになってから、かろうじて女子フィギュアスケートの荒川静香選手が、逆転の金メダルを獲得して、全国民の夢を叶えてくれました。
 一時は30年ぶりのメダル皆無も取り沙汰されて、諦めきっていたさ中の快挙でした。中央の新聞社での号外には、「日本アジアで唯一の金メダル」と活字が踊っていました。

 このオリンピックのフィギュア史上初の栄冠に、決してケチを付ける気などは毛頭ありませんが、私が今回のオリンピックで一番魅せられたのは、日本女性のカーリングでした。
 そもそもカーリングなる競技名を知ったのは、長野オリンピック際で、後は一切耳にする事も無く、今日に至った訳ですからこの競技の明確なルールは疎か、あの漬物石のような物の名前が「ストン」と呼ぶことさえも、今回初めて知った次第です。

 先夜偶々テレビを点けた時に放映されていたのが、日本とカナダとの試合だったのです。二十歳前後のうら若き日本女性が対戦するカナダチームの、見るからに年上でしかも厳つい体躯の、オバサン然とした姿を目にした時は、いやが上にも闘志が湧き応援にも熱がこもりました。特に試合のヤマ場でお互いが掛け合う掛け声は、日本女性の可憐な音声に較べて、男とも見紛うばかりの野太い声に対抗する為に、こちらの応援の声も高くなっていました。

 今回のトリノでは日本女子チームは残念ながら、4勝5敗の成績で一次リーグ止まりでしたが、総合成績が第七位と立派な健闘振りだったと思います。
日本選手の中でも、一番年齢が若い本橋麻里(大学生)さんの頑張りが目を惹き、彼女が放つショットは「マリリン・ショット」と呼ばれ、外人の観客をも沸かせる程の人気が有りました。

 私は今回のトリノ冬期オリンピックで、カーリングの大のフャンとなり、その魅力の虜に成っていました。


ガン検診の余波

2006-02-25 18:27:41 | 日々の雑記
 今度のことの起りは、一月末に受けたガン検診に始まります。年に一度のことでもあり、また折角の行政の福利施策だからと、今年も軽い気持ちで受けただけなのだが、己の油断からこの10年来引いたことも無い風邪に半月ほども悩まされてしまった。そもそもガン検診の巡回バスの世話になった時点では、こんな事は夢想だにしなかったことである。

 しかし何の因果かこれまでに、肺ガンの検査では四度ほど影があると指摘されて来た。その度に何かの間違いだろうと、内心困惑しながらもその都度総合病院で精密検査を受けて来たが、その結果は初めの予測どおりで、何処にも少しの異常も見られず健全そのものだった。

 今回もそれで終れば上々の出来で、何事も無く目出度しめでたしで終わって居たのだが、労災に最初に出掛けた日に風邪を貰って来てケチが着いた。
 38度5分の発熱はともかくとして、身体の節々の痛みに加えて空嘔吐の苦しみを嫌と言うほど味わされ、挙句の果てがシャックリ地獄である。
 シャックリが幾ら続いても死ぬ事は無いと思いながらも、如何にも心配げに見守る老妻の気遣いには、己の自信も何時しか揺らぎ始め遂には、愈々俺も駄目かと・・・気息奄々の態で、あれほど嫌がっていたシャックリのみの症状で病院に駆け込む始末と相成った。血管注射と薬が効いて一晩続いたシャックリも止り、風邪の緒症状はすっかり無くなったのだが、どうも芯からシャキットせず力が湧いて来ない。もともと70余歳過ぎの老人のこと、若者張りに力が漲って来ないのは当り前の事なのだが、何処か何と無くウツウツとしたものに左右されて自分が居るのである。

 昨日23日先のレントゲン検査の後、念の為にと改めて出直して受けて来た、CTスキャンの診断結果を聴きに行って来た。問題は無いと自信は前以て在ったのだが、万が一のことも在るとの思いが脳裏から消えず、もはや風邪はすっかり治りきって居る筈なのに、身体が今一つシャキットしないのは、やはりガンの所為・・・まさか・・・と千千に乱れる思いを抱いて女医の声を待った。

 「何処にも異常は認められませんでした。でも早期発見が大事ですから、今後も年に一度は是非検査を受けて下さい。」

 笑顔で云う女医の言葉が全てだった。この半月ほど我が心を覆っていたもやもやが「不定愁訴」が、影も形も無くなり何処かへ飛んでしまって、心身ともに羽毛の如く消え去っていた。

 診断の結果は誰よりも先に、家で待つ老妻に知らせたのは云うまでも無いことであった。

風邪とシャックリ

2006-02-20 18:23:48 | 日々の雑記
 どうやら風邪にやられたらしいと、遅蒔きながら気付いたのは、何時もと違う鼻水の性質からでした。普通季節の変わり目などに発生する鼻炎の鼻水は、若干粘着性を有しているのですが、今回はどこか違うと思いながらも、まさか自分が風邪に罹ったなどとは、露ほどにも思わず何時もの気紛れな鼻炎だろうと軽く考えて、病院の鼻炎薬を飲んで済ませていました。
 と言うのもこれまでにそんな事が良くあったからです。通常なら一錠で二日から三日ほどは、その効果が持続して治まる筈なのに今回は一向に納まらなかった。その時点で当然気付くべき筈だったのに、こうした時にはやはり何処か気が抜けていたのでしょう、ついウッカリその鼻炎薬を翌日も続けて飲んでいたのです。
しかし日頃はたった一錠でも充分過ぎるほどに効き目が在る筈ななのに、さらさらと水の如くに流れ出る鼻水辟易しながらも、まだ風邪だとは全く気付くことも無く、徒にティシュペーパーの世話になるばかりだった。

 これは単なる何時もの鼻炎ではないと、遅蒔きながら気付いたのは三日目の夜でした。慌てて買い置きの風邪薬を服用したものの、それはまさに後の祭りでした。
三日前肺ガンの検査で訪れた労災病院内科の中待合室でのこと、偶々隣り合って座った患者の動作と様子を考え、念には念を入れて直ぐにでも風邪薬を飲むべきだったのです。
 折角の鼻水と云う前触れがあったにも関わらず、その初期判断の甘さと油断の果てが、その夜の39度近くの発熱だったのです。翌日早々に駆け付けた病院の診断はやはり風邪でした。ただエンフルインザで無かったのが幸いと云えたのでしょう。
当然のなり行きながら、その夜は老妻の世話で、翌朝までには何とかして37度台までに下げはしたものの、今度は午後になってから激しい嘔吐に襲われることになりました。食事の量に比較して薬(通常の血圧と心臓)を飲み過ぎた所為かも知れませんでした。

 その嘔吐感も夕方には峠を越して、幾らかホッとして「お粥と梅干」の晩飯を済ませて間も無くでした。今度は突然のシャックリに襲われました。初めは普通のシャックリだろう位に軽く考えていたのが、一向に止る気配が無く延々と続き出したのです。
 一般世間での方法やパソコンで調べた方法を色々と試して見ましたが、一時的に止りはするのですが間を置かずに叉直ぐに出て来る始末でした。
 何とかして止めようとして飲んだ水の量で、腹は寝る頃にはもう既に水腹で満腹状態、どうしょうも無い苛立ちから寝不足の一夜を過ごしました。
明けても結果は全く同じでした。風邪熱の方はもう完全に平熱に戻り、咳も止り喉の調子は元通りになったものの、今度はシャックリとの格闘です。

老妻と娘は病院に行くようにしきりに勧めるのですが、

  「歳は取れども俺は大の男、シャックリ如きで病院に行けるか・・・それにシ    ャックリが何年続こうが死んだためしは無い、またギネスによれば50年も    続いている人もいると言う」

と、ガラにも無く張っていた威勢は、時が経つに連れて萎み、何時の間にか不安に変わっていました。
 そして遂には先ほどまでの威勢は何処えやら、閉院ギリギリの時間に病院に駆け込み、血管注射を一本と投薬を受けて来た次第です。
その注射と薬のお蔭で、その夜はトイレに起きることも無く、翌日の10時近くまで爆睡でした。

 因みに看護師さんの話では、シャックリで来院することは、良くあるらしく決して恥ずかしいことではないそうです。

 しかしこんな事はもう二度とコリゴリです。

風呂敷包み

2006-02-16 18:50:11 | 日々の雑記
 先日税務署へ行った時のこと、全く思いがけない物を目にした。それは初老の婦人が手にしていた風呂敷包みである。

 初めは確定申告に来た人には見えなかったのだが、申告手続きの部屋に入って来たのだから、私たち同様の目的で来たのは間違いようである。ただこの中に居る人たちの持ち物と云いば、資料などの書類を入れる紙袋乃至はバックが殆どである。中には洒落たアタッシュケースを提げている老人も居たが、私は現役時代に使っていた薄手の黒の書類カバンだった。

 そんな中での風呂敷包みはとにかく目を惹いた。以前なら決して物珍しい物でなくて、何処の家でも在るような茄子紺の風呂敷で、その包みを手で支え持った姿が、如何にもその婦人には似合い様になっていた。
やがて風呂敷を開いて、様々な資料と思われる書類と布製のペンケース、それに電卓などを出し始めた。

 今でこそ殆ど見掛けなくなった風呂敷だが、以前は何処の家でも一般的に広く用いられていた。包む物の形に左右されることなく、殆どたいていの物に合わせて包む事が出来て、持ち運びに重宝されていたものだった。
 例えばスイカや酒類の一升瓶場合などの持ち運びには、安全で恰好の日用品であった。まだスイカ専用のナイロン紐の網袋が出回り、酒瓶なども紙パックが開発され、その上紙袋や布袋が出回るようになって次第に忘れられていった。
本来ならば和服の付き物として親しまれて来た物だが、茶道や茶道の特に成人式の場合でも、殆どが着物姿なのに手に提げているのはバッグである。
 この頃では殆ど見掛けなくなったのを、今日偶々見掛けた風呂敷に堪らないほどの愛着を覚え、あらためて懐かしく思うと共に、今では全然姿を見せないことに、何かしら言い知れぬ寂しさを感じていた。

 年寄り感傷と言われれば、それまでの事ですが・・・。

確定申告を終えて

2006-02-13 18:37:08 | 日々の雑記
 確定申告の資料が全部揃ったので、税務署へ電話を入れると、期日前でも良いと知らされて、早速く午後に税務署へ出掛けた。

 これまでは毎年近くの地区会館へ出かけて済ませて居たのだが、直接税務署で申告するのは、今回初めてだった。申告受付期間は2月16日から3月15日までと聞いていたのに、いざ来て見ると人の多さに驚かされた。
 先ず感じたのは、期間中にたった一日だけ開設される、特別申告会場の地区会館と違って、たくさんの机が並べられていて、各自が自らの手で記入する方法が取られていた。そして色々と指導して呉れる補助役のスタッフの数も多く、まさに手に取る様に、付きっ切りで指導して呉れるようになっていた。
 だから手際良く早く仕上げれば、その分だけ最終段階の申告書提出のテーブルに着くことが出来て、申告の手続きが全て終ってしまうから、来訪者が多い割には、どんどん手続きが捗り終わって出て行く人も多い。私の場合も約30分ほどで全て終ってしまった。
 地区会館でのウンザリするほどの待たされ、辟易したこととは全く雲泥の差であった。遠くても直接本署に来て良かったと思って帰途に付いた。

 それに今年の場合、僅かな年金からも無情に天引きされていた源泉税が、嬉しいことにその殆どが還って来ることになった。還付金は何処で申告しようと同じなのだろうが、元々は徴集された自分の金であることも忘れはて、申告をを此処でしたからだろうと勝手に理由付けて有り難がり、万々歳と足どり軽く税務署を後にした。


ガン検査

2006-02-10 20:36:15 | 日々の雑記
 先月下旬、市のガンセンター巡回バスで受けた胃ガンと肺ガンの健診結果が、昨日の午後に送られて来た。老妻のがハガキで私の方は封書だったので、また肺が引っ掛かったのだと直感した。
 肺ガン検査を受けたのは今年で四回目だが、一・二回では肺ガンの疑いありと引っ掛かり、
 「そんなバカな・・・喫煙などはしたことも無いのに」
とボヤキながらも、それぞれ道立病院で精密検査を受けていた。 その結果は、何処にも異常は見られず、不審のもとは血管の影では無いかと言われた。
 そして三回目の受診結果は、ハガキで全く異常無しが知らされ、もう肺ガンの心配など全く無いものと、すっかり安心しきり忘れていたのだったが、今回のは叉封書による通知だった。
 常日頃からそれらしき兆候などは、一切感じていなかっただけに、
 「叉か・・・もういい加減にして呉れよ」
との思いでいささかウンザリした思いで開くと、やはり予想どおり肺に影が見えますので、呼吸科で精密検査を受けて下さいとあった。

 しかし投げて置くわけにもゆかず、今朝早速く何時もより早起きして、労災病院で精密検査を受けて来た。
 前回受診した道立病院は、かなり遠い場所にあったが、特に肺と心臓の権威と言うことで、わざわざ出掛けて受診した。
しかしその道立病院は、昨年道庁合理化の煽りを受けて閉鎖されてしまった。それで今回は近くの労災病院に行ったのである。その結果は先に書いたとおりの、全く異常無しであった。
 朝九時から午後の一時までかかってしまったが、女医さんのその一言で、約四時間も待たされた苦痛は一度に吹き飛んでしまった。そして今度は強烈な空腹を感じていた。家に戻れば当然昼食の用意は既に出来ているのは判っていたが、受診結果を待っている老妻に、異常無かった旨だけを簡単に伝え、途中の回転寿司屋に飛び込んだ。

 空きっ腹のこともあったが、いわゆる今日の店長お奨めの品「寒鰤」が最高だった。

まだ留まって居た白鳥たち

2006-02-07 20:52:22 | 日々の雑記
 今日午前中市庁舎に行った帰りに、雪になる予報が唯の曇り空のみで、一向にその気配が無いのを幸いに、家を通り越して河畔に出て見た。その目的は、この2日ほど外歩きをしていなかったので、歩くことにもあったが、何よりも先日の白鳥たちのことも気懸りであった。
 何しろあの後の3日間の気温がマイナス17度ほどにも下がり、更に強風注意報が出されて、最高風速が10メートルを越すほどになっていたから、結氷上での白鳥の群れがとにかく心配だったのである。

 初めはこの前の場所には見えなかったので、気象の変化を察知して暖かい場所にでも飛び去ったのだろうと思った。しかしそんな事は無く河口近くの氷が融けて、水面がやや大きく現われた場所に居た。
 それは白鳥ばかりでなく、鴨の群れも岸辺近くの鉄橋下に群れていた。

 幸い今のところ氷が一部分融けているから良いようなものの、寒さはむしろこれからが大変な筈である。それなのに飛び立とうとはせず、こうして氷の上に留まっているのは、恐らくリーダー格のボスが方向音痴で行く先を見失った所為で、いずれこの群れ全体が低温で体力を失って、氷上で凍れ朽ち果てるので無いかと、勝手な想像にとらわれて仕舞い心配でならなかった。

 夜になって娘にそのことを告げると、そんな私の杞憂はいとも簡単に覆されて仕舞った。娘の話では、毎年のことでは無いが、2~3年に一度くらいの割りで、この川で冬越しをして無事に飛び去る白鳥の一群がいるとのことだった。
 それを聴いて私は多いに安心したのである。良く考えてみると、白鳥の屍骸ばかりか、他の水鳥の凍れた屍骸が残っていたなどと言う話は、未だ曽て聞いたことは無かった。
             まだ留まっていた白鳥たち

              鴨の種類

              鷲も魚を狙って・・・


節分そして立春

2006-02-04 17:41:16 | 日々の雑記
 昨日は節分で豆まきをやり、そして明けて今日が立春愈々今日から春です。立春とは二十四節季の一つである事は周知のことで、今さら申しあげるほど事でも有りませんが、今日をもって寒が明けて春となる訳です。しかしそれはあくまでも暦だけのことで、その寒さはむしろこれからの方が厳しいと云われ、事実そうなるのが普通のことのようです。
 その厳しい寒気はともかくとして、日毎の日脚の長さにはつくづく驚かされて仕舞います。年末の頃は午後4時とも成れば、外は既に暗がりで気の速い家では、我が家でも同じで早々と玄関前の灯りを点けていたものですが、それが近頃では5時を大きく回ってからとなりました。またこの立春と云う言葉の響きに、何故か一種の華やぎめいた感覚にとらわれているのを感じます。キットこれは日の光の中に、自然の時間の微かな移り変わりを、我々の身体が敏感に反応する所以なのでしょうか。
 未だに厳しい寒気と大雪の為に、交通障害などに苦労されている沢山の方々には、誠に申訳ないことと思いつつも、このようにノーテンキに解釈して勝手に述べている次第です。

 さて我が家の豆まきは、昨年まで二人の孫と一緒でした。今年はその二親が共働きの事情は少しも変わらないのですが、老夫婦二人きりでの豆まきとなってしまいました。誰よりもお婆ちゃんっ子だった上の孫娘は昨年高校進学してからは、我が家に来る回数はめっきり少なくなり、それにつれて中学生の下の孫娘もまた、同じように余り来なくなってしまったのです。
 二人とも産院から真っ直ぐ我が家に来ていたので、我が家で生まれてと云っても良いほどでした。成長につれて離れて行くのは、世の常のことで当然の事なのでしょうが、私たちにとってはかなり寂しいことです。

 ところで最近節分に因んでの縁起物で、「恵方巻齧り」とか巻き寿司の太巻きを丸齧りことが流行り、スーパーなどではそれを大々的に宣伝しております。恐らく何処かの地方の小さな慣習が、都合よく商業ベースに乗せられたのでしょう。
 更に「節分いわし」とかも宣伝され、スーパーや量販店売り出されているようです。私が育った樺太には、「恵方巻」もまた「節分いわし」などはありませんでした。ただただ寒い時季にもかかわらず、きょうだい総出で各部屋の窓を大開きして「福は内・鬼は外」と元気良く撒き回ったものです。

 また豆撒きで想い出すのは、お袋が撒き残った「炒り大豆」を水飴に絡めて作って呉れた、拳骨玉状の手作り菓子です。私たちきょうだいはそれを「げんこつ玉」と呼んで喜んで食べたものでした。

 さて二人の孫については、炒り大豆の他に落花生と紙包みのチョコレート、それに老妻手製の恵方巻ならぬ、普通の巻き寿司も合わせて届けてやったのは云うまでもありません。とんだ親馬鹿・・・否!「ジジババ馬鹿チャンリン」そのものでした。