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昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

スズランの花

2015-06-16 15:51:36 | じゃこしか爺さんの想い出話
   このスズランの花は、亡妻も私も共に元気だった頃に、遠く離れた郊外の
  浜辺で摘んできて、我が家の裏庭に植えた花でした。
   亡妻がまだ元気だった頃には、亡妻の手入れが良かった頃には毎年の
  ように咲いて居たのでしたが、亡妻の具合が悪くなるにつれて庭も荒れ始め
  てからは、咲かなくなっていたのでした。
   ところが今年は如何したことか、荒れ庭の雑草の中に混じって咲いて居た
  スズランを見付けた娘が見付けたのです。
   そして亡妻に供えようと話し合って摘んで来ました。

   色々な亡妻との想い出がよみがえって来ました。人づてに聞いて来た場所
  だけに、砂丘に足を取られれて苦労したしたことなど想い出されました。
   僅かに数本のスズランですが、亡妻も満足して喜んで呉れるでしょう。

 










終戦の日に想う

2014-08-15 09:53:34 | じゃこしか爺さんの想い出話
                不法にも 故郷追われし 悲しみは
               消えず只ただ ロスケが憎し


      
          終戦記念日は今年で六九回目、色々なことが再び想い出されて
       悲しみがよみがえります。
        先ず不法にも一方的に条約を破って、しかも終戦間際に侵攻して
       来たソ連軍への憎しみは、この先何年経っても私から消えることは
       無いでしょう。        
        戦争が終わった直後の混乱時に命を奪われた私の父と級友と、
       更に友人の親父さん方の死は、明らかに戦争が終わった後のことで
       その他多くの避難民が亡くなられております。 
        そしてまた少年団員だった私たちが、任務を終えて山奥へ避難する
       途中、突然現れたソ連機の機銃掃射を受け、じゃが芋畑に身を隠して
       難を逃れたのも、戦後の事だったおです。   
        
       それらの悲しみが癒えぬ内に、着の身着のまま まさに
       裸同様で故郷樺太を追われたのです。
        我が家の苦しみと悲しみ、父の行方不明と長兄のシベリヤ抑留、
       それによる母の若死になど全ては、ソ連軍の不法な侵攻によって
       始まったのです。
        ですから私は引き揚げ後の家計のために、13才で家族と離れて
       農家の手伝いに出、その後15歳の時親戚の世話で美唄の炭砿に
       就職したのでした。
             
        因みに私の学歴は小卒です。但しその後働きながら夜間高校へ
       通いました。

        そんな訳で、私の悲しみ憎しみは未だに消えないのです。




旧友=級友

2013-10-17 15:53:14 | じゃこしか爺さんの想い出話
    
       久々に 八十路を 過ぎた 旧友と
         老い歎き合う 茶房のひと時
   

 先日のこと、約二年ぶりに旧友M君とは、家の近くの喫茶店で会いました。
 M君は、樺太の小学校時代の級友でもあるのです。
 彼M君と会うのは約二年ぶりのことで、家内の葬儀の折、病身を押して遠路わざわざ来てくれた依頼のことでした。
 以前は年に三度ほど先の喫茶店で会っていたのですが、その後お互いの病いのために、折を見て電話で話し合うだけで、会うまでには至らなかったのです。
 それが急に会うことに至ったのには、後で分かったことなのですが
 その時の話題は、やはりお互いの病の症状が主でしたが、樺太時代の級友に及び、特に親しかった札幌のA君とのことが話題なり、携帯を使って同じ級友稚内のN君とも話しました。
 私はN君とはこれまでにも年に何度か電話を掛け合っておりましたが、M君の場合は、かつて札幌でのクラス会以来の音信でした。
 
 そしてその翌日の朝新聞で、A君の訃報を知ったのでした。
 思うに、昨日三人でA君のことを話し合って居た時には、既に彼A君は黄泉へ旅立っていたのでした。
 
 お互い病気がちの私たちが、あの時二年ぶりに会えたのは、A君の友情のお蔭だね・・・数日後再び会った時のM君の言葉でした。
  
      A君!生前のご友情有難うございました。
         安らかなるご冥福をお祈りいたします。

 
  私たちが=緒に学んだ樺太塔路第一高等小学校=国民学校校舎


終戦の日に思うこと

2013-08-15 17:08:12 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 私が終戦を迎えたのは、今のサハリン南樺太の国境近い三菱の炭砿町塔路で、
国民学校の高等科一年生、数え年13歳の時でした。
 今にして想えば、戦争は既に終わっていたのにそんなことも知らず、不当にもソ連軍に追われて昼夜の区別無く、山野を逃げ回っておりました。
 戦争が終わって漸く家に帰れたのは、戦争が終わって既に二週間も経っておりました。
 その間の出来事の一つは、今となっても忘れられずに時折り想い出されるのは、炭砿の坑口に避難する途中ことでした。
 いよいよソ連兵が上陸して来るということで、それまでの少年隊を解散して避難場所の坑口に向かっておりました。
 当時炭砿住宅街の奥にある坑口は避難場所の一つだったので、友人たち数人で其処へ向かう途中でした。
 突然現れたソ連軍の戦闘機に追われたのです。機銃の弾が、私たちがとっさに身を隠したじゃが芋畑に、ばらばらと撃ちこめられました。
 その後も避難中に死んだ方も多く、避難場所は違っておりましたが、私の同級生や先輩のお父さんなどが犠牲になりました。
 その時には戦争はもう既に終わっていた筈なのに、ソ連軍はただ単に面白がって追い回し死に追いやったのです。

 港の警備に徴用された私の父は、遂に戻って来ませんでした。未だに行方不明の侭です。ですから骨箱の中は空っぽの侭です。
 そしてある日のこと、突然私たちは着の身着のままで、生まれた故郷樺太を追われたのです。
 引揚げ後の生活は、周りの人々は優しく助けてくれましたが、裸一貫で引き揚げて来た私たちの生活はとても辛かったです。
 今にして思えば、ソ連が不法に介入さえしなかったらば、父は行方不明にならず、また母やシベリヤ抑留された長兄などは、もっともっと長生きしたであろうと思います。
 そんな訳で、戦争が憎いと言うよりも、私は敗戦間際に条約を無視して参戦して来たソ連軍がとても憎いし、この年になった今でもその恨みは消えません。

 終戦記念の日は、樺太で受けた無念さは再び蘇えり、私にはとにかく辛い辛い一日でした
   

我が家のテッセン

2013-07-19 16:05:37 | じゃこしか爺さんの想い出話
       手入れする 妻亡き後の 荒れ庭に
          妻が愛した テッセンが咲き

 
 今年の春先、市のシルバー人材センターに裏庭の草取りを依頼したのですが、木の剪定まで出来なかったものですから、木々の枝は伸び放題で我が家の庭は無残な荒れようです。
 しかし今年は春先に人手を雇ったばかりでは、更に手を加えるほどの余裕はとうてい無理と言うもの、かといって自分にはそんな技量もまた体力的にも無理なことですから、ただただ諦めるしか手はありませんでした。
 それがもう枯れ果てたのだろうと思っていたテッセンが、たったの一つだけでしたが蕾を付けているのに見付けたのです。
 このテッセンの花は、以前亡妻が好きだった花でしたから、支えの竹などを買って来て日頃から良く手入れをしていた花でした。
 そして一つだけだった蕾は、日を追って暖かくなるにつれてその数を増してゆき、この度ついに花を咲かせたのでした。
 さっそく写真に撮って仏前に飾りました。きっと亡妻も喜んでいることでしょう。







妻がまだ元気だった頃のテッセン




ちんすこう

2012-11-23 16:02:55 | じゃこしか爺さんの想い出話
  先日のこと川向こうの量販店に出掛けた時のこと、いつもは真っ直ぐ地下の食品売り場に直行するのですが、何故かその日に限って一階売り場を通ったのです。

 沖縄の物産が色々並べられた中で一番先に目に飛び込んで来たのが、とても懐かしいちんすこうだったのです。
 その一瞬は他の物は一切目に入らず、他の客を押しのけるようにして前に出て手にしておりました。
 その時は、唯ただ懐かしさで夢中になり、辺りの物が目に入らなかったほどで、後で振り返り恥ずかしくなったほどです。

 帰ってからゆっくりと手にすると、10年ほど前のきょうだいと亡妻も一緒だった沖縄旅行あれこれが、切なく想い出されて来ました。

 また食べる時菓子の粉が飛び散るのも、懐かしい想い出の一こまでした。      
 ◎ 写真が残っていた想い出の主な観光場所・・・
首里城・美ら海水族館・玉泉洞・万座毛・・ひめゆりの塔・ 

ちんすこう

首里城

万座毛



雪道で日向ぼっこ

2012-03-04 17:01:52 | じゃこしか爺さんの想い出話
     暖かき 陽を身に浴びて 雪道を
       亡妻を偲びて 歩いて来たり


 今年は厳しい寒さと風の強い日が多かったので、買物に出掛けるほかは家の中で過ごすことが殆どでしたから、外で日に当たるのは車で買物の行き帰りだけです。
 ところがここ数日間は、凍れがゆるみ日中は日差しが一杯で、しかも特有の強風が殆ど吹いていないのです。
 暖かい日差しが一杯当たっている裏庭を眺めながら、こんな日は家の中の狭い場所で、あちこちにぶつかりながら歩いているよりは、少しは寒いかも知れないが、きっと気持ちが良いだろうと思いました。
 そして突然、昨年の亡妻の言葉を想い出したのでした。
 そうだ・・・昨年も今時季だった!
やはり寒さが一段落した暖かい昼下がりの買物帰りの途中で、亡妻が突然言い出したのは・・・

「歩いている人も居ても暖かそうだから、少し日向ぼっこして帰りましょう」

そして私たちは、陽をいっぱい浴びながらの日向ぼっこを楽しんだのでした。
 
直ぐに車を出して、家からは程近い自転車道路へ出掛けました。
 そしてしみじみと亡妻を偲びながら、約半年振りの外歩きを私なりに、目一杯楽しんで来ました。
 それにしても、ウオーキングはやっぱり外歩きに限ります・・・最高ですね。
ただし年寄りにとって雪道は、時にはきつい事の有るのも確かですが・・・

数年前亡妻と歩いた雪道

亡妻を偲んで今日歩いて来た雪道


亡妻と歌

2012-02-15 17:23:34 | じゃこしか爺さんの想い出話

 亡妻は若い頃から歌好きで、日頃から炊事などの家事をしながら口ずさんでいました。
 音痴気味の私と違って、学生時代に全校生徒の前で独唱したと言うことで、
なかなかの歌上手でした。
 日頃口にして居る歌は懐メロが主でしたが、歌覚えがとても良くて、その折々の若い人たちの歌なども、いち早く覚えて台所などで口ずさんでいました。
 私たちが未だ若かった頃、歌覚えの悪い私に色々と歌を教えてくれたもので、
当時の流行歌などは亡妻から教えられたものが多く、今でもはっきりと覚えているのは流行歌ではありませんが、{おぼろ月夜}の2部合唱の部分です。
 もともと私が生まれ育ったところは、樺太の国境に近い田舎の炭砿町でしたから、輪唱は知っておりましたが、{おぼろ月夜}の歌に2部合唱があることはまったく知りませんでした。
 当時田舎者育ちの私には、{ハーモニー}なんていうそんな洒落れたものは知らなかったのです。
 亡妻と一緒に歌いました。もちろん亡妻が低音部分です。
 亡妻が歌い教えて呉れる歌は、どれも素晴らしく私を魅了し尽しました。
 中でも亡妻が良く歌って呉れたのが、アニーローリと組曲ペールギュントの{ソルベージの歌}でした特にソルベージの歌の一節・・・冬過ぎて春も過ぎ・・・は、今でもはっきりと想い出せます。

亡妻の札幌での想い出

2012-01-25 16:52:54 | じゃこしか爺さんの想い出話
        ※ 吹き降りの 激しき夜の 札幌で
            妻と歩きし 街が懐かし 



 先日本州に住んで居る亡妻の兄弟と電話で話し合った時、札幌で会ったことが話題になりました。
 その時から私の胸の内に、生前の妻と過ごした札幌の街のそれぞれが、懐かしくまた切なく想い出されて来たのです。

 私たち家族が釧路市に引っ越して来たのは、約50年も昔のことですが、それまでは札幌市に近い空知管内の美唄の炭砿街に住んで居りましたから、いわば生活範囲の一部でもあったのです。
 例えば、学生時代のことですが、参考書を探しに富貴堂などの本屋さんには良く行ったものです。
 ですから結婚してからも、日曜には二人して良く出掛けたもので、街中で過ごした後、帰りの汽車時間まで、札幌駅前の五番館その後の西部デパートで過ごした。
今こそ札幌は遠い存在となりましたが、10年ほど前には孫たちを連れて、円山動物園や新札幌のサンピアザ水族館にも行きました。
その後は妻の足も衰え、また私も病いがちとなり、札幌は遠い遠い想い出の街、そして今はただただ辛い想い出の街となってしまったのです。


夕焼けに想う 

2010-10-10 20:49:59 | じゃこしか爺さんの想い出話
 手を繋いだ親子が、夕焼けの砂丘に長い影を落として歩いて行きます。砂漠はもう間もなく暮れようとしているのに、ただただ親子は遥か遠くの山を目ざして歩いて行きます。
 そこには家でも在るのでしょうか、真っ直ぐ続く親子の裸足の足跡がくっきりと残っております。
 夕焼けを見ていると、ふとこの光景が浮かんで来ます。おそらく既視感とでも言うのでしょう。
 ですからそれがいつ何処で目にしたのか、まったく分かりませんが、とにかく夕焼けを見ていると思い出されて来るのです。

 これはおそらくアフリカが人類発祥の地である事、そのアフリカのどこかの砂丘で、親子の足跡の化石を発見したとの記事が、かなり強く脳裏に焼きついてしまったからでしょう。
 
 夕焼けを見ていて次に想い出されのは、夢でも既視感でも無くて終戦時に実際に体験した本当のことです。
 当時私たち一家は樺太でも最大手の炭砿住んでいました。そして私はその町の国民高等小学校の高等科1年生でした。今の中学1年生です。
 忘れもしません、戦争が終わろうとしている時になってから、ソ連が突然の参戦して来たのです。
 樺太とはソ連の目の先で、当時の飛行機でも8分と掛からない近さでしたから、ソ連軍は直ぐにでも樺太に上陸して来る社宅の住民に軍から避難命令が出されました。
 しかし高等科の1年生で男子だった私は、家族と一緒に非難は出来ず、他の高等科の生徒とともに残されました。
 そして少年隊と呼ばれ住民が避難した後の社宅の見回りや、非難が出来ないで家に残っている病人などの世話などを任されました。

 やがてソ連軍が上陸して来る事態となって、ついに大人たちや私たち全員に避難命令が出ました。
 とりあえず避難場所に指定されていた炭砿の坑道の入り口で一夜を明かしたのですが、そこで私たち少年隊は解散され以後は自由行動となりました。
先に街から避難した家族たちに合流しようと思い立ち、顔見知りの大人たちに付いて出発しました。
 家族たちは近所の人たちと一緒で、おそらく隣町の内陸の奥深い農村辺りだろうと見当は付けたのですが、今更国道を行くのはソ連兵とぶつかるのは必至ですから、山越えをして行かなければなりませんでした。
 二つから三つもの山越えしなければならないので、2日も3日も掛かるでしょうから、当然野宿もしなければなりませんでした。
 その時の道中の途中で見たのが、生涯忘れられないほどにもなった物凄い夕焼けでした。
 遥かな山の端に沈み行く夕日が、避難して誰も居ない小さな農村を真っ赤に染めていました。それは物凄さと云うよりも、なぜか物悲しさをこめた郷愁にも似て、未だに想い出されるのです

夕焼けを追ってあちこち出歩く体力は無いのでもっぱら家の近くか窓からです。