昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

万年筆回帰!

2005-01-31 22:05:21 | 日々の雑記
 今日の夕刊の「万年筆回帰」見出しに惹かれて、その記事に眼を通した。万年筆のイメージからは「裕福な中高年の愛用品」と思われがちだが、何故か今若い人から女性にも浸透し静かなブームになって居るらしいのである。
 現在筆記用具としては圧倒的に「ボールペン」が多く出回り、そのデザインや書き易さに工夫を凝らした物が数多い。しかし私はこの便利とされている筆記用具の「ボールペン」は大の苦手で手を焼き随分と苦労している。銀行とか役所での手続き書類などへの書き込み、特に相手が用意してある物を使う場合は酷いもので、恥ずかしい思いをするばかりである。

 実は私は若い時から根っからの「万年筆党」で、万年筆は無くてはならない筆記道具なのである。今現在五本の万年筆を所有していて、その内一本は老妻が数年前のハワイ旅行の際に買って来た「モンブラン」で、これは私には身に余る高価な物で、後は千円もしない国産(プラチナ)製である。この内の二本(黒字用・青字用)は常に持ち歩き、現役時代には黒字用は社用に、青字用は使用にと使い分けて来た。今でもモンブランは滅多に使わないが、後の四本はそれぞれの場合と気分次第に使い分けている。

 過去もそうだが現役の頃でも私の周りには「万年筆党」と思われる人は少なかった。その中に主力取引銀行の支店長がいた。なにかのきっかけでその事を知り、互いに所有する万年筆を持ち寄り自慢し合ったものである。この支店長は今なお健在で、年に一度の年賀状には必ず万年筆を使用して文面をしたためて送って呉れる。

 また一人思い出した。やはり現役時代のことであるが、「働く青少年の集い」という北海道施策の会合で親しくさせて頂いた、元校長先生が背広の胸ポケット(外側)に、太いのから細いのを五本ほど挟んでいたことである。そう云えば昔の先生方はみんなそうだった事を今更ながら想い出してもいた。

 これまで人前では万年筆を使うと、「ジジムサイ」と思われはしないか?(実際にはジジイそのものだが・・・)と肩身の狭い思いをして来たが、これがブームにでもなればそんな心配は無く、何処であろうと人前であろうと、意を強くして堂々と使用する事が出来るというものである。

忘れえぬ人々から・・・数え歌!

2005-01-29 18:47:19 | じゃこしか爺さんの想い出話
 この数え歌は先日ブログに載せた「チョッとエッチな話」を聞かせてくれた職場の大先輩で、その後私たち夫婦の媒酌人をしてくれた古老です。長年培われたその知識は正に職場の「生き字引」として何かと重宝されていた。

 この古老の名はTさんと云い、青森県は野辺地付近の出身でとにかく民謡が得意だった。それに青森地方独特の「手踊り」がとても上手で、職場の宴会では欠かす事の出来ない存在で、男とは思えぬしなやかな手振り身振りは、面白可笑しくて天下逸品だった。殊に女性達には絶大の人気があった。

 そのTさんの「十八番」が次の数え歌で、宴会には必ず披露していた。ある種の民謡の節に合わせて手踊りを交えて唄うのである。かなり昔の事だからどんな調子だったか殆ど忘れてしまい、また肝心の数え歌の文句も半分ほどしか覚えていない。

       ☆・・・ものの始まり「一」 (1)と言う・・・        
        ☆・・・車に積むのを「荷」 (2)と言う・・・       
        ☆・・・女の大役「産」   (3)と言う・・・
        ☆・・・子どもの小便「シィ」(4)と言う・・・
        ☆・・・石の白黒「碁」   (5)と言う・・・
        ☆・・・武士の給料「碌」  (6) と言う・・・
        ☆・・・ 
 
 
 この後の7番から10番までの文句が知りたいのです。是非誰か教えて下さい。

サプライズ・・・人事!

2005-01-27 19:07:02 | 日々の雑記
 NHKの海老澤会長が一連の不祥事の責任を取ってこの度漸く辞任した。本人は「役職に恋々として訳では無い・・・」と言うが、自らの出処進退を決断する事も無く、これまで延ばしてきた事自体がその証しでは無かろうか。
 
 しかし何はともあれ渋々ながらも辞任した訳だから、昨年12月初旬に地元の放送局に告げた「海老澤会長の辞任まで」の料金支払い保留は、当然の事取り消して復帰するつもりで居たのだが、その後の新体制発表を知りこれこそ正に「サプライズ人事!」だと
唯々驚くばかりであった。

 今回の海老澤会長辞任後の新会長によるその新体制を見る限り、その決意表明は口先だけの欺瞞と謂わざるを得ない。
何故なら、不祥事の責任者がすんなりと横滑りして経営陣の役職に就き、「院政による権力温存を図る」ような事は、家族親族で構成する同族会社か又はある種の政党か特殊な団体ならともかく、良識ある正常な企業体では絶対に有り得ない筈である。

 そもそもNHKの最高決定機関でもある「経営委員会」そのもの自体が、「同じ穴の狢」的存在で無かろうかと、「下司の勘ぐり」もむべなるかな・・・である。

 はてさて料金の事だが、どうせ我が家は半年払いの口座引き落とし契約だから今直ぐ急ぐ事も無いだろう。暫らく今後の推移を見てからでも遅くは無い・・・と思案中である。

忘れえぬ人々から・・・チョットエッチな話ですが!

2005-01-26 18:52:50 | じゃこしか爺さんの想い出話
 これは私が成人式を迎えた頃に、職場の大先輩とも云うべき古老に聞いた話です。もうお正月も半ば過ぎた事ですから、こんな下ネタ風の話でも許されるのでは勝手に思い込み記した次第です。どうぞご容赦下さい。

 天地創造時代の大昔の事、色々な生物が生まれて来た頃の事、日本にも「八百万の神々」がいたのですから、全世界には数限りないほどの多くの神様がいた。
その中に生物一般の繁殖を司る神様がいて、いわゆる交尾の時季を取り決めていた。例えば干支の十二支の動物達がその係りの神様の前に並んだように、各動物たちが次々と交尾係の神様の前に罷り出てそれぞれの時季を決めて貰っていた。

 しかし動物達の数が多いだけに、神様も途中で疲れ果てゲンナリし始めた頃だった。
犬・猫に続いて馬が得意の大きな逸物を、これ見よがしにブラブラさせながらやって来た。その余りの見事な大きさに、神はすっかり血が上り思わず叫んだ。
 「お前は一回だ!」と・・・馬も負けじとばかりに「犬や猫のように小さいのが年に二回なのに、どうして私がたったの一回なんですか?」と言い返したが、神様は取り合わなかった。なおも馬がブツブツ云うので益々苛立ったところへ人間が、おずおずと進み出て「私は・・・」と声をかけた途端、神の苛立ちは頂点となり、「お前か・・・勝手にしろ!」と一声云うなり、天上に帰って仕舞った。

 かくして人間様だけはそれ以来勝手気ままに、子孫繁栄に励んで来たわけです。神様に幾ら「勝ってしろ」と言われたからと、必ずしも夫婦や番えだけの間に留まらず、動物の世界では考えられないような不倫とか、或いは勝手にする余りの「レイプ」などと云う不埒な行為、又性倒錯行為に走って良い訳ではない。そんな飛んでも無い輩が無闇矢鱈に出る始末である。これも全ては神様のあの一言「勝手にしろ!」に尽きるわけなのです。神様も全く罪な事を云ったものです。

 しかし皆さん呉れぐれもご用心なされ!大事に行えば長持ちする筈なのだ。
程々にしておかないと、若い内に「腎虚」などの怖い事にも成りかねないし、何よりも怖いのは「赤い玉が出て来て」はい!お終いとなれば、正に「万事休す」であるから、努努(ゆめゆめ)疑う事無かれである。

 最後に一言、絶えず汲み出す井戸水は枯れる事無く常に満々と水を湛えているが、使わぬ井戸は早々に枯れ井戸になると云うから・・・はてさて皆さんならどうする?
 


忘れえぬ人々から・・・ラブレター!

2005-01-23 22:19:29 | 日々の雑記
 就職後三年が過ぎて、私は三度目の配置転換で地域の総括店に移った。既に十八歳に成っていた。人には晩熟(おくて)と思われていたが、人並みに女性の存在がとかく気に成り初め、心ときめかす恋多き青年に成長していた。

 新しい職場にいた先輩がNさんだった。Nさんは、前の職場で出会ったSさんの硬派的な生き方に比べると、全くその逆で常に女性の噂が絶えず、周りからはいっぱしの色事師と目されていた。
 確かにNさんは甘いマスクをした優男でその特技はずば抜けた歌唱力持ち主だった。宴会などで当時の流行歌手「岡晴夫」ばりの歌声で皆を魅了し、特に女性に持てていた。

 その彼が何かと面倒を私の面倒を良く見てくれた。女性が多い職場だから男性が少ない上に年配者が主体で若年者は私が只一人で、キャッチボールなどの運動相手にされて急激に親しくなっていった。

 その頃配給所に配給物を受け取りに来る若い娘さんがいた。中学を出て間もないと思われるその娘さんは、配給日には必ず一人で私達の売り場にやって来た。初め彼女に目を付けたのはNさんだったが、年齢差が有り過ぎて私を取り持つ気になったようで、殊更彼女の様子を私に伝いて来た。
 「どうだいあの娘・・・可愛い思わないか?どこか愁いがあって、竹久夢二の絵のような娘さんだよね!○○君ならどう思うかな?」との問い掛けにも、当時まだ夢二の存在の知らなかった私は只そんなものかと思っただけだった。

 その翌日の昼休みの時だった。一緒に昼食を摂りながら、Nさんは又例の彼女の事を持ち出して「昨日色々とあの娘を観察していて気付いたのだが、あの君を見る目付きは只事ではないと無いと思う。絶対に君に気が有るに違えない。今がチャンスだから思い切って当たって見ろよ。迷っている時はぶち当たるのが一番さ。」と追い討ちをかける様に、便箋と封筒を弁当入れるかばんから取り出して、「実は・・ラブレターの見本を書いて来たから直ぐにでもこれを清書して届けてやれ!」と渋る私に半ば強引に説き伏せた。未だ初な私は、興味本位に乗せられているとは露知らずに、家に持ち帰り一夜掛けて仕上げた。文章内容は今では全く記憶に無いが、その時点では文章の巧さにつくづく感心したものである。

 苦心のラブレターは都合よく彼女に手渡せたものの、その結果は散々たるものだった。
 彼女はそれ以来プッツリと姿を見せなくなった。そして一週間も過ぎた頃になって、職場への行き帰りの路上でおかしな事に気付いた。あの彼女の仲間と思われる若い娘達が、私の方を見ながら肩を寄せ合いひそひそと話しながら笑っているのである。中には明らさに指差しているのもいた。
それ以来大分経ってからだが、あのラブレターは彼女の手から仲間に渡り、皆で回し読みされていた事を知った。その後尾ひれが付いて、地区全体の女達に伝わり更にその親達にも知られるまでになっていた。
 かくして私の初恋は見るも無残な結果で終わって仕舞ったが、一つの教訓を得た。
それはラブレターなどと云う、後日に証拠の残るような事は絶対にしては駄目だと云う事だった。それ以来私はその事をしっかりと肝に銘じて、ラブレターなる物は一度も書いたことはない。

オォ・愛媛県警・・・お前もか!

2005-01-21 18:44:26 | 日々の雑記
 今日の朝刊一面に「現職警官が実名告発」の見出しの記事と共に、警察裏金について愛媛巡査部長の告発記事が載っていた。
 今の世の中、僅かな金を奪う為の強盗殺人・性的倒錯犯罪の果に起こす殺人事件などの残虐な犯罪、現金輸送車或いはATMの強奪事件、更におれおれ詐欺に引っ手繰りなど、数え上げれば全くキリが無いほどである。

 こうした凶悪な犯罪から国民を護るのが警察官の職務である筈なのに、全国的に明るみにされる警察官の、それも警察上層部での裏金造りには怒りを通り越して、悲しみと遣り切れなさを感じるのは私だけではあるまい。

 警察署の裏金造り事件は昨年北海道でも告発され、今なお道議会を二分する形で「百条委員会」が論議され、更に政党間でも「司法による真相解明の推進」も取り沙汰されて、喧喧ごうごうの状態だからこの先全面解決などは先の先で、何時の事に成るやらまるで見当も付かない。

 この北海道での事件が大々的に報道された時は、同じ北海動人として他県に対してどれだけ恥ずかしい思いをしたことか・・・。世の中の治安が益々乱れて行く今、警察官が一番しっかりして貰いたい時期でのこの事件、正に「おぉ愛媛県警・・・お前えもか!」と嘆かざるを得ない次第である。

 それにしてもこの巡査部長の勇気を讃えるのは当然ながら、この後の職場内外での色々な圧力虐めなどから護ってやらなければならない事も自明である。
同僚は勿論のこと県民挙げての良識ある支援が必要で無かろうか。否!是非そうして欲しいと願うばかりである。

折りしも今日から第百六十二通常国会が召集された。大事な法案はそれぞれ在るのだろうが、退廃腐敗しきった警察の根本的改革は国家の存亡そのものを左右しかねない重要な事案であると思う。
是非とも今国会の重要法案の一つとして取り上げ、全ての国民が安心して付託出来る体系づくりの道筋を立てて欲しいものである。


忘れえぬ人々から・・・ある先輩

2005-01-19 18:50:43 | じゃこしか爺さんの想い出話
 私が十八歳の頃だったと思います。十五歳の秋に就職して三年が経ちもうすっかり仕事にも慣れた頃、職場移動があって私は別の部署に移った。樺太から引き揚げて初めて就職した先が大手炭砿の福利厚生関係で従業員家族相手の売店だった。その頃はまだ統制時代で全ての物品は配給所で売られていた。そうした配給所は各地域ごとに在って、主に米・味噌醤油・酒(合成酒)・タバコから衣料品までを配給する処であった。

 配給所は元々女性が多い職場で70パーセントを超えていた。配置換えされた処もそうだったが、唯違ったのは少ない男性従業員の中に若手が多い事だった。その中に私の青春時代に一つの方向性を与えて呉れた先輩・Sさんが居た。Sさんは十歳年長でまだ独身だった。Sさんは殊のほか私に目をかけ色々と教えてくれた。仕事上でのことは勿論だが、酒の飲み方に付いて又恋愛論にも及んだ。例えば少しの酒で上手く酔う方法として、飲んだ直ぐ後鼻を摘まんで100メートルほど突っ走ると相当に酔っ払う事が出来るとか、更に女性については「女は顔じゃ無い・・・性格気質だ!」だ、と今の職場の実在する女性の名を示した。また今でも未だ覚えている歌がある。余程好きだったようで事ある毎に歌い、私にも教えてくれた。今ではその歌の一番の歌詞しか記憶してないが、確か次のようなものだったと思う。
      ♪強いばかりが男じゃないと
        いつか教えてくれた人
        どこのどなた知らないけれど 
        風と一緒に唄ってた
        あぁ、浅草のその歌 
 またSさんは中々の達筆家であって、中でも筆字は抜群であった。必至になって真似たものだが、生来素質が無かったせいかその足元にも及ばなかった。
 しかし今お中元・お歳暮の時季お呼びがかかり、曲がりなりにも人並みに筆字が書けるのも全てSさんのお陰である。

 戦後国を挙げての復興時代その花形企業として持て囃された、炭砿もエネルギー革命とかの煽りを受けて衰運の道をたどり、遂に閉山の憂き目に遭って、炭砿の友はみんな散りぢりバラバラで今はその消息さえ定かではない。
 Sさんも疾うに八十余歳を越えている筈である。何処で如何しておいでだろうか又息災でおられるのだろうか・・・しきりに思い出される此の頃である。


鮨屋の親仁さん!

2005-01-17 20:31:02 | 日々の雑記
 昨日朝刊のお悔やみ欄で、以前何かと便宜を頂いた鮨屋の親仁さんの訃報を知り、六時からのお通夜に出席した。
 祭壇の遺影はやや老けられたかな・・・と感じたものの、以前の優しさがそのまま残るものだった。お経を聞きながら約二十年にもなる親仁さんとの付き合いの数々を思い出していた。「親仁」さんと呼んでいたが、私よりは五歳戸年下だった。しかし鮨職人としての世界で、二十二年の職人を経て独立して二十六年と云う年月を過ごして来ただけに、中々の苦労人の上思慮深い方で教えられる事も多かった。

 私の現役時代には、銀行・大手取引先などの接待にどれほど便宜を図って頂いた事か、それは計り知れないほどだった。
 企業が行う接待は何処でも大体似たようなもので余り代わり映えしないのが普通だが、そんな中で少しでも差をつけたくて色々と思案する。その差が相手に好印象を与え、事が有利に進展する事が多いものだが、そうした点で随分便宜を受けた事があった。
 鮨屋のことだから、相手の気を引くには「鮨ネタ」の選択が手っ取り早い。北海道の東の果てではネタの種類にも限度がある。そこで親仁さんには目新しい「鮨ネタ」探しを内緒にして依頼する。

 その当時は養殖物のハマチなどは多く出回っており大して珍しくは無かったが、「シマアジ・カンパチ」の類は、殊に天然物になると入荷量も少な正に鮨ネタの逸品である。また養殖が主体のホタテも天然ものが手に入ると、こっそりと私だけに知らせてくれることになっていた。予告無しに呼び出されて、しかも思いよらぬ鮨ネタに舌鼓を打ち喜んだ。そうして私は大いに面目を得たものだ。

 その様な接待が思うように出来たお陰でどれだけ助けられた事か。その後現役を去り自費では高級な鮨屋などへ行く事は到底叶わず、会う事も無く今に至っていた。今はただただ心安らかにお永眠り下さいとご冥福をお祈りするのみである。

 聞けば昨年六月頃に発病して労災病院に入院していたと言うが、その頃私はその労災のリハビリ科に週に二回四ヵ月間も通っていたのに・・・せめてその頃に一度でもお目に掛かって居たらと、とても残念でならない。

妻の鴨南ばん蕎麦

2005-01-15 22:28:50 | 日々の雑記
 七草の翌日、何時までもお正月気分でも有るまいと、初歩きと出掛けてみたのだが、晴天にも関わらず意外に風が冷たくて途中で引き返してしまった。
  その後日和を選んで2・3度ほど試みたが、晴れて気温が高い筈なのに思ったより阿寒颪が厳しくて、やはり途中で断念する破目となって、これまで満足なウォーキングは果たせなかった。

 ところが今日は出掛ける前に、インターネットで地元の気象情報をピンポイトで調べた。正午の気温プラス1℃・風力1とあったのでこのデーターを信じて出掛けた。今日に限って云えば気象データーはズバリ当り、全くの無風状態だった。
家を出る時ガッチリ巻いていたマフラーは歩き始めて間も無く外し、更にコートーのジッパーを半分ほど開けて歩いた。

 この季節の思い掛けない暖かさに気を良くし、又何時もより多い人々との挨拶に勢いを得て4キロほど歩いた。夏ならともかくこの冬場で、私の体調では記録的な距離であった。何時もどおりの軽めの朝食だっただけに空腹感を覚え、途中から家の老妻に電話を入れた。

 ようようの態で帰宅、玄関を開けた途端如何にも美味そうな匂いが流れて来た。思わず出る生唾を呑み込み台所を覗くと、老妻は蕎麦の汁を作っていた。しかも鴨肉入りの蕎麦つゆである。鴨肉は先日知人がお裾分けして呉れたのを思い出し、頬が自ずと緩んで来るのを覚えた。
かくして今日の昼食は老妻手製の「鴨南ばん蕎麦」を、心ゆくまで堪能した事は言うまでもありません。


忘れえぬ人々から・・・船頭

2005-01-13 19:32:22 | じゃこしか爺さんの想い出話
 終戦後一年目の樺太での事です。当時はソ連軍の統治下にあったわけですから、当然物心共に不自由な生活を強いられる毎日でした。
 当時私は国民学校の高等科一年、今で云えば中学一年生です。そんな私達学生にソ連軍は鰊場での使役を命じて来たのです。せめて高等科を終了した身であれば、ともかく未だ13・4歳の子どもに対する徴用だけに、学校側でもかなり問題にしたようですが、そこは敗戦国民の悲しさとうてい占領軍には適いません、遂には学校側でも折れるしかなくせめて使役期間の短縮を求めて、ソ連軍の要求を受け入れたのです。

 例え半月間と云う短い期間であっても、親元を離れ生活するのは初めての経験だったが、クラスの仲間が一緒と言う事もあってか、たいした不安感や淋しさなどは少しも覚えず、ソ連軍の幌付き輸送トラックの乗せられても、不安などは一切無く又苦痛とも思わず、わいわいと騒いでいた。途中からは鉄道に乗り換えた。炭砿の石炭運搬用の機関車しか知らなかっただけに、初めて目にした本格的な機関車と客車のただただ驚き、まるで修学旅行も斯く有りなんばかりのはしゃぎようであった。明日から強いられるであろう過酷な使役に対する心配など露ほども見られなかった。

 翌日は早々に白み始めた頃に叩き起され、番屋前に並ばされた。私たちだけでなくやはり何処かからか徴用されて来た一般人も居た。使役に関する簡単な説明があり、更にソ連人監督官の他に日本人のリーダーが紹介された。如何にも船頭風のガッチリとした50歳代の人だった。太い毛糸で編まれた黒いとっくりセーター印象的で、その上日焼けした顔に潮風に因って深く刻み込まれた皺が思慮深く頼り甲斐があった。私たちは彼を「船頭」と呼んだ。

 コウリャン(もとは家畜の飼料で戦後は米を補う赤色の穀物)交じりの朝食(初めは色具合から赤飯かと思ったのだが)を終えて早々に、鰊加工場に連れて行かれた。桟橋からは線路が直接工場に伸びていて、桟橋横付けの漁船から鰊がトロッコに積み込まれる。そのトロッコを工場まで押して行くのが私達の仕事だった。

 しかし鰊漁は時化が続いて思うように行かなかった。ノルマ達成の焦りから無理して出した魚網は何度か流され、その責任は全て船頭のせいにされた。
 そんな日が続くある朝の事だった。やはりその朝も時化ていて、素人目にも網入れはとうてい無理な状態だったが、上層部を恐れる監督官は「鰊・・・鰊・早く舟を出して!」と詰め寄ったが、船頭は一瞥するだけでじっと前方の海を見詰めるだけで取り合わなかった。監督官も意地になったようで、腰のピストルに手をやり怒鳴り捲くったが、船頭は唯一声「今は駄目だ!網を流して仕舞うだけだ。風が治まったら出す!」怒鳴り返した。
その堂々たる態度と荒波さえも圧する胴間声に監督官はその後一声も発しなかった。
 ピストルの脅しに一歩も退く事無く、己の意見を通した船頭の姿が私達の胸深くに焼き付いた。その後の鰊漁は無事に終わり、私たちの仕事は予定の期間で終わった。

 帰省の時駅のホームにはあの船頭の姿があった。「ご苦労さん・・・元気でなあ!」その時の船頭の優しい声と姿は今もって忘れられないで居る。