昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

この一年お世話に・・・

2005-12-31 19:52:09 | 日々の雑記
 今年も遂に大晦日を迎えました。例年通りに孫達に囲まれての年越しも半ば、たった今NHK紅白歌合戦が始まりました。

 顧ますとこの一年ブログに明け暮れました。頑固なばかりで融通が利かない老ブロガーながら、何とかこの一年を曲がりなりにも過ごして来られたのも、ブログ仲間のご厚情の賜でした。心から感謝申しあげます。

 どうぞ来年も宜しくお願い申しあげます。

 今日は珍しく雲一つ無い快晴で静かな一日でした。夕焼けが素敵でした。
 
     大晦日午後4時・・・マイナス5・1度~風速1M~積雪15Cm

大晦日午後4時・気温マイナス5,1度~風速1メートル~積雪15センチ・・・釧路



黒豆の煮豆

2005-12-29 18:28:36 | 日々の雑記
 黒豆の煮豆は正月料理に欠かせない物だが、とかく豆類の好きな私としては、正月などに関わらず、また本場の丹波篠山の高級品で無くても、何時だって歓迎するすこぶる付きの好物である。
 黒豆の栄養価などは、此処に事改めて載せることも無いほどに、一般的に広く知られていますが、唯一つ子どもの頃に母から聞いた、「黒豆の煮汁は喉に良い」と云う事は、この年齢になった今でも覚えていて、どうせ音痴で唄など余り歌うことも無いのに、永年この煮汁だけは独り占めにして、しっかりと飲みつづけて来た。

 またこの黒豆を煮る場合や、茄子を漬ける時などに、錆びた鉄釘などを入れると、黒豆は見事な黒色に煮あがり、また茄子は鮮やかな紫に染まりしっとりと漬け上がる。
 勿論これらの現象の詳しい事は知る由もありませんが、先人たちが永年に亘って培って来た英知は、科学の進んだ現在でも立派に通用する物が多くて、ただただ頭が下がってしまう。こうした事柄は他にもまだまだ沢山在るから、それぞれの子を通し、また孫を通して代々教え伝いたいものである。

 さて我が家でも今日29日、そろそろ正月料理の準備に取り掛かり始めたよう  で、
「何処かに錆びた鉄が無いかしら、物置へでも行って錆び釘でも探して来て・・・」
 と老妻が声を掛けて来た。
 当然黒豆を煮るのだろうと、早くから気付いていたのだが、こちらは空トボケテ 何食わぬ顔で、
「何に使うんだい」
 と問い返した。
「黒豆を煮るのですよ」
 との老妻の声に、すかさず遣り返した。
「錆びた物ならわざわざ物置などに行かなくとも、お前さんの直ぐ傍に在るだろう。それを使ったら良いだろうに・・・」
「・・・?」
 怪訝そうにこちらを見返す老妻に、
「自分で何時も云っているだろう。脳がすっかり錆び付いて言葉や人の名前それに顔が浮かんで来ない・・・と、だからその錆を有効に使えば良いのだよ」、
 一瞬顔を合わせて、大笑いとなった。
 その後直ぐに、ブツブツ云っている老妻の声を背にして、私は外の物置へ向かった。
 

故郷の餅つき

2005-12-27 17:06:00 | じゃこしか爺さんの想い出話
    ※ 故郷は 戸板の上の しばれ凍れもち餅・・・

     ※ トントンと隣で餅つく杵の音
             耳に入れど口に入らず 


 上記のような狂歌めいたものを子供同士で作ってはしゃいでもいました。
 
 私の故郷は現在ロシア領土の樺太は、西海岸の国境にほど近い場所、樺太随一の三菱系の炭鉱町です。
 毎年年の瀬を迎える頃になると、私の家族と叔父(父の弟)の家族が総出でおこなった餅つきを想い出します。

 当時の私の家は、八軒長屋でなりたつ炭砿住宅の一つでした。師走の20日過ぎともなれば、長屋の何処からとも無く餅つきが始まり、日に日を追って順に我が家に近づいて来ます。戦時中でしが、まだ戦況もそれほど切羽詰った頃でなく、本土とはかなり離れていることもあって案外ノンビリしていたのです。だから餅つき行事などは、家族はもとより時には近隣家族を交えてのお祭りと云った趣もあったようです。我が家のように人手が揃っていれば良いのですが、人手の少ない家では何軒かが合同でするのが普通でした。

 餅つきの前夜に餅つき道具一式が橇に乗せられて届き、家の玄関脇に置かれます。この段階で私達(1歳年下の弟)は興奮で落ち着けず、何度も咎められながらも懲りずに、道具に触れ更に杵を持ちあげたりして騒いでいました。

 餅つきは大抵晩飯を済ませてから始められました。ストーブは真っ赤になるまでに燃やされ、釜の上の蒸篭からは激しく蒸気が上がり、やがて部屋中に餅米の蒸れる匂いが溢れて来ます。
 大きな伸し台には澱粉が撒かれ、餡餅に入れる餡子玉も用意される。私は弟もそうだがこの餡子は大好物だったから、餅のつきあがる前から母にせんがんでは口に入れて貰うのが常でした。

 餅米が愈々蒸しあがる頃になると、父達と長兄が捩り鉢巻で土間に下りる。こうなると私たち兄弟と従弟妹は部屋中でお祭り騒ぎとなります。
 父達の手で搗きあげられた餅は、次々と餡子餅を初め伸し餅や丸餅にされて、用意された台などに拡げられるのだが、その台にも限りがあって足りなくなって来ると、いよいよ凍れ餅に取り掛かります。先ず戸板の上に真っ白な掲示紙が拡げられ、更に澱粉がタップリと敷かれ上に丸めた餅が並べ、そのまま戸外に持ち出して置く、ただそれだけで良いのです。
 外は零下30度を越す極寒の世界ですから、瞬く間にカチンカチンに凍った凍れ餅に仕上げる訳です。

 この凍れ餅はさしずめ現代のインスタント食品と云えるもので、私たちのスキー遊びでは大変重宝されます。
 私と弟が何時も一緒にスキーに出掛ける場合、それぞれこの凍れ餅を3個ほど懐に入れて出掛けるのです。この凍れ餅は煮たり焼いたりする必要が無く、体温だけで食べ頃になって呉れます。そして遊び疲れて空腹を覚え始めた頃には、懐の凍れ餅は体温で温められて、ちょうど良い柔らかさになっていて、疲れと空きっ腹には堪えられない美味さでした。

 またこの凍れ餅については、今でもはっきりと覚えている出来事がありました。
それは搗きたての餅を丸める片端から戸板に並べて、氷点下30度の戸外に出して置くのですが、凍れ上がるまでの一寸した隙に戸板ごと盗まれた事がありました。恐らく近所の悪餓鬼どもの仕業だったのでしょう。その後一緒に遊んでいても、暫らく悔しくてたまりませんでした。

 つきあげる餅の量は、両家合わせて一俵(60キロ)ほどにもなるから、当然徹夜で6時近くまでかかるのが普通だった。私たちはこの間ずうっと起きて居たわけではなくて、途中寝込んだり起きたりを幾度も繰り返していたのです。

 やがて餅つきが全て終わると、父達は近くの共同浴場へ出掛ける。いわゆる朝風呂につかるのだが、これについて行くのも私たちの楽しみであった。
 徹夜仕事を終えて帰宅して来た他の大人たちに入り交じって、湯に浸かりすっかり得意になっていたでした。

 余談ですが、暮れの29日には、臼や杵などの餅つき道具が空いていても、何故か他所でも我が家でも持ちつきは行わなかった。子ども心に不思議に思って母に聞いたところ、九は苦に繫がり昔から「九(苦)日餅」と云って忌み嫌われて来たと教えられた。単なる迷信に過ぎなかったのだろうが、その時は親の云うこととして、おおいに納得したものです。

N響の<第九>を二度も聴いた日

2005-12-25 17:31:04 | ニュース
 決して気取っていた訳ではありませんが「ベートヴェンの第九」を二度も聴いて仕舞った。
 
 それは先日の大寒波が全土を襲って、特に日本海側地域に大雪を齎した日のことでした。
 ここは雪の少ないことで知られている道東方面ですが、やはり北国のこととて、前日からの予想外の雪で外出も儘にならず、日がな家に閉じ込められてしまった。 近付く低気圧の前触れで、ここ数日は外出にも二の足を踏むほどの天候が続いていた。
 日頃の運動不足を補う為に、仕方なく連日室内歩きで我慢していた。その日の天候は雪の勢いは衰えたものの、10メートルを越す風が吹き荒れている上に、昨夜から降雪の除雪が滞りがちで、とにかく老人にとっては、家の中でじっとしているより他は無かった。

 初めカセットの演歌を聴きながら、歩いていたがそれにも飽きて、年末にこそ「第九」を聴かなければと、昨年パソコンで見よう見まねで作成した、DVDを取り出して聴くことにした。
 これは平成15年の年末に行われた、N響の演奏会をNHK・BSⅡで放送したものです。
 その内容・・・はと云うと、今さら記することも無いのでしょうが、
   ※ 曲名~ベートヴェン・・・交響曲第九番ニ短調作品125「合唱付き」 
   ※ 指揮者~マティアス・バーメルト・・・スイス生まれ(1942年)
   ※ ソプラノ~澤畑 恵美・メゾソプラノ~藤村 実穂子
   ※ テノール~市原 多朗・バリトン~石野 繁生
   ※ 合唱~国立音楽大学

 これを聴きながら、約一時間余りを歩いて過ごした。何故か身体が軽くなったようで、その後もずうっととても良い気分であった。

 そしてその夜だった。やはり手持ち無沙汰から何気なくテレビを見ていると、やはりNHK番組でN響の「第九」の演奏会を知り、チャンネルを回して見入っている内に、引きずり込まれて最後まで見てしまった。
 
 その内容は・・・
   ※ 指揮者~ウラディーミル・アシュケナージ・・・(世界的名ピアニスト)
   ※ ソプラノ~森 麻季・メゾソプラノ~シャルロッド・ヘルカント
   ※ テノール~ミカ・ボホヨネン・バリトン~セルゲイ・レイフェルクス
   ※ 合唱~二期会合唱団

 図らずも暇を持て余して、別々の指揮者による「第九」を二度も聴いてしまったのだが、決して気取っている訳でもまた、「良い振りをする」訳でも有りません。もとより音楽的素養は全くゼロに近いですから、この二つの違いなど判る筈もありません。
 何しろ日頃から流行歌・演歌・はもとより浪花節さえも、そしてジャズもクラシックも何もかもごちゃ混ぜで聴いている、ただそれだけで満足しているジジイなのですから・・・。

冬至のカボチャ汁粉

2005-12-22 20:55:52 | 日々の雑記
 今日は24節季の一つ冬至の日です。昼が一年中で一番短く、夜が長くなり、そして今日を境に日脚が日毎に伸びてゆく。この冬至のことは、小学校で教えられたものですが、何事も目まぐるしいほどに進歩している今の世の中、このくらいの事は恐らく幼稚園児でも、既に知っていることなのでしょう。

 冬至の日についてのいわれは、もともと中国から日本に伝来したもので、かなり昔から色々な事が各地に伝わって来ています。
 その中でも今なお広く残っているのが、この日に柚子湯に入る、或いは小豆粥・カボチャを食べると、風邪とか他の病気に罹らず、一年中無事息災で居られると、言い伝いられています。しかし樺太生まれの私が言い聞かされて来たのは、冬至の日にカボチャを食べると、卒中に罹らないということです。これは高血圧から起る症状で、脳卒中とか中風とも云われ、とにかく怖い病気です。幸い軽く済んでも、半身不随の身体に成り一生苦しむことになります。

 この言い伝いが昔から廃れずに、何故に今に残されて来たのかと云うと、そこには大きな先人の知恵のあったからだと思います。何時の時代でも今頃の季節になると、野菜類が極端に少なくなります。
 昔は農業にも今とは雲泥の差があった筈ですから、人の栄養面でもかなりの問題が在ったのでは無いかと、容易に想像出来ます。こうした時期に緑黄食野菜の代表とも云うべき、カボチャを推奨した先人の知恵は有り難く、ただただ頭が下がります。昔の人はカボチャの豊富な栄養面の事など、どうして知ったのでしょうか。

 さて母親がつくってくれた我が家のカボチャ料理は、樺太時代から他の家とは少しばかり違って、その中に白玉ダンゴを入れた、表題にあるとおりの「カボチャ汁粉」でした。
 ただ私の時代になってからは、もともと餅好きなことから、白玉ダンゴを餅に替えて食べるようになりました。

 老妻が夕方から小豆を水に浸して、カボチャ汁粉の準備を始めたようです。カボチャや切り餅は、昨日の内に買って置きましたから、「わたし食べる人」そのままズバリの私としては、出来上がるのを待つばかりです。
 出来上がったら先ず神棚にお供えして、この一年の息災を感謝し、更にこれから一年間の、卒中を始め他の病気に罹らないようにお祈りお済ませてから、大好物のカボチャ汁粉を腹一杯に食べるつもりです。
 どうぞ、食い意地の張ってるジジイと笑わないで下さい

<大寒波冬型低気圧>・長期予想見直し・・・か

2005-12-19 17:29:11 | 日々の雑記
 
 12月としては記録破りの大寒波冬型気圧配置による、北日本と本州日本海側に居座って、九州や四国地方までに多くの大雪被害を齎し、それにより死亡者さえ出る始末となった。

 ここ道東地域でも早い内から、大雪・風雪・波浪・高潮などの警報と注意報が出されていた。積雪は50~60センチにも及ぶだろうとの気象予報を、全くウンザリする思いで聞き、不安な一夜を過ごしたのだが、朝になって見るとそれらの心配は杞憂であった。
 今回の積雪は先日降った分と合わせても、前夜の予報を大きく下回ってせいぜい15センチ程度で済み、本当にホット胸を撫で下ろした。

 しかし今度の大寒波は直ぐに遠ざかる気配はさらさらに無く、ニュースでの天気図を見ると、寒波特有の筋状の雲が日本列島全土を覆っている上に、この後猶も留まる勢いで、各地の交通手段や漁業それに農業に影響を与えている。

 今冬は暖冬と云う長期予想を早々と発表した気象庁が恨めしくもあり、また腹立たしく思えてならない。最近の気象予報は当たらないのが当り前と、常々諦めているのだが・・・。

 雪が降った日は、若干品不足気味の食品があると判っても、年齢の所為で何もかも面倒になって、買い物などの外出はなるべくしないようにしている。
 
 今回の降雪状態をブログに載せようと一旦思い立ったのですが、いざ車を出す段になるとやはり面倒になり、結局は雪に覆われた裏庭の木々だけを家の窓からカメラに納めた次第です。
        前日夕方の雲の状態、如何にも一荒れ来そうな空模様・・・!

                  雪をかぶった裏庭の木々

                       同上


<木炭バス>・長兄の想いでから

2005-12-17 18:40:33 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 先日の道新の朝刊に「釧路の80年を再現」と云う大見出しの記事があり、良く見ると丸井今井釧路店で「懐かし展」が開催されていることを知った。
 その記事の中にあった、「木炭バス」の文字に、遥か70年前にもなる樺太時代の少年の日を思い出していた。

 当時樺太にも交通手段として鉄道が在りましたが、それも東海岸が主で、国境近くの軍関係の施設が集まる町まで伸びていた。しかし、その鉄道は私の住んでいた西海岸にも一応敷かれていたものの、南部の途中で途切れたままでした。 
 だからそれより以北での移動は、乗り合いバスを利用するより他は無かった訳です。ところが、戦前にはそのバスの台数やまた燃料なども潤沢でしたが、末期の頃になると衣食住などに関わる物品はもとより、機械動力の燃料なども全て軍関係が優先され、民間用は極端に減らされて仕舞った。
 やがて街の中からは普通の乗り合いバスの姿が見られなくなり、何時の間にかバスの後部に、木炭罐を取り付けた、いわゆる木炭バスと呼ばれた、奇妙なバスが見掛けられるようになったのでした。
 
 それは確か昭和十八年の秋口の頃であった。長兄の出征が翌年の二月と決まり、その報告かたがた六里(24キロ)ほど離れた伯母の家に、泊り掛けで出掛けた時の帰りの日ことです。
 その時伯母への処への往き帰りに乗ったのが、その木炭バスで、それが初めてのことだった。伯母の家での土産物を両手に提げて乗り込んだバスは、途中の拠点都市で点検整備を終えて順調に走り続け、やがて私たちの炭鉱町に通ずる国道の峠の少し手前まで来た時でした。それまで順調だと思っていたのが、突然おかしな音を立てた途端にエンジン音が止まり、そのままバスは動かなくなって仕舞ったのです。
 運転手は何度か始動を試みたのですが、肝心のエンジンは空回りするだけで動く気配は一向にありません。
 次第に焦って来た彼は、前のエンジン室に頭から身体を入れたり、或いは後部の木炭罐によじ登ったりして、再始動を試み続けましたが、依然として動かず、今度は空回りの音さえもなくなって仕舞ったので。なおも懸命に立ち回る運転手の顔は、気の毒にも汗と油に汚れて真っ黒でした。
 乗客たちは始めこそ黙って座っていたのですが、次第にしびれを切らし始め、やがてあからさまに文句を云う者が出て来て、それに続くように一人増え二人増えてゆく内に、その中には不安感からか凄い剣幕で食って掛かる者まで出て来る始末で、車内には更に険悪な空気が強く漂い始めた時です。私の隣に座ってただ黙って事の成り行きを見守っていた長兄が、突然立ち上がって運転手に近付き、暫らくして話し合った末に、先ほどの運転手同様にエンジン室を覗き込んで、運転手のもとに戻って何かを伝え、今度は運転手を席に座らせ、再度エンジン室に身体を入れて何か操作をしてから、手を上げて合図を送り、運転手がそれと同時にスイッチを入れると、それまでうんともすんとも音を立てなかったエンジンが、大きな音と共に回転をし始めたのです。
 二人の動作のタイミングが余程良かったのでしょう。後は全く順調でした。一斉に拍手が湧きあがり、長兄への賞賛の言葉が寄せられ、長兄ばかりか私さえもすっかりいい気分になっていました。
 後で知ったのですが、長兄が卒業後就職した先は炭砿の用度課で、その見習い期間中にトラックの助手をしていたことがあったそうです。その時に厳しく教え込まれた整備技術が、思わぬところで役立った訳です。そのように自動車に詳しい長兄は、何故か運転免許証は生涯持ちませんでした。その訳は長兄の場合、特に「赤・青」の区別が付かない「色弱症」色盲だったとのことでした。
 その長兄は約20年前に、還暦を目前にして心臓発作で他界しました。

今年の年賀状

2005-12-15 18:34:44 | 日々の雑記
 師走も半ば愈々今年も後半月で終わろうとしている。今日から年賀状の受付が始まることを、朝のテレビニュースで知り昼前に出掛けた。

 現役の頃は年内に出そうと早くから準備を始めるのだが、年の瀬が近付くにつれて帰宅が遅くなり、更に疲れ果てて夜食の途中で居眠りを始める始末で、一日延ばしの末に殆どが年を越してから、慌てて書き上げて投函するのが毎年のことになっていた。
 ところが引退後は使い切れないほどに持て余している時間にまかせて、11月初めから準備に取りかかり、取り扱い開始日早々に出すのが常となっていた。

 賀状の枚数は引退後かなり減って約100枚ほどである。先ず掲載する写真選びから始める。例年掲載する写真は、地域の紹介を兼ねてこの地方の風景、それもその年に撮影したのを選んでいた。
 今年は折り良く「知床」が、世界遺産に登録されたのを良い機会とばかりに、昨年の夏に本州の妹夫婦と訪れた「知床」に決めた。しかしいざ選び始めるとなかなか気に入ったものが見付からない。
 色々と迷った末に、帰路の際に撮った「霧に霞む羅臼岳」を選び出し、それを一般用とし、親戚用には今年鶴居の「伊藤丹頂サンクチュアリー」で撮って来たのに決めた。

 賀状書きは全てパソコン任せにすれば、至って便利で速く出来上がるのだが、私の場合は変に片意地を張るのが悪い癖で、パソコンでするのは画像掲載と冒頭の言葉のみで、宛名書きや裏面の挨拶文は手書きと以前から決めて来ていた。
そんなことで高が100枚程度の数でも、3・4日は掛かってしまう。それも無事に昨夜書き終えたので、今日早速くに地域の郵便局へ出掛けたのである。
 世の中、私と同じように暇な老人が結構多いようで、その局には10人の男女の老人が来ていた。中には知人同士が此処で出会ったと見えて、手を取りながら賑やかに声高に話し合うグループも居た。

 帰宅途中、余りの快晴ぶりに誘われて、近くの川の上流にまで足を延ばしてみた。
すっかり雪に覆われた雌阿寒岳と雄阿寒岳の山々の全容を見せていた。


                      雌阿寒岳

                      雄阿寒岳





夜の雪道

2005-12-13 21:59:06 | 日々の雑記
 最近の気象はどうも変に思えてならない。
今年の秋は温暖化の所為で、例年より長く続いて喜んで居たのだが、ここへ来ておかしな具合になって来た。先ず初雪が一週間ほども速く11月下旬に降り、更にその上翌日にも降った。この時季に2日も続けて降る事は、この地域では珍しいことだった。しかもその積雪は、翌日の夜の激しい雷雨で殆ど消えて仕舞った。
 そして今度は、大陸からの寒波で日本全土が冷え込み、九州四国にまで雪が降る事態となり、北国のこの地域でもはっきりした予報も無しに、日を置きながらも降り続き、三日目の今日も午前の早い内から降り出し、夕方になっても納まらなかった。これはこの地域では曽って余り見ない気象現象なのである。

 普段は雪の日は特に余程の事が無い限り、外出はなるべく控えているのだが、急な所用が出来て外出することになった。それも道が一番混み合う夕方の時間帯に重なってしまったのである。
 ここは年間を通しての雪が道内各地に較べて、かなり少ない地域柄だけに、一旦雪が降ると渋滞は真昼間から起り、殊に夕方のラッシュ時の渋滞ぶりは、輪を掛けたように酷くなる。
 もともとここの住民たちは、雪道に慣れていないからのだから仕方が無いとしても、曽って若い頃道央で過ごして、雪道はいやっと言うほど経験した者には、街の真ん中の幹線を15キロ以下で走られては、慎重さも度を越して、歯痒ゆさを超えて腹立たしくさえなってしまう。
 これは東京在住の人達の雪道歩行が、とかく下手なのと全く同じことでは無いかと思う。

 ところがそうしたノロノロ運転の中に、目に余る車があった。暫らく我慢して後について走っていたが、その余りの鈍さに業を煮やしてコースを変えて追い越した。追い越しざまにそのドライバー横目で窺うと、なんとそれはまさに中年のオバサン族、しかもこの雪道にもかかわらず、携帯を使っていたのである。怖さ知らず云うかその無鉄砲さは、今時の若い者の向こう見ずさに匹敵するもので、怒りを通り越して、ただただ呆れるばかりであった。
         普段は道幅が広くて渋滞などは考えられない道路の筈なのだが・・・



さつま芋は好きですか!

2005-12-11 17:04:20 | 日々の雑記
 公務員のボーナス後の日曜日とあって、何時も食品買出しに行く大型スーパーは、普段の倍以上の客でごった返していた。
 特に贈答用品売り場には、夫婦連れで混雑を見せていた。そうした目玉とも云うべき陳列台の反対側に、ミカンやリンゴの箱売りコーナーの中に混じって、箱詰めのさつま芋が5箱ほど売れ残っていた。
 
 普段は殆どバラ売りばかりなので、老妻に是非買いたいと云ったが、老妻は聞こえ無いふりをして通り過ぎようとした。しかし好物を目の前に黙って引き下がる事は出来ず、半ば強引にカートに積み込んだ。老妻はそんな私の行為をただ笑って見過ごすだけであった。後で聞くと何のことは無く老妻も、バラにしようか箱にしようかと迷っていたとのことでした。
 
 さつま芋は私の好きな食べ物の一つです。私の身体はもともと粗食に耐えうるよう、余程安あがりに、また貧乏性に出来ているのでしょう。
とかくさつま芋と云うと、昔ながらの偏見からか、女子どもが好む物で、男子には余り関係の無い食べ物とされておりますが、私はさつま芋に限らずじゃが芋や里芋なども大好きです。それに南瓜豆類も加わります。豆類はアズキに始まり金時豆・ウズラ豆・トラ豆・花豆・ダイフク豆・大豆といった具合で豆類ならたいてい好んで食べます。
 日ごろ私はこうしたイモ類やマメ類の好きな事を、人さまの前では余り云わないようにしていますが、最近私の知るところでは男でも、芋好き豆好きの方がかなり多いことが分かり、心強く思っております。

 このさつま芋の食べ方としては、和洋中華とそれぞれに幅広く活用されているのは周知のとおりですが、我が家の場合は本来の姿を活かして、余り複雑な事はしない。急ぐ時にはぶつ切りにしてからラップに包みレンジで加熱、5分ほどでホカホカの煮芋が出来上がる。時間が在る場合には無水鍋などで蒸し上げると、更なる旨味が加わって焼き芋同様になり更に天麩羅の具材にもなり、また他の食品との煮付けも恰好なお副食となります。
 
 ただ一番美味しいとされている焼き芋ですが、昔は家庭でもストーブを使って簡単につくる事が出来た。この場合はラップでなく、アルミホイルに包んでから燃焼室の横の空間に置くだけです。室内の保温を兼ねての焼芋作りですからこの方法は冬が最適です。
 しかし今はストーブの構造が変わって、殆どが「FF方式」となり、素人では蓋さえ開けられない仕組みになっております。昔は素人にも出来た簡単な故障などでも、わざわざディーラなどに持って行かなければならない。全く不便な世の中になったものである。
 因みにさつま芋の由来と、その機能効果について少しばかり載せて置きました。
 <由来>
 日本への伝来は17世紀初期に琉球、平戸、薩摩ともたらされた。特に享保17年(1732)の「享保の大飢饉」の際には、蘭学者青木昆陽によって広められた。別名「甘藷」は青木昆陽の名前からとある。
 <機能・効果>
(1)熱量=ご飯の約半分(2)カルシウム(3)ベーターカロテン(4)食物繊維(5)カリウム
(6)ビタミン類~A・BⅠ・BⅡ・C=リンゴの10倍(じゃが芋と同じ)・F・等です。
 他に戦中戦後の食料補給として貴重な存在であり、更にガソリン代わりとして活用されていたとか・・・。
 
 このように利用価値の高い食品ですが、戦中戦後代用食として余りにも多く食べさせられたせいで、今では見るのも厭だと云う人が、まだまだ沢山居るようです。そのことは分からないでもありません。