昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

グリンジャンボ宝くじ

2007-02-28 21:00:19 | 日々の雑記
 今年初めてのジャンボ宝くじは2月19日に全国一斉に売り出され、抽選日は翌月の3月9日とのことだったから、まさか10日も経たない内に売れ切れるなどとは少しも思わなかった。
 ところが今日の買物に出掛けた折に、そのまさかに出くわした。先日の買物でうっかり買い忘れた物がすっかり切れてしまっていたのを、昼近くになって気付いた老妻に急かされて、とりあえず昼飯は後にまわして急遽市内一番店に向かった。
 目的の買物を無事に済ませ、折からの月末特売コーナーを一廻りして店を出た。その時店前の宝くじスタンド前の、老人たちを交えた人々を目にして、今回発売された宝くじを未だ買っていなかったことに気付いた。

 「あんたの今日の運勢は最高だから・・・」
と、毎朝テレビの占いを楽しんでいる老妻に云われて、さっそくその人たちの後ろの並んで申し込んだのだが、まさにまさかのまさかが的中、早々と数日前に売れ切れていた。

 ジャンボ宝くじは、これまで売り出されるたびに、たいした数ではないが買っていた。しかし今までにこれといったほどの当りくじに出合ったことは無く、せいぜい3千円止まりだった。ただ10年ほど昔のことだが、偶々買った10枚の中から1万円を当てたことがあった。そもそもその時当った1万円が、後々まで後を引き、これまで十数年も毎回買い続けて来た元なのである。

 年末ジャンボの時だったが、一緒に並んだ人たちの中に、「バラ券・連番」で70枚も買う老人がいるかと思えば、「バラ券」を3枚と小声で申し込む若者もいた。
1等とか2等とかが当ればそれに超したことは無いのだが、北国の田舎都市ではそんな僥倖は夢の中でも無いことは明白だからと、その時もたいした期待もせず抽選日までの一時の夢として買ったのだった。
 せいぜい3千円の支出で見られる、また見ようによっては途方も無いほどに膨らむ夢は、気の持ちようで実に楽しいものなのだ。

 しかし今回は、その束の間の夢にさえ与れなかったのだ。よもやの思いから自ずと招いた己の不運を、車中ずうっと老妻と愚痴り合い帰途に着いた。

生牡蠣とノロウイルス

2007-02-26 21:20:21 | 日々の雑記
 昨日のことだった。何時ものように老妻の買物の手伝いと運び屋を兼ねてお供をした。行き先は夕べのうちに、夕刊の折り込みチラシから決めていた。先ずは直ぐ近くの量販店へ行き、それで用が足りなければ、正午までの限定特売実施の川向いのスーパーへだった。

 量販店での日用雑貨や野菜類などを買い終えてしまうと、夕べのチラシのことが気になって、買うと決めずにとりあえず見るだけと川向こうのスーパーへも廻ることにした。
 ここのスーパーは「一物三価」と名付けて、買う数量によって三段階の価格付けをしている。例えば同一品を1個の価格、2個以上の纏め買い、または一箱単位の場合などに分けて割り引いてくれる。買い方によっては、かなり廉い買物が出来るので、日頃からチラシなどを見て重宝している店である。

 店内は折からの晴天のうえ日曜とあって混雑していた。魚類など生鮮食品売り場の中ほどには、例によって特売ワゴンが置かれて、チラシ商品の厚岸産の生牡蠣が山積みされていた。
 さっそく老妻が手にして、
「活きが良さそうだから、久しぶりに酢牡蠣でもしましょうか」
 と話しかけて来たが、その酢牡蠣には直ぐには答えられず一瞬躊躇した。
というのは、近頃こそやや下火になっているが、先頃までのニュースなどで全国的に問題になっていた「ノロウイルス」が脳裡にあったからである。つい最近でも市内の老舗ホテルでの食中毒事件も思い出された。
 人一倍食い意地の張った私だが、その半面「命根性」も汚い方だから、
「酢牡蠣はノロウイルスが怖いから、牡蠣フライが良いよ」
と、好物のフライを提案した。
「油物は最近摂り過ぎですから・・・それに肝臓の数値が高いでしょう」
と、老妻から云われると、まさに「グウの音も出ない」私である。そう云ってから老妻は山積みされた牡蠣の中から、2個選び出して籠に入れるとその場を離れた。

 結局2個の牡蠣は昨夜、青物野菜とキノコ一杯の熱々牡蠣鍋に仕上げられた。

野鳥の餌台

2007-02-23 16:36:29 | 日々の雑記
 野鳥たちが毎年我が家にやって来るようになったのは、約5年ほども前のことで、新聞の「読者の欄」を読んでいた老妻が興味をそそられたことが切っ掛けだった。老妻はさっそく古くなった果物籠を物置から取り出して来て、裏庭のモミジの枝に括りつけた。
 初めの頃には、エナガやゴジュウガラなどの小鳥が多かったのですが、その内にツグミとかヒヨドリなども姿を見せ始め、小鳥たちを追い払って餌台を一人占めするようになり、昨年辺りからは遂にヒヨドリのみとなってしまった。

 例年に無く早々とやって来た今年のヒヨドリのことは、先月このブログ(小さくて可愛いい訪問者)にも載せ、その後も頻繁にやって来るヒヨドリのために、有り合せの古くなった果実などを絶やすことなく与えて続けていた。
 ところがこの度約一ヶ月ぶりの雪が2・3度も重なり、その積雪量が30センチを超えるほどになった。こうなると年寄りの身、足の覚束なさや屋根からの落雪の危険さから、気安く裏の餌台まで廻ることは出来なくなった。それに何よりも給餌を躊躇させたのは、新聞記事の次の見出だった。
 「中国での鳥インフルエンザウイルスは野鳥から・・・」この一行が、私の脳内に強くそして深くインプットされてしまった。それ以来野鳥のこと見まい、餌台のことも努めて考えまいとして来た。
 しかし日頃の習慣とは仕方のないもので、目の先が全く無意識のうちに、餌台やヒヨドリがいつも留まる木の枝に向かってしまう。このことは脳で考える事とは多いに違って、胸のうちでは何時もやはり気にして証しであった。
 
 今朝も何気なく目を向けた先のシャクナゲの枝に止まっていたヒヨドリと、ばったりと目を合わしてしまった。そのヒヨドリは少しも落ち着かずに、餌台の周りを絶えず飛び回った。
 その仕草は、まるで餌台が空になったのを訴えているようだった。気のせいにしろ、一旦そう考えてしまうとそのまま放っては置けなくなってしまった。                            
 たまたま昨日の朝、冷蔵庫の隅で見つけた、萎びた冬みかんとボケかかったリンゴを老妻から受け取り、毛糸の帽子を2枚重ねてかぶり、更に長靴で身拵えをして家の裏へ廻った。
 幸い連日の暖気で屋根上の雪はあらかた落ち、また家の周りの雪も半分近くまでに減っていた。

 家の中に戻って裏庭に目をやると、早くも番いのヒヨドリが餌台を仲良く囲んでいた。ホットした気持ちで暫らく見入っていた。

久々に餌が置かれた餌台 

私の後を追いかけるようにリンゴを啄むヒヨドリの番い




外れ癖のついて仕舞った差し歯

2007-02-20 20:56:46 | 日々の雑記
 小さい頃から虫歯で泣かされ、歯医者との縁は深かったようです。そのせいか70余歳になった今でも、歯科医通いはいまだに続いており、その上加齢からの歯茎の衰えなどが重なって、歯科医への通院はむしろ増えております。
 そしてその処置の殆どが外れた差し歯の入れ直しで、上部左右に在る差し歯入れ直しが、約二ヶ月置きに交互に起きているのです。
 元々歯が弱い方ですから日頃の歯磨きなども、歯磨き粉から歯ブラシ選びまでに気を遣っているのです。例えば電動と手動との使い分けとか、またの歯茎のマッサージには時計を持ち込んで、まさに念には念の入れようで、その努力は人並み以上と自負しておりますが、何故か差し歯の外れる回数は徐々に増えてゆくようです。

 医師の話では、歯の支えとなるべく根の骨の部分が元々浅い上に、年齢からの歯茎の痩せ衰えなどから固定が保てなくなった結果だとのことです。
 どうやら土台の骨そのものに問題があるので、若いのならともかく、この年齢では今更如何しようも無い様で、これからも騙しだましして上手く付き合って行くより他に方法は無いようなのです。

 今では左右の差し歯が、凡そ二ヶ月間隔で交互に外れていて、その都度今の歯医者の世話になっているのですが、この差し歯はもともと此処で入れて貰ったものでなく、10年ほど前に勤務先近くの歯科医で入れたものです。しかし今の歯医者はそんなことには一切意に介さず、
 「外れたら入れ直しの繰り返しですね。いつでも来て下さい。」
と、親切に云ってくれます。

 そんな訳で、すっかり外れ癖のついて仕舞った二本の差し歯を、如何に長持ちさせるかが、今の私に課せられた大事なのです。

小説の中のカタカナ言葉

2007-02-16 16:58:35 | 日々の雑記
 四十年来読み続けている愛読月刊誌のことは、過去のこのブログでも二度ほど載せたことがあるので、もう既にご承知のことかと思います。
 今こと改めて雑誌の掲載小説について、論じようなどと云う大それた気持などは毛頭有りませんが、ただ日頃から老人なりに気付いたことを、このブログで書いてみようと思っただけのことです。
 ですから田舎ジジイの、取るに足らない戯言と聞き流し、否読み流して戴ければ幸いです。

 その月刊雑誌ですが、普段はウォーキングやパソコンなどに追われて、いつの間にか一ヶ月遅れで読むのが習慣となってしまいました。
 そんな訳でその二月号も一昨日からようやく手にした次第ですが、その創作の中の「高井有一」の名を見つけ、たまらなく懐かしさを覚えてさっそく読み始めたところです。この作家を知ったのはやはり愛読月刊誌なのでした。
 芥川賞受賞作「北の河」に感銘を受けたのがきっかけで、その作品の幾つかは今も我が家の本棚に並んでおりますが、今ここでそのことについて論じようと思いません。ただ今回の二月号掲載の「鯔の踊り」を読み進めてゆく内に、日頃から気になっていた小説のカタカナ言葉のことが、心底から沸き上がって来たのです。
 それは最近の小説には、とやかく口に出来るほど数多く読んでいるわけでも無いので、余り口幅ったいことは云えませんが、近頃の小説にはカタカナ言葉が多過ぎるのでは無いかと思います。
 とにかくカタカナ言葉の羅列、その多さには何時も閉口する次第です。これはカタカナ言葉が禁止された戦時中を過ごして来たからでも無く、また加齢による理解力と記憶力の減退には一切関係の無いものだと思います。
 しかしこの「鯔の踊り」にはそうしたカタカナ言葉は、せいぜいビールとかテレビなどまたは人の名前くらいで、全然気なりませんでした。むしろそうした文体から気の置けない人に出会ったような懐かしさと、ホットした安らぎさえ感じて読み続けた次第です。

 こんなことを述べては生意気なジジイと言われかねませんが、現在カタカナ言葉が何故このように使われるようになった訳として、恐らくカタカナ言葉が格好良いからとか、書き手の知性の表れとか、或いは唯単に奇を衒って使っているのだと思います。
 もう既に七十余歳の年寄りですが、人並みに本が好きで少年時代から当時の単行本を読み耽ったもので、例えば「のらくろ・冒険だん吉・真田十勇士・猿飛佐助・寛永御前試合・空飛ぶ要塞・」などが在りました。
今 手許に在る愛読月刊誌の創作の中にも、カタカナ言葉が出て来るものが沢山在って、その羅列にウンザリし辟易している次第です。
 多くの小説愛好者の中にも、こんな変わり者の老人が居ることを是非とも知って貰いたいものです。

約一月ぶりの降雪

2007-02-12 21:27:50 | 日々の雑記
 
 昨夜半から降り出した雪は、約一ヶ月ぶりの雪で朝までに20センチ近くに積もった。今回の雪は、確か七草の前後のことで、爆弾と呼ばれまるで台風並みに発達した低気圧が、主に東北北海道を襲った際に降って以来の降雪でした。
 その雪も、連日の晴天続きから余り日数の経たない内に消えてしまい、国道はもとより住宅街の裏道までが、パンパンに乾ききってまさに真夏並みの状態となり、運転技術が乏しくなった老人がどれだけ助けられたか判りません。
 今日の雪が20センチの積雪とのことですが、これだって例年に比べれば圧倒的に少なく除雪の苦労から助かっているのです。これも偏に暖冬のお蔭なのでしょうが、かと言って無責任に有り難がってばかりで居られません。
今朝のテレビで、毛利さんとか立松さんたちが直接南極へ赴いた時のことをやっていましたが、暖冬の影響による地球のオゾン層の減少からの、人類滅亡の危機はより現実的なものとして目前に迫っているとのことです。

 しかし追い先き短い年寄りの身勝手さから、そうした人類滅亡の危機感に苛まされる半面、折からのガソリンや灯油の高騰のこともあって、暖冬は家計の足しと喜んでいる次第なのです。
 でも時には人並みに深く反省することもあるのですが・・・。

裏庭の木に重たげに降り積もった昨夜来の雪

地区の公園の樹氷風景


オートマ車の操作について

2007-02-10 17:59:20 | 日々の雑記
 普段私らが使用して車には、通常MT車(マニュアルトランスミッション=ギアチェンジ方式)とAT車(オートマチックトランスミッション式)の二種類に分けられています。
 しかし私が運転免許を取得した昭和30年代後半の頃には、いわゆるオートマ車と呼ばれる車は無かった思います。ただしこれは私が知らなかっただけで、実際には存在していたのかも知れません。
私がオートマ車の利便性、特に坂道発進がとても楽なことを知ったのは、確か還暦を迎えた年でした。それまでは私なりの偏見から、「オートマ車」は老人乃至は女性向けの車だと勝手に決め込んでいたのですが、知人オートマ車を一度借りて乗ったことがあり、それ以来その使い勝っての良さの虜になり、嘗ての偏見を多いに悔やんだものでした。
  
 最近高齢者(75歳以上)の運転事故が話題にされるようになり、ひいては法改正にまでに及んでいることは周知のとおりです。問題にされている高齢者の事故の中で、特に問題となっているのはアクセルとブレーキの踏み間違いだと思います。
 実際にこの踏み間違いからの事故が年々増えているようで、大分前のことですが私も一度この間違いからの事故を起こしたことがあり、その時は幸いにも自損だけで事なきを得て、ホット胸を撫で下ろしたものでしたが・・・。

 ところで最近知ったことで、どうも納得ゆかないことなのですが、それはオートマ車のアクセルとブレーキ操作についての方法です。ふつうアクセルとブレーキは右足で、クラッチは左足でと教えられました。マニュアル車であれオートマ車あれ、それが当然と信じて来たのですが、現在の教え方ではアクセルは当然右足でやり、ブレーキは左足を使っても良いと教えられているようなのです。
 昔はマニュアル車が主流でしたから、自動車学校などでは、アクセルとブレーキは右足でクラッチは左足でするようにと、時には間違うと教官に蹴られるほどに厳しく教え込まれたものでした。
 ですから急坂な坂道発進では、先輩の操作を見よう見真似で、右足でアクセルとブレーキを重ね踏みして、両方のペダルへの力の入れ加減だけでの発進を、幾度と無く練習を重ねて体得したものです。オートマ車の場合では、それらの苦労は昔話として語られるだけになってしまいました。

 しかしそのように両足を使っても良いとなるなら、益々高齢者の間違い事故は、増えることは在っても減ることはなら無いのではと、私にはどうしても納得がゆかないのです。斯く云う私も高齢者に近づきつつある一人なのですが、こんなことに納得出来ないなどと思うのは、加齢からの融通性の無さか、或いは生来の心配性から来る単なる杞憂なのでしょうか。

 ※上記文中に書き間違いがあり、今朝訂正いたしました。

北方領土返還運動には樺太も・・・

2007-02-08 17:56:00 | 日々の雑記
 昨日二月七日は「北方領土の日」だったそうですが、北方領土の返還運動には、樺太で生まれ育った引揚者の一人として、是非とも「樺太」も入れて欲しいと願わずにはおられません。
 元我が国の領土だった樺太は、その土地の広さと水産・地下・森林夫々の資源が圧倒的に豊富な処です。そうした資源豊な樺太の返還こそは、資源不足の我が国への貢献が大きいと思われます。

 しかし相手国が嘗て「ソ連」ロシアとあれば、我々が思うほど簡単にはことは運ばないでしょう。
 何故なら、古くは終戦間際になって一方的に条約を廃棄して参戦し、何の苦労無しの全く手要らずに我が国の領土だった樺太千島を占領占拠してしまったことや、その後のソ連解体後の近隣諸国との軋轢などの実情からも、大国を傘に来た身勝手さはまさに火を見るより明らかです。
 また新しいところでは、サハリンⅡプロジェクトの天然ガスからの締め出しや、石油パイプラインなどでの近隣諸国への恫喝と押し付けからしても、大国ロシアのゴリ押し的なやり方から、それらははっきりと窺い知ることが出来ると云うものです。
 よしんば返還されたとしても基地化などの問題で、後々厄介な問題が提起されるだろうとの心配が残ること請け合いでしょう。

 それにしても腹が立ってしょうがないのは、人道支援からの施設の提供や医療設備への収容施術と薬品など医療器具を受けながらも、今もって止まない少しばかりの不法漁獲を理由による横暴極まりない取締りです。
 極く記憶に新しいところでも、物言わずに仕掛ける銃撃と射殺そして拉致、その挙句に多額の罰金を科した上に船体漁具など没収・・・そんな横暴な大国ですから、こちらが望むようには行かないでしょう。ましてや名立たる御人好し外交では「ナメラル」のがオチでしょう。

 これは狭量からなる全くの偏見ですが、ただとても気懸りなのは、万が一せっかく返還されたとしても、何一つ元島民の物とはならず、全てが大企業や大商社或いは関係役人の利権や金儲けのみに利用されて仕舞うのでは無いかということです。それが一番心配のタネです。

冬ならではの空港の氷像

2007-02-06 20:52:58 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 この度関西に住む末の妹が、友人と連れ立って来たいた流氷ツアーの最後の日程がちょうど良く阿寒温泉に一泊、そして帰りコースも釧路空港経由で帰阪とのことで、出来れば顔を見て帰りたいと言って来た。この妹とは5年ほども会って居ないことを思い出し、急遽今朝早く空港へ出掛けた。
現役時代には年に5,6回利用していた空港だったが、その後は生来の出不精が加 齢に伴もない益々昂じたのと、しがない年金生活者となった今の身には全く縁の少ない場所となってしまった。

 今日の空港行きは三年ぶりだった。ところが、三年前の夏義姉夫婦が来た時には、全く無かった空港への専用道路が突然目の前に現れた。以前良く利用していたのは、鶴居、弟子屈線の延長上の裏街道とも云うべきものだったから、上下方向に区別された立派な舗装道には、一瞬進入を躊躇したほどである。

 しかし今日の空港行きでの驚きはこの専用道路だけで無く、空港に着いてからも更に重なった。
 それは空港玄関前に飾られた氷像であった。氷像は二つで、その一つが今年の干支である「イノシシ」を象ったもので、もう一つは釧路観光を象徴する天然記念物「タンチョウ」であった。いずれにしても以前には、まるで見られなかった代物だった。物体はただただ冷たい氷像だったが、そこに秘められて空港関係者の暖か味を深く感じ取ることが出来た。
 空港関係者の意識も随分と変わったもので、やや大仰な物言えだが、これも石炭産業が消え、更に水産も落ち込んで久しい当市の進むべき道、観光産業への転換の一つの現れなのだろうと思い、早速くカメラに収めて来た次第です。

今年の干支である「イノシシ」の氷像

釧路市ひいては北海道を象徴する天然記念物「タンチョウ」の氷像

もう一つの案内板


夕焼けと節分豆

2007-02-04 18:24:59 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 夕べの節分の事は、うっかり忘れていて何の準備もしていなかった。ところが夕方近くのテレビニュースで知らされ、急遽節分豆を求めて車を出した。
 我が家の節分は年中行事の一つとして、一昨年までは二人の孫がやって来て、賑やかにおこなっていたから、よもや忘れる事など考えられなかったのだが、その孫たちも今や高校生、年に一度大晦日の夜に顔を見せて呉れるだけだった。

 駆けつけた近くの量販店ではもう既に売れ切れていたので、仕方無しに川向いのスーパーに向かった。
 豆まき用の豆だけの買物だから私の手伝いは要らないだろうと、一人車内で待つ事にした。家を出た時分には明るかった空が、分刻みに変化してゆく様を何気なく見ていたが、国道向いの製紙工場の煙が茜色の染まってゆくのに気付いて、外出時には必ず持って出るデジカメを構えた。
 この工場を彩る夕焼けは、いつもは家の近くの河畔からの物ばかりで、工場正面からのは今日が初めてだった。偶然のきっかけが貴重な一枚となった。

 残念なことにこのスーパーでも、豆まき用の煎り大豆は品切れだったので、止む無く殻付きの落花生だけを買って来たとのことだった。しかし節分にはやはり煎り大豆が無ければ恰好が付かないからと、次は市内一番の量販店に行くことにして再び走り出した。
 ただもう薄暗くなっていたので、近道市道などは避けて国道を迂回することにした。それが幸いを齎してくれた。

 それは地域の氏神様の開拓記念館を染め上げた見事な夕焼けだった。この神社には普段滅多にくることは無く、今年も初詣の折にライトアップしたのを見たきりだった。
 咄嗟に枝道に乗り入れてゲットしたのが次の写真で、刻々と変わりゆく記念館の城と夕焼けに魅せられ、しばし買物も忘れて見入っていた。
 
 肝心の豆の方は無事に手に入れる事が出来、早速く神棚に灯を点しお神酒と共にお供えて、老夫婦二人っきりでの豆撒きを終えた。

 ささやかな幸せを願いながら・・・。

スーパーの駐車場からの工場正面

折からの夕焼けに染まったお城・・・鳥取神社の開拓記念館(壱)

夕焼けのお城(弐)