昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

我が愛読月刊雑誌・文学界

2005-10-30 16:28:43 | 日々の雑記
 この雑誌を初めて手にしたのは、もうかれこれ60年ほど前のことで、それ以来ずうっと読み続けております。そもそもこの雑誌・文学界の創刊は、明治26年1月と云いますから、その歴史は今から113年ほどのかなり昔のことになります。途方も無いほどの永い年月を、良くぞ耐えて来たものと驚くほどです。先ず何よりも純文学雑誌として、あの太平洋戦争中は、どうだったのだろうかとの思いを強くいたします。
 私の本好きは子どもの頃からで、母親の影響が大きかったと思います。樺太の片田舎の小学校でしたから、宿題なんてものに煩わされる心配は殆ど無く、晴れた日の日中は近所の悪餓鬼どもとの外遊び、それ以外は暇さえあれば読み耽っていたものです。その当時夢中になって読んでいたもので、今でも覚えているのは、「真田十勇士」とりわけ「猿飛佐助」が好きで、学校にまで持って行き読んでいたほどです。
 戦中戦後のソ連軍統治下では、本などを手にする機会は全く無く、引き揚げて来て再び本と出会うことが出来るようになりました。しかし本を買うほどの余裕が無かったので、初めは古本などを主に片端から読んでいました。
 やがて職に就いてからは新刊物にも手を出し、芥川龍之介や夏目漱石などの、いわゆる文豪と云われる多くの有名作家たち作品も、手にすることが出来るようになりました。
 世の中が落ち着きを取り戻し、豊かになるにつれて次々と発刊された全集物なども手に入れ、更に多くの作家作品に触れるようになったのです。やがて私の本好きは周りの多くの人たちに知られ、私のことを読書家と呼ぶようになりました。
 しかし私自身としては別段読書家であるとは思いませんでした。本好きと読書家との使い分ける言葉が、実際に在るのか如何かさえ良く分かりません。
 ただ私なりに勝手に解釈してその二つを分けるとすると、本好きとはジャンルに関係なく、とにかく好きな作家の好きな物を何でも読み漁ることで、また読書家とはジャンル別に読み分け、その本質までを掘り下げること、言わば評論家乃至は文学賞の選者などが、それに該当するのでないかと思います。

 すっかり前置きが長くなってしまいましたが、さて文学界の事ですが、この雑誌を読むようになってから、その折々の時代の作品と多くの作家と出会うことが出来ました。
 それらの作家たちを一々数えあげたらキリはありませんが、主な作家では「瀬戸内はるみ・円地文子・中里恒子・竹西寛子・檀一雄・江藤淳・古井由吉・大岡昇平・中上健次・石川達三・立原正秋・・・」などです。中でも特に傾倒したのが、竹西寛子と立原正秋の二人でした。この二人の作品は小説随筆を問わず、全作品を収集するほどにもなりました。竹西からは日本語の美しさと古典物に興味を抱くようになり、また立原からは文章の簡潔さと筋書きの面白さを知らされました。更に叉立原の随筆などから、「小川国夫(アポロンの島)・高井有一(北の河)・田久保英夫(深い河)・島尾敏夫(死の棘)・後藤明夫(笑い地獄)・・・」などの作品知ることが出来ました。
 私の場合は好き嫌いがはっきりしているので、余り関心の無い作家のものは、たとえそれがベストセラーであっても読む事はしません。これも私の偏見で申し訳無いのですが、三島由紀夫の作品は一切読みません。生理的に性が合わないのです。案の定彼は後年になって「自衛隊事件」を起こしています。

 最近の掲載作品では「南木佳士・川上弘美・島田雅彦・藤沢周」などが好きです。

 なお読み終えたこれらの処理に困っております。私は戦中派の人間ですから、中々物が捨てられず特に本には愛着がある上に、雑誌と云っても愛読書だけに思うように処理出来ません。それでも引越しの都度などに整理して来ましたが、今なお10年分ほどの数が手許にあります。それも何れ子ども達の手で処分されるのでしょうが、それは仕方の無いことで諦めるより他はありません。
              文学界・11月号(文芸春秋社)



初めての遊歩道

2005-10-28 15:40:43 | 日々の雑記
 昨日同様に、朝から雲一つ無い秋晴れに誘われて、初めは膝の休養日と決めていた老妻を連れ出し、同じ市在住のブロガーK子さんのコメントで勧められた、住宅街にある遊歩道を初めて歩いて来た。

 湿原の一部を埋め立てて造成された住宅街の、幹線道路に沿って設けられた遊歩道の長さは、約1,5キロあった。造成後30年という年月で成長した樹木は、まさに天を突く勢いで伸び見事な林を形づくっていた。
 その遊歩道の基点には、其処に植えられている主な樹木名が、簡単な説明文と写真付きで示されていた。その中に先日来探していたが、遂に分からずじまいで諦めていた木との同種を見つけ、その木の名前を知ることが出来た。
 初めは、その遊歩道が住宅街の一画にあり、その上幹線道路の直ぐ傍と聞いていたから、とかく車両の往来の激しさと排気ガスが心配だった。
 しかし実際に来てみてそれは全くの杞憂だと気付いた。道路沿い一杯に植えられた樹木の枝葉が、往来からの汚染大気をシャットアウトしていた。
それに幹線道路と云っても、市の外れに位置する住宅街の為か、車の数は心配したほど多くは無く、近くの新道造成中の工事現場に出入りする大型車が、時折往き来する他は、近くの住民の車が偶に通るくらいだった。

 先ず歩き始めて直ぐに、樹木の種類の多さに度肝を抜かれた。またそれらの中に、「マユミ」の木が赤い実を枝いっぱいに付けているのを目にした。更に先へ進むとその「マユミ」の木は、まだ彼方此方にあってその見事さには、目を瞠はるばかりであった。それらの写真撮りにも追われている内に、1,5キロの道程はあっという間に終わっていた。

 帰りコースは、折角近くまで来ているのだからと、運動公園内の市民球場前にある、小さな池に立ち寄った。
少し遠回りになったが、やはり来て良かったようである。其処にはマガモの親子連れらしき群が、秋の日を一杯に浴びて戯れていた。

 この季節らしからぬ、思い掛けない暖かさの中での初の遊歩道散策でもあったが、その成果の多さに満足した一日であった。
        住宅街に在りながら閑静で晩秋がいっぱいの遊歩道

      赤い実が枝の先まで稔った「マユミ(檀)別名ヤマニシキギ」

    秋の陽をいっぱいに浴びてのんびりとする「マガモ」の親子たち 

                同上

         毎年プロ野球公式戦が開かれる釧路市民野球場  

 




晩秋の湿原道路

2005-10-26 21:11:16 | 日々の雑記
 朝から雲一つ無い快晴で、真っ青な大空が果てし無く広がっていた。
今朝の最低気温は、今期初めて零度を下回ったもの、昼頃には何時もの気温に戻り、戸外はたいして寒くは感じなかった。
 そのためか大気は未だ透明になり切れず、遥かなる阿寒連山や、それに連なる稜線もまた依然として朧に霞んだままだった。
 しかし歩を進める湿原道路の周りは、先日歩きに来た時よりも、尚一層に晩秋が色濃くなり、更に寂しさを増していた。

 平日の所為か、往き来する自転車も歩きの人もめっきり少なく、時おり枯れ草類が風に吹かれて鳴る音が耳に付くばかりであった。
 その上葦の穂波は黄色に変わり、日の光を浴びて輝き、更にまた殆どの葉を落として裸木同然のナナカマドは青空に突っ立ち、その枝毎の実を更に深紅に染めて青空に映えていた。

 老妻が直ぐ傍らに居るにも関わらず、何故か、逝く秋の道を唯一人辿る、旅人に思いを馳せていた。
              すっかり寂しくなった湿原道路

          葦の穂がすっかり開き切って秋の陽を浴びて金色に輝く

    殆ど葉を落とし切って裸木同然のナナカマドの深紅の実が秋空に映える


枯れ木と空と雲・柳町公園で

2005-10-24 21:07:54 | 日々の雑記
 降るでもなくまた止むでもなく、唯だらだらと二日降り続いた雨は、夜半過ぎにはどうやら上がったようで、今朝の空模様は至って穏やかであった。
昨日は日がな降り続いていた冷たい秋雨のせいか、一日中寒々しくストーブを点けて過ごしていた。しかし今朝の陽射しは、太陽が時季的に低くなった分、居間の奥の方にまで射しこみ、その温もりだけで充分、全くストーブの必要はなかった。

 昨日一日は止みそうにも無い雨に外出も儘ならず、ただ一日をダラダラと寝転がって無為に過ごしていたから、今日は早くから身支度を整え、何時ものように老妻と連れ立って家を出た。

 目指した柳町公園は、折角く色付いていた紅葉も、連日の雨風であらかた吹き散らされ、哀れにもそれらの木々は、裸木同然と成り果て、枝の先々までが陽に晒されていた。
 また私同様に昨日一日を、降り続いた雨に持て余していたのだろう、今日は多くのパークゴルファーたちがプレーに興じ、あちこちで歓声をあげていた。
気温は昼前に既に16度を超すほどで、風も穏やかでこの時季としては、まさに珍しい程のウォーキング日和であった。
 何時ものように杖つきの老妻の歩みに合わせて、時には空を仰ぎ、更に樹木を見透かして立ち停まり、気に入ったアングルを定めては手にしたカメラを構える、まさにウォーキングはそっちのけの、ただのブラブラ歩きである。
 それでも二時間近く掛けて、三区画の公演内をぶらつくだけだったが、万歩計の歩数は八千歩ほどにもなり満足した一日であった。
             すっかり葉を落とした木の上を雲が流れる

             裸木林の上の雲

周りの樹木の葉が落ちて見えて来た木の実(調べたが判らなかった・・・スズカケノキ?)

                 同上の葉と実

   葉が落ちて少なくなり赤い実が秋空に映えていた・名前不詳





もう一つの湿原展望台

2005-10-22 18:07:51 | 日々の雑記
 湿原展望台と言われるものには、その一つは「釧路湿原展望台」と呼ばれ、道道53号線の釧路駅から約15キロ地点の、釧路市と鶴居村の境界線の高台にあり、更にもう一つは「釧路湿原細岡展望台」と呼ばれ、ちょうど真向かいに当たる釧路町細岡(国道39号線・釧路駅から約40キロ)の高台に設けられている。どちらの展望台もそれぞれに異なる特徴が観光の目玉となっている処です。

晩秋の晴れたの一昨日の午後、やや遠出のドライブながら、釧路湿原細岡展望台に出掛けた。を、大仰に遠出ドライブと云って見たものの、たかが往復80キロのコースである。それくらいの距離なのだから、今時の勤め人なら誰にもザラに有ることなのだろう。

 普段は自転車道路の平地から湿原の一部分だけを見ていたので、偶には隣町の釧路町細岡にある細岡展望台にでも行って湿原全体を、高みからでも望んでみようと思って出掛けたのである。

 釧路湿原が28番目の国立公園に指定されたのは、昭和62年7月のことです。更に昭和55年年6月にラムサール条約登録湿地として指定された。
 このように国立公園に指定され、更にまたラムサール条約に登録されたことなどが重なり、どちらの展望台も観光客が倍増しています。
ここ細岡展望台は平日だったにも関わらず、駐車場はほぼ一杯だった。それらの車のナンバーは道内外ものが多く、その中の練馬ナンバーの高級車が特に目立っていた。
 
 高台の展望台に立っても、風が無く日差しも柔らかくて、とうてい北国の秋とは思えないほどの暖かさであった。ただそれがアダとなって、遠くの景色や湿原の端々や、それにちょうど真向かいにの目の高さに位置する、雌阿寒と雄阿寒の雄姿が朧に霞んでいたことだった。

 なお展望台から望む湿原は、一応カメラに何枚か収めて来たのですが、お見せするほどのものが無く、さんざん迷った挙句に下の2枚にとどめ、更に展望台に向かう途中で目にした、水鳥が群れ泳ぐ小さな沼(達古武沼)の写真を付け加えた次第です。
気温が高い所為か未だ大気が澄み切らず遠くが霞んで見える・蛇行する釧路川

              東京からの観光客が望遠鏡で・・・

             登る途中にある「達古武沼」

             達古武沼で遊ぶ水鳥たち



今年の公園の紅葉

2005-10-20 20:49:53 | 日々の雑記
 昨夜の予報では晴れの筈だったが、今朝の空には薄い雲が一面に広がっていた。しばらく様子を見ていたが晴れて来る気配も見られず、かと言って雨の心配も全く無かった。但し昼間の気温が13度そこそこで、そのうえに風も少しあったので、最近見付けた河畔の右岸コースは川風が冷たいだろうと考えて、約一ヶ月ぶりに柳町公園を歩くことにした。
 何故無理して出掛けたかと云うと、台風20号が近付きつつあって、いずれ近い内に雨になる事が予想されたからで、今の内に少しでも歩いて置こうと思ったのである。

 家を出る頃の空はまだ薄雲に覆われていたが、公園に着いた頃には空は明るさを取り戻し、所々に青空さえ見られるほどに天候は回復していた。
 更に予想外に暖かく、白樺が点在する草地に設けられたパークゴルフコースからは、閉鎖前のひと時を楽しむ、老男女の歓声が時おり風に乗って聞こえて来た。
 例年ならばもう疾っくに閉められている時季である。今年は有り難いことに、この地域の夏を充分に思わせるような暖かさが時おりあったりして、とにかく外歩きや外遊びの老人には有り難いことだった。

 しかし良いことばかりで無くて、今年のように夏秋の季節が曖昧な年の紅葉は冴えないとのことですが、全くそのとおりで山地はともかく平地の公園などは、まさにイマイチの感がありました。昨年もこの公園は頻来した台風の塩害でサッパリでした。二年続きのでは余り遠出が出来ず、公園だけが頼りの老人には、とても残念なことです。
 五つの区画からなる運河跡公園を一周して、色付いて来つつある紅葉を写して来ました。いずれにしても数が少なうえに、どれも例年の輝き彩りが見られないのが残念でした。
                 公園の紅葉・その壱

                 その・弐

                 その・参

                 その・四

     

昼寝について

2005-10-18 20:52:30 | 日々の雑記
 昼寝は私の日課の一つです。
一般に昼寝の効用として、15分から長くて30分としていて、たとえ老年であろうとその限度は30分までとしています。わざわざこの昼寝を毎日義務付けている会社さえあるそうで、その昼寝の効用を最大限に活かして、能率向上はもとより、過誤や事故の撲滅を図っていると云うことです。
 睡眠のメカニズムなどの専門的なことは、無学な私如きには一切分かりませんが、腹が満たされれば眠くなるの喩えで、ただただ身体の要求でそうしているだけのことです。

 私の場合は昼食後30分ほどしてから横のなります。場所は居間のソファーであったり、また寝室のベッドだったりで、その日の気分なり状況に応じて使い分けています。ただベッドの場合は部屋が睡眠重視となっているので、ついつい眠り過ぎとなり昼寝の範囲を超えてしまい、昼寝後のスッキリ感は半減します。そのために中途半端な睡眠からの影響で、その後暫らく心身は覚醒し切らず、ただただボウーと過ごすことになります。それに引き替え居間でのソファーの場合は、それなりの雑音が絶えないから、ある一定の時間が来て眠りが浅くなった時点で、それらの雑音などで目覚めるから、寝過ぎなどのマイナス面は少ないです。

 そのことからも、私の場合の1時間半から2時間はいかにも長過ぎる。だから昼寝の効果は少ない。ひどい時には寝過ぎた影響で、夕方近くまで身体に気怠さが残り、思考さえも儘ならないことがあります。夕刊を手にして初めてシャキット感が戻って来ます。その間の約2時間ほどは、読書にも身が入らず、ただボウーとして過ごすか、漫然とテレビを流し見るくらいです。

 そんな無駄な昼寝ですから、当然夜更かし(12時から1時)の原因となって翌日の昼寝の時間が長引くことになります。その結果またまた気怠い無為の時間を過ごす破目となり、毎日その繰り返しとなるのです。

 ところが先日ある雑誌で、昼寝の取り過ぎ防止策として、コーヒーが最適とありました。根っからの緑茶党としては、とかくコーヒーは眠気覚ましの最たるものとしか認識していませんから、俄かに信じ難かったのですが、コーヒー覚醒効果は15分から30分以内とあったので、昼食後の緑茶は止めてコーヒーにしようと思いました。
 しかしそれも今のところは、ただそう思うだけで依然として食後は緑茶の習慣から抜け切れず、いまだ実行に至っていない次第です。

今日の空・今日の雲

2005-10-16 20:34:47 | 日々の雑記
 昨日の夕方から振り出した雨は、夜半になってから激しさを増していたので、今日の天候の行方を気にしていたのだが、今朝になるとその杞憂は跡形も無いほどの晴れ具合であった。
 気象情報に依れば、天候は崩れる方向にあって、今日も雨模様との予報が出ていたから、ウォーキングは少なくとも3日ほどは出来ないだろうと、内心諦めていただけに、思い掛けない今朝の青空がとにかく嬉しかった。
 普段からウォーキング中毒を自認している身にとって、室内歩きやエアロバイクのみでは、到底満足できず戸外での歩きが待ち切れなくなる。

 何かと家事の多い老妻を急かせて、何時もより早い時間に車を出して、自転車道路の湿原寄りのコースに出かけた。
 湿原の様子は、先日訪れた時の一面の枯れ色が、二日続きの雨風で更に増したようであった。

 有り難いことに気温は全く例年に無いほどに上がり、当地の真夏並みの20度にまで上昇、歩くほどに汗ばむどころか流れるばかりとなっていた。しかし一旦日陰に入ると、やはり季節並みの涼気がヒンヤリとして実に心地良かった。

 雨ですっかり澄み切った大空には、雲がそれぞれ姿を見せてゆったりと流れ、瞬時目を離した隙に、さまざまに変化して行くのに目を奪われていた。
そして静かに流がれ行く一つの雲に、好きな俳句を思い出していた。
 
          ※ 逝く夏や 遥かなる雲 湧きやまず
 
 これは20代の若さで世を去った女優、そして俳人としても名の在った夏目雅子の俳句である。
それに倣って身の程知らずに、一句捻り出そうと苦闘してみたが、もとより非才の我が身には、全くの徒労で一つも物にならなかった。
 せめて気に入った雲だけでもと、何時も持参のデジカメで取り捲った。
             今日の雲のさまざま・その壱

                 その弐

                 その参

                 その四

                 今日の空




新ウォーキングコース・河畔道路

2005-10-14 20:34:23 | 日々の雑記
 昨日新しいウォーキングコースを発見して、今日早速く老妻と歩いて来た。

 それは昨日のこと、老妻は膝の休養日に当てて、家の内外の掃除と洗濯をしていると云うので、一人で本屋へ出かけた。予約の月刊誌を引き取り店外に出たものの、家を出てから時間が幾らも経っていない。
 余り早く戻っては、老妻気の邪魔になるだろうと、本屋の近くを少し散歩でもして、時間を潰そうと思って車を出した。
 川に沿った大通りに出て暫らく行くと、河畔に下りる取り付け道路があったので、試しに下りてみた。そこには立派な駐車場があって、車椅子用のトイレなども整備されていた。それもその筈で、駐車場の下には新釧路川右岸の河川敷を利用して造られた、河畔運動公園があったのである。
 この川の左岸の河畔公園には、元の職場や家が近かったこともあって、何度もウォーキングコース利用した事があったが、対岸の河原までがこのように整備されていたとは、今に今まで少しも知らなかった。それに対岸のこの一帯はお盆の花火大会時の、打ち上げ場となっていて、完全に立ち入り禁止になっていたからでもある。
 この右岸の少し川上の河川敷に、パークゴルフコートが設けられているのは、橋の上からも見られたので前から分かって居たのだが、更にその先に左岸同様に、サッカー場に野球場までが整備されているとは、今日此処へ来て案内板で初めて知ったことである。

 それで今日、老妻を驚かせようと妻には何も知らせずに、老妻をつれて来たわけである。案の定老妻はいつも利用しているスーパーの近くに、こんなすてきな公園があるのは知らなかった。そして幅広くとられた遊歩道がすっかり気に入っていた。特に老妻には車椅子用のトイレがお気に入りのようであった。

 私たちが、これまで長い間利用して来た、湿原の自転車道路や柳町公園それに郊外の大規模運動公園などは、それぞれに特徴があって甲乙つけ難く、どれもこれも愛着の在るものばかりだが、今日始めて来たこの河畔公園が気に入り、二人ともすっかり虜になっていた。

 気の所為か、何時もと同じだけの距離を歩いても、疲れは少しも感じなかった。二人してこれは水辺のマイナスイオンの所為だろうと、気を良くして何時もより歩を延ばしていた。
 更に水鳥が浮く川面を眺めながら、もはや記憶が薄れうろ覚えの古典の一節を口に出していた。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」・・・・・

               新釧路川治水記念碑

               綺麗に整備された遊歩道

    広々とした河川敷にはサッカ場や野球場が更に製紙工場の煙突も・・・

               穏やかな川面でたわむれる水鳥

               滔滔と流れ行く川を見入る


雲によせて

2005-10-12 21:07:15 | 日々の雑記
           
              おうい雲よ
              ゆうゆと
              馬鹿にのんきさうぢやないか
              どこまでゆくんだ
             ずつと岩城平の方までゆくんか   山村暮鳥

 今日の湿原道路は前日同様で、風は全く無く背に受ける日差しの温もりがとても心地良かった。そのうえ中空に浮く雲の様は、まるで長閑な絵を見るようで最高のウォーキング日和であった。秋色一色の世界に浸りあれこれ思い、疲れなどはすっかり忘れてしまっていた。
               
 冒頭の詩は、山村暮鳥の「雲」という作品の中の一部で、私の好きな詩の一つです。暮鳥そのものの人柄、また他の作品などのことについては、余り深くは知りません。ただ二十歳代の頃、何かの折に目にしたこの詩が何故か、50年も経った今でも、消える事無く残っていて、特に秋空に浮く雲を眺めた時などに甦って来るのです。
勝手な想像ですが、草叢にでも寝そべり中空を流がれ行く雲を見入って、感傷的になっている、若き暮鳥の姿が浮かんで来ます。

  またこうした情景からは、直ぐに啄木が連想されます。ただ彼の場合は寂れた城跡が相応しく、其処に佇み物憂げに空を見上げている青年啄木の姿が浮かびます。

 更に思いは飛躍して、美空ひばりの世界にまで発展して、「りんご追分を」に始まり、並木路子の「リンゴの唄」などまで広がり、何時の間にか記憶を辿りながら、いつしか口ずさんでいました。

       追分山のてっぺんを、綿みてえな白い雲が
       ポッカリポッカリ流れて行き・・・・・・・・・・・・・
       ・・・・・・・・・・・・・おらぁ・・・おらぁ・・・・
 
 傍には老妻しか居ないのを見越して、良い年(70余歳)をした老人が、すっかり興に乗り大きな声で歌い出す始末でした。