昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

続・労災病院最後の・・・

2014-08-27 10:23:17 | 日々の雑記
           先に書いたように、五年前の大腸ガン手術の際に発見された心臓
        疾患、その予防の手段としての徹底した食事の管理は、亡妻はもと
        より娘の協力があってこそ果たされたのでした。
         その家族揃っての食事管理があったからこそ、大腸ガン手術後
        五年間で無事に診療から解放されたんです。
         
         亡妻は好物のケーキなどは一切口にするのは諦め、また娘も焼肉
        などは食べなくなったのです。
         私のために家族は、心臓内科医の勧めた食事管理に従って呉れ、
        我が家の食事は一変したのでした。
         例えばこの五年間牛肉は食べておりませんし、魚類も脂の多い
        秋刀魚や鰯に鯖などはなるべく控えて、魚を食べるのなら鮭や鱈に
        鰈などの脂の少ないものを食べ、野菜類は毎食欠かしたしたことは
        有りません。
         当然天ぷら類もご法度で、口にしておりませんでしたが、その事を
        医師に話すと、医師が云うにはそれまでしないで半年に一度くらい
        食べて良いですよ、仰って呉れました。
         それに従って、昨年の秋彼岸のお寺参りの帰りに、孫たちと蕎麦屋
        で天ぷらを食べました。
         その時の海老天の美味しかった事は、暫く忘れられませんでした。
          
         ちなみに我が家の食卓から肉料理が無くなった訳では無く、月に
        二度ほどの割合で豚の赤身肉か、または鶏のモモ肉や胸肉で、それも
        色々な野菜たっぷりの煮込みでした。
         また刺身の醤油は生醤油で無くて、必ず酢などで割っており、それら
        は今も代わっておりません。
          
         この五年間亡妻の野菜主体の料理は、娘の代わっても変わり続いて
        おり、私の日々の健康は家族の協力のお蔭なのです。













労災病院最後の診療

2014-08-21 16:03:33 | 日々の雑記
          この度五年前に労災病院で受けた大腸ガン手術後、三か月毎
       受けて来た検査診療が、この度で無事終了したことが主治医から
       告げられました。
        これで年に一度だけでしたが、思い出すさえ辛い内視鏡検査が
       終わったのです。
        それにしても不安で辛い五年間でした。たまたま便通が無い夜
       などは、ガンの再発がよぎり眠れない夜も何度かありました。

        今になって思うには、これは亡妻の協力が有ったからの事です。
        それは偏に亡妻の自分を犠牲にしてまでの、徹底した食事療法
       のお蔭なのです。
         と云うのは、大腸ガンの手術前に行われた検査で、心臓疾患の
       狭心症が見付かったのでした。
         若しその時狭心症が見付からなかったら、全身麻酔から醒める
       こと無く、そのまま命絶えるところだったのです。
        
         病院を替えての狭心症対策の後で、心臓の担当医か言われた
       事は、塩分・脂肪分・糖分の徹底管理でした。    
        亡妻は私のために、自分の好物などは一切諦めて、食事管理を
       進めたのです。
        この亡妻の野菜中心の食事が、心臓ばかりか大腸にも好結果を
       齎したのだと、只ただ亡妻に感謝するばかりです。
        その日の夜仏壇に灯明を上げ、亡妻に報告して、心からの感謝
       の気持ちを伝えたことは言うまでも有りません。      
       


   
   
   
 
   
  

   

 



終戦の日に想う

2014-08-15 09:53:34 | じゃこしか爺さんの想い出話
                不法にも 故郷追われし 悲しみは
               消えず只ただ ロスケが憎し


      
          終戦記念日は今年で六九回目、色々なことが再び想い出されて
       悲しみがよみがえります。
        先ず不法にも一方的に条約を破って、しかも終戦間際に侵攻して
       来たソ連軍への憎しみは、この先何年経っても私から消えることは
       無いでしょう。        
        戦争が終わった直後の混乱時に命を奪われた私の父と級友と、
       更に友人の親父さん方の死は、明らかに戦争が終わった後のことで
       その他多くの避難民が亡くなられております。 
        そしてまた少年団員だった私たちが、任務を終えて山奥へ避難する
       途中、突然現れたソ連機の機銃掃射を受け、じゃが芋畑に身を隠して
       難を逃れたのも、戦後の事だったおです。   
        
       それらの悲しみが癒えぬ内に、着の身着のまま まさに
       裸同様で故郷樺太を追われたのです。
        我が家の苦しみと悲しみ、父の行方不明と長兄のシベリヤ抑留、
       それによる母の若死になど全ては、ソ連軍の不法な侵攻によって
       始まったのです。
        ですから私は引き揚げ後の家計のために、13才で家族と離れて
       農家の手伝いに出、その後15歳の時親戚の世話で美唄の炭砿に
       就職したのでした。
             
        因みに私の学歴は小卒です。但しその後働きながら夜間高校へ
       通いました。

        そんな訳で、私の悲しみ憎しみは未だに消えないのです。




花撮り歩き~ノボリフジ

2014-08-08 15:41:01 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 別の名前は、ルピナスと呼ばれる花です。先日三日ぶりに思いがけなく
 晴れた昼下がりのひと時、久しぶりに花撮りを思い立って車を出しました。
もとより何処とゆう当てがあった訳でも無く、ドライブでもしていたら何かに
 出くわすのでは無いかと、淡い期待を込めてのことでした。
  
  初めはどの方面に行こうかと迷いましたが、取りあえず以前亡妻と一緒
 に歩いた自転車道路へ向かいました。
車からおりてのんびりと歩こうかと思ったですが、ここは元々車や人通り
 の少ない通りなので、車に乗ったままで通りの土手に花壇を見ようと、その
 まま進みました。
  その土手の花壇は、仁々志別川の河畔同様に手付かずの有様で、
 雑草が生い茂って荒れ果てておりました。
そんな中でノボリフジ=ルピナスだけが、健気にも今を盛りとばかりに
 咲き誇っておりました。
  幸いにもその通りには車が来る気配もなく、また人通りの気配が無かった
 ので、車をゆっくり走らせながら車の中から撮って来ました。











花撮り歩き~徒歩で

2014-08-03 15:43:23 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 
   釧路の連続降雨は一月ほどで終わったとのことですが、その後の
  天気は相変わらずで、霧が立ち込める時間帯が多く、時折り現れる
  お陽さんも直ぐに雲に覆われてしまいます。
   そんな訳で、花撮り歩きに車を出す機会は滅多になく、少々焦り
  を感じる日々が多いこの頃です。

   そんな日の昼下がりこと、思いもよらず薄日が射して来たのです。
   空にはまだまだ黒い雲が広がっていたので、この薄日はほんの
  一時のものだろうとも思いましたが、とっさの判断で少し近所でも
  歩いて来ようと思い立って、カメラを手に家を出たんです。
   行き先に宛が有った訳では無かったのですが、近くの大通り沿い
  花壇を思い出して向かいました。
  
   普段はあまり気にも留めないで通り過ぎた居たようで、近所の人が
  世話でもしているのでしょう、色々の花が咲いていたのです。
   わざわざ車を出さなくても、それなりの収穫があったことに多いに
  満足したひと時でした。
  
   下の写真は、今年初めて徒歩で撮ってきた花々です。