昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

じゃこしかの自分史より・バラ苺

2006-03-31 18:48:21 | じゃこしか爺さんの想い出話
  
  <少年期より・バラいちご

 私が少年期を過ごした樺太塔路町の炭砿時代の住宅は、もとより八軒からなる炭砿長屋で、山の麓から中腹の辺りまでを整地して建てられていました。そんな炭砿長屋の集まりの中でも、私の家は一番上にあったので、目の前には色々な灌木などが生茂る薮原が広がっていたのです。
 一見寂しそうな処ですが、初夏になるとこの山は「バラ苺=藪苺」の宝庫となるのです。この木の実付いては最近「Google検索」で分かったのですが、「ラズベリー」と呼ばれている種類のようです。確かに似ているようですが、今一つはっきりせず、似て非なるものあるのかも・・・本当のことは分かりません。

 当時はこの木の名前は知りませんでしたので、ただバラのように木や枝には硬くて鋭いトゲが一面に生えていたことから、子供同士で勝手に「バラ苺」と呼び合っていました。
そして実が熟する頃合を見計らって、時には枝葉が一杯に生茂って昼日中でも寂しく成るような薮原の中へ、単独で入り込み「苺探し」に夢中になるのです。熟した実が一杯に成る木は、毎年決まっているようなので、そうした木の存在だけは、仲間の誰にも教えず自分だけの秘密にして置きます。
 それは大人たちが「キノコ類の在り処」を内緒にして、その場へ毎年のように出掛けて独り占めすることと全く同じです。

 まるで毛糸で編み上げた帽子そっくりの丸い形でふっくらした真っ赤な実は、とにかくとろけるように甘さが一杯で、菓子類などの甘い物が滅多に口に出来ない時代でしたから、子どもたちはすっかり魅了されてその虜になっていたのです。
偶々運悪く山の中で仲間と一緒になった時などには、その鋭いトゲの怖さを物ともせずに奪い合うようにして食べていたのです。しかし大抵は一人の事が多く、たわわに実ったバラ苺を独り占めすることが出来て、先ず腹一杯に詰め込んだ後、予め用意していた空の弁当箱などに詰めて、弟妹たちのために恰も戦利品として、意気ようようと持ち帰ることもありました。

 現在では殆ど季節に関係なく、甘味・酸味の味覚様々なハウスや路地物が、好みに合わせて好きなだけ手に入れる事が出来ます。こんな便利な世の中とはまさに隔世の感のある時代を生き長らえて来たことにも、それなりに意義が在ったのだとしみじみと感慨を抱くこの頃です。

若木の生命力

2006-03-29 18:50:01 | 日々の雑記
 街の中から雪が粗方消えたこの頃、我が家の裏庭の雪は僅かながらまだ残っております。夫婦二人の加齢を理由に手を付けず、荒れるに任せて放って来た猫の額ほどの裏庭は、日毎の融雪に姿を見せ始め、今は見るも無残な冬枯れを曝け出しています。

 先日の朝に気付いたのですが、ブロック塀の陰の雪と氷を押し退けるようにして、何時の間にか15センチほどにも伸びている、目にも鮮やかな緑の若木を目にしたのです。それは葉の形から襟裳シャクナゲの若木と直ぐに分かりました。この場所は玄関前で普段なら出入りの都度、直ぐにも目に付く筈なのに、今まで如何して判らなかったのだろう、キット其処は冬の間は雪投げの場所で、極く最近まで残雪がこんもりと積もって居たからに違いないのです。

 ここは新築当時、同僚から譲り受けたモミジを植えていた。3メートルほどにも成長した秋には、プロペラ状の種子を舞わせて、まだ小さかった子供たちを喜ばせて呉れて居たのだが、何時からか虫が付き始め色々と手を加えても、年々退治する事が出来ずに遂に諦めて伐ってしまった。
 その後折角の玄関前が寂しいからと、老妻が毎年パンジーなどの花株を買って来て鉢に植え替え所狭しと置いていたから、夏の間でも全然気が付かなかったのでしょう。

 しかしこのシャクナゲの種はどのようにして此処に根を下したのだろうか、確かにこれは家のシャクナゲに違いは無さそうですが、その木は玄関前ではなくて、約20年前から裏庭に植えられている木なのです。その木の種子は風に乗って屋根を越えて来たのか、或いは家人の衣服などに付着して運ばれたのか、そのどちらかなのでしょうが、此処は北側で朝日こそ多少当たるものの、日中は一切日の射さない日陰なのです。
 この歳にして図らずも植物の生命の力強さと、種の保存と継承の巧みさをしみじみと再認識したのです。自然界ではこんな事は何処でも起こり得る日常茶飯事的なことで、珍しくも無く当り前の事なのでしょうが、大袈裟ですがこの時ばかりは新鮮な驚きが一杯だったのです。そしてこの健気にも逞しく生き延びようとするこの「襟裳シャクナゲ」の若木を、花を咲かせるまでに育ててやろうと強く思った次第です。

   氷と雪を押し退けて、逞しく伸び上がってきた「襟裳シャクナゲ」の若木

若木の親?となる裏庭の「襟裳シャクナゲ」毎年夏には花を咲かせて呉れます



 

予科練・じゃこしかの少年期より

2006-03-25 18:43:02 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 このような記事をここに載せたからといって、私は決して好戦家でも無く、また戦争を肯定する者ではありません。むしろ厭戦乃至は反戦主義であり平和主義者を任じております。
 なお私が尊敬する人物の中に、インド独立の父マハトマ・ガンジーが居り、翁の非暴力運動とその主義生き様に憧れてもおります。

 唯この記事は自分史を纏めるに当って、避けて通れない少年期ことであり、それがどのような時代であったのか、そしてその背景に在るものは如何なるものであったのかを、様々に錯綜する記憶を掘り起こして、自分なりに書き綴ってみただけのことです。

 昭和17年から18年の頃は、太平洋戦争の真っ只中で、まだまだ日本軍にも勢いが在った頃だったと思います。当時の少年達は、学業の成績や体格に関係無く、予科練(海軍飛行予科練習生)に憧れていたのです。特に当時の英雄・撃墜王軍神として全国民に崇められていた「加藤隼戦闘隊長」が少年誰しもの目標でした。

 今のように戦争の不条理や悲惨さが、直接リアルタイムで視られる時代で無かったから、景気付けだけの大本営発表を信ずる他無く、少年達は皆斉しく」ゼロ戦・隼」などの戦闘機搭乗員を夢見ていたのです。
 私もそうした数多くの少年達の一人でした。学業はまずまずでしたが、体格の方は悲しいかな、どう贔屓目で見てもクラスの中ほどでした。その上大きな難点は弱視で、この事では事ある毎に惨めさを味わい続けておりました。
 しかし普段の私はそんなことにはお構い無しに、また些かもめげること無しに、クラスの仲間や家の近所の遊び仲間と共に、遊びの中でさえも身体の鍛錬に励んだものです。私はこの時に、誰よりも先に鉄棒(子どもの頃は機械体操と呼んでいた)の「蹴上がり」を覚えました。その上暇さえあれば仲間を集め、戦闘機操縦を模倣し、ゼロ戦とグラマンに区分けして、空中戦ごっこに夢中になっていたのです。

 今にして想えば終戦が何かも、あの純粋な少年達の夢さえも一気に粉砕して仕舞ったのです。何処の国の同じでしょうが、少年達はある種のマインドコントロールの中にあるのだと思います。それが解かれた時の空しさと、180度変節する大人たちへの戸惑いと不信感で、まるで痴呆のように日々が続きました。   
 しかし私の場合は、その当時港湾の守備隊要員だった父が、ソ連軍が侵攻して来た終戦の日に死亡した事もあって、生活環境の激変して生活そのものが大きく変わって仕舞ったのです。

 その後のソ連軍統治によるどさくさの下では、軍国少年の華々しい予科練の夢、ゼロ戦や隼の搭乗員の夢などは跡形も無く消え果て、子ども大人の区別無く、戦勝国ソ連軍に負い回される日々が始まったのでした。

 次は今でも時折り夢に出て来る「若鷲の歌」の一番の歌詞です。
     
     ♪ 若い血潮の 予科練の
       七つボタンは 桜にいかり
       今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にや
       でかい希望の 雲が湧く


人混みが怖い

2006-03-22 18:44:22 | 日々の雑記
 初めは日頃行き付けの医師から、極く普通の軽い風邪と診断された筈なのに、完治するまでには思いのほかに長引き、ほぼ一か月も掛かってしまった。
 もとはと云えば、偶々ガン検診で訪れた労災病院でだった。それ以来人が大勢集まるところが怖くて仕様が無い。今回の風邪が必ずしも人混みが原因で無い事は良く承知しているのだが、こればかりは理屈通りにはゆかないのです。
 だからCT検査の結果を聴くために、最後に労災に行ったのが2月23日で、それ以後約1ヶ月間人の集まる場所へは一度も出掛けていません。
 体調が思わしく無くて、ウォーキングはおろか日光浴主体の散歩さえ、トンとご無沙汰です。そして更に2日置きでは物足らず、毎日でも出掛けたいほど大好きな買い物も、老妻と日毎出掛けはするものの、決して店内には入らずアッシー君に徹しています。
 それもガーゼ2枚重ねのマスクを用いて車の中で、老妻の買い物済みの連絡を待って居るだけなのです。普通ならば老妻と一緒に品定めの助言などで、または無駄買いの抑止役として結構役立って居たつもりですが、最近ではそれが出来なくなった所為で、二重買いなどの無駄が重なり老妻の愚痴が多くなって来たようです。何かと口の煩いこの私なのですが、やはり今までどおりに私について来て欲しいのでしょう。
 いい歳をして意気地が無いと言われればそれまでなのですが、この一ヶ月余の苦しみを思うと、とにかく人混み怖くて仕方が無いのです。他人全てが風邪のウイルス保持者に見えて来ます。これは理屈ではどうしょうもない私個人の問題なのです。
 しかしそんなことで今の世の中を、このまま通して行けない事は百も承知です。現に昨日は春彼岸の中日で、幾ら人混みが怖いからと云って、今更ご先祖様のお参りを止める訳にはゆかないでしょう。

 何時もの外出時以上に厳重にマスクをして、その上嗽用のお茶と使い捨ての除菌用タオルを自参して菩提寺に乗り込んだ次第です。

 片足を棺桶に入れているような年寄りが、この期に及んで何を今更世迷い言をと・・・謗りを受けるのは充分覚悟の上なのです。


じゃこしかの徒然なる自分史より

2006-03-19 18:42:51 | じゃこしか爺さんの想い出話
  ・・・初めに・・・
ふとした事で引いた風邪が、本はと云いば自分の油断からのことながら、約1ヶ月を経て漸く元に戻った感じである。この間通院は三度、挙句の果てに点滴まで受けるに至った。良く数えたら通院は四度だった。薬の副作用の所為か、シャックリが一晩寝かせて呉れなかった。初めは
 「シャックリくらいで病院などへは、恥ずかしくて行けるか」
と我を張って居たのだが、余りの切なさに閉院ギリギリに駆け込んでいた。

 ブログ更新は気力の萎えから滞りがちになり、遂には何もかも億劫になり、時折り除くのがやっとの思いだった。ずうっと休んでいたにも関わらず、10日も経った記事に寄せてくれるコメントは唯々有難く読ませて頂いた。

 この不測の病の期間を唯徒に無為に過ごしていた訳でも無く、出歩くことの少ない冬の間に、己の生い立ちを纏めてみたいと思っていたこともあって、この風邪の期間身体が元に戻るまでの間を利用して、見よう見まねの自分なりの自分史を纏めていた次第です。
 その中から余りにも卑近な事は除き、一般的と思われるものの中で、または許される範囲で、もとより取るに足らない平々凡々と過ごして来た70余年の生涯の一端を、今後折を見てブログに載せてゆきたいと思う次第です。

             
           < 少年の日の挫折・旧制中学受験 >

 それは終戦(太平洋戦争)年の三月初めの頃でした。私はちょうど国民学校の初等科六年生で、中等学校(旧制中学校)の受験準備の真っ最中でした。
 その頃私は毎日のように、正規の授業が済んだ後の放課後、クラスの受験希望者と共に補修授業を受けておりました。

 当時の旧制中学とは、今の高校受験のようなものと思われますが、ただ受験者数は極端に少なく、一クラス六十人中一割程度です。しかもその中学校の数も少なく、詳しい事は余り知りませんが、樺太内でもせいぜい5~6箇所しかなかった筈です。ですから若し合格したとしても、学校の在る郡部の拠点都市への通学は無理で、寄宿舎生活は避けられないことでした。

 或る日のこと、その日の補修担当教師が急用で突然抜け、急遽自習時間に切り替えられました。教師がいざ不在となれば今までの張り詰めた静寂さは、ものの一分保たれず、立ち上がって歩き回る者や、仲の良い者同士で声高に話し込んだり、中には内緒で持ち込んだ菓子類を分け合って食べたりする者までが出て来て、蜂の巣を突っついたような騒がしさになってしまいました。
 
 教室内で騒いでいるだけでは物足りず、やがて3~4人が教室を抜け出して運動場へ向かうと、後を追う者たちが続き一気に半分ほどが運動場を走り回り始めたのです。まるで枷の外された放れ馬のような激しさでした。
 当然私もその中の一人で、追いつ追われつの駆けっこに夢中になっていました。樺太の三月は真冬並に気温が下がります。全く運の悪い時は如何仕様も無いもので、掃除後のこぼれた水が凍っていた場所で、足を滑らせて転んでしまったのです。
 右腕に生じた突然の激痛に呻きながら転げまわる私に、初めは呆気にとられていた周りの者たちは、漸くことの重大さに気付いようです。知らせで駆けつけた教師の指示で右腕の袖を捲り上げると、肘から手首の中間で「くの字型」に外側に曲がっていました。

 直ぐに学校下の街の整骨院に連れて行かれましたが、やはり完全に骨折していました。ただ矯正する時の痛さは想像を絶するものです。
 何しろ二人がかりで押さえて二人がかりで引っ張るのですから・・・思わず泣き声を揚げてしまいました。

 しかしその時の私にとっては、骨折の痛さよりももっと大きな痛手は、利き腕の右手の骨折でした。受験の筆記試験には利き腕は欠かすこと出来ません。それに受験日までには二十日ほどしか残っていませんでした。
 直ちに左手での筆記練習始めましたが、そんなに簡単なものでなく随分苦労しました。何とか受験日までに難しい漢字などはともかく、ある程度の文章は平仮名で書けるほどになっていました。

 そして受験日当日勇んで試験会場に臨んだものの、思いもよらない大きな障害が待っていたのです。
 その頃は戦争末期の所為で、戦時色が一段と濃いご時世でした。例え中学受験とは言いながらも、文武両道が一番とされていて、その中でもどちらかと言うと身体が重要視されていた時代で、試験科目中三分二は体育試験でした。

 その時私は右腕を三角巾で吊っていましたから、試験科目中七割を占める体力測定試験は全て回避するしか方法は無く、仮に学科試験が満点だったとしても、その受験の結果は明瞭で、その場で自覚し覚悟を決めたほどです。
 その後十日ほどして学校に齎された受験結果は、誰もが思った通りでした。この時ほど運が悪いと思ったけれども、受験失敗と悔しさと恥ずかしさで、泣きたい思いで一杯でした。ただその時の受験で失敗した他の一人が、忍び泣きをし始めたのを見て、自分だけは泣くまいと必至に耐えていました。しかし下校して母に報告後は堪え切れずに、母に抱き付き思い切り泣いたものです。その時母が言葉は今でもはっきりと覚えております。
 「なぁに失敗は成功の素・・・来年頑張りなさい」
母のその励ましに「来年こそ・・・」はの私の決意は、その年の八月の十五日に、長くて辛かった戦争は終わり、戦後のどさくさでその後の就学も儘成らなくなり、更に引き揚げ後は少しでも家計の足しにと、親戚の家の手伝いや、農家へ奉公に出た後の三菱の炭砿への本格的就職で、母の云ってくれた励ましの来年の受験は永久に来なかったのです。

   

味噌汁

2006-03-10 21:20:21 | 日々の雑記
 朝起きて直ぐに老妻が見てていたテレビに惹かれ見入っていた。「御袋の味」としての味噌汁をテーマーにした番組でだった。
 レポーターの話によると和食としての味噌汁が、今何故か都内でブームになっているらしく、都内のあちこちに味噌汁専門店が開店されて、食事時には行列が出来るほどの人気とのことである。それも全国から集められた、約30種類の味噌の特徴を活かした味噌汁で、もはやお袋の味の領域を超えた料理とのことだった。

 普通味噌汁の具材としては、魚介海草類の・ワカメ・シジミ・アサリ・アオノリなど、野菜類には・ナメコ・ダイコン・長&玉ネギ・ジャガイモなど、また加工品類としては・トウフ・アブラアゲなどが一般的である。
 しかしレポーターによると、そうした具材の味噌汁もあることには有るらしいのだが、その味噌汁専門店のメニュウは和食としての味噌汁の範疇を大きく超えて、トマトとかブロッコリーとか、更にはキャベツのロール巻きの味噌汁があって、それにはスプーンが添えられて出て来ると言う。その上器は木製のお椀でなくて瀬戸の小型のスープ皿なのでである。

 番組の男性キャスターが、
「スプーンで食べるものを味噌汁と呼ぶな・・・!」
 と息巻いていたが、普段は余り好きに成れないキャスターだったが、今日だけは彼の意見に同感だった。
もともと味噌は豆類や穀類を主体にした発酵食材で、我が国を代表する食材でもある。その起源などは詳しくは知らないが、栄養価は広く知られ、特に戦国時代「徳川家康」が兵糧としてその特徴を活かしては有名である。

 現在味噌汁は若い人には人気が薄いようで、各家庭の食卓から消えてその消費量も年々減少していると言う。事実我が家でも加齢に伴い、高血圧の関係で一頃よりはかなり減ったのは確かなことです。しかしポットとかジャーなどの保温器が無かった時代、冷めたご飯に熱いダイコンの味噌汁をかけて、一気に掻っ込んだ時のあの美味さは今もって忘れられない味である。
 「貧乏人の猫マンマ」と言われればそれまでですが・・・。
 終わりに「千昌夫の味噌汁の詩」を想い出しましたので、蛇足ながら付け食えて置きました。
 
 味噌汁の詩
 「しばれるねぇ。冬は寒いから味噌汁がうまいんだよね、うまい味噌汁、
 あったかい味噌汁、これがおふくろのあじなんだねぇ」

       
♪ あの人この人大臣だって 
  みんないるのさおふくろが 
  いつか大人になった時なぜかえらそな顔するが 
  あつい味噌汁飲む度に思い出すのさおふくろを 
  忘れちゃならない男意気




NHKのど自慢

2006-03-05 17:04:55 | 日々の雑記
 自分のことを取り立ててテレビ人間だとは思わないが、1日の内かなりの時間をテレビに割いている事は確かです。観る番組としては、昔は朝のNHK連続ドラマは、毎朝欠かさずに見たものですが、最近では面白さに欠け暫らく観ていません。だからここ数年NHK民放に拘らず映画や時代劇は別にして、いわゆるテレビドラマの類は一切観ていないし、また各局の朝・昼・晩のワイド番組も性に合わないので、時折り覗き見する程度です。

 長年見続けて来た数少ない長寿番組の一つに、「NHKのど自慢」があり、私はこの番組の大ファンで、これまでに殆ど欠かさずに見て来ました。
但し私の見る方法は、少しばかり変わっていて、決してリアルタイムで見ることはせず、必ず録画で見る事にしているのです。

 その訳は出場者の歌には味が在り、更に面白味に富んで見る者を飽きさせません。この実に多様性に富んだ歌に較べて、ゲスト歌手の歌はプロですから、上手さに於いては出場者の歌に比較すると雲泥の差が在るのは当然のことでしょう。
 しかし生活の匂い一杯の含蓄在る素人の歌には敵いません。面白味に欠けた歌手にははウンザリさせられますから、時間に余裕が在る時でも直接見ることはせずに、敢えて録画して歌手が歌う部分は、見ること無く早送りでとばしてしまいます。

 ただ上手いだけで心に訴えて来るものが無い歌手の歌を聴いて仕舞っては、折角の素人さんの情趣溢れる歌に酔い痴れている余韻が壊されてしまい、本当につまらないものになって仕舞います。

 因みに今日(5日)折角楽しみにしていた「のど自慢」が、残念ながら他の番組に差し替えられて仕舞いました。普段なら怒り心頭で文句の一つでも入れるところなのですが、今日差し替えられた番組がこれまた私の大好きなマラソン中継と云うことで、納得してテレビに齧り付いていた次第です。
 出来る事なら「のど自慢」の方を、時間を繰り下げてでも良いから録画中継してくれたら、NHK万々歳で益々好きに成れるのだが・・・。

元職場の同志、Kの死を悼む

2006-03-02 18:05:33 | 日々の雑記
 Kの訃報を知ったのは、3月1日の朝の8時だった。現役引退後の起床時間は大体8時半過ぎが普通でだったから、8時と云いばまだ完全に床の中での眠りの最中である。
 同じ現役時代の同僚だったNから電話で起こされ、Kの死亡を知らされたのである。K とは現役引退後も何か在れば互いに連絡を取り合って来た仲間である。KともNとも知り合ってから、かれこれ40年ほどにもなる間柄である。
 約40年前のこと、市のモデル事業の一環として企業化された、水産製造業協同組合に中途採用された時、そこの社宅が隣り合わせであった事から、長い付き合いが始まった。彼は1個年上の昭和6年生まれだった。彼が製造で私が事務だったが、同年輩で家が隣り合わせと云うことで良く気が合った。
 
 私の知るKはとにかく頑張屋であった。当時の協同組合はモデル事業として設立されたばかりの頃で、一地方企業が少しでも早く全国区に名を挙げようとしていた。労働基準法などは名目ばかりで、土曜日日曜日の区別などは無く、毎日の早出残業は当り前だった。製造部営業部職員は朝一番の市場出荷のために3時起きは日常がったし、私の場合も事務職員として採用されはしたが、朝の出荷要員として駆り出されて5時には出社していた。
 Kの場合は、製造職員でありながら運転免許を持つ上に、前職が組合員の個人企業時代の住み込み職人で、各組合員の売店事情に明るいことから朝の出荷時には手伝っていた。私も男手は幾ら在っても不足しがちな、朝市(早朝の市場)への配達に駆り出されていたのである。

 こうした労苦が報われて、道内はもとより関東関西方面の量販店などからの引き合いも出始め、曲がりなりにも念願の全国区入りが早々と果たされた。
 当時のKもNも私たちは創業時代の同志だったのである。私たちは一つの目的に向かってのリーダーを自負していた。決して上から言われて動いた訳で無く、ただただお互い意気を感じ合い、ひたすら燃え続けていただけである。だから当然心身ともに酷使の連続だった。その挙句の深酒がKの命取りの主因かもしれなかった。
 Kの直接の死因は「胆管ガン」だったが、それが全身に転移していたと言うことだった。

 共に引退した後は、Kは持ち前の世話好きから町内会の役員や地区の老人クラブの会長として、幅広く活躍して親しまれていた。また彼の家族思い特にその子煩悩ぶりは知らぬ者が居ないほどで、孫が生まれてからの好々爺ぶりもまた有名であった。
 「俺の命が家族に役立つのなら、何時でも投げ出す用意はあるし、命は惜しくも悔いも無い」
と云うのが、彼の日頃からの口癖であった。一男一女のお子さんは立派に成人され、3人のお孫さんに囲まれての楽しい老後は、これからのはずだったのである。それだけに彼の75歳を目前にしての死は余りにも速すぎたと残念でならない。

 その彼が死んだ日の朝方に、私の夢の中に顔を見せてくれた。彼が入院していることなど少しも知らなかった。たまたま買い物途中で彼の家が近い幹線道路を通った時にそれを思い出し、何気なく老妻にそのKの夢のことを話してのだが、彼は一体私に何が言いたかったのか・・・何故元気な内に会って置かなかったのかと悔やまれて仕方が無い。ご苦労さん安らかに永眠下さいと、合掌するばかりです。