昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

猛暑復活とは言うけれど・・・

2013-08-30 16:44:31 | 日々の雑記
 
 朝のニュースで、再び猛暑がぶり返すと報じて、熱中症などの注意を促していましたが、やはりその予報は的中したようです。
 その後のニュースでは、391地点で30度を超える猛暑日となり、近畿地方では37度台迄に上がったようです。
 そして汗を拭きながら如何にも辛そうにして、東京銀座の交差点を歩く人たちの様子が写され、熱中症に注意するように何度も繰り返されていた。
 
 しかし此処釧路では、昨夜からの雨冷たい雨が降る続き、気温は14度から15度で、正午になっても16度ちょっと云う低気温でした。
 それまでの半袖シャツでは耐え切れず、長袖に着替えたが、それでも我慢出来ずについに綿入れを着込み、そして更に昼食に娘に用意させた熱々の煮込みウドンをかっ込んで、漸くホット落ち着いた次第です。
 まだ八月だと言うのにこんな事は初めて・・・
 これはやはり歳の所為なのでしょうか・・・

 それにしても猛暑の復活、そして近付く台風15号、本州の皆様方どうぞお気を付け下さい
 


写真の花は先日買物帰りに通った児童公園の物です

 








老いたりとは言えども・・・

2013-08-25 16:11:39 | 日々の雑記
   初めに・・・
 
 連日記録破りの猛暑の加えて、この度これまた記録破りの
豪雨に見舞われた本州の皆様方、心からお見舞い申し上げます


 
 今年81才の誕生日を過ぎた頃から、またテレビニュースなどで、老人の車の運転事故が知らされる度に、爺さんも潮時だね・・・との言葉が、最近身内から出ることが多くなりました。
しかし私かに言わせれば、全然81歳の年齢などは少しも感じていないばかりか、街中をチョロチョロ走っている若い人たちの運転よりは、まだずうっとマシだと自負しております。
また先日のこと、妻を亡くしてからの私を心配して度々電話をくれる姉が、
私が未だに運転しているのを知って驚き、出来るだけ早く引退するようにと注意の電話をくれました。
 何でも姉の周りの知人たちの中には、八十歳を限度に殆どが運転を止めてしまったとかで、私にも直ぐに止める様に云って来たのです。
 私は姉に伝えました。私の運転は昼間だけで、それに市内だけで遠出はしないし、また買物と通院だけですから心配はしないようにと・・・
 そして更に、今年の夏に受けた高齢者運転講習会では優良のお墨付き、免許証はゴールドです・・・と伝えると姉も納得してくれました。
 だからと云って無闇矢鱈に乗り回す気などは毛頭ありませんし、今の時期はともかく冬場の道路状況は降雪や凍結で悪くなるでしょうから、充分に心して運転するつもりです。
特に早朝通院などでは、今より更に早出して出掛けるつもりです。
 
 日頃の姉や身内の思いやりは本当に有難いものです。その気遣いに報いるためにも今後は、日々の運転にはより一層に気を付けてするつもりです。
決して年寄りの運転などと言われないために・・・。










花撮り歩き~その7ー紫陽花

2013-08-20 16:57:09 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 
 昨年もブログに書きましたが、アジサイの花は本州や道南などでは既に終わっているのでしょうが、此処釧路地方では今が真っ盛りで、通りの花壇とか各家々の庭などで多く見られます。
 先日もお盆参りに出掛けた菩提寺の庭でも、色々な花に混じって見事に咲いていました。
アジサイの花は亡き妻も好きでしたが、残念ながら我が家には有りませんでした。ですから亡妻は毎年のお盆のお寺参りを楽しみにしていたものです。
 毎年のように写真にして見比べておりました。
 しかし亡妻の居ない今の私には、このお寺のアジサイは、とても辛いものに成ってしまいました。
 しかしアジサイそのものには何の罪も有りませんし、また私の好きな花の一つとして、これからも心ゆくまで愛でて行くつもりです








終戦の日に思うこと

2013-08-15 17:08:12 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 私が終戦を迎えたのは、今のサハリン南樺太の国境近い三菱の炭砿町塔路で、
国民学校の高等科一年生、数え年13歳の時でした。
 今にして想えば、戦争は既に終わっていたのにそんなことも知らず、不当にもソ連軍に追われて昼夜の区別無く、山野を逃げ回っておりました。
 戦争が終わって漸く家に帰れたのは、戦争が終わって既に二週間も経っておりました。
 その間の出来事の一つは、今となっても忘れられずに時折り想い出されるのは、炭砿の坑口に避難する途中ことでした。
 いよいよソ連兵が上陸して来るということで、それまでの少年隊を解散して避難場所の坑口に向かっておりました。
 当時炭砿住宅街の奥にある坑口は避難場所の一つだったので、友人たち数人で其処へ向かう途中でした。
 突然現れたソ連軍の戦闘機に追われたのです。機銃の弾が、私たちがとっさに身を隠したじゃが芋畑に、ばらばらと撃ちこめられました。
 その後も避難中に死んだ方も多く、避難場所は違っておりましたが、私の同級生や先輩のお父さんなどが犠牲になりました。
 その時には戦争はもう既に終わっていた筈なのに、ソ連軍はただ単に面白がって追い回し死に追いやったのです。

 港の警備に徴用された私の父は、遂に戻って来ませんでした。未だに行方不明の侭です。ですから骨箱の中は空っぽの侭です。
 そしてある日のこと、突然私たちは着の身着のままで、生まれた故郷樺太を追われたのです。
 引揚げ後の生活は、周りの人々は優しく助けてくれましたが、裸一貫で引き揚げて来た私たちの生活はとても辛かったです。
 今にして思えば、ソ連が不法に介入さえしなかったらば、父は行方不明にならず、また母やシベリヤ抑留された長兄などは、もっともっと長生きしたであろうと思います。
 そんな訳で、戦争が憎いと言うよりも、私は敗戦間際に条約を無視して参戦して来たソ連軍がとても憎いし、この年になった今でもその恨みは消えません。

 終戦記念の日は、樺太で受けた無念さは再び蘇えり、私にはとにかく辛い辛い一日でした
   

花撮り歩き~その6

2013-08-11 16:24:15 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 普段の花撮り歩きは殆ど車なので、さほど気付かなかった事なのですが、先日余り時間に余裕が無かったので、車はやめて徒歩で町内の住宅街を回ったのでした。
 その時初めて知ったのですが、車と徒歩とでの花撮りとに大きな違いが在ったのでした。
 目的の花撮りそのものには余り違いは在りませんでしたが、徒歩での場合はゆっくり撮ることが出来、更に色々と良く観察が出来ることです。
 それに引き換え車での場合は、折角良い花を見付けても交差点の中などで通行の邪魔になったり、また停めて置く場所が無かったりで、みすみす諦めざるをいなかった事が多くありました。

 そして更に徒歩での場合では、その花の家の住人と出合った場合など、親しく会話が出来ることです。
 その日も同じ町内会の住人と親しくなることが出来ました。

 今後は車でぐるぐる走り回る事はなるべく止めて、公園或いは店などの駐車場に停めさせて貰って、その近くの住宅街を徒歩で撮り歩くことにしようと思った次第です。
 その様に思うのには今一つ訳が有りまして、それは自分では余り自覚が無かったのですが、やはり八十歳を過ぎた己の足の弱さのです。
 このたびそれを思い知らされたのです。その日はこんな筈では思いながら歩き続けたのですが、今までとは異なる足の感覚に戸惑って仕舞いました。
 今後はやはり今まで通りに、車主体の花撮り歩きが頼らざるをいない事を思い知らされた花撮りでした。










我が家のサビタの花

2013-08-04 16:21:00 | 日々の雑記
  先日ブロガーの方から、私が約五年程前に{サビタの花}と題して載せたブログに対してのコメントを頂きました事、本当に有難く心より御礼を申します。
 正直なところあの時以来余り関心が無かった所為か、これまでサビタの花には感心が無く毎年咲いていたのか如何かも覚えておりませんでした。
 しかし今年の咲き具合から考えると、サビタの花は毎年同じように咲いていたのだろうと思われます。

 前にも書きましたが、このサビタの花にはもう一つの呼び名が有りまして、それは{ノリウツギ=アジサイ科}と云うそうです。
 またこの花は、北国特有の花のようで、古くは釧路生まれの作家原田康子さんの小説{サビタの記憶}や、また戦前戦後の歌手の伊藤久男さんや花の中三トリオの一人森昌子さんが、共に{サビタの花}を歌っております。

 さて我が家のサビタの花ですが、約数年間のこと家を新築した折に、会社の上司にお願いして分けて貰ったものです。
 その時は唯単に、サビタと云うその名前に強く惹かれて無理言って貰って来たのですが、こんなに大きくなるとは思いもしなかったわけで、狭い我が家の庭には少し無理があったようです。
 亡妻がまだ元気だった頃には二人手を取り合って、見よう見まねで枝払いなどをしていたのですが、独りになった私がステント挿入の身体では手も付けられません。
 ですからこのサビタの花の行く末はどうなる事やら・・・