昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

大晦日に   

2008-12-31 23:56:54 | 日々の雑記
 今年の大晦日も残すところ僅かになりました。孫たちは例年どおり、紅白が終わると直ぐに、お年玉を手にして帰ってゆきました。
 以前はゆっくりと一泊して、翌日初詣を済ませてから帰ったものですが、高校生になってからは、泊まって行くことはまずありません。
 孫たち家族が帰った後は、いつもの夜の静けさに戻り、テレビからは{ゆく年くる年}のお寺の鐘の音が聞こえて来ます。
老妻はすぐに食事の後片付けに、私は今年最後のブログをとパソコンの前に座って、来し方今年一年を振り返ってみる。
 
 どうせ老人夫婦の一年なんて、あまり代わり映えもしないで、例年どおりだろうと思ったのですが、よくよく振り返ってみると、然にあらずで、色々と変化に富んでいたことが分かりました。
 まず4月1日から始まった後期高齢者の医療制度で、これには本当に驚かされ、年金からの保険料天引き制度には、ただただ呆れ果てるばかりでした。
 財政不足の名のもとに、この先どんな老人虐め政策が行われるかと思うと、病いと闘いながら余生を全とうしようという意欲を失ってしまったほどです。
 他に不整脈による半月余の病院通いや、うっかり忘れていた車検、水道管の取替え工事などの出費は、まったく予測していなかっただけに、家計にはかなり堪えました。

 色々と在った一年でしたが、夫婦ともどもに一病も二病も持ちながらも、こうして今日の大晦日を、孫たちと共に過ごせたことなど、まずもって好い年だったのだと、大いに満足しているしだいです。
 もう間もなく、新しい年がやって来ます。家の前の通りには、車や人が多くなって来たようです。
 おそらく気の早い連中が、初詣に向かっているのでしょう。
 年々動きが鈍くなってきた老人の初詣は、駐車場が空くだろう4日頃に、のんびりと行こうとおもっています。

 ブロガーの皆さん、今年は本当に有難うございました。来年もどうぞ宜しくお願いいたします。
 皆さま、どうぞ良いお年を・・・!

雪の河畔遊歩道で

2008-12-27 16:16:11 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 先日今冬2度目の雪は夕方から降り始めたのだが、その雪の大きさと勢いからして、今度の雪はかなり積もるだろうとおもった。
ところが、一旦止んで、夜また降り出したのだが、思ったほどではなくて、せいぜい10センチ程度積もっただけだったので、ホットした。
私の体調には歩くのが一番よいとされているので、たとえ少しだけでも歩いた方が良いのです。それで、雨や風の強い日などは、家の中を歩くことにしているのですが、とかく狭い家では思うようにゆかず、それにまた直ぐに飽きてしまいます。
ですから少しの雪ならば、断然外歩きの方が有効です。それにただ真っ白なだけの風景ですが、白鳥を探しながら歩くのは、他に意外な発見もあって中々楽しいものです。

雪の降った翌日からの天候は、幸いにも良く晴れて暖かい日が続いていたから、雪道の歩きづらさもあったが、それはそれで足の運動には役立つのです。
その日は、予報どおり昨日に引き続いての晴天だったので、昼前少し早めに勇んで出掛けたのだが、あまり陽も射さず雲ばかりが目立っていた。
それでも雨や雪よりはマシなのだからと、取りあえず支流が交わる場所を目差して歩き続け、ちょうど其処で目にしたのが、10羽ほどの白鳥の群れでした。
中には、川から上がって陽で温まろうしているのか、岸辺の氷の上には、数羽の成鳥とじっと蹲る幼鳥が居てが、どちらもとても寒そうで、それにとてもひもじそうでした。
それに腹を空かしているのか、私を見つけて近寄る気配を見せますが、やはり警戒もしているようで、途中で止まってしまいます。
今年は、鳥インフルエンザの心配が大きいとのことで、川原まで行ってパンくずなどを与える人が居ないのでしょう。岸辺に下りていった足跡など残っていませんでしたから・・・。

 写真を撮り終えて戻ろうとした時に今度は、支流でも別の群れを目にしたので、再びカメラを向け撮って来ました。水温が違うのか、こちらはみんな水の中でした。
 晴の予報が、雲が多いうえにまだ真昼間なのに薄暗い、赤みがかった色は如何にも寒そう・・・

 しばらくぶりに見た白鳥はひもじそうだった。

 氷の上に蹲った幼鳥はとても寒そう・・・

 支流の幼鳥などは元気そうだ・・・

 おとなの白鳥2羽が少し離れた処で辺りを警戒していた


不整脈

2008-12-25 15:15:47 | 日々の雑記
 このようなブログは、年の瀬も詰まったこの時期には相応しくないと思ったのですが、今年の出来事として年の内に載せた方が良いだろうと思ったしだいです。それに文章も凡そ8割片、すでに書き終えていたからでした。

 それは今年5月の連休明けのことで、買物中に突然脈が狂いだしたのです。
 初めは3年ほど前にもあったことなので、そのうち以前の時のように落ち着くだろうと思いながらも、やはり心配で買物は途中でやめて家に戻りました。
 ところが前の時とは違って、夕方になっても一向に変わらないので、救急車は大げさになるからとタクシーを呼んで救急夜間センターへ駆けつけたのです。
 直ぐに心電図をとってくれたのですが、加齢には良くある不整脈だから、あまり心配すことは無いとのことでした。
 何故かその時、医師がそういう言うとおりで、昼頃からずうっと続いていた先ほどまでの症状は、まったく無くなっていたのでした。
 ところが数日経ってからのこと、前のとは明らかに違った感じの不整脈が起きたのです。今度のは、脈が途切れるときの感覚が大きく、またそれにあわせてほんの一瞬ですが、ふっと意識が遠のく感じが時おり混じるのです。
 これは加齢に伴うような簡単なものではないと、急に心配になり掛かり付けの医師に相談した。
 親身なって相談にのってくれた医師の紹介状を持って、すぐに市立病院の心臓内科へ行ったのです。
 
 その日は、心臓のレントゲンと心電図それに・・・
 ABI=動脈硬化の検査
 {超音波を対象物に当ててその反響を映像化することで、対象物の内部の状態を   非破壊的に調査することのできる画像検査法の一種}


 次は半月ほど経ってから、{ホルター=24時間心電図}を装着し、翌日ホルターを外してから、心臓のエコー検査を受けた。

 それから数日後、{RI検査=アイソトープ検査}を受けるために市立へ。
 放射性医薬品を体内に投与し、体内での分布状態、臓器に集積した状態を、体外から放射性医薬品からでる放射線(ガンマ線)を検出し画像化する画像診断法です。
 この日、10時からの予定が、途中急患が来たとかで医師が抜けたために、検査開始が大幅に遅れた。この検査には医師の付き添いが必要だったからで、終わって家に着いたら6時をまわっていた。
 
 約半月掛けて行った上記の検査の結果は、日を改めて、医師の要請もあって老妻も一緒に出掛けて聴いて来た。
 医師によれば、これまでの検査では、今すぐどうこうの心配は無いのだが、最後の手段としてカテーテル検査を勧められ、二人でよく相談するようにと言われ、返事は後日にすることで帰ってきた。
 これまでにもあちこちの病院で色々な検査をして来たとおり、やはり市立病院でもはっきりしたことは、判らなかったようです。

 このカテーテル検査方法は前々から知っていたが、事故の事例が多く報じられていただけに、生来の意気地無しの私には、もっとも怖い検査の一つでした。
 医療技術が格段と進歩している今、事故など起こる気遣いは先ずないのでしょうが、万が一と言うこともありますから、私としては出きればこのカテーテル検査だけは、出きることなら避けたかったのです。
 なぜなら、これまでの色々な検査で何も発見されなかった上に、その時は不整脈の症状は殆ど無くなり、体調元に戻りつつあったからで、私なりにあえて危険な検査は要らないと考えたわけです。
それにカテーテル検査は、病気の治療方では無くて検査なのですから、やはり不測のことが起こっての入院、そして長患いにでもなれば肉親に迷惑を掛ける事態にもなるでしょう。
 そんなことよりは、いっそのこと心筋梗塞などでの突然死の方こそが、わたしの本意とするところで、それこそはまさに{PKこと、ピンピンコロリ}に叶うものですから・・・。

 上の文章とは関係の無い写真ですが・・・

夕焼けに染まる阿寒連山=左~雌阿寒岳と右~雄阿寒岳

雌阿寒岳

雄阿寒岳


イルミネーション

2008-12-21 17:45:09 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 今年もまたクリスマスのシーズンが近づき、あちこちの住宅街や商店などで、エルミネーション点灯され始めました。
 必ずしもキリスト教の信者では無いのでしょうが、イエス・キリストの降誕を祝うお祭り行事は古くから行われて来たようです。
 ただし私らの子ども時代には、それらがあったのかどうかは、まったく覚えていません。
 それは樺太が辺境の地だったからなのでしょうか。否!アルファベットが敵国の言葉だと、全面的に禁止されていた時代だったのですから、ましてや異教徒のお祭りなどは、まったく論外でとんでもないことだったしょう。
 しかし現在では、クリスマスは国民的行事と言っても良いほどに、広く楽しまれているようです。

 わが家に子どもが生まれたころは、今のような大掛かりなイルミネーションなどまったく見られませんでしたが、こどもの居る家々ではツリー(豆電球の点滅式)を飾ったものです。
 それにしても、家の中ばかりでなく家全体をイルミネーションで飾り立てる処が年々増えており、さらにまたその豪華さも増しております。
 キリスト信者でもないのにと、今さら目くじらを立てる人も少ないでしょうから、それぞれ応分の範囲で楽しむことは、決してやぶさかでは無いと思われる昨今の年末風景です。
 適切な言葉なのか如何かはわかりませんが、これも地球グローバル化の一つなのだと思うのですが・・・。それにまたこうしたグローバル化が、果たして良いことなのかどうかは、田舎ジジイにはかり知れないことです。
 一本によれば、東北地方の農民の間で古くから延々と伝えられている豊作祈願の神事、黒川能を見物に訪れている外国人が多いとか、これも地球グローバルかの一つとして、平和の一因に繋がるのかも知れません。 
 こうしたクリスマスを行うことで、楽しむことが出きるのなら、クリスマスに限らず世界の各宗教のお祭りを、みんなで広げてゆけば、今のテロによる殺傷や宗教がらみの戦争が少なくなって、より平和になれるのではないかと、つくづく思うこの頃です。 

 以上、田舎ジジイの愚にも付かない戯言でした。

下のイルミネーションの写真は、孫の家のある住宅街で毎年のように見かけるものです。

同上

同上

窓ガラス越し見える点滅式ツリーが、とても懐かしくて・・・


シシャモ(柳葉魚)

2008-12-16 18:16:01 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 今年の初雪は12月の11日だった。それまでは、とても有難いことに晴れた人曇り日が重なり、時には雨のこともあったが、雪の心配はなくてまったく珍しい12月の上旬でした。
 いつもの外歩きは、雨さえ降っていなければ毎日のように出掛けていたが、たまには手袋が要らないほどの、とても12月とは思えぬ暖かい日もありました。
 この時季、外出時にはたいていは帽子・コートは欠かせないのだが、その日はそのように暖かい日だったので、帽子は外していつもより長めにぶらぶら歩きを続けました。
 そして鶴見橋の下を通り過ぎ辺りで、対岸の川原に設けられたテントを目にしたのです。
 そのテントの前には磯舟が繋がれていて、その周りには数人の人たちが忙しげに動いていたのです。
 直ぐに、これはシシャモの人工孵化事業のための捕獲中だと知った。もうそんな時季になったのである。
 先ほどらいから、川面のゴメたちがいつもより騒がしく飛び交っていたのは、産卵のために遡上するシシャモを狙っての行動だったのでした。
 川面にはゴメの群れが幾つもできていて、突然舞い上がる群れがあると、それにつられて他の群れもいっせいに飛び立って、さらに騒がしさが増してゆきます。
 その群れの中には頭から激しく川に突っ込むのもいました。それを上空で見ていたトンビが、素早く降下してゴメの群れに突っ込み、ときにはゴメに襲いかかってゆくのです。
 その様子を立ちどまってしばらく見ていましたが、鳥たちの空中戦はなかなかの見物で、飽きが来ませんでした。

 そんな鳥たちを見ながら、またしても想うのは樺太でのこと、父と会社のトラックを使って行ったシシャモ獲りのことだった。シシャモの習性は良く知りませが、樺太のシシャモは北海道のとは違って産卵は春先の明け方、場所も川では無くて海岸近く砂浜です。
 また鰊の群来(クキ)は凄まじいですが、鰊よりずうっと小さいシシャモの群来も、けっして見劣りしません。
 シシャモの大群が、波に乗って岸辺に打ち寄せてくると、胴長を履き手にたも網や旗竿に仕掛けた手製の網を手にした大人たちが、一斉に海に入って掬いとるのです。  
 無事に産卵は終えたものの、返る波に置いて行かれたシシャモが砂の上でぴちぴち跳ねているのを、素早く拾い集めるのが子どもの私の役目なのです。

 親父たちが徹夜で獲って来たシシャモの処理は、いったいに何処の家でも女の仕事で、我が家でもおふくろの役目でした。
 水洗いしたシシャモをヨモギの茎に刺してから、家の裏の物干し竿に吊るして天日で干すのですが、これがけっこう大変な仕事だったので、私も家に居るときは手伝いをしたものです。
 このときおふくろは手を休めることなく、色々な昔の話などを良く聞かせてくれものでした。
 その中にシシャモの名前にまつわる話があって、シシャモが出まわる時季がくると、家の裏のすだれ状に干した大量のシシャモと、その話を一緒に想い出すのです。

 シシャモの名前の謂われは・・・アイヌ伝説によると、ある年のこと、大飢饉で飢えに苦しんでいたアイヌの人たちを哀れんだ神様が、 柳の葉を流したところ、その葉がシシャモとなった。
 アイヌの人たちが、神からの授かりもののそのシシャモを食べて、飢えから救われたことから、その魚の名前はシシャモ(柳葉魚)のと名付けられたと云うことです。
 ところが、私が子どもの頃におふくろから聞いた話は、まったく別もので、次のとおりです。
 江戸時代の昔、アイヌの人たちは、商い相手の和人(当時の日本人)のことを、{シャム}と呼んでいたのだそうです。
 ある時、アイヌの人たちに食事のもてなしを受けた折に出された魚があまりにもおいしかったので、その魚の名前を訊ねたところ、突然のことで返答に窮したアイヌの奥さんが、その時和人の顔を見ながらとっさに口にしたのが、{シャモ}と言う言葉だったのだそうです。
 それ以来この魚は、日本人の間でシシャモと呼ばれ、広く伝わっていったということです。
 おふくろから聴いた話が、たとえ間違って伝えられたものであったとしても、私は本当のことだと信じています。
 なぜって・・・おふくろが嘘の話をわざわざ作ってまでして、私に聴かせる筈が無いからです。
 
 また樺太シシャモは味が落ちるとか、北海道のものとは別物だと言うようですが、北欧物ならともかく、北海道とは直ぐ近くの海域でそれも同じ海流で育っているのですから、その味にあまり隔たりは無いはずだとおもいます。
 現に樺太で食べたシシャモの一夜干しの味は、北海道に来てもうかれこれ50年余になりますが、いまだ一度たりとも味わったことはありません。
 きっとこれらのことは、釧路産・白糠産・鵡川産だとかと自慢しあうのは、悪意などではなくて、それぞれお互い郷土愛から出たものに違いありません。
 何はともあれシシャモの一夜干しの美味さは別格です。しかしこれは今どきのスーパーなどでは、獲れたてのシシャモなど売られておりませんから、夜陰にまぎれての密漁か、直接の猟師さんかその関係者などに限られるでしょう。
 それにしても、取れたての一夜干しの味は、本当に別格です。
 
 なおこの簾状に干されているシシャモの写真は、{北海道四季工房}から無断で拝借したものです。四季工房さん、ご容赦ください。

シシャモの遡上に興奮して激しく飛び交うゴメたち

上空でゴメたちの動きを窺っているトンビ

ゴメの群れに突っ込んでゆくトンビ


門灯

2008-12-12 21:01:16 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 
 日の暮れるのが早くなってからことなのですが、住宅街が前に比べて意外に薄暗いと感じました。
 それは家々の門灯が点けられていないのと、市の財政逼迫から街灯の数が減らされたからかも知れません。
 どうやら石油の高騰が始まってからの現象のようで、以前はもっと明るかった筈です。節約のための市の施策であれば止む得ないことだと思うのですが、繁華街はともかく、郊外の人家の少ない場所での街灯は、年々増えている婦女子暴行事件、相手かまわぬ突発的な通り魔事件の防止からも、直ぐにおいそれとは納得しかねる面も少なくありません。

 そんななかで、近くの家の門灯が日暮れになるといち早く点いていることに、最近気付いたのです。
 初めは、勤めから帰るご主人のためとか、外出中の家人のためだろうと思っていたのでした。
 もともと門灯は、防犯のほかに住む人やお客様を出迎え、また門に付随するインターフォンや表札が夜でも判別できるための明かりとされています。

 ところがそこの家には老夫婦だけだということですから、夜間のお客さんがそうそうあるわけでもなく、また帰って来る家人なども考えられませんので、これは通行人のための心遣いであると知ったのです。

 極端な言い方をすれば、とかく今の世の中のならいからすると、出す物なら舌さえも出したくないと云うほどの世知辛さです。
 そんな世知辛さの中でこんな感心な住人が、直ぐ近くに住んでいたのだと思うと、何かほのぼのとした温かいものを感じました。
 私たち夫婦はいつも周りの人たちのお世話になっているので、少しでもそのお返しを兼ねて、またせめてものお手伝いをしようと思い立ち、さっそく門灯を点けることにしたのです。
 ただしあの家では9時頃まで点けているようですが、そこまでは出来かねますので、7時までとしました。
 何故なら、この時刻が過ぎたなら、灯りを必要とする帰宅途中の学生さんたちは、もう殆ど居ないでしょうから・・・。

 余談ですが、戦後の樺太での真っ暗闇の田舎道で、とても怖い思いをしたことがあります。
 当時まだ小学生だった私と弟は、6里(24キロ)ほどのところに住んでいた伯母の家に、泊りがけで行くのが一番の楽しみでした。
 それは、その頃伯母の家の家業は半農半漁でしたので、いつも農作物や加工した魚類が蓄えられていました。男の子が居なかったからか、伯母の家ではいつも私たちを歓迎し、腹いっぱいに食べさせてくれました。
 戦後の子どもたちは、日々常に飢えていましたから、戦後乗り合いバスが無くなった後、歩いて行く伯母の家までの6里もの道のりなんて、苦労だなどとは少しも思わなかったのでした。
 
 その日は、いつもどおりに土曜日の午後出かけたのですが、途中の国道の山道で木の実採り夢中になり、時間を忘れてしまったのです。
 すっかり慌てた私と弟は半ば小走り状態で進みましたが、途中人家の途切れた辺りで、意外にも秋の陽は速く落ちて真っ暗になってしまいました。
 心細さと怖さとで二人はもう半泣き状態でしたが、お互い手を取り合って夢中で駆け出したのです。
 やがて町の入り口にあたる農家の灯りで、ようやくホットしました。それは電灯でなくてランプの小さな灯りでしたが、その時の私たちにとっては、まさに救いの神のように有難いものでした。

 住宅街でたった一つ点いている門灯を見遣りながら、そんな昔の一こまを想い出す一時でした。

下の写真はブログの題材には関係ありませんが、この時季あまりの鮮やかに惹かれて撮ったものです。

もう初雪があっても良いほどの12月上旬半ば、道路脇の小さな花壇で咲いていた葉牡丹

同上(1)

同上(2)

同上(3)


夕焼け

2008-12-08 17:40:35 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 釧路の夕焼けは{日本一}であると、街の人たちは前からよく自慢していますが、
確かにそう思います。
 道内のほかのところはほとんど知らないので、とやかく云うのは憚られますが、とにかく釧路の幣舞橋から見る夕焼けには、まったく言葉は要りません。
 幣舞橋 ※ この写真は、釧路市のホームページのものです。    
 ただただわれを忘れて見入ってしまいます。とは云うものの、この幣舞橋からの夕やかけは、これまでにたったの一度きりのことです。 

 それは所用で南大通りへ行っての帰りのことで、一瞬どうしようかと迷ったのですが、こんな素晴らしい光景に出合えるのはめったに無いことと、直ぐさま橋の袂の駐車場を入れて橋に戻ったのです。
 このとき写真を撮って置けば良かったなどと、それは今になって想うことですが、そのころはブログおろかパソコンさえ知らず、またデジカメなんて物もまったく考えられない時代でした。 

 そしてその後ブログを始めてからは、花の季節が済んだ後夕焼けを追いかけて、出歩くようになりました。
 もちろん幣舞橋からや米町公園からの夕焼けが、一番の目当てだったのですが、体力と視力の問題から、主に近場の河畔をぶらついて居るわけです。 
 川面に映える夕焼けもまんざら捨てたものではなく、それなりに気に入っているわけで、窓から眺める空が茜色に染まり始めると、家にじっとして居られません。
しかし午後からは、あまり身体を動かせなくなりますので、車が停まって居られる場所に限られます。
 それで家の近くの堤防とか、もう少し川上の河畔の駐車場に向かうのですが、
道路が混んでいる時には日没に間に合わず、無駄足となりがっかりしてもどることも少なくありません。
 ですから、それぞれ年度の違いはあっても、写す場所がだいたい同じですから、似たりよったりの写真になってしまいます。

 それにしても夕焼けは、どうしてこんなに人を惹きつけるのでしょうか。
夕焼けのあの茜色には、感動を与えるような不思議な力、言葉では表せない何かが在るのでしょうね。
 早めに家を出た時には、そんなことに色々と想いをめぐらしながら、夕焼けが始まるのを、車内でじっと待つこともあるのです。

家の二階の部屋から見た夕焼け

同じく家の居間から

仁々志別川の堤防道路から日本製紙工場上空

新釧路川の左岸鶴見橋の川上から

上と同じく鳥取橋下の左岸から

先日の三日月・金星・木星の天体ショー


秋の雲のさまざま 

2008-12-05 17:29:40 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
               おうい雲よ
             ゆうゆうと
             馬鹿にのんきさうぢゃないか
             どこまでゆくんだ
             ずっと岩城平の方までゆくんか


 これは、明治大正時代の文学者山村暮鳥の詩ですが、夜間高校時代の教科書の載っていた詩で、ちょっと様子の違った雲を見るたびに、何となく想い出してしまうのです。

 雲は大気中の水分が固まったもので、雨・雪・霧などの元であると云ってしまえば、確かにそれはそれで正しいのでしょうが、それでは夢も情緒も無いまったくもって寂しい限りです。
 この世知辛い世の中、せめてひと時子ども心に返って、さまざまに形を変える雲を眺めながら、いろいろと想いを凝らすのはかっこうな癒しでもあり、また楽しいことでは無いでしょうか。
 {ひつじ雲}は、その名のとおり草原に群れる羊を、また{いわし雲}は小魚の大群を、むくむくと天を指して頭をもたげる積乱雲は、まさに迫力満点の大入道そのもの想わせます。
 ただし雲への想いは、その人それぞれですから、余計面白い物になるのではないかとおもわれます。
 
 さて、私が知っている雲の名前は、だいたい巻雲・積雲・積乱雲くらいのものですが、いわし雲・ひつじ雲・うろこ雲などは、どの部類に入るのかは、詳しく分かりません。
 ただ雷雲と入道雲は、積雲または積乱雲の類だと知るのみです。

 まさに小春日和のひと時、青空に形さまざまに変わってゆく雲を眺めながら,想像を膨らませていると、しばし憂さも疲れも忘れてしまいます。
そのうえ肝心の歩きさえも・・・たまにはそれでも・・・まぁいいっかー。      

秋の雲・一 

秋の雲・二

秋の雲・三

秋の雲・四

秋の雲・五


雌阿寒岳

2008-12-02 17:38:17 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 雌阿寒岳との初めての出合いは、夜間高校時代の修学旅行の時でしたから、もうかれこれ50数年前のことになります。
 高校生の修学旅行と言えば、当時は関西方面が一般的でしたが、働きながらの夜学生ですから、時間やお金の関係であまり遠くえは行けません。
 せいぜい道内の観光地が対象となった末に、大自然が多く残っているところとして、阿寒湖国立公園行きが決まったのでした。
 その修学旅行で一番に私を惹きつけたのは、この時初めて見た雌阿寒岳で、その雄姿にすっかり魅せられてしまったのです。
 それは一時期傾注していた啄木の短歌

     ※ {神のごと遠く姿をあらはせる阿寒の山の雪のあけぼの} 
 
 を、その時突然想い出して、イメージが増幅されたからでもありましょう。
 
 もともと樺太生まれで、間宮海峡の潮騒を子守歌として育った私ですから、海に憧れて当然の筈ですが、その海との縁は生後僅か数年で途切れてしまいました。
 父が炭鉱に就職したからなので、それ以来山深い炭鉱町で育ち、さらに引揚げ後もまた道央の炭鉱町で、20年ほど過ごしたのでした。
 ですから、山の端から昇る朝日を、そしてまた山の端に沈む夕日を眺めながらの日々でしたので、いつの間にか山の存在などは当たり前で、何とも思わなくなってしまったのです。
 ところが、修学旅行で見た雌阿寒岳の姿は、鮮やかに脳裏に焼きついたままで、その後何年経っても忘れることはありませんでした。
 そしてエネルギー革命による炭鉱閉山に伴い、釧路市に移り住むことになったのです。
 釧路市は、両親が青春を過ごし結婚したところなのですが、図らずも雌阿寒岳へのおもいが叶い、また両親が過ごしていた街で、わが生涯を終えることとなったのは、まさに願ったり叶ったりのことでした。
 なお雌阿寒岳は、先年の合併したことにより釧路市のシンボルとしてこれから、この先もずうっと在りつづけるだろうから、朝な夕なに眺めながら生涯を終えることが出来そうです。
 おそらくこの街が、私の終の棲家となるでしょうから・・・。

 一度夕焼けに染まる雌阿寒岳を撮りたいと思っているのですが、体調のこともあってなかなか実現していません。

昭和町の住宅街の外れから望む雌阿寒岳・先日小噴火した噴煙が・・・

自転車道路{湿原夢ロード}からの雌阿寒岳

上と同じ{夢ロード}をジョキングする若者たち

{湿原の風アリーナ釧路}の横からの雌阿寒岳