昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

吹奏楽と孫娘

2005-07-31 13:42:59 | 日々の雑記
 この度市の吹奏楽連盟主催による、第42回釧路地区の「吹奏楽コンクール」が二日に亘って文化会館で行われた。
 今年初孫が入学した高校も出場することになった。ところが両親が突然の所用で行けなくなり、そのビデオ録画係りとしての役目が私たちに廻って来た。
 折からの雨でウォーキングにも出掛けられず、クサクサしていたから「渡りに舟」とばかりに引き受けた。
 デジタルビデオカメラは暫らく使わずにしまい込んでいたので、早速くに充電を始め、更にテープの取替えとカメラの点検などを済ませた。予め孫の学校の出演予定時間が教えられていたので、それまでに準備万端を整えてから老妻と出かけた。

 愈々孫達の出番だった。暗転の舞台が一転して演奏が始まった。一年生ながらも物怖じした風も無く、堂々と楽器を抱えて演奏している孫を見ていて思わず胸がジィーンと熱くなり、また目頭が潤んで来るのを覚えた。
 
 思えばこれまでの年月が長いようで、またあっと言う間のことでもあって、初孫が誕生した頃の事が脳裡に浮かんで来た。世間では「孫は子よりも可愛いい」と良く言われているが、それまでは同僚などが孫にメロメロになっている様子を見るたびに何かと冷やかしていたのだったが、いざ己が実際にその立場に立つと、正に天と地との違いで態度が一変した。
 とにかく可愛いいのである。何もかも理屈無しに無条件に可愛いて仕方が無いのである。「自分の子どもと違って責任が無いからだ・・・」とも云うが、ぐずつきむずかり泣き出したら、「親・・・親!」と両親に渡せば事は簡単に済んでしまうから、ジジババの行動は至って暢気で無責任でもある。 それまではこれと言った理由も無く娘の家には余り行かなかったが、孫が出来てからは娘達の事は一切合切気にならなくなった。多少の事は全てパス・・・毎日ように孫を抱きに出かけたものである。その孫が高校生になった今でもその思いは全く変わらない。
 コンクールの結果なんかは一切関係なく、ただただ孫の晴れ姿が見られただけで、老夫婦にとっては充分に満足だった。後は編集してビデオなりDVDにする作業もまた楽しからずやである。
            孫の高校の演奏場面
 

台風後の湿原

2005-07-29 21:20:09 | 日々の雑記
 この度千葉県房総半島に初上陸した七号台風は、道東沖をかすめやがて熱帯性低気圧として去って行った。道内では離島への航空便の欠航や、道路の決壊による交通止め箇所が多少在ったものの、幸い人的な被害は無かった。
 台風が去った日は朝の内こそ青空が窓ガラスの映えていたが、日中になるにつれて雲が覆い始め、その後は照ったり曇ったりですっきりせず、依然として雨が心配される天候だった。当然ウォーキングなどは無理と思われた。しかしそんな思惑は大きく外れてその後の天候は全くの快晴で過ぎた。こんなに晴れるのなら、思い切ってウォーキングに出掛ければ良かった。
 雨が心配で日がなテレビやパソコンでゴロゴロ過ごした事は、一体全体何だったかと我ながらアホらしく感じた。

 明けての今日(29日)の予報には、午後から雨マーク出ていた。台風などでこの三日間ほどウォーキングを休んでいたので、今日は是非とも歩こうと何時もよりはかなり早目に家を出た。家の中からでは余り目立たなかった雲が戸外に出ると空の半面を覆っていた。一瞬雨が脳裡を掠めたが・・・ママよとばかりに車を出して、朝の内に老妻と今日のコースと決めていた湿原道路に向かった。

 向かった先の湿原は台風前とは少しも変わらず緑一色、その中にオオハナウドの白い花だけが目立っていた。また野面を飛び交う小鳥達の囀りもまことに長閑であった。
さほど暑くも無く、時折り野面を渡って来る風に背を押されて進む足どりは軽く、予定の距離を大幅に延ばし、何時に無く気持ちの良いウォーキングとなった。
※・途中で見付けた青紫の花は、パソコンで検索した結果「クサフジ」と分かった。
 
※・形はエゾノコギリソウと全く同じなのだが、花の色が薄いピンクなので迷った。やはり検索の結果「キタノコギリソウ」と云う種類と分かった。

※・やはりパソコンでの検索の結果「あざみ」の種類と分かった。



台風が来る!

2005-07-27 20:15:12 | 日々の雑記
 千葉県房総半島に今年初上陸の7号台風は、その後三陸沖を北西に進んでいる模様である。夕刊によれば今夜には釧路市の南東海上に達する見込みで、明朝までの総雨量が100~150ミリに達し、更に最大風速は15~20メートル達する見込みとあった。
 
 地震銀座と呼ばれているこの地域では、震度が5度強ならばともかく年に何度も起る地震には慣れっこで余り驚かないが、こと台風となれば日頃から余り縁が無いだけに全く勝手が違って戸惑ってしまう。

 市内に降った雨は昨夜から未明にかけてはかなり激しかったが、夜が明けてからはそれ程でもなく、むしろ普通の降り方で一日中ダラダラと降り続いている。風も未明の方が強かったようで、隣家の軒下の自転車が倒れていた。その風も今朝からは雨同様に、台風の前触れらしさも少しも見られず、裏庭のモミジやシャクナゲが時折り激しく揺れている事で漸く気付く程度である。台風に対する危機感は削がれ、案外台風はもう既に過ぎ去ったのでは無いかとの安堵感さえ抱いてしまう。
 しかし国道や峠の一部に崖崩れなどが多数発生し交通止めのされたとか、離島への航空便が欠航になったニュースに再び危機感を抱き、NHKから各民放の気象情報を何度も見入る始末である。
 とにかく何事も無く過ぎ去って呉れるのを祈るのみであり、今度の台風で不幸にも亡くなられた方へのご冥福と、被害を受けられた地域の皆さんに心からお見舞いを申し上げる次第です。

 またその後のニュースで神奈川県横須賀海岸の岩場に鯨が打ち上げられたとあったが、これもこの度の台風の犠牲なのか・・・痛ましい限りである。
 
 明日の台風が心配で昨日の内に撮って置いたエリモシャクナゲ

 ※・他に蕾が多く有るのに何故か一個だけが咲いていた。


 



バラが咲いた!

2005-07-25 18:07:44 | 日々の雑記
 ※・復活したバラの花
 
 我が家の庭のバラが、何と10年ぶりに復活した。もとより猫の額ほどの庭に、当時は何の考えも無しに色々な草木を植え、更に加齢とともに手入れも滞りがちとなった今では、もう正に見るも無残な荒れ方である。
 しかしそんな環境の中でも庭の草木たちは、年毎に出来不出来はあるものの、年々歳々健気にもまた律儀に花を咲かせて、全く甲斐性の無い老人の眼を楽しませて呉れて来た。今年はスズランとエゾムラサキツツジの当たり年だった。

 このバラは家に来た10年前頃は毎年華やかに花を咲かせて居たのだが、その後の放ったらしの所為か年々花の数が減って行き、気付いた時にはその後に増えた他の草花の勢いに押されて殆ど眼に付かなくなっていた。その上アブラムシにも取り付かれて仕舞ったので、かなり伸びていた枝葉を切りはらって幹だけを残して置いた。そして何時の間にかその存在さえも忘れていた。
 ところがである今年のこと雑草の陰に赤いものを見つけた。伸びきった雑草を取り除くと、何時の間にか枝葉を伸ばしたバラの蕾が5つ6つ色付いていた。
 こうなると現金なもので、今まで気にもせず打っ棄って置いて事は、まるで他人事のように態度は一変、周りの雑草を取り除き更に枝を支える支柱(トレリス)を買って来るほどの気の入れようである。
「あんたも現金ね・・・」の老妻の冷やかしに、私はただただ苦笑するのみであった。

 ※・釧路市の木「ハシドイ」

 このハシドイは釧路市釧路市の指定木で、ライラックと同じモクセイ科で、因にライラックは「ムラサキハシドイ」とも呼ばれている。またハシドイは別名は「ドスナラ」で楢の木の仲間でもある。
 このハシドイは家の新築当時に貰って来たもので、もうかれこれ35年ほどにもなり幹の太さは20センチを超え、高さも電線に届くまで伸びている。もう既に庭木の枠を超えて森の大木並みの大きさである。
 花の香りはライラックより優れており、その馥郁とした香りは辺り一
に立ち込め、道行く多くの人々を魅了するほどである。ただし困ることも有って先ずその一つが花の盛りが過ぎて散る時である。桜などの場合はその散り際には言葉に尽くせぬ風情があって喜ばれるが、この花の場合はまるで雪が降るように、辺りいっぱいに散らかる。我が家の前だけで済むのならまだしも、隣近所にまで飛び散って行くからこの上なく気になって仕方が無い。二つ目は秋の落ち葉時であって、この時の悩みと近所への気兼ねは花の散り際と全く同じである。

        この度復活した我が家のバラの花
 
              同上
  
          二階から撮った釧路市の指定木「ハシドイ」
   
         まるで雪が降ったよう・・・
  

 

 

想い出のスクーリング・Ⅵ・

2005-07-23 20:38:08 | じゃこしか爺さんの想い出話
  Ⅴ・帰省
スクーリングの各教科を締めくくる最終試験は、第二外国語を落としたのみで、後の教科はギリギリながらも及第点を確保して全教科の試験を終えた。
いざ帰省の段となると帰心矢の如しで、あれほど楽しんでいた東京生活はまるで嘘のように色褪せていた。それぞれの下宿人たちは修了式の後直ぐにでも帰省の途に付けるようにと、荷造りなどに朝食もそこそこに取り掛かっていた。
荷造った荷物の内手荷物意外の夜具などは、登校前に高田馬場駅からチッキでそれぞれの郷里に送る手はずとしていた。
仲間との別れは学内でするのは無理なので、荷造りの終わった時点で食堂に集まり、仲間六人の世話役S君の音頭でお互い手を取り合って、それぞれの別れの言葉を交し合った。
学内での解散式を無事に終えた私はただ一人、東北線に乗るべく上野駅へ向かった。東北線のホームには夕方六時発の青森行き夜行列車の乗客で溢れていた。
無事に乗車が出来るか如何かとても心配だったが、発車間際に何とか乗り込む事が出来た。しかし座席など取れる訳も無く、また床に座り込むまでの余裕の無いほどの混みようだったから、結局立ったままで夜を明かす破目となった。仙台に到着してようやく席を確保することが出来た。

 ※・終章・・・決断

帰省後職場に戻った私を待っていたものは、連日の早出残業でも追い付かないの量の業務だった。その頃の私の職場は三菱砿業を代表する程の炭砿事業所の厚生課で、いわば事業所従業員の生活物資の販売所で一般的には配給所と呼ばれていた。この配給所は集落毎に設けられていて、その集落名で「○○配給所」と呼ばれ、事業所全体で大小合わせて十三ほど在ったと思う。
私たち職場は他の事業所従業員などが浮かれて遊ぶ、お祭りやお盆などの休暇は短縮され、年末もギリギリ大晦日まで勤務させられた。この事は病院と同じで労働争議などでのストライキからも、保安要員として参加を免除されていた。ちょうどスクーリングの期間が、年間で年末に次ぐ繁忙期のお盆の前後だっただけに、その日一日処理出来なかった未処理伝票が繰越されて山となっていたのだ。
当然私だけで済ませる仕事では無かったが、昨年までの夜間高校と今回のスクーリングでも、多くの同僚に迷惑を掛けて来た手前も有っので、一人でこなすには多少無理とは判っていたが、私一人で引き受けることにした。
そんなことが重なり、各科目のレポート提出期限が大幅にずれて仕舞い、どう足掻いても追い付かないほどに貯まった、その上に学業に対する自分自身の能力にも限界を感じ始めていた矢先だったので、これが潮時と諦め通信教育そのものを辞めることを決断した。そろそろ年末繁忙期に差し掛かる頃でもう直ぐ早出残業日々が始まろうとしていた。
スクーリングを振り返ってみると、良い友人にも恵まれ正に「良く学び!よく遊んだ!」充実した六週間であったと満足している。


                                 ・・・終・・・



想い出のスクーリング・Ⅴ・学外体験より(大島旅行)

2005-07-22 17:42:59 | じゃこしか爺さんの想い出話
  (4)大島旅行 
 
 これもまたS君の持って来た計画である。八月の二十日過ぎのことで、最終試験対策に追われていた頃だった。S君の云うには今度の土曜日曜は授業が連休になるので、それを利用して大島へ出かけようとのことだった。
 何でもスクーリング学生を相手の旅行計画とのことであった。試験準備も確かに大事なものであったが、大島旅行などはその当時の私にとっては正に夢のような話で、この機会を逃すことは一大事でもあった。試験の準備は何とかなるだろうと、楽観的な雰囲気が皆を支配して旅行への参加を決めた。
 当日の夕方私たちは浜松町駅で降りて、其処からは徒歩で東京港竹芝桟橋まで歩き乗船した。船内の至る所は乗客で混雑していた。横になって寝るなどとは全く論外であった。旅行の目的どおりに乗客の殆どは若者で占められ、島へ帰る住人と見られる者は少なかった。
 社交家のS君は混み合う船内の男女学生と思われる中を縫うように歩き回り、色々は情報を持ち帰ってきては、私たち仲間が退屈しないように絶えず気遣って呉れていた。
結局はその夜は誰もが寝ずのまま船内で過ごした。朝早く上陸した一行の大半は大島への登山に従った。当然私らも参加したのだが、眠らなかった疲れと暑さで到底従いて行けず途中で断念し、一行から離れて途中下山した。
 その後私たちは特に親しい三人で島内の、徒歩で行ける彼方此方をみて回った。「鎮西八郎為朝の館跡」を見てから、更に歌でも名高い「波浮港」へにも足を運んだ。
歌の内容に似つかわしい、鄙びて趣きのある風景に声も無くただ見入るばかりだった。

 ♪ 波浮港
   磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
   波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
   明日(アス)の日和(ヒヨリ)はヤレホンニサ なぎるやら


               波浮港を望む
          

 波浮の港から再び島の中心に戻った私たちは、観光モデルをしている一人のアンコさんと知り合った。当然三人とも名物の「椿油」を見事に買わされていたことは言うまでも無い。特に三人の内で室蘭出身のM 君がすっかり熱を上げてしまい、文通までの約束を取り付けていたが、それ以後のことは、最終試験とか帰省の準備に追われて、知る由も無かった。 

           島のアンコさんと
            
                    
 他にも二重橋や神宮外苑、そして名曲喫茶などには何か事ある度に、S君の誘いに応じて積極的に出掛けていた。

  
  ※・続く・・・ 






 



想い出スクーリング・Ⅳ・・・学外体験(1)

2005-07-21 17:25:45 | じゃこしか爺さんの想い出話
 Ⅳ・学外体験より(1)
 
 私たち仲間六人の学外下宿外での行動範囲は東京に慣れるに従って広がっていった。その学外行動の中心に居たのが札幌出身のS君で、私たちが在京中に体験したものの殆どは彼の提案によるものだった。


(1)・ビール工場見学

 これは仲間六人のリーダー的存在S君の発案であった。とにかく彼は誰よりも社交家で活動的、そして世話好きであった。絶えず私たち仲間のために何かを目論んでいた。彼は或る日恵比寿の「エビスビール」の工場見学を計画して連れて行ってくれた。彼が東京に来て得た人脈の紹介によるものだった。見学の後に振舞われた冷たい生ビールは彼のお蔭であり、それは夏の暑いさ中の一服の清涼剤であった。

(2)・日比谷野外音楽堂

 或る日の夕食直後のことで、まだ勉強への意欲が湧かない時間帯であった。彼の発案で急遽日比谷の野外音楽堂へ出掛ける事になった。私のクラシック音楽への関心は、この度一緒に上京した夜学時代の友人の影響もあり、更にその後ラジオ番組の「音楽の泉」で次第に身に入りつつあった時代である。それに生のコンサートは初めてのことであったから、誰よりも早く彼に賛同した。それで結局仲間の全員が、勉強前の腹ごなしを兼ねて出掛けることになった。
音楽堂に着いた時にはまだ早く観客も疎らであった。私たちは物珍しさから、その辺りを見物に走り回り、肝心のコンサートが開かれてからは、暑さと疲れで演奏の中ほどは寝入ってしまった。
余り定かに記憶していないが、確かに「朝比奈 隆」指揮の「ベートーヴェンの第五」であった筈である。この指揮者は後年勤務地の炭砿事業所の娯楽会館に来て、演奏会の指揮をした事があった。確か夏の繁忙期だったが、とても懐かしく思えて、仕事の遣り繰りをして妻と駆けつけたものだった。

(3)・江ノ島へ

 またまたS君の計画で、朝食後彼から言い出されたことで、今日は土曜日で午後の授業は無いから、学校から真っ直ぐ江ノ島見物に行こうかとのことだった。
江ノ島のことは名前だけは良く知っている景勝地で、私たち道産子(
ドサンコ)には魅力充分な場所である。みんなの意見は一も二も無く賛成であった。その日の一時半丁度に新宿駅に集合して、小田急線に乗り込みその終点で降りた。後は海辺まで歩き海水浴場などを眺めながら橋を渡って島に到着した。島全体がお土産品売り場で占められていた。呼び込みの声の多さに圧倒されながらも「そこの慶応の学生さん・・・特に安くしますよ」の声に釣られて、小ぶりの店に入ってしまった。私が被っていた丸帽が標的にされたわけである。貝殻細工の多い土産品の中から、妻へのお土産として可愛いらしい花瓶を買った。結局お土産を買わされたのは帽子を被っていた私だけであった。これもここに来た記念であろうと満足していた。

                   江ノ島を望む 
            


  ※・続く・・・










スクーリング・Ⅲ・・・大学で

2005-07-20 17:28:47 | じゃこしか爺さんの想い出話
 Ⅲ・大学で
入学式の日には小躍りする思いで下宿屋を出た。山手線を新宿から田町まで行き、勝手知った仲間の後に従いて、店とか住宅の小路を抜けて校門に辿り着いた。やや緩い坂を上ると、其処に所謂「幻の門」と呼ばれている門があった。
 
           友と「幻の門」を出る
      
           福沢諭吉翁の胸像の前で友と
        

門の中に入って、建物の大きさと敷地の広さに度肝を抜かれた。何しろ大きな学校で知っている処と云えば、現在自分が住んでいる市の高校が関の山であったから、見るのも聞くのも全てが初めて目にするものばかりであった。その驚きは教室でも同じだった。大きな黒板が上下に二枚あって、教授が次々と書き入れて説明を加えて行く。それをノートに書き取る作業だけでも大変で、説明の方は到底間の合わず頭の上を素通り状態だった。
一番期待していた音楽の授業は、当時NHKの日曜日朝の音楽番組「音楽の泉」の解説者の村田武雄教授だった。期待通りで皆がグチルような眠気は少しも感じず、毎回楽しくて仕方がなかった。

(1)塾歌の練習

 簡単な昼食を食堂(学食)で済ませた後は自由に過ごせたが、私たち仲間は職
の呼び掛けに応じて、塾歌・応援歌の練習に参加した。
場所は敷地内の一画にあって、芝生に覆われた小高い丘で行われた。
歌の練習は雨で無ければ毎日のように行われ、常に五十人ほどが参加した。

※・塾歌「見よ風に鳴る」
   
    見よ風に鳴るわが旗を新潮寄するあかつきの
     嵐の中にはためきて文化の護りたからかに
     貫き樹てし誇りあり樹てんかな この旗を
     強く雄々しく樹てんかな
     あゝ わが義塾慶應 慶應 慶應


 ※・応援歌「若き血」

    若き血に燃ゆる者光輝みてる我等
     希望の明星仰ぎて此処に勝利に進む我が力常に新し
     見よ 精鋭の集う処烈日の意気高らかに
     遮る雲なきを慶應 慶應陸の王者 慶應


これまでに大学野球の放送でうろ覚えに知っていたこの応援歌は、この場で完全に覚えた。更に「塾歌」と「丘の上」などもこの丘で覚えた。


 ※・勝利の歌「丘の上」
       
    丘の上には空が青いよ
      ぎんなんに鳥は歌うよ歌うよ
      ああ美しい我等の庭に
      知識の花を摘みとろう

 
 以後気落ちの時も昂揚の場合にも、皆で声高らかに歌って励みとした。

(2)慶大グッズの店

まぼろしの門を出て坂を下りきった道路向かいに、慶応大学のグッズ専門店があった。登校にも少し慣れた頃、一人でその店に入ってみた。面食らうほどの品数の中から、角帽ならぬ慶大特有の丸帽子とバックル・手拭い・ペナントを買った。バックルはその場で取替えた。また丸帽は学内などでは流石に照れくさいので、大学以外の外出時に被るようにした。更に手拭いは常時腰に提げて汗拭きなどに使い、ペナントは帰省してから家の壁に貼って置いた。


(3)北海道弁「冷房病」

暑さから逃れる為に良く移用したのが、田町駅前に開店した「ペコちゃんのフジヤ」の喫茶店である。午後からの授業の時には登校前と下校時に仲間と駄弁っていた。それが度重なった所為か、私だけが冷房病にやられた。とにかく熱っぽくて頭が重い、その上身体がだるかった。
授業中に特に酷くなって我慢がならず、仲間のすすめで医務室へ出向いた。応対に出たまだ若い職員「どうかしましたか・・・?」との問い「身体がコワクテコワクテ」と返した私の言葉が通じなかった。私には普通の言葉だと信じていた「コワイ」とは実は北海道弁で、「怖い」のことでは無くいわゆる身体などが「だるい又はかったるい」時に使う言葉だった。それを東京人の事務職員を相手に使ったのだから、通じなくて当り前、また何のことか解らなくて当然だったのである。
その時傍らにいた初老の女医さんが笑いながら近寄って来て「あんた北海道からの学生さんでしょう。こちらへおいでなさい」と私を診察室へ連れて行き、聴音器で診察を始めた。「やはりクーラーのあたり過ぎよ、このところ多いのよ」と注射を係りの看護婦に言いつけ、更に下校時刻まで医務室で休んで行くよう告げて部屋を出て行った。
注射が効いたのか、夕方近くまでグッスリと眠ってしまった。身体のだるさなどはまるで嘘のように消え去っていた。
医務室を出る時に先ほどの職員が近寄り「先ほどは済みません、それにしても北海道弁って面白いですね」と笑みを浮かべて話しかけてきた。聞くところによると私が寝て入間に、先ほどの女医さんが詳しく教えたとのことだった。 私はその若い女子職員と言葉を交す余裕などは全く無く、無言で頭を下げて医務室を後にした。

※・続く・・・



 

スクーリング・・・下宿にて

2005-07-19 14:45:54 | じゃこしか爺さんの想い出話
   下宿にて

  (1)ボリショイバレー団 

 その年の夏には、世界的にも有名なモスクワボリショイバレ-団が初来日した。そして東京公演の日が近付くにつれて街には、ポスターや看板などが大々的に街のあちこちに貼られていた。余り関心のない私たちの下宿内でも何時しか話題に上るようになっていた。その東京公演当日の夜である、余りの蒸し暑さで勉強も手に付かず、かといって食堂のテレビは時間外で見る事は出来ず諦めていた矢先だった。隣室の学生が声を掛けて来た。下宿のおばさんに交渉してテレビでのバレー公演の許しを貰ったとのことだった。
 私たちは呼び掛けられたもののそれ程興味がある訳でなかったが、どうせ勉強も手に付かない折だから、クーラーの効いた食堂で一っ時を過ごすのも良いだろうくらいの気持で参加した。なんと其処には殆どの下宿人が集まっていた。
田舎者の私にとっては、バレーの観賞はこの時が初めてであったからどんなことになるのか皆目見当が付かない。しかし演目の「白鳥の湖」の曲は何度も聴いていたから、曲そのものには大いに関心はあった。
 しかし初めてのバレーだったが深く心を打たれた。大仰な表現ながら、楚々たるプリマ(名前は忘れた)の姿は我が脳裡に鮮明に焼き付けられて居て、未だに忘れられないでいる。今の年齢に成るまで、実演やテレビで多くのプリマたちを見て来たが、残念ながら東京の夏の夜にテレビで見た、あの時のボリショイバレー団のあのプリマに優る踊り手には未だお目に掛かっていない。

   (2)納豆
 
 正直云ってこの時まで納豆は日本の国民的食品だとばかりと思っていた。それが或る朝下宿の朝食時に、私のそうした知識はものの見事に覆されてしまった。何故かその朝に出されたお副食が、私たち北海道人と関西方面の下宿人違っていたのである。
 今となっては余り記憶も正しくないが、確かに関西の下宿人には佃煮が付いていたと思う。その事を不満顔で問い質すと関西人は納豆が苦手であるという。私たちにしてみれば納豆は栄養価の点からも最高の朝のお副食と思って来ただけに腑に落ちなかった。
 理由は「ネバネバヌルヌルと匂い」だというが、これこそ納豆の美味さの根本だと譲らず、その後も両者の言い合いは果てし無く、登校間際まで続いたが結論は付かず、時間切れ引き分けで終わってしまった。外人ならともかく、日本人の中にも納豆を食べられない者が居る事を、その朝初めて知ったのである。
 
  (3)誕生祝い
 
 特に親しくしていた六人の中で妻帯者は私だけだった。ある日突然電報が届いた。それは妻からのもので、私の誕生日を祝う電報だったのである。しかしそれを知った仲間達は不安げにその内容を色々な思惑で訊ねてきた。それが私の誕生の祝電と知ると、彼らの不安は一気にほぐれ、今度は一挙に私の誕生会の話になり、六人の仲間が有り合せの金子を持ち寄り、祝ってくれる事になった。私もそのお返しにビール一ダースを買った。
 祝いの会は私自身が良いように、みんなの酒の肴にされて続いた。かなり興が弾んだ挙句に、夜の街に繰り出す話が纏まり新宿へと出かけた。
とにかく東京の夜は怖いと聞いていたが、多勢の勢いからか全く物怖じもせ
ず、暗い新宿駅のガード下をくぐった。真っ直ぐ進めば「新宿コマ劇場」や「伊勢丹」に続くと聴かされていたガード下界隈は、今と違って怖いくらいの暗がりであった。それでも小さな行灯や粗末な暖簾が下がった酒場が、数件並ぶのを見つけた。
 その辺りをうろついていると「あんた達学生さんでしょう・・・学生さんは安くしときますよ」との声に、意を決してぞろぞろと入り込んだ。
一応入ったものの、私もそうだったが皆の頭の中も「ぼられる!」と云う強迫観念で占められて落ち着けなかった。三十分も経たない内に其処を飛び出し、駅に向かって一目散に駆け出した。
六週間の在京中夜の街に出たのは、それがただの一度で初めの最後であった。

  ※・続く・・・


スクーリング(想い出の日記より)

2005-07-18 17:44:40 | じゃこしか爺さんの想い出話
  ※・序章
 
 私が通信大学に入ったのは、夜間高校を卒業した翌年で、昭和32年今から五十年近くも前の春の事です。その当時私は三菱砿業所の道央の町にある炭砿事業所に勤務していた。入学を決めたのは、夜学で親しくなった友人の誘いからであった。
 前年に結婚していた私には簡単には決められない事情もあったが、妻の強い協力と勧めもあって決断した。
 彼が中央大学の法科で私が慶応義塾の英文科だった。私が慶応に決めたのは、福沢諭吉の伝記を読んで以来強く惹かれていたからだった。後年長女が入学した時には、良くぞ親父の意志を継いで呉れたものと喜んだものだが、三学年に進級したにも関わらず、無断であっさり中退してしまった。

 入学後は送られて来た夫々の教本を学習し、月一回の割でレポートを提出することになっていた。教科によってはかなり難解なものもあったが、仕事・生活を遣り繰りして、月割りのレポート提出は無事にこなしていた。
 やがて七月に入って早々にスクーリングの案内が送られて来た。一番の楽しみにしている、東京本校での授業である。
 出発までにはやる事が一杯にあった。先ず職場である。私の場合は前年までの四年間は、夜学への通学で同僚には大きな負担を掛けて来ていたので、今回の期間は六週間と短いが、またまた迷惑を掛けることになるので気は重かった。
 しかし直接の上司で勉学に理解のある方の強い励ましが、私の迷いを振り払ってくれた。

 Ⅰ・初めての東京
 出発は友人と相談して、七月の半ばと決めた。初めての夢にまで憧れていた上京である。いやが上にも心が躍るのを覚えた。
 しかし今とは大きく違って、航空便の無い時代の旅行である。上野までの行程が約一昼夜で、青函連絡船でも約四時間半かかり、更に上野までの汽車旅も寝台車とか特別二等車などに乗れる身分でないから、自由車の正に立錐の余地も無いほどに混雑する車中で殆ど眠れぬ夜を過ごした。
朝早くに無事に上野駅に到着した。同行した友人とは在京中での再会を約し駅頭で別れ、お互いの宿泊地へ向かった。

 (1)タクシー
 私が下宿先として決めていたのは高田馬場の諏訪町である。出発するまでに何度も何度も繰返し目をとおして頭に叩き込んだ筈なのに、いざ駅前に立つとさっぱり様子がつかめず、結局はタクシーを拾うのが安全とばかりに乗り込んだ。

 確かに駅から近い筈なのにかなり走ったのに一向に着く気配が無く、更に先へ先へと進もうとする様子に不安を感じて「駅から近いと聞いていたのですが・・・諏訪町はこんなに遠いのですか」と恐る恐る訪ねた。帰って来た言葉は「神田の諏訪町でしょう。未だ先ですよ」これにはビックリ「行く先は高田馬場の諏訪町です」運転手の態度は余りにも白々しかった。初めからポット出の田舎者と見越してのことだった。上京早々にとんだ失態バカを見たものである。
 正に東京は「生き馬の目を抜く」と実感、自らを戒めた。
 
  Ⅱ・下宿
 下宿先に割り当てられたのは、昼間の普通科の学生が夏休みで帰省した後の下宿屋である。六畳一間に二名が宛がわれた。同じ北海道室蘭からの同年輩の方だった。其処の下宿屋には主に北海道の学生が割り当てられたようで、道内各地から来ていた。下宿人の中でも特に気が合って親しくしたのは同年輩の六人だった。
 毎度の食事や通学はもとより、抜け出して喫茶店などへ出掛ける時も大抵この六人が一緒だった。
 毎日がワイワイと楽しく過ごしていたが、夜の暑さには北海道の連中だけは根をあげていた。特に私の場合は樺太生まれで寒さには自信はあったが、暑いのにはからっきし弱く一番先に参っていた。それに朝食に出される胡瓜の味噌汁は苦手だった。何とも言え無い青臭さが気になり喉を通らなかった。
 胡瓜そのものは決して嫌いではなく、むしろ子どもの頃から好きな野菜で、生のまま味噌をつけて丸ごと齧り付いたり、また酢物などは好物である。ただこの胡瓜の味噌汁だけは、生まれて初めてのことだったので中々馴染めなかった。
 しかし他に食べる物が数多く有る訳でもないから、何時の間にか食べられるようになっていた。だから今では平気で食べられるが、妻はこの青臭さがダメらしく我が家の食卓には殆ど出て来ない。

同宿人とはウマが合い勉強も遊びも一緒だった



 ※ 続く・・・