昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

樺太からの引揚げ{Ⅰ}恵須取から真岡へ

2005-08-13 21:07:00 | じゃこしか爺さんの想い出話
 確か昭和22年の4月頃だったと思います。私はまだ14歳、今の学年ですと中学の二年生になったばかりの頃でした。何処へ行っても内地への引き揚げの話題が持ちきりで、今年初めての船がもう出航したとか、何処其処の民全員が港近くに集結したとかの噂が実しやかに交されていた。
 そんな或る日のことでした。待ちに待った引き揚げへの通達が、私たちの地域にも届けられたのです。

 当時はソ連軍の統括下にあったわけだから、そこから出される指令などは、全く一方的でその上時間にも殆ど余裕が無いけれども、それには否が応でも直ちに従わなければ後に回され仕舞い、次の機会は何時になるのかは全く不明でした。それが怖くて彼らの言うが儘に従わざるを得なかったわけです。今回の通達で指定された集合時刻には余り余裕が無く、夜具や家具などの携行も禁止され、許可されたのは手荷物も一人一個のみでしたから、せいぜい簡単な着替えなどを詰めたバッグか風呂敷包み程度だった。
 軍用トラックに乗せられ連れて行かれたのは、この地方の拠点都市恵須取町(ウグレゴルスク)の浜市街の一画だった。其処には他の近郊の日本人達も大勢集められていた。
この時のトラックには伯母の家族も一緒に乗っていた。その頃私たち家族は母方の伯母の住む村に身を寄せていた。それは父が民間の防衛隊員として徴集され石炭積出し港の守備に出向いたまま生死は不明、終戦後も帰らず60年が過ぎた今でも未帰還のままである。だからお寺の納骨堂に納められている父の骨箱には遺骨は無く、今なお空のままである。
 父の還らぬ終戦戦後の私たち家族は、身体の不自由な母と姉と弟・妹との五人だった。父亡き後の炭砿での生活維持はとても無理だったから、終戦の翌年伯母のもとへ移転したのだった。

 次の船が入港するまでの間ソ連軍当局から宛がわれた住居は、伯母の家とは隣合わせで心強く思ったものだった。しかしその後半月ほど経っても何の音沙汰も無く日が過ぎていった。何時になったら乗船出来る様になるのかさっぱり判らず、次第に不安が増して皆に焦りが見え始めた。そんな時に当局からの通達文書が齎された。  
 それによると次の乗船予定は、まだまだ先に延びるようではっきりとは分からないらしい、ただ石炭積み出しの使役に応ずる家庭が優先的に乗船が可能だと云う内容の使役募集だった。早速くに応募したのは言うまでも無く、伯母の家からは従兄が我が家からは男で年嵩の私が参加した。14歳ながら家の代表であり、家族の命運は私の肩にかかったのである。
 この従兄については、何かの折に詳しく触れたいと思うほどに世話になった人で、約20歳の年齢差から云って父親的な存在でもあった。また軍人上がりだけに体格の小さい割には頑丈だった。それに几帳面で厳しかったが私等きょうだいには何かと優しく接してくれていた。だから今度の使役にも私のような者でも参加出来たわけで、とにかく頼もしい存在であった。

 軍用トラックに乗せられて連れて行かれたところは、私たちが以前住んでいた炭鉱の塔路町(シャフチョルスク)の浜塔路港の貯炭場だった。日本人が国策として増産に増産を重ねて掘り出した石炭が山のように積まれていた。本土に送るはずの石炭がアメリカ潜水艦の攻撃を恐れたのと、撃沈され続けて手持ちの輸送船が無かった為に、大量の石炭がただただ野晒し状態で山積されて居たのであった。そして今度は日本人の手でソ連船に積み込まれて行くのである。
 日本人炭砿夫が命を懸けて採掘した石炭を、彼らは日本人が造った施設を使い更に日本人に使役を課して、何の苦労も無しに本国に持ち去ろうとしていた。

 もともとこの港は父が民間人ながら守備任務に就き、そのまま行方不明となった場所柄でもあり、その上石炭がむざむざ運び去られることへの悔しさと、それに手を貸すことへの、云うに云われぬ蟠りに苛まされていた。少年らしい感傷と言われればそれまでなのだが・・・。
 積出し作業そのものは至って簡単なものだった。貯炭場中央の地下に戦前日本の炭鉱会社が設置した新式のベルトコンベアーが岸壁にまで伸びているから、山積みの石炭を地下へ放り込むだけで、横付けされた石炭船の船倉内に独りでに運び込まれる仕組みなのです。スコップ一丁あれば事足りるわけで、私のように年端のゆかない子どもでも使役に応募できたわけです。
 
 初め使役の予定は十日と決められていたが、その十日目になっても当局から通知は全く無く、まして家との連絡も一切取れずどうなっているのか皆目見当が付かなかった。そんな不安に捉われ始めたある朝のことだった。誰からとも無く地元では乗船が始められているとの情報が流れた。
 従兄や他の主だった連中が関係者に問い質したところ、否定も肯定もしなかったと云うことで事実である事が分った。直ちに全員が結束して交渉を始めたが、相手はのらりくらりと言い逃ればかりで埒が明かず、結局は物別れで終わり勝手に引き揚げることとなった。しかしそんな調子で軍用トラックは当てに出来ず、海岸沿いを徒歩で行くより他に手は無かった。皆は持って来た荷物はそっちのけで、着の身着のままで走り出した。私も従兄の後を遅れじとばかりに約4キロの砂浜を懸命に走り続けた。

 私たちがどうにか家に辿り着いた時は、もう既に一部の住民の乗船が開始されたとのことで、私たちの到着を今や遅しと待っていた最中だった。
私が使役に出ている間に、家を留守にしていた教員の兄が戻っていた。その兄の顔を見た時の私の安堵感たら無かった。
 それは大仰なことながら自分が一家の大黒柱なんだからしっかりしなければと勝手に思い込み、余分な責任感を抱いていたからであった。

   < 続く >