昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

山菜・イラクサ(痒い草)

2006-05-30 14:38:09 | 日々の雑記
 その後の湿原の様子が気になり、また気晴らしと運動不足(室内歩き)の補完を兼ねて、一昨日以来の雨の晴れ間を利用して、約半月ぶりに湿原道路(自転車道路)に出掛けて来ました。
前回訪れた時には、道路沿いには立ち枯れた葦が広がり、下草が僅かに萌え出ている程度でしたが、今回はかなり様変わりして目を瞠るほどでした。先ず名前の知らない雑草類が一面に生え伸びており、その中に一目で判る「コバイケイソウ・エゾエンゴサク・ニリンソウ」などの花が見られました。そのニリンソウの花弁をアップで移そうと、一歩踏み込んだ目の先の草に目を奪われました。そこには子ども(樺太)の頃に良く目にしていた、山菜の一種の「イラクサ」の一叢がありました。

 この湿原道路(自転車道路)をウォーキングのコースとして利用してから、もうかれこれ5年ほどにもなり、その間鳥類や草木に惹かれて色々と素人目で観察して来ていたのですが、ここでこの「イラクサ」を目にしたのは初めてでした。
「イラクサ」は余り知られていないようですが、食用にもまた薬草としても広く利用されている野草です。

 またこの「イラクサ」は、子どもの頃からの馴染みの物なのですが、これに触ると酷い痒みに襲われると教えられ、実際にウッカリ触ってその強烈な痛痒さを何度も実感したものです。そんなことから子ども等には「カイグサ=痒い伊草」呼ばれて、恐れられていました。
 しかし子ども等の中には特に「ガキ大将」などは、これを悪さ虐めの道具に利用する者もいたのです。
 
 私の想い出は、戦中戦後の酷い食糧難時代の折に、「御浸し」として良く食べたことものです。その味などはもうすっかり忘れて仕舞いましたが、唯々とても懐かしくてカメラに納めて来た次第です。
戦時中や戦後の食料な時代に良く食べたイラクサ(痒い草)

この葉や特に茎のトゲが曲者で触ると酷い痛痒さを感じます。

              エゾエンゴサク

              ニリンソウ



クシロヤエ(釧路市の八重桜)

2006-05-28 16:08:36 | 日々の雑記
 公園内の他の桜は一応咲き揃い、後は釧路市の八重桜(クシロヤエ)の開花を待つばかりであった。しかしこの釧路市特有の桜は例年若干遅れて咲くので、今年は未だ早いだろうと思って居たのだが、昨夜の気象予報によれば、明日辺りから3日間ほど風雨が続くとの事だったので、今までの花を見納めようと5日ぶりに、街中の柳町公園に行って来ました。
 ところが何と私のそんな予想が外れて、来月の開花を楽しみにしていた、その八重桜が早々と咲き始めておりました。
園内の区画ごとに咲き方に違いこそありましたが、ほぼ七分咲きといったところでしたが、その蕾の様子がとても可愛いいらしくて、まるでチアガールが手にする「ポンポン=玉房」のようだったので、思わずカメラに納めて来ました。

まだまだ七分咲き程度の「クシロヤエ」並木の遊歩道。右側の広場はパークゴルフ場。

ほぼ満開状態に成った「クシロヤエ」の花

まるで毛糸で作った玉房(ポンポン)のような「クシロヤエ」の蕾 

緋色がとても可愛いらしい「クシロヤエ」の花弁と蕾              






               

<続> 夕陽を追い駆けて

2006-05-26 17:10:56 | 日々の雑記
 晴天の日が少しばかり続き、予報からしても、そろそろ明日辺りから雨模様になるだろうとの夕方、窓ガラスに映る茜色に誘われて、とりあえずカメラを手に飛び出した。
 何はともあれ気の急くままに、何時ものポイントに車を駆った。
 
 幸いなことにこのところ連日のように晴天が続き、たまさか日中は曇っていたとしても、不思議に夕方になると一時的に晴れて来て、家の窓ガラスや隣家の壁に照り映えるので腰が落ち着かない。同じ夕焼けなのだと、己れ自身を無理に納得させても、結果はいつも同じで、カメラを手にして飛び出している始末です。

サイドミラーに映った夕陽

釧路市鳥取橋から見た夕陽

日本製紙釧路工場と夕陽

釧路湿原の果てに沈み行く夕陽



「朋有り稚内より来る、亦楽しからずや」

2006-05-24 11:53:34 | 日々の雑記
 先夜のことだった。稚内市から、約70年来の友人N君が訪ねて来た。小学校入学時点の同級生だから、言うなれば幼馴染の間柄である。その彼が、ライオンズ・クラブの周年大会への参加目的で、稚内市の所属会員と共にバスを仕立てて来たのであって、このたびは約5年ぶりの再会であった。
 
 以前は二年毎に道内各地で開いていたクラス会であったが、お互いに70歳を越す様に成ってからは、加齢に因る体調の衰えや病勝ちが昂じて、延び延びとなって何時しか5年が経って仕舞った。
 これまでは道内各地の級友が交替で受け持って開いて来たのだが、70余歳の年齢と成ってからは、とかく地方での開催は移動手段に無理があった。やはり鉄道便でも航空便でも札幌が最適地だった。しかしこれまでの何度かの札幌開催で労を尽してくれたA君が、2年程前に内臓手術をしてからは、それを押してまで彼に頼み込む訳にもゆかず、そのままになっていたのである。

 前日の電話で約束した7時キッカリに、彼が待つ駅前のホテルのロビーに着いた。彼と同行して来たライオンズ会員たちで、当然混み合っているだろうと思ったが、階上のレストランは意外にもひっそりとしていた。
どうやら彼もまた、私同様に体調から酒席はご法度らしくて、周年大会の式典の宴席会場を早々に抜け出して来たようである。

 会えば直ぐに出る言葉は、お互いに同じ
 「お前・・・少し太ったんじゃないか」
 の一言だった。そして夫々返す言葉も
 「まぁーな・・・」
と何と無く言葉尻を曖昧にした返事も全く同じだった。

 そしてその後はお互いの近況を話し合うも、いつしか話題は少年の頃にかえっている。これらの話題は今回に限らず、誰彼の区別無く私らの仲間であれば、会うその度に必ずと云っても良いほどに出て来る話である。

 やがてレストランから彼の部屋に場所を替えて、更に話し込みそれは実に三時間にも及ぼうとしていた。同郷の友との出会いは全く良いもので、特に小学校時代の同級生ともなれば、お互いの立場になんら損得打算も無く、まさに腹を割って好きな事が話し合うことが出来る。
 
 中でも小学生時代の開墾作業でのストライキ、援農での悪戯、それに何と云っても話の尽きないのが、終戦時と戦後のことである。こうした共通の話題が、この5年間の隙間を確実に埋めてくれる。そして後の残るものは唯々懐かしいの一語に尽きてしまうのである。 
 未だ現役(家業)ですこぶる元気だと云いながらも、彼の顔に長いバスでの疲れが見て取れたので、話は尽きないのだが、そろそろ潮時と引き揚げることのした。

 彼の話の内容から、彼も亦私同様に「自分史」なるものを纏めつつあるらしいことを知って、それぞれ出来上がったら交換しようと約し、次回の再会を約して別れて来た。

 ホテルのロビーでの写真をPCに納めたが、脳裡に焼き付いて中々消えない。N君との5年ぶりの再会の興奮が猶冷め切っていないようである。どうやら今夜は眠れぬ夜になるらしい。



<続>日本一遅咲きの桜色々

2006-05-22 19:06:32 | 日々の雑記
 昨日に引き続いて今日も公園に出掛けて来た。日本一遅いと宣言されたY公園の桜は、既に満開状態の木々もあったが、全体として七分咲き程度であった。
 昨夜遅くの気象予報によれば、かなり寒気を伴った低気圧が近付きつつあって、火曜・水曜のかけて冷たい雨が降り続くだろうとあった。
 折角咲いた日本一遅咲きの桜が未だ満開にならない内に、非情とも言うべき冷雨に散らされては、返す返すも残念であり上に如何にも勿体無いことで、早速老妻を急かせて急遽車を走らせた。
 低気圧の前触れなのか、既に気温は13度そこそことで肌寒かった。それに何よりも気になったのは、10メートルは越すだろうと思われる強風だった。
駆けつけた時にはもう既に、やっと満開になった桜がその風に煽られて散り始めていた。先ずはともあれ、気に入ったのを選んでデジカメに納めた。
公園の桜・Ⅰ~チシマザクラ=千島桜の老木

公園の桜・Ⅱ

公園の桜・Ⅲ

その・Ⅳ

そのⅤ・まるで大型の盆栽・・・?


日本一の遅咲き桜

2006-05-20 17:08:54 | 日々の雑記
 日本一の遅咲きとされながらも、先日桜の開花が宣言された。その後市内の桜は順調に咲いて行くのだろうと、多いに期待していたのだが、その翌日はなんと海霧が街全体を覆い、正午の気温もたったの6度と肌寒い一日となってしまった。
 
 この気象の異常さは、当分続く物とすっかり気落ちしたものの、今朝になって見ると夜来の雨は早々に上がり、起きて見ると朝日が窓ガラスに輝くばかりに照り映え、更に青空が窓一杯に広がっていた。
 気温の方も昨日に引き替え、10時には早々と16度を越すほどに上がった。この暖かさなら桜の開花は早まるだろうと、昼前早くにウォーキングがてら花見に出掛けた。

 公園全体からすると、満開の時期にはまだまだ早いようだったが、何故か西側の一画の桜だけがもう既に満開状態になっていた。こうなるとウォーキングはそっちのけで、カメラを構えて歩き廻って撮って来たのが、沖縄から四ヵ月目で漸く咲き始めた、日本一と宣言された遅咲きの桜です。
 この分なら、釧路市唯一の品種の八重桜「くしろ八重」の開花は、昨年同様6月早々になること間違い無いでしょう。
 日本一遅いと宣言された公園の桜

同上

同上

同じ日にほぼ満開状態になった我が家の「チシマザクラ」 

             

ちほららと桜が・・・そして開花宣言!

2006-05-18 21:14:19 | 日々の雑記
 昨夜の気象予報に反して、昼前から一気に気温が上がり遂に今年一番の暖かさとなった。この上天気に誘われて、6日ぶりに街中の公園に出掛けた。
 先日出掛けた時には、未だ開花していなかった桜は、その蕾の膨らみ加減からもう間も無くだろうとの予感があった。しかし幾ら今日が今年一番の気温になったからと云っても、瞬時の内の開花は一寸ばかり無理だったようで、確かに枝先の蕾が若干開いたのも見られたが、全体としては後2~3日掛かるだろうと思われる状態だった。
 唯この地方特有の「千島桜」だけは、既に5分咲きに近かった。

 またこの暖かさに誘われて俄か遠足となったのか、黄色い帽子に青い園児服の子等が、小高い青草の上に陣取っていた。
♪「おべんと、おべんと嬉しいな・・・」の可愛いいらしい声が聞えて来た。恐らくこれから昼食が始められるのだろう。
 この無邪気な歌声と微笑ましい場面に、図らずもの出会いに多いに癒やされていたのだが、この子等に輝かしい未来は期待出来るのだろうか。ふと思うのは、国民の痛みを少しも理解しないで、愛国心ばかりを・・・もう70余歳を過ぎた老人には、この先のことは知る由も無く、また知りたいとも思わないが、今年一番のこの暖かさをよそに一瞬心寒さを覚えたものだった。
 更に歩を進めて行くと、先日オープンされたばかりのパークゴルフのコースでは、色とりどりのプレー着を纏った老人男女が愉しんでいた。

 季節の足取りは間違い無く近付きつつあって、道東の花の時季はもう直ぐ目の前である。

 因みに夜のニュースで、日本最後の桜の開花宣言は此処釧路市との事だった。1月に沖縄で宣言されて以来、今日は4ヶ月目に当るそうである。
 エゾムラサキツツジだけが満開だった

保育園児たちの昼食会

半年振りのゴルフを愉しむ老人たち

5分咲き程度の「千島桜」


お馬の親子

2006-05-17 15:25:32 | 日々の雑記
 家から少し離れた大型店からの帰宅途中、何時もとは別の道を通って帰ることにして、バイパスを外れて仁々志別川沿いの裏道へまわった。そこは車の往来が少ない上に、住宅街の中だけあって各家の花木などが豊かで、時季折々に見事な花を咲かせていたので、それらの花を眺めながらの散歩や、軽めのウォーキングには最適なコースだった。

 しかしそれらの花々のいずれも、今年の低温と時季的から、期待するにはまだまだ早すぎた。
 わざわざこの道を選んだのには、全く別の目的であった。住宅やマンションが建ち並ぶこの界隈には、余りにも不似合いな馬牧場である。一昨年のこの時季に偶然通りかかって、仔馬を目にして以来、この時季にここを訪れるのが、私の年中行事の一つとなった。

 今年の仔馬は昨年までとは、全く違って全身が真っ黒であった。初めは仔馬には見えない黒さで、むしろ少し大型の黒い犬(ラブラドールレトリ-バ-)が、寝転がっているのかと錯覚したほどである。
 
 帰宅の途中だったことも忘れて、その後暫らく仔馬の行動を眺めていた。

 初め大型の黒い犬が寝転がって居るのかと錯覚?

真っ黒な仔馬と判明!

起き上がると直ぐにオッパイをねだる仔馬

お腹が一杯になって散歩する仔馬



(続)鰊魚場にて・サイダー瓶探し・ウニ獲り

2006-05-16 16:10:15 | じゃこしか爺さんの想い出話
       (Ⅱ)サイダー瓶探し

 その日の朝食後直ぐに移動して次に割り当てられた収容先は、その家から五百米ほど離れた浜辺の番屋でした。細長い平屋で土間と畳敷きとに二分割されていて、土間には暖房用の大きな薪ストーブ据え付けられていました。
 此処は寝起きだけで、食事は初めての夜に泊まった網本の家ですることになったのです。
 私たち割り当てられた作業は、桟橋に横付けされた漁船からの鰊運搬でした。桟橋に横付けされた漁船から陸地の加工上までの間には、トロッコ用の線路が敷かれていた。そのトロッコ押しが私たちの仕事だったのです。

 珍しく時化が続いて魚場での作業は少なかった。そんな日の私たちは何もする事が無くて終日ブラブラして過ごしていた。
 その内にクラスの誰かがサイダーの空き瓶集めの話を持って来た。何でも空き瓶を5本持って行くと中身1本と取り替えてくれるとのことだった。時化続きで仕事が無いのを幸いに、私たちは其処の地域全体を隈なくサイダー瓶を探し回ってうろつき始めた。日毎に食事の量が減りその内容も貧しくなって行く状況下では、例え一本のサイダーであっても私たちには充分に魅力的であった。
 級友の中には大胆な奴がいて、民家の庭にまで入り込み保管している中持ち出す者や、管轄の広地村ばかりかでなく隣の村々へと出掛ける始末で、遂には村民からの苦情も出始め、教師の知る事になり一切の外出は禁止されて仕舞った。しかし食事や作業の往き帰りに上手く立ち回り、仲間同士で庇い合い教師の目を盗んで空瓶集めを続けていた。
 多寡がサイダーにしろ、食料と甘い物に飢えていた上に、共同責任で仕出かすスリルが何物にも替え難いものであり、あの時のサイダーの甘さはその後暫らく忘れられなかった。

  (Ⅲ)ウニ獲り

 漁期が後半に差し掛かる頃になると、晴れた日が続いて絶好の漁日和かと思われる日が続いたが、何故か鰊はサッパリ獲れなくなっていた。その内ソ連監督官と漁民との間にいざこざが出始めていた。
 しかしそんな事には全くお構い無しに、私たちは果たすべき仕事が無いのを幸いに、村内をうろつき廻り食事時になると、何処からとも無く現れるのです。

 その日は朝早くから快晴で暖かい日であった。ちょうど大潮とかで引き潮の時刻には、かなり沖まで歩いて行けるほど遠浅となった。
 野良犬のようにうろつき回ることに飽き始めて私たちは、村の子ども達に混
じって海に入った。初めての遠浅がただただ物珍しくては、衣類が濡れて行くことなど全く意に介さず、ただただはしゃぎ回っていた。

 その内村の子ども達を真似てウニ」獲り獲りを始めた。近くの漁師が教えて呉れた方法の海水に浸してだけで怖々食べてみると、磯の香りとほの甘い美味さが思っていた以上で、その後はすっかり虜になっていた。

 私は逸早く番屋に戻ってサイダー瓶を持ち出して遠浅の海に戻り、級友の間を駆け巡って、ただ面白半分に集めているだけの級友からウニを貰い受けた。
程なくしてサイダー瓶一本のウニの瓶詰めが出来上がった。
 早速く番屋の物置から塩を貰い瓶詰め込み封をして、下着で包んでリュックの底の方に仕舞いこんだ。

 ウニを味わっているうちに、おふくろの大好物だったのを思い出していたのである。おふくろは肉類が大の苦手で、恐らく生前中にはただの一度も食べなかった。その半面海産物は大の好物で、炭鉱街では珍しい鮫なども器用に捌いていた。物珍しげに見ている私たちに、皮の剥き方などを教えて呉れた。

 私が作ったサイダー瓶のウニは、衣類で二重三重巻きにしてリュックに入れて、帰りの道中は殆ど胸に抱え込むようにして持ち帰った。家に着くなり直ぐにおふくろに渡した。母は受け取って電灯で透かして見ていたが、やおら封を切って味見を始めた。心配気に様子を見守っていた私に満面の笑みを向けた。
 如何にも満足そうな母の笑顔を見て、私も心からホット息を付いた。

                         <終り>

鰊魚場にて・少年の日の想い出より

2006-05-14 16:42:10 | じゃこしか爺さんの想い出話
 

  ・・・樺太・真岡支庁・真岡郡・広地天茂泊魚場にて・・・

 終戦の翌年の春先でした。突然ソ連軍当局から小学校高等科の生徒に対して、鰊場への動員命令が発令されたのです。高等科と云えどもまだまだ13・4歳の子どもですから、親許を離れて漁業の使役に就くなんて事は、普通の日本人社会では到底考えられないことであり、ましてや女親たちにしてみれば、とんでもない野蛮な行為であったのです。
 当然反対運動は始められましたが、相手はソ連軍当局のこと、日本人社会の習慣理屈は通る筈も無く、一方的に押し切られて仕舞いました。
 ただ親たちの集団交渉により、一ヶ月間の予定期間が5日間短縮されたことが、せめてもの救いでした。

 こうして私たち高等科の生徒は、それから間もないある朝早く、少しばかりの着替えを詰めたリュックを背にして、小学校の校庭に集められました。
 身体の弱い生徒は免除されていたので、その朝集まった生徒数は、男子組の三組を合わせても七十人程度でした。その中でも私たちのクラスが一番少なくて20人でした。そのままソ連軍の幌付き軍用トラックに分乗させられ、学校を後にしたのです。学校近くに住む親たちが見送に来てましたが、中には泣いている母親が、結構居たのを覚えております。
 親たちのそんな心配をよそに、生徒の私たちの殆どは、悲しむどころか、冒険を前にした探検隊のような気分で、更に初めてのトラック乗車に興奮して、ただただ訳も無くはしゃいでいました。

私たちを乗せたトラック部隊は、途中一度も停まることも無くひた走り、やがて樺太のやや中央部に位置する久春内に到着、ここで初めてトラックから下されました。

 此処からの移動手段は鉄道便に切り替わりましたが、これまで鉄道便と言えば、炭砿鉄道の石炭運搬車を改造した程度のチャチな客車でしたから、本格的な鉄道それも客車が初めてのことだったのです。何もかもが珍しくて、それまでの長旅の疲れも見せず、トラック以上にはしゃぎ回っていました。
 
    (Ⅰ) コウリャン 

 目的地の真岡町広地村の魚場に着いたのは、もうかれこれ8時を大分過ぎておりました。持参した昼食は昼になる前に平らげていたのですから、それまでの時間の長さに閉口して、口数が減り漸く疲れを見せ始めたようでした。
 班毎に分けられそれぞれ別々の宿舎に連れて行かれました。私たちの班が収容された処は、村でもかなり大きな建物でしたが、そうかと云って旅館風でも集会所でも無く、恐らく村長さんか網元の家だったのでしょう。
 荷物を置き休む間も無しに、私たちは裸電球が灯る薄暗い食堂に集められました。其処にはもう既に食卓の上に食事が並べられていて、私たちは一斉に食べ始めました。少し落ち着いてから丼のご飯を良く見ると、赤い物が混じっていたのです。薄暗い電灯の下とは言いながら、それは紛れも無く赤飯でした。
 私たちは互いに頷き合い、その目は輝いておりました。私たちのために赤飯を炊いて呉れていたのです。私たち歓声を上げて喜び合い大感激でした。

 翌朝にも同じ食事が出されました。皆の目には再び喜びが走り一斉に掻っ込み始めて気付きました。明るい場所でのその赤飯だとばかりに思っていたのは、小豆とは全然違ったものででした。そこで私が係りの小母さんに訊ねてみると、それは「コウリャン=高粱」と言う雑穀だそうです。
 全員の気持ちは一気に萎み、夕べはとても美味しく感じた食事が急に色褪せて見え始め、心なしかその味も不味くなって仕舞いました。

  <続く>