昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

今!紫陽花が・・・

2006-08-26 19:25:31 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 今年の夏はおかしなことにお盆は疾うに過ぎたのに、涼しくなる気配はさらさらに無く昨日の午後には28度を記録、また今日も23度と例年にないほどの暑い夏と相成った。
 このくらいの暑さで弱音を吐いて居たのでは、連日30数度を越える真夏日の炎熱地獄のなかでお過ごしの本州各地の方々を思うと、申し訳の無いの一語に尽きるのですが、今年の異常な暑さに慣れない所為かやはり口に出るのは、「暑い暑い」の弱音ばかりだ。

 何時もの海霧が無く一日中晴れているとは云いながら、とにかく昼日なかの外歩きは到底無理なので、陽が少し傾いてから近所を散歩して来た。

 この異常とも思える今の暑さの中で、何故か今・・・紫陽花が花盛りだった。
思うにこの紫陽花は本来ならば初夏、それも梅雨の季節こそ相応しい花と思っていただけに、大輪のヒマワリとコスモスが風に揺れる今の季節なのだろうかと不思議でならない。
 昨年は如何だったのか、はっきりと覚えていないが、やはりこれも異常な暑さが続く、今年に限ったことなのだろうか。

 何故かこの時季紫陽花が真っ盛り(紫陽花・(1)

紫陽花・(2)

真夏の象徴ヒマワリ



久々の河畔道路

2006-08-24 17:30:20 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 二十四節季の処暑だった昨日は暑さがぶり返して夏日となった。本来ならば送り盆が住めば一気に涼しくなり、時にはストーブが欲しくなるほどの夜もあるのだが、今年の夏はお盆が過ぎても一向にそんな気配は見えず、むしろ日を追うごとに気温は上がっているようだ。
 夏日となった昨日の暑さに比べて若干凌ぎ易さを感じたので、外歩きを開始して久しぶりに近くの河畔道路に出掛けた。今日の天気予報では曇り日とあったが、正午に近付くにつれて時折り雲が途切れて陽射しが強く感じるようになった。しかし川風が幸いしてその陽射しを和らげて呉れ、気持ちの良いウォーキングが続けられた。

           早々と熟れて来たハマナスの実

 当地としては異常気温としか思えない暑い日が今猶続いているこの頃だが、季節はやはり初秋のようで、公園内のハマナスの実が色付き始め、枝が撓るほどに実を付けていた。


           子連れパークゴルフ

 程よい陽射しに誘われてパークゴルフを始めた若い母親たちが、右手にステック左手に幼児の手を引いてゴルフを始めた。
 夏になるととかく遊びに夢中になった親たちが、幼児子どもを車内に置き去り閉じ込めて、遂には死に至らしめる事故が多くなる昨今だが、今日のこの若い母親たちには感心させられた。
 自然の中の広々とした芝生を親と一緒に駆け回る幼児の明るさに接して、その微笑ましさに頬が緩んだ。そして又屈託無く手を振って呉れる幼児のあどけなさに、思わず応じて手を降り返して別れて来た。


                   流木              
          
 先日の大雨で川上の湿原から流されて来た流木が、川の中央に出来た浅瀬に溜まっていた。これも今年の夏独特の現象かもしれない。


翔ぶことに飽きたのか舗装の上を歩き始めたカモメ 

     

2006年夏の雲

2006-08-22 20:44:04 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 珍しく夏日の回数が多かった今年の夏、今日も夏日ギリギリまでに気温が上がり、真夏日連続の本州各地の皆さんには本当に申し訳ないのですが、情けないことに25度そこそこの気温を持て余して、早々と音を上げている始末です。

 
 明日は24節季に「処暑」とのことで、珍しく暑さが続いている当地ですが、明日を境に一気に秋に突入し、例年通りの肌寒い日が続くのでしょう。

 因みに今年ウォーキングなどで外出した折に、何気なく撮って来た夏雲ですが、例年では滅多に見られないいわゆる入道雲を、保存中のCDから取り出して、あらためて見直している次第です。
 そして今年は夏日が多かった分だけ多く見られたのだと思います。
 
釧路市春採湖の高台より・・・

鶴見橋越しに・・・

自転車道路からの釧路湿原の上空

上に同じく釧路湿原の上空


宵待草

2006-08-20 18:54:19 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 
 連日の霧雨が晴れて昼前には陽さえ出て来た。
ここ暫らくウォーキングを休んでいただけに、今日こそはと意気込んでは見たものの、今年の思わぬ暑さに若干体調を崩した直後のこともあって、余り無理をしないことにして家を出た。
ちょうど買い物に出掛ける老妻を近くのスーパーで降ろして、とりあえずその店の周りの、車両などが少ない河畔寄りの道路を一回りすることにした。

 川からの程よい風に吹かれながら、橋を渡り周りの住宅街の庭に目をやりながら、散歩がてらにのんびりと歩を進めた。その住宅街が途切れた一画の空き地が、黄色い花で一面覆われているのを目にした。足早に近付いて見ると、それはいわゆる月見草と言われる「宵待草」群生だった。

 この花のことを一般に「月見草」と呼ぶ人もいるが、私は「竹久夢二」の作詩で名高い{待てど 暮らせど こぬひとを・・・}の「宵待草」と思っていた。
 念のためにパソコンで検索したところ、他にも「オオマチヨイグサ」或いは「アレチマチヨイグサ」と呼ぶことが判った。

 熱闘甲子園・・・遂に水入り再試合!
 
 北海道代表の駒沢苫小牧と西東京代表の早稲田実業との決勝戦は、死闘を繰り広げるも遂に決着がつかず延長15回引き分け再試合となる。
 三時間余テレビに釘付け、その間トイレにも立てなかった。明日もまたこれの繰り返しかと思うと堪らなく切ない・・・年寄りの甘い発送叱られそうだが、出来る事ならば夢の「夏の甲子園三連覇」と「夏の甲子園初優勝」を両校共に授けてやりたいと言うのが今の心境である。

 宵待草=マチヨイグサの群生

                     同上


誕生日

2006-08-18 21:08:02 | 日々の雑記
 今日は私の74歳の誕生日。「元旦や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」の戯れ歌にも似て、幼児や子どもならともかく70歳を越した身にはまさに戯れ歌を地で行くようなもので、今更嬉しさなどの感慨はさらさらに浮かんで来ない。
 しかし老妻は、せっかく二人の両親よりも遥かに長生きさせて貰ったのだから、ささやかでも誕生祝の真似事でもと、大好物の寿司折りを取り寄せてくれた。ドクターストップの身の上だから酒類は一切ご法度、止む無く客用の煎茶を淹れ昔話を肴に老夫婦だけのささやかな祝いの膳は進んだ。
 
 私は、北海道から樺太に移住したいわゆる出稼ぎ人{じゃこしか(麝香鹿)樺太への出稼ぎ人の俗称}夫婦の四男として、西海岸北部の小さな漁村生まれ、その後樺太有数の炭鉱町に移転した。そこで多感な少年時代をすごして初和22年の夏北海道に引き揚げた。

 しかしこの間、若死にともとれる父50歳母45歳、そして20代前半そこそこで他界した兄たちの短命の生涯を想うと、これも先の戦争特にソ連の無法な参戦の所為と、今更ながら恨めしく思えてなりません。
 何はともあれ肉親の寿命を預り受けたかたちの我らの余生、命の有る限りしっかりと有意義に寿命を全うしたいと希う一日だった。


 話は変わりますが・・・!
 
 今年甲子園も四強が出揃いました。我がドサンコ(北海道っ子)代表の駒大苫小牧もその一校で、それも73年ぶりの三連覇を目指しています。嘗ては雪国のハンデから、とかくお荷物的存在だった。
しかし今や高校球界の王者として君臨、是非ともドサンコが熱望する夢の三連覇を達成して欲しいものである。

ブログ再開

2006-08-16 18:33:27 | 日々の雑記
 例年に無い連日の暑さが老体に応えて、図らずも半月ばかり休んでおりました。
お盆を迎えて漸く気温にも馴れて体調もやや回復し、パソコンに向かう気力が湧いて来ました。ボチボチながらブログ掲載を再開してゆきたいと思います。
 何時も限り無いご支援をお寄せ下さいますブロガーの皆様、今後とも宜しくお願い致します。
                 
      盂蘭盆会

 昨日は、あの忌まわしい戦争が終結して、否!敗戦した日から61年目を迎えました。これまでその年々の今日の日に想う事は何時も同じで、唯々「あの戦争が無かったら・・・」に尽きます。ですから今年に限って特別な想いは無いのですが、やはり想いは一つ、「あの戦争さえ無かったら・・・」と、両親のことや兄たちのことを想い出してしまいます。

 13日の迎え盆に次いで、今日16日の送り盆のお参りを今年も済ませて来ましたが、戦後61年過ぎた今父は未だに行方不明のままで、お寺に在るのは位牌と空の骨箱のみです。その父の終戦時の経緯{終戦記念日壱・終戦記念日弐}に付いてはこれまでに何度と無く触れて来ましたので、ここではその概略だけにさせて戴きます。

 その頃樺太のとある炭鉱町に住んでいた私たちのラジオは、ソ連軍のデマ放送からの混乱を恐れた憲兵によって悉く破壊されていましたから、肝心の玉音放送はもとより、15日に戦争が終わっていたなどは少しも知らずに、ただただソ連軍の侵攻を恐れ戦きながら、目差す当ても無く山野を逃げ回っていたのでした。いわゆる聾桟敷に置かれてような状態だったのです。
 また父たち一般人の大人たちは、ソ連軍の侵攻に対する民間警備隊員として召集され、石炭積出港の守備に配属されていました。
しかし武器が竹槍だけの民間人では、ソ連軍の突然の参戦による艦砲射撃と上陸開始の前には為す術も無く、内陸の炭鉱町への撤退避難だけが唯一つの手段でした。

 その時の撤退時には父も皆と一緒だったのですが、何故か父だけが幾日過ぎても家に戻って来ませんでした。せめて遺体だけでもと肉親はもとより、近所の人の手を借りて隈なく捜索したのでしたが、何の手懸りも無いままに歳月が過ぎてしまい、あれから61年今もって行方不明のままです。
 恐らく撤退避難の途中で、不幸にも流れ弾にでも当たったのでしょう。

 今になってこんな事は到底考えられないことなのですが、今年ウクライナから突然帰国された方が居りましたね。
 私の父もロシアの何処かで生き長らえていたとするならば、ひょっこり連絡があるかも知れない・・・と。年甲斐も無くそんな夢を描いてみた盂蘭盆の一日でした。   
 しかし若し生きていたとしても丁度110歳もの高年齢・・・やはりそんな事は絶対に有り得ません。

本家の菩提寺山門内の紅白の蔓バラ