昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

老人と真鴨たち

2010-08-31 16:10:24 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 マガモを見るために街のはずれの運動公園内にある<池広場>に行くのは、たいていは3ヶ月ごとに行く眼科ついでなのですが、ついでと言っても先ず眼科までは家から6キロほどあって、その大半が住宅街と市街地ですから結構時間がかかります。
 それにその眼科から鴨たちの池広場までは、3キロほどあるうえに家に帰るにはかなり遠回りになりますから、普段はあまり気ままに行けません。
 そんな訳で、直接行くのはめったに無く通院を利用するのですが、それだって毎回行けるわけではありません。
 例えばたまたま患者さんが少なかった日とか、手間の掛かる私の視野検査とか眼底写真が行われないで、院長診察もスムーズに済んだ時などに限られるのです。
 さて今日眼科へ行ったのは、3ヶ月ごとの診察ではなくて、二種類貰っている目薬の一つが残り少なくなったからで、院長先生の診察の無い投薬だけでしたから、せいぜい15分も待てばよかったのです。
  
 池の近くのテニスコート横に停めて眺めると、池の真ん中当りに5,6羽の水鳥が見られました。
近づいて見るとそれはマガモと分かりました。どうやら親子の群れのようでした。
 しばらく眺めてから写真を撮って帰ろうと歩き始めると、どうした訳か後を追うようにして水際近くまでに寄って来たのです。
 中には岸に上がるのも居ました。その時気付いたのですが、数羽のカモメたちと多くのスズメたちが集まって来ました。
 その時別の方向から人が歩いてきました。とうやら老人のようで、その手にはレジ袋のようなものを提げていました。
 どうやらその人は、前々から時々聞いていた餌やり老人で、マガモたちはいち早く見つけて動き始めたのでした。
 直ぐ傍に居る私などはまったく恐れず目もくれず、真っ直ぐにその老人の足下に駆け寄って行きました。
 目の前近くで始まったマガモとカモメたちの必死な餌の奪い合いは、滅多に見られるものではありません。
  夢中で撮りまくったのが、下の写真です。

運動公園内の池広場とマガモたち



傍の私を怖がりもせず唯老人に駆け寄るマガモ少し離れてゴメとスズメ

全然怖がることも無く直接手から餌を貰うマガモたち

今ではすっかり見掛なくなったガマノホ(蒲の穂)=蒲鉾の由来


原野で見付けた赤い花

2010-08-25 17:43:13 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 この道東地域にしては信じられないほどの高気温、本当に地球が如何なってしまったのかと、心配になるほどの暑い日々が続いています。
 それに、この地域特有の風でもあればと思うのですが、まさに死んだように吹かなくなってしまったのです。
 つい先ごろまでの長雨や濃霧を嘆いて毎日がまるで嘘のようで、今はあの天然クーラーを恋しく思うしまつです。
 夏でもストーブを点けることもあるこの地域の夏ですから、エアコーンなどがあるのは、公共施設や企業などならともかく一般家庭では少ないでしょう。
 ですから、家の中でじっとして居たって暑いのには変わりありませんから、それならいっそのこと車のクーラーで涼もうとドライブに出たのです。
 
 車両が混雑する街中をこせこせと走るよりは、いっその事遠出をして湿原でも打っ飛ばした方が気も晴れるだろうと、一気に方向転換して4年ほど前に開通した湿原道路へ向かった。ごみごみとした街中を走るよりは、やはり湿原の方がずうっと気持ちが良かった。
クーラーを切って窓を全開にした。一気に飛び込んでくる湿原の空気は、信じられないほど冷やりとして、ただただおいしくて心地良かった。
 しばらく走ってから車を路肩に寄せてから外にでた。ゆっくりと湿原の空気を満喫し、さらに全身で心ゆくまで浴びたかったからだ。
 深呼吸をしながら遠くの湿原展望台を眺めてから、何気なく近くの原野に目を向けたとき、赤い花らしきものを見たのです。
 見渡す限り雑草のみが茫々と広がるこの湿原に何があるのだろうと、草を踏み分けて近寄って見ると、それは紛れも無く赤い花でした。
 それもこんな原野では見られないポピーの花でした。こんな処で花咲くなんて、普通では考えられないことでした。
 誰かの悪戯なのか・・・不思議に思いながらカメラに収めて来ました。

近寄って見ると赤いものは可愛いポピーの花でした






遠くの山の上の建物は釧路市の湿原展望台

近くの草叢で囀っていたノビタキ(雄)


78回目の誕生日 

2010-08-19 20:35:03 | 日々の雑記
 昨日は私の78歳の誕生日でした。
 今さらこの歳で誕生日のことなど殊更云いたくは無いのですが、昨年の夏に大腸ガン手術を受けていましたから、はたして来年の誕生日まで生きていられるのか如何かが心配だったのです。
 手術の経過はとても順調でしたが、ガンという病気の怖さ、特に他臓器への転移の心配でした。
 とくに退院後に始めた抗がん剤の投与は、その後数日も経たない内に起きた心臓の異変のためにやむなく中止したものですから、再発と転移が何時も頭から離れませんでした。
 そして術後1年目となる今年の7月に受けた大腸内視鏡検査では、何処にも異常は見られないばかりか、切除縫合が見事になされているのがはっきりと見られたのです。
 検査後の医師との面談の際に腸内の写真を見せて貰いましたが、しっかりと縫合された腸内は鮮やかなピンク色に輝いていました。
 その時強く感じたのは、あーぁこれで、後1年の命の保障が出来たとの喜びと安心感でした。
 こうしてこの度無事に78歳の誕生日を迎えることが出来たのは、これまで私を診てくれた各病院の諸先生方のお蔭なのだと、心から感謝申し上げるとともに、またこれからの一年をしっかりと生きようとしみじみ思ったしだいです。
 
 因みに私は、1、932年~昭和7年樺太生まれで、昭和22年の夏に引揚げて来ました。
 
 故に私は<じゃこしか>の二代目なのです。

家の<えりも石楠花>が今までに無いほどに一杯花を咲かせました

 


終戦の日と父のこと

2010-08-15 17:36:45 | じゃこしか爺さんの想い出話
 今日15日は65回目の終戦の日として、各新聞はもとよりテレビニュースなどでも大々的に報じられ、さらに各地でその記念行事が行われております。
 しかしこの日はただ単に終戦の日としてだけでなく、父の仮の命日として私たちきょうだいには特別の日でもあるのです。
 
 終戦当時私たち家族は、今はロシア領となっている南樺太の国境に近い炭砿町に住んでおりました。
 当時の各家庭のラジオは、デマ放送を恐れた軍当局の指令で全て撤去されていたのでした。
 ですから戦況のことや、後々知らされた玉音放送など、まして肝心の終戦さえ知らなかったのです。
 確か終戦の前々日のことでした。突然避難命令が出され、また父の職場がたまたま港の浜市街にあったために、民間人による港湾守備隊に徴用されてしまったのです。それが私たち親子の別れ別れのきっかけでした。
 その頃母は病により半身不随の身でしたから、そんな母を置いて行く父の気持ちは今も知る由もありませんが、さぞかし身を切られるほど辛いものがあったことでしょう。
 終戦が一般的に知られるようになって、山野を彷徨う避難から開放されてようやく家に戻ることが出来るようになりました。
 とうぜん家では父と母が待っていて呉れてると思っていたのでしたが、何故か父の姿は無く母だけが出迎えてくれたのです。
 翌日からさっそく私たちのきょうだいの父親探しが、地域の方々と共に始められたのです。
 父が属していた民間人による港の守備隊は、ソ連軍の上陸開始前に解散され、それぞれが浜から炭鉱町に戻ることになったのです。
 その時には父はまだ他の人たちと一緒だったようなのですが、何故か父だけ一人が帰って来ませんでした。おそらくソ連軍の艦砲射撃か、上陸して来たソ連軍の銃撃にでも撃たれたのかも知れません。
それ以来一応終戦の日を父の命日として来ましたが、65年経った今もいぜんとして父は行方不明のままなのです。
 現在百歳を越えた高齢者の生存行方が問題になっておりますが、私の父は明治29年生まれですから、生きて居ればちょうど114歳になる勘定です。

 因みに父亡き後の我が家は、戦後でソ連軍の統治下にありましたから、それはそれは大変なものでした。
 さらに頼みとしていた長兄もまた出征したままでしたから、病の母を中心にして何とか乗り越えて、無事に北海道に引揚げて来ることが出来ました。
 忘れもしません、抑留先のシベリアから一足先に帰還していた長兄が函館港まで迎いに来ていたのです。その時の母との抱き合う場面はまさに劇的な瞬間で、その映画のような場面が今でもはっきりと想い出されます。
 その後の母は、無事に長兄とは会えた喜びも束の間で、それまでの心労からか、または兄との再会などで安心したのか、それから2ヵ月後に他界しました。
病身とは云いながら、母はまだ42歳という若さでした。

 今65回目の終戦の日を迎えて想うことは、10人ほども子沢山でありながら、その子どもたちの誰からも死水をとって貰えずに果てた父の無念、母の若死やシベリアの抑留の無理からか、還暦を目前にして逝った長兄、またソ連軍統括時代の食料事情の劣悪さが祟って二十歳そこそこで夭折した次兄と参兄たちを想い出さずには居られません。

 今ロシアとのビサ無し交流とか、日本商社との交流が盛んになりつつありますが、戦争末期日本の弱みに付け込んで参戦して来た当時のソ連軍、私は今なお信用出来ないのです。当然忘れることも許すことも出来ません。
 
 今でも詳しいことは分かりませんが、当時在ったとされていたソ連との不可侵条約は、いったいどうなっていたのでしょうか。

先日訪れたお寺の前で咲いていた紫陽花です。


ようやく出合えた運動公園のマガモたち

2010-08-08 16:21:43 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 もう一週間ほど前のことですが、修理に出していたカメラを受け取りに行った帰りでした。
 修理の結果を早く試して見たかったので、帰り道からは少し遠回りになるけれども、取りあえず市の運動公園の池まで足を延ばすことにしました。
 公認野球場の直ぐ前にある小さな池には、毎年のように何回か訪れてマガモやカルガモなどを撮って、その都度ブログに載せて来ました。
 そんなことから今年もこれまでに、春先の花などが少なかった折などの埋め合わせにと二度三度と来ていたのでしたが、まったく駄目でした。
 今回は今までのことからも居ないのではないかと思いながらも、前よりは大分気温が上がって来ているから、或いは来ているかも知れないという淡い期待を持って来たのだった。
 しかし池に着いてマガモたちを目にした時、走りながらの心配などは、いっぺんに吹っ飛んでしまいました。
 小走りにしかも出来るだけ静かに近づいて見ると、居ましたよ!いました!間違いなくマガモの家族でした。

 淡い期待はしていたものの、今年は何もかも不作の年だけに、此処のマガモたちが居なくたって当たり前と思っていただけに、今回実際にマガモたちを目にしたときの喜びは大きかったです。
 先ずは、池の水鳥たちの観察用にと置かれた訳でもないのでしょうが、池の周り全体が眺められるベンチに座ってカメラを構えました。
 後は、マガモたちの動きをじっくりと眺め、やはり来て良かったと心から癒され、かつ満足して帰って来たしだいです。

下の写真は、4回目にしてようやく出合えた美原運動公園内のマガモたちです。