乗船の際には兄が中心だった。身体の不自由な母は従兄に背負られて乗船した。乗り込んだ船は何故かソ連船だった。この港から日本へ直接行くわけでなくて、一旦は南の樺太第二の都市である真岡市(ホルムスクの収容所に集められ、そこで防疫や帰国の手続きを色々と済ませてから、日本国船に乗せられ本土に向かうと云うことだった。
収容所での滞在予定は五日間ほどで、この間予防注射をされ、叉調書と本人との確認などが在るのみで、他にこれといってすることが無く、年子の弟と目一杯遊び回っていたが、場所は限定され全く自由ではなかった。それは収容所のある一画は有刺鉄線で仕切られ、更にソ連兵に寄って厳重に見張られて居たからである。
ただ一番辛く身に応えたのは背中に打たれた四種混合の予防注射だった。広い範囲で腫れあがりその痛さに言葉も無く、寝る場合にも仰向けになれなかった。この時の苦痛は今でもきょうだいが集まる度に話題に上るほどである。
収容所での滞在予定の五日目の夕方近くだった。待ちに待った乗船が開始されたのです。マストには日の丸が掲げられ、船体にはクッキリと「高倉山丸」と書かれてあった。これこそ日本の引揚げ船だった。一斉に歓声があがり、船上からもそれに答えるかのように手を振る船員の姿も見られた。
乗船の際には、日本とソ連の関係者立会いのもと、書類と本人との照合確認が行われ、船から降ろされた梯子を登って乗船した。ここに来る前に乗せられたソ連船の場合は、揺れる艀からの乗船だったから、随分と怖い思いをしたのだったが、今回は岸壁に固定されていたので、荷物を持たされても平気だった。
母の乗船には前の時と同じように、従兄が背負ってくれた。
引揚げ船での生活は短調そのものだった。小型船の輸送船の所為か、沖に出るとかなり揺れて、時が経つに連れて船酔いの者が増えていった。しかし私と弟とは、子どもながらも漁師の真似事をしていて、毎日のように磯舟で網起こしなどをしていたから、至って平気で船内を遊び回っていた。そんな訳で常に腹を空かしていた。食事は収容所では毎食ソ連の硬い黒パンだったから、乗船して支給された米の握り飯はとにかく美味かった。
老人達は「有り難い・有り難い」と押し頂いて食べ、中には涙さえ流す婆さんが居た。
船内で何夜か過ごした或る朝、北海道が見えるぞとの声で飛び起きて甲板に出ると、人々の指差す方角の海の彼方に陸地が見えた。大勢の人が出て来て陸地を眺めた。中には感極まって抱き合う老人夫婦達がいた。私には初めての北海道だったが、この時になって初めて引き上げという事に深く感動していた。
愈々船は函館港に入港した。岸壁には多くの人が出向かいに出ており、歓迎の音楽が鳴り響いていた。下船の際は障害者の家族が優先され、我が家も母がやはり従兄に背負われて早い内に下りることが出来た。
引揚げ援護局の職員に導かれて病院風な部屋に入った。そこに待っていたのは防疫処置で、先ずパンツ一枚の裸にされての薬品の噴射である。頭からパンツの中まで白い薬品が撒かれ全身が真っ白にされた。いわゆる「DTT」である。
後で聞いて知ったのだが、「虱が媒介する発疹チブス」用の消毒薬だった。
一通りの防疫処置が済むと、今度は大きな部屋に連れて行かれた。そこは引揚者に用意された大部屋で、多くの長椅子が並び更に畳敷きの処までがあった。それぞれの家族が好みで落ち着ける事が出来た。私たちは母の身体のこともあって畳敷きを選んだ。
落ち着いて間も無く、私たちの家の名前がアナウンスされた。三兄が出向いて行き程なくして一人の男性と戻って来た。なんと4年前に召集されたまま戦後になっても、全く行方が分からなかった長兄であった。
余り身体の利かない母が素早く立ち上がり兄に抱き付いた。涙なみだで抱き合う親子の姿は、周りの者を感動させる劇的な邂逅で正に映画の一場面でもあった。兄の話によると、終戦と同時にシベリアの(ナオトカ)に抑留されたが、衛生兵だったことが幸いして生き長らえて、昨年11月に帰還を果たし舞鶴港に上陸したという。直ちに父の遠縁を頼って北海道に渡り、召集前の勤務先と同系の炭砿事業所に勤めて居たのだった。もともと私たちもこの遠縁のもとに落ち着くことに決めていたので長兄との再開が叶った訳である。
兄の出現でその日の内に汽車に乗ることが出来、道央の炭鉱町に向かった。
それ以後私たち一家は、母を中心にして長兄のもとで暮らすことのなり、私もその炭砿で職を得た。
戦後間も無くから函館に上陸するまでの長い期間、一緒に暮らして来て何かと世話を受けた伯母家族とは、函館で別れた。伯母たちはもともとの出身地でもあり、更に多くの親戚筋が住んでいる、釧路へ行って落ち着くことを早くから決めていたのだった。
私は伯父や伯母、従柿たちとの別れも辛かったが、特に従兄との別れが一番辛かった。
< 終わり >
収容所での滞在予定は五日間ほどで、この間予防注射をされ、叉調書と本人との確認などが在るのみで、他にこれといってすることが無く、年子の弟と目一杯遊び回っていたが、場所は限定され全く自由ではなかった。それは収容所のある一画は有刺鉄線で仕切られ、更にソ連兵に寄って厳重に見張られて居たからである。
ただ一番辛く身に応えたのは背中に打たれた四種混合の予防注射だった。広い範囲で腫れあがりその痛さに言葉も無く、寝る場合にも仰向けになれなかった。この時の苦痛は今でもきょうだいが集まる度に話題に上るほどである。
収容所での滞在予定の五日目の夕方近くだった。待ちに待った乗船が開始されたのです。マストには日の丸が掲げられ、船体にはクッキリと「高倉山丸」と書かれてあった。これこそ日本の引揚げ船だった。一斉に歓声があがり、船上からもそれに答えるかのように手を振る船員の姿も見られた。
乗船の際には、日本とソ連の関係者立会いのもと、書類と本人との照合確認が行われ、船から降ろされた梯子を登って乗船した。ここに来る前に乗せられたソ連船の場合は、揺れる艀からの乗船だったから、随分と怖い思いをしたのだったが、今回は岸壁に固定されていたので、荷物を持たされても平気だった。
母の乗船には前の時と同じように、従兄が背負ってくれた。
引揚げ船での生活は短調そのものだった。小型船の輸送船の所為か、沖に出るとかなり揺れて、時が経つに連れて船酔いの者が増えていった。しかし私と弟とは、子どもながらも漁師の真似事をしていて、毎日のように磯舟で網起こしなどをしていたから、至って平気で船内を遊び回っていた。そんな訳で常に腹を空かしていた。食事は収容所では毎食ソ連の硬い黒パンだったから、乗船して支給された米の握り飯はとにかく美味かった。
老人達は「有り難い・有り難い」と押し頂いて食べ、中には涙さえ流す婆さんが居た。
船内で何夜か過ごした或る朝、北海道が見えるぞとの声で飛び起きて甲板に出ると、人々の指差す方角の海の彼方に陸地が見えた。大勢の人が出て来て陸地を眺めた。中には感極まって抱き合う老人夫婦達がいた。私には初めての北海道だったが、この時になって初めて引き上げという事に深く感動していた。
愈々船は函館港に入港した。岸壁には多くの人が出向かいに出ており、歓迎の音楽が鳴り響いていた。下船の際は障害者の家族が優先され、我が家も母がやはり従兄に背負われて早い内に下りることが出来た。
引揚げ援護局の職員に導かれて病院風な部屋に入った。そこに待っていたのは防疫処置で、先ずパンツ一枚の裸にされての薬品の噴射である。頭からパンツの中まで白い薬品が撒かれ全身が真っ白にされた。いわゆる「DTT」である。
後で聞いて知ったのだが、「虱が媒介する発疹チブス」用の消毒薬だった。
一通りの防疫処置が済むと、今度は大きな部屋に連れて行かれた。そこは引揚者に用意された大部屋で、多くの長椅子が並び更に畳敷きの処までがあった。それぞれの家族が好みで落ち着ける事が出来た。私たちは母の身体のこともあって畳敷きを選んだ。
落ち着いて間も無く、私たちの家の名前がアナウンスされた。三兄が出向いて行き程なくして一人の男性と戻って来た。なんと4年前に召集されたまま戦後になっても、全く行方が分からなかった長兄であった。
余り身体の利かない母が素早く立ち上がり兄に抱き付いた。涙なみだで抱き合う親子の姿は、周りの者を感動させる劇的な邂逅で正に映画の一場面でもあった。兄の話によると、終戦と同時にシベリアの(ナオトカ)に抑留されたが、衛生兵だったことが幸いして生き長らえて、昨年11月に帰還を果たし舞鶴港に上陸したという。直ちに父の遠縁を頼って北海道に渡り、召集前の勤務先と同系の炭砿事業所に勤めて居たのだった。もともと私たちもこの遠縁のもとに落ち着くことに決めていたので長兄との再開が叶った訳である。
兄の出現でその日の内に汽車に乗ることが出来、道央の炭鉱町に向かった。
それ以後私たち一家は、母を中心にして長兄のもとで暮らすことのなり、私もその炭砿で職を得た。
戦後間も無くから函館に上陸するまでの長い期間、一緒に暮らして来て何かと世話を受けた伯母家族とは、函館で別れた。伯母たちはもともとの出身地でもあり、更に多くの親戚筋が住んでいる、釧路へ行って落ち着くことを早くから決めていたのだった。
私は伯父や伯母、従柿たちとの別れも辛かったが、特に従兄との別れが一番辛かった。
< 終わり >