昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

十五夜さん

2004-09-28 19:37:07 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 今日は十五夜さん、またの名を「中秋の名月」とも呼ぶ。「どうぞ晴れてください」との願いも空しく、予報どおり午前中は少し晴れて期待を持ったが、昼からは全くの曇天で夜になっても月は姿を見せることは無かった。

 最近の天気予報は雨や曇り限って100%近く当たるが、肝心な晴れの予報は半分にも満たない。今夜の曇りの予報も是非外れて欲しいと祈っていたのだったが・・。

 月の出る出ないは別にして我が家では、十五夜は日本の良き習慣と子ども孫たちが小さいさかった頃は勿論、老夫婦の今でも欠かさず続けて来た。
今日もお供え物を買うために少しでも安価く上がるようにと、ヨーカドー・ジャスコへと妻のお供して買い回った。これでお月さん出てくれたなら最高なんだが・・。

子どもの頃十五夜の慣習として、今夜に限りお供え物をそこの家の人に黙って持って行っても良いとされていた。だから「盗んだとか盗まれた」の言葉は使わず、「持って来た・持っていかれた」の表現を使った。そんなのんびりとした佳き時代が日本にもあったのです。実際に我が家でも私がまだ小さかった頃に、この「十五夜の盗み」をされた事があった。持って行かれたのは見事に大きな西瓜だった。

家族揃っての晩ご飯時で、ほんの少しのスキを付かれたのである。ガラス戸を開け放した縁側に置いたお供え物の中から、楽しみにしていた西瓜だけが見事に消えていた。
直ぐに気付いて兄達が外に出て探し回ったが、もう既に後のまつりだった。



うしろ歩き

2004-09-27 19:35:34 | 日々の雑記
  先日(22日水曜日)のNHK健康番組「ためしてガッテン」を見て、常々健康オタクを自認する者としては、当然の如く直ちに実践したのは云うまでも無い。

 何が私を惹き付けたのかと云うと、それは簡単な運動で血糖値とインスリンが減るというこの文句に尽きる。糖尿病予備軍との診断を受けていて、普段から好物の甘いものをとかく控えがちの身には、こんなうまい話は無いわけで早速に飛び付いた次第である。

 運動そのものは至って簡単、何時もの歩きに「うしろ歩き」を取り入れれば済むのである。
普段からウォーキングに利用している自転車道路は、直線が多いから最適である。
だが簡単そうで思ったより難しい。それは行き交う歩行者が意外に多い事だった。土曜・日曜と始めてみたのだが、初秋で好天気と来れば人出の多いのは当り前のことであった。

 今日月曜日はウイークデー、歩行者は激減していた。住宅街にかかる道路には年配者若干いたものの、住宅街の外れの区域には全く皆無で、まさに貸切り状態私の専用道路だ。
思うが侭に存分に試みる事が出来て、今日は200メートルほどこなした。この「うしろ歩き」の良い点は、先ず歩く姿勢が良くなることである。前向きでの歩行では、私の場合はとかく物思いに耽り知らず知らずの内に俯きかげんのようで、一緒に歩いている妻から「背中が丸くなってるよ、真っ直ぐ前を見て!」と何時も注意されていたのだ。

 それが「うしろ歩き」の場合だと、後方は全くの無防備状態だからその危険度は大きい。しかしこの道路は直線が長い上に白線があるから楽である。前方に続くその白線を眼で追うことで、背筋が伸びて自然と姿勢が良くなっている訳である。

 まさに一石二鳥、これで血糖値が改善されるので有れば、これまでのように甘味処の店の前を横目で見ながら恨めしげに通り過ぎることも無くなるだろう。

 因みにこの「うしろ歩き」の何が良いのかと云うと、筋肉の刺激にあって
  1・・普段使わない筋肉を使うこと。2・・大きい筋肉を使うこと。・・だそうです。
        

落ち葉

2004-09-26 19:31:00 | 日々の雑記
 久しぶりに運河公園を歩いて来た。春以来の公園の遊歩道である。この季節どの遊歩道は落ち葉で一ぱいだった。カサカサと風に吹かれ行く落ち葉枯れ葉の風情は、まさに今の季節にふさはしく、無粋者ながら俳句の一つでも捻り出したい気分である。

 しかしこれが我が家のことになると、風情がどうのこうのって暢気に構えては居られない。家の表の庭に釧路市の樹木「はしどい=ドスナラ」がある。約30年前新築の折に上司の処から移植したので今はかなりの大木で、それが季節になると大量の落ち葉をもたらす。そのことは自然の摂理として仕方無いことなのだが、その落ち葉の行方が問題なのである。枯葉全部が一挙に落ちて呉れるか、或いは落ちても家の敷地内だけに留まって呉れれば何の不都合も問題も無しだが、そうはうまく事は運ばず、こちらの思惑など一切お構い無しに向こう三軒両隣りまで飛んで行く。この界隈を飛び散る枯れ葉は我が家の物と限らず、近くの小学校の並木や大通りの街路樹のものもかなりの量になると思われる。

 だが実際に道路や他の家の前まで飛んで散らかる落ち葉を見るのはとても辛いことである。朝早くとかに気付かぬ内に手早く掃くよう心掛けてはいるが、これが玄関内とか車庫内になるともう其処は他人の家の中そうは簡単に行かない。箒を手にして唯オロオロ落ち葉の動きを見ているだけとなる。そして未だ枯れ葉の残る木を恨めしげに見上げるばかり・・。

 幸いにして隣近所は皆良い人たちばかりで、今のところは助かっている。
  
     この俳句は駄作ながら数年前のものです。
     
     ☆ リストラの 身の上ばなし 落ち葉道
     
     ☆ 吹かれ来て また流れ行く 落ち葉かな
            

我が母(追憶より)

2004-09-25 12:50:09 | じゃこしか爺さんの想い出話
              ♪海は荒海向うは佐渡よ・・

 この歌を耳にすると何故か母を想い出す。今日は母の57回目の祥月命日である。若し生きているとすれば、明治36年生まれだから103歳に成りかなり高齢である。しかし実際には、3男9女の兄弟姉妹の末っ子でありながら、誰よりも早く45才という若さで死亡している。

 唱歌「砂山」は母の愛唱歌で生前良く口ずさんでいた。子守歌などの記憶は殆ど残っていないが、
この歌だけは小学校に入学する前から覚えていた。

 我が家は6男4女の子沢山、まさに「律義者の子沢山」のことわざを地で行くような律儀で働き者だった。中でも洗濯好きで、とかく遊び盛りで汚れ物は毎日山のようになる。それを一日も欠かさずに洗濯に励んでいた。だから近所では「カラスの鳴かない日はあっても、Kさんの家では洗濯物の干してない日は無い」と評判になるほどの働き者だった。それは病気で半身不随になってからも同じで、洗濯ばかりでなく縫い物や繕い物にでも左手だけで器用にこなしていた。
 私達きょうだいは上物の衣服など着た覚えは余り無いが、破れたり汚れたりした物を着た記憶も無い。何時もこざっぱりとした物を身に着けていた。

 母は42歳の時脳卒中で倒れたのだが、その時も意識が混濁した中で「小さな子等(末妹が1歳未満)を残して今は死ねない」とうわ言のように言い続けて、普通ならば死に繋がって当然とまで云われた重篤の病いから半身不随という後遺症を負いながら生還した。また終戦直前病身のため避難出来ず一人で家を守り、更に父の無き後(ソ連兵上陸の際行方不明)も戦後の混乱の最中も一家の支えとなって、まだ幼かった私等を守って来たそんな気丈な母だったが・・。

 函館の引揚者収容所で、思いもよらず出征後生死不明の長兄との再会から、心の緊張の糸がプッツリと切れて仕舞ったのか、その後はとかく床に就きがちになり、長兄との生活を一緒に始めてその三月後に生命を終えた。時に昭和22年9月25日のことで、享年45才であった。

 

おはぎ

2004-09-23 19:37:23 | 日々の雑記
 今日はお彼岸の中日で、お寺(菩提寺)参りをして来た。この時季にしては珍しく気温が上がり、
真夏を思わせる程の暑さ(23度)となり、クーラーを入れて走ったほどである。

 お寺の帰りは本家に顔を出して、本家の仏壇をお参りするのが、私のお盆・お彼岸の恒例の
慣わしである。本家には長兄が20年前に他界し、嫂が娘と孫共に我が家の両親・きょうだいの位牌を守って呉れている。

 嫂は母の死後間も無く長兄のもとに嫁ぎ、未だ幼い私の弟妹達の母親代わりとなって呉れた。
食料不足の時代それに子どもも生まれ、生計を支えるにはかなりの苦労をした筈である。

 私は結婚するまで一緒に暮らした。少しでも足しになればと16歳過ぎて直ぐに就職して家計手伝った。そんな訳で嫂は私の性格から食べ物の好き嫌いなどは良く知っていた。

 おはぎ(ぼたもち)が特に好物だったのを未だに知っていて、秋のお彼岸には必ず作って待って
いて呉れるのである。嫂は私の小豆餡が大好物なのを良く知っているから、中身のご飯が小さく回りの餡がタップリつけてくれる。売り物などとは全く比較にならないほどの、最高のおはぎである。以前は4個は平気で平らげたが、今では2個で充分である。



ログハウス(追憶より)

2004-09-21 19:28:27 | じゃこしか爺さんの想い出話
 私が生まれた家のことであるが、今流に云うならばログハウスと呼ぶべき物なのだろうが、決してそんな洒落たものでは無く、その昔ロシア人が住んでいたと云うもので、山から伐り出し皮を剥いだだけの丸太を積み上げたという、見るからに粗末なしろものだった。私が生まれた場所そのものは、樺太西海岸で国境から数百キロ南に位置する半農半漁の寒村である。家は村と呼ぶのも憚れるような小さい集落の外れにあった。               

 私がその家を初めて見たのは終戦直後の事で12・3歳の頃だった。当時は戦後のことで終戦前まであった定期バスは既に無く、また現在のように自家用車なんかは夢の中でも見られない時代だったから、街から街への移動手段はもっぱら徒歩に限られていた。それは子どもとて同じことで、6里(24キロ)ほどの道のりならば子どもだけで普通に往来していた。

 戦後私の家族は、父は港の防衛に招集されたまま行方不明、長兄は出征で不在だった。病身(半身不随)の母と姉と弟妹だけで、直ぐ上の兄は離れた町の教師をしていた。そんな訳で何かこと有るごとに、二つ離れた町の伯母(母方)のところを訪ねていた。

 その家が私の生まれた家であるのを知ったのは、伯母の家の従兄が教えて呉れたのである。其処はちょうど小山の麓で、家の周り一帯には笹竹がびっしりと生い茂っていた。丸太を簡単に組み合わせた唯頑丈さだけが取り得のものだった。約20坪(66平米)の横長の家には小さな窓が一つ在るのみで、他には肝心の煙り出し用の煙突の所在さえ分からなかった。こうでもしなければ昔は獰猛な熊から身を守れなかったに違いない。

 今は無人で荒れ放題だったが、父の転職の際に一時凌ぎに借りたらしく、その後私の生後約半年くらいで離れたようだが、そんな荒削りの丸太作りの粗末な家でも、今流に呼べば確かな「ログハウス」である。

 今となっては其処はロシア領で行くことも事も出来なくなったが、湖などの傍の見るからに洒落た別荘のログハウスを目にする都度、あの荒れ果てた私が生まれたと云われる丸太造りの家を、ふと想い出すことがある。


或る韓国少年

2004-09-19 17:27:40 | じゃこしか爺さんの想い出話
 極東ブログ:[書評]サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのかを拝見いたし、戦時中のひと時を共に過ごした韓国少年を想い出しております。

 私は樺太の国境近い西海岸の炭鉱町で生まれ育ちました。戦時中には家の近所にも多くの韓国の方が住んでいたし、又炭住街の外れには韓国人の独身寮もありました。

 確か小学四年頃だった筈です。体格の良い生徒が転校して来ました。名前は「大林舜勳」と云って、身体がクラス一番の大きさにもかかわらず、温和な性格の上正義感がとても強くて、いつも弱い者の見方でした。その彼が韓国の子どもだと知ったのはかなり後のことで、当時は子供心に意外に感じていたものでした。他の韓国の生徒とは違い、言葉も日本人と全く変わらず何にも益してその学力が抜群だったからです。

 その彼の口癖は「特攻隊に入って日本の為に命を捧げるのだ」と云う事で、これは多分に彼たち
韓国人の置かれた立場上での事でしょうが・・。しかし彼は「予科練」入隊はクラスの誰よりも可能だった。残念ながら彼は程なくして再び転校して行きましたからその後の事は知りません。

 その後何回か開かれた同期会では必ずと云って良いほど彼の事が噂に成りました。彼の体格の良さと成績の良さから、「北朝鮮あたりできっと政府高官にでも成って活躍してるだろう」・・と。

 韓国人は優先的に日本人よりも早く帰国したのだろう、子ども心にそう思っていたのでしたが、多くの方が帰還されずに或いは未だに現地でご苦労されているのかも・・と思うと一体全体彼「大林舜勳」君は、今は何処で如何していることか、果たして健在なのかと俄かに気にもなり、遠く樺太の少年時代を想い出している次第です。



健康食品

2004-09-18 19:32:40 | 日々の雑記
 私は家族肉親はおろか友人からも「いのちより健康が大事なんだよね!」と揶揄されるほどの「健康オタク」 で通っている。確かにその通りで、日頃から健康には人一倍気を遣っている。

 先ずテレビ番組であるが、主な物で「ためしてガッテン・おもいッきり・あるあるⅡ」であるが、他に新聞や雑誌などにも目を通し、その内容によって必要であると思えば切り抜いて保管する程の念の入れようである。更に例えば「○○」は肝臓に良いとあれば、無理にでも買いに行かせるとか、自分が一緒の場合には勝手にどんどん籠に入れて仕舞う。後で妻との言い合いは必至となる。

 そんな健康オタクであるから、定めし今流行りの 「特定保健用食品」 を数多く愛用してるだろうと思われがちで有るが、確かにこれまでに色々と試みて来た。鹿児島の黒酢などもそうだが長続きせず、せいぜい二・三ヶ月程度であった。

 そんな中で唯一つ十数年来飲み続けてきたものがある。写真の物だが、その名は「ヨジゲン」で云ってみれば椎茸のエキスである。正式には「シイタケ菌糸自己消化液」と呼ばれる流体食で、何に効果が有るなどの特別な宣伝パンフが有る訳でも無く、大々的に宣伝している訳でもない。

 ただ「悪い病気に罹らない・・」 との口コミの言葉に引かれて、寝る前にチョコに一つ飲んでいる。そのお陰かどうか今のところ幸いにも妻共々に、ガンなどの性悪な病気に罹っていない。


ヘリコプター

2004-09-16 21:46:16 | じゃこしか爺さんの想い出話
 あの忌まわしい18号台風が去った後は、地上の被害はともかくとして、ここ釧路方面は雨の日もあったが穏やかな天候が続いている。特に昨日今日と朝から輝くばかりの快晴で、天空は真っ青に晴れ地平線上には白い薄い雲が微かに見えるだけ、まさに日本晴れである。

 その果てし無く広がる青空の下、初秋の大気が日毎に澄ん出来て湿原の遥か遠くに阿寒連山(雌阿寒岳・雄阿寒)がくっきりと其の姿を見せるようになった。まさに啄木「神のごと遠く姿をあらわせる・・」の短歌の世界である。

 そんな青空の中、湿原の彼方にヘリコプターが現れて旋回を始めた。大きく輪を描いては葦原の上すれすれにまで低空飛行を繰り返している。それは遊覧飛行と思われた。飛行機で無くたとえそれがヘリコプターだとしてもこの秋晴れのもとでの遊覧とは、まさに至福の体験で有ろうと、いささか羨ましい限りである。

 鳥のように大空を思うが儘に羽ばたきたいという人類の遠い昔の夢に等しく、大空への憧れは老人(72歳)に成った今でもいささかなりとも衰えてはいない。今から五十数年前の少年時代に軍国少年の誰もが抱いた「予科練」少年航空隊入隊には、チビの部類に属する私でさえもがその体格を顧みず人並みに、夕日の中を戦場へ向って飛び去る「ゼロ戦」に憧れていたものである。

 今となってそれを思い返して見ると、あれほど憧れた特攻隊員の行く末はアメリカ戦艦・空母への自爆行為であって・・寺山修司の短歌「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の感も否めないが、それはそれとして五十年も昔の少年時代の懐かしい想い出である。
 

手作り醤油イクラ

2004-09-15 15:40:16 | 日々の雑記
 秋の味覚サンマに次いで、第二段いよいよイクラの登場です。もう十日ほど前から生筋子は大型店や地域のスーパーなどに出回っていたのですが、価格の割には卵の熟成度合いが今一の感じだったが、今日は価格も若干安価く卵もほぼ完熟状態になり早速く買って来た。

 我が家の妻手製の「醤油イクラ」は親戚での味比べでも評判の出来映えである。昨夕仕込んだので今朝あたりからが丁度良い食べごろです。先ずは試食とばかり「イの一番」で朝食に・・妻作る人・私食べる人・私の役はとても良い役回りです。

 生筋子の出回る期間これからです。後四・五回は食べられるだろう。味覚の秋は本当に楽しい!