昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

「笑いは薬」ストレス解消法

2005-09-30 21:00:52 | 日々の雑記
 第一線を退いた一介の年金生活者の老人であっても、日に日に外から受けるストレスはそれなりに多いものがあります。
年金生活者として一日の大半を、テレビ・パソコン・読書とウォーキングなどで、割り合暢気に暮らしているつもりなのですが、気が付けば色々な方面からのストレスを抱え込んでいます。ストレスは何よりも怖い成人病の大きな原因とされているだけに、なるべく深くは考えずに、何気なく遣り過ごそうとするのですが、かえってその無理した努力が、またまたストレスになって仕舞うようで、ストレスとは何とも厄介でタチの悪い困りものです。

今の世相からして、いくら年金生活者の気楽な身と云っても、一般社会とは一切没交渉という訳にはゆかないから、ある程度のストレスは仕方がないことで、結構な数になります。それら全ての事にいちいち関わって居ては、身体が幾つ在っても堪りません。それらのストレスはなるべく、その日の内に解消するように心掛けています。

 さて私のストレス解消法は「笑いが一番・・・笑いは薬に優る」をモットに、努めてラジオ・テレビのお笑い番組を見るようにしています。その笑い方を大別すると「大笑い・高笑い・バカ笑い」などがあるようです。私は常にこの三つの笑い方を使い合わせて腹から笑い、その挙句の果てに涙を流すほどになって仕舞うのです。

 最近医療の領域でも、笑いが取り上げられて来たようで、テレビなどでも良く紹介されております。詳しい事は分かりませんが、笑うことによって脳内に特殊なホルモンが発生するらしいです。そのホルモンがストレス解消に役立って呉れるのだそうです。笑いの対象は何も無理しなくとも、いくらでも身近に在ります。それがテレビ・ラジオの、お笑いやクイズそれにバラエティー番組なのです。中には低俗番組と非難されるものもありますが、見る側の私などは70歳過ぎの、もともと平々凡々の老人ですから、今更気取ってみたところで、如何ってこともありません。それにその気になれば、どんなに次元の低い番組からでも、何らかの学ぶべき物がある筈です。

 己の知識不足を棚に上げて、天然ボケの若い女性タレントやそれ相応の年配者の全く見当違いの回答、小学生でも判るような問題に右往左往するタレントたちを見て、大笑いすることこそ、つくづくと「笑いは薬」に相応しいものと思います。
大笑いした後には何も残りません。気持ちがすっきりするだけです。
 こんな私でも時には、教養番組や後々にまで心に残る、人間内奥の複雑さを秘めた極めてシリアスな映画やドラマなども好きで良く見ます。しかしそのようなものは感動的なものが多いわけですから、叉別な脳内ホルモンが発生して脳の活発化に役立つと云います。

 他に全く肩の凝らない時代劇や、好きな歌手が出演する歌謡番組なども、緊張感の開放に利用しています。ぶらぶらと周りの風景などを眺めながらのウォーキンギは、叉とないストレス解消法の一つであると思います。

 更に私は一日の締め括りとして、ラジオなどから録り貯めて置いた、落語・漫才を床の中で聴くのを欠かした事はありません。特に古典落語に出て来る、思わずニヤリとするほど含蓄のある言葉、また気の効いた言葉を聴きながら、何時の間にか眠っております。ですから最近では、「パブロフの犬」同様に、落語を聴き入ると直ぐに寝入って仕舞い、寝不足などで困ることは殆どありません。
ただ困ったことは、その落語・漫才などは最後まで聴く事が出来ず、いつも初めのところばかりを聴く破目になり、毎夜その繰り返しをする始末です。

 以上が私の毎日のストレス解消法です。この為か心臓に若干問題を持ち、更に高血圧症・コレステロール・脂肪肝・糖尿病予備軍としての私は、70余歳を過ぎた今でもなお変わる事無く、小康を保って居られる大きな要因であると思う次第です。

秋空に想う

2005-09-28 20:57:06 | 日々の雑記
 朝目覚めて直ぐに大空を見上げる癖がある。
それは限られた窓枠のみの空だから、大空と呼んで良いのかどうかは別として、四尺四方にも満たない窓枠から見られる、たったそれだけの空模様に、気持ちが左右されてしまう事が多い。
 その広くも無い窓に広がる空の青さに、昂揚している自分を感じ、そこに広がる曇り空に、どっと気落ちしている自分を発見する。
 また何かの用事があって、早々と起きた日の朝など、思い掛けなく雨が窓を濡らしているのを見て、何故か裏切られた思いになりガッカリしてしまう。

 空は宇宙の初めから天に在って、決して裏切りなどはしない。ただ往々にして人を裏切るのは、自然の成り行きを支配したと錯覚している、役所の関係者のみである。その裏切りの良い例が、気象情報で出される天気予報です

 春夏秋冬の区別無く空は、いつでも其処に在るのだが、その季節によってそれぞれ趣むきが違って来る。
先ず春の空だが、天地の見境も分からぬほどに、ぼうっと霞んで見える。夏の青空は、朝の内からその日の焦熱を予感される。冬の日の青空は、その寒気を超えた、凛とした清々しさが良い。私が一番に好きなのが秋の空である。夏の水分が霧消して、澄み切った大気が秋の空を更に大きくしてくれる。それが俗に言う「天高くして馬肥ゆる秋」でもある。中でも黄昏時の空は最高である。
 
しかし青空が良いと云っても、単に真っ青な空が在れば、それで良いと言うのではない。非の打ちどころの無いように晴れ上がり、雲一つ無い青空もそれはそれで良いのだが、それだけでは何故か味が無くて、ただ寂しさだけが残ってしまう。
 やはり秋の空には、「変わりやすい」との喩えがあるように、例えば刷毛で刷いたような薄雲が、また綿を千切ったようなふんわりとした雲が在ってこそ、秋の空に相応しいと云えるのでは無かろうか。

 以上が全く何の根拠も無いままに、私が常日頃勝って気侭に想像している、空への想いの一端である。だからこの私の考えを、人さまには押し付けるつもりはさらさらに無く、ただこのような人間が居るのを知って欲しいだけである。
             綿みたいな雲が浮かんでいる空

             ただ真っ青で何も無い空

             ヘリがとても羨ましい


夕焼けに惹かれて

2005-09-26 22:01:55 | 日々の雑記
 先日のことです。それは北日本を襲ったかなり大きな低気圧が去った翌日だったと記憶しています。
急な用事が出来て、日課の午睡を取り止めて、急遽隣村に出かけた日の帰りのことでした。
 余り時間を掛けずに、済ますことが出来るだろうと、軽く考えて出かけたのですが、予想に反してその用事が長引き、帰途に着いたのは6時に近かった。

 日中には車の数が少なくて、とても走り良い支線道路なのですが、近くに市や町が隣接している所為で、夕方ともなれば其処を往き来する車の数が、急に増えて来るのが常でした。早くも幹線支線の交差点の手前辺りでは、混雑が始まり若干の渋滞さえ見られました。

 私は暗くなる前に家に着きたいと、何時もはよく利用する街道を避けて、住宅街を抜ける道路を選んで走っていた。やがて住宅街に入って間も無く、老妻の「まぁ綺麗な夕焼けだこと・・・」の声で、速度をやや落としてバックミラーを覗き込んだ。
 そこにはまだ青さの残る片空が、見事な夕焼けに赤く染めあげられていました。私はどうやら先を急ぐあまりに、前方だけに気を取られ、刻一刻と移り変わって行く周りには、まるで気付かなかったのです。

 夕焼けは俳句の季語では一応夏のものとなって居るのですが、春・夏・秋・冬に関係なく夫々の夕焼けには、夫々の情趣があってとても好きです。それは子どもの頃からで、よく晴れた日の夕暮れには、ご飯時を忘れて外に出ていて、良く母に叱られたものでした。

 このように夕焼けに惹かれるのは、私だけの事なのか叉は他の多くの人たちも、私と同じなのかは良くは分かりませんが、夕焼けを見ていると何故か、言い知れぬ郷愁を感じるのです。そして訳も無いままに、真っ直ぐに続く片田舎の道を、母の手に引かれて夕焼けに向かって歩く、己の姿が脳裡に浮かんでくるのです。実際には母とそうしたことの記憶は一切ありません。物心がついてからはずうっと街中で暮らしていたからです。それに母は若くして病に侵されて、半身が不自由に成っていました。
或いは、かってアフリカを起源とする現人類が、より良い安住の地を求めて、地球上を隈なく渡り歩いた際、親子がアフリカの広野で経験した事が、私の遺伝子の中に残されているからなのであろうか。それは余りにも飛躍し過ぎた単なるこじ付けに過ぎないのか・・・。

 そんなことで今日も、母の手に引かれて行く、私の姿を脳裡に浮かべて、暫し郷愁に浸っていた次第です。
                  或る日の夕焼け

 



馬鈴薯・南瓜そして甜菜(樺太想い出日記より)

2005-09-24 17:46:57 | じゃこしか爺さんの想い出話
 最近季節のせいか新聞紙上などに、畑作の生育状況やら既に収穫された農作物の情報が数多く掲載されはじめて来たようです。
 ウォーキングのコースとして時折り訪れる、郊外の自転車道路脇の空き地を利用して作られた、付近の住民達の畑も既に取り入れがあらかた終わっていた。
それらを目にして思い出したのが、子どもの頃戦後樺太で経験した畑作のことでした。

 戦後樺太の食糧難は想像を超えるものでした。当然ソ連の統治下にあったわけで、食料などの供給は厳しい統制制度により配給されていました。もはや日本から米などが来る筈が無いのですから、日を追うごとに米の配給が減ってゆき、やがて全く無くなり大豆がその米に替っていったのです。
 そのような食料事情にも地域差があり、私たちが終戦直後まで住んでいた炭鉱町では、大豆が主体となっていたのですが、戦後間も無く移り住んだ、拠点都市のE市の在では、それ程逼迫されておらず、米などの配給量こそ目に見えて減ってゆきましたが、ある程度予定通りに配給されていました。
 その米は、確かな事は分かりませんが朝鮮米だろうと噂され、しかもその米は籾殻付きで配給されていたのです。精米などは予め臼などで籾殻を取った後、更に小分けにして一升瓶に入れて棒で突く方法で白くしていたのです。ですから今のように真っ白な白米と言うわけにはゆかず、やや黒味がかった七分づき程度の御飯でした

 しかし食料不足は日を追って厳しくなり、その対策に各家庭では菜園作りを始めました。その農作物の殆どは、馬鈴薯と南瓜それに唐黍でした。戦後移転した村で共に暮らした、伯母のところではかなりの土地を所有していたので、その大半をそうした作物作り当てていました。当時は馬鈴薯や南瓜は主食代わりとして、とても重要な食品でした。

 戦後の伯母の家では、こうした半農半漁で生計を立てていましたから、当然私たち家族の生計もそれに預かっていた訳です。私たち兄弟は子どもながらにも、進んでこの半農半漁の作業を手伝っていました。
 農作業は伯母が主体であり、その手伝いとして私と弟それに、近くの町から来ていた親戚のお婆さんであり、また漁業の方は畑仕事の合え間に、伯父の指導のもとで、私と弟が小さな網(ポン網)を使って季節の魚を捕っていたのです。
 こうした主食代わりの農作物や魚類などは、私たちだけでなく、元住んでいた炭鉱町の親戚達にも分けられていました。大豆主流のそれも滞りがちな配給に困窮した親戚たちは、大豆加工食品を背にしてやって来て、帰りには芋や南瓜を背負って戻って行くのが常でした。
 伯母の家では馬鈴薯や南瓜の他に、甜菜(砂糖大根又の名はビート)も植えつけていました。私はここで初めて目にしたものでしたが、一見大き目の蕪のようなもので、この甜菜を伯母の家では甘味料として重宝していました。薄切りにしたのを大きな鍋で煮詰めて黒い水飴状にして、それを料理などに入れて使うのです。
このビートのことでは今でも良く記憶に残っているのが、作りたての芋餅をこの黒蜜状の汁に浸して食べることでした。そのほのかな甘さは、今なお懐かしい味覚として、舌に残っています。

初秋のサイクリング・ロード

2005-09-22 21:02:33 | 日々の雑記
 朝晩一時的にストーブが欲しい日もあったが、昨日の日中は20度前後までになったうえに、適当な風もあり最近に無いウォーキング日和となった。
 空を見上げればそこには真っ青な青空が広がり、その青空に点を置くように綿みたいなふわふわとした雲が浮かび、上空には風もあるようでそれらの雲が緩やかに移動している。
道路脇の畑地の作物はあらかた収穫されて、所々に遅蒔きの大根などが残っているだけだった。そして多くの野の草花類も未だ名残の花を留めているのもあったが、それらの葉などは既に尾羽打ち枯らしての立ち枯れ状態で、その辺一帯が一段と淋しさが増していた。

 ちょうど今が紅葉の始まりなのだろうが、その先駆けのナナカマドの実は、それぞれの木々の枝に、鈴なり生っているが、今年の夏が長かった所為か未だに中途半端な、橙色止まりであった。もう少し大気がヒンヤリとして来れば、更なる紅さに色付き秋空の青さに映えて来るのだろう。

しかし湿原の姿は淋しいばかりでは無かった。中空の大気は夏の間の湿気が減って来て、視界が広がり夏の間ずうっと姿を見せていなかった、阿寒の山並みが再びその勇姿を現していた。
 更にまた春からこれまで多くの花たちが、競い合うようにして目を楽しませていたが、それらに替わって足元には余り目立ちはしないけれども、細身ながらも真っ赤に色付いた「タデの一種」が、枯れ色が目立ち始めた草叢のあちこちに広がり目を惹いた。

雲が出て来てやや靄がかかった雄阿寒岳

足元の草叢に広がる「オオケタデ」の一種

まだ橙色のナナカマドの実

道路脇にただ一本咲いていた二度咲きの「マツヨイグサ」




ハマナスの実

2005-09-20 21:27:47 | 日々の雑記
 先日湿原道路を歩いて来た日のデジカメのメモリーが、そのままになっていたのを思い出して、パソコンに取り入れて確認して見た。案の定取り込み忘れの分が残っていた。それが下の写真ハマナスの実である。この花には一般的なピンクと白があって、他に珍しく八重咲きのも見られる。

 さてこのハマナスの実の事だが、花のあるものは種子の確保のために、実を付ける「ヤマブキ以外は」のが普通であるから大して珍しいものではない。
しかしこのハマナスの実は、私にはかなり想い出の多い木の実なのである。真っ赤に熟れた実は、戦中戦後の食糧難時代の欠食児童には、立派な食料と通用していた。定かと覚えて居ないが確か甘酸っぱい味がした筈である。
 なお現在このハマナスの実は、薬療効果もあるようで他にジャムなどにも幅広く利用されているらしい。

 あの頃は、このハマナスの実以外にも、木の実や花の実で食べられると聞けば、大抵のものは口に入れていたものである。先ず代表的なのが「コケモモ」で、一般的に私たちは「フレップ=黒・赤」と呼んでいた。初夏に熟れるのが「黒フレップ」でその名のとおり黒葡萄そっくりだった。舌や口の中は黒紫に染めて夢中になっていた。「赤フレップ」は秋で、これはかなり山奥に行かなければならなかった。これは「黒フレップ」より日持ちがするうえに酒にも利用された。
 他にやはり初夏の山で採れる「バライチゴ」だが、この正式な名前は分からないが、バラに似た花が咲き更にバラと同じく枝に棘があって採るのに苦労したものである。これは「ラズベリー」ということが分かった。
 また他に、カリンズ・グスベリ・オンコ=松・山葡萄・コクワ・などがあった。珍しいのは「じゃが芋の花の実」である。熟れて来ると柔らかくなり、とても甘い味がした。何故か親には止められていたが、夢中になって奪い合って食べていたものである。

 真っ赤な色が目に付いてカメラに納めて来た筈なのに、ウッカリ取り出すのを忘れ、若干時季が過ぎた感じもしたがブログに載せてみた。
   赤いハマナスの一重          八重の花
  
     白の一重             八重花
   
                   ハマナスの実

                   同上



私の好きな漁港

2005-09-18 20:33:02 | 日々の雑記
 私が季節ごとに好んで訪れている、その漁港は市の街外れの太平洋に面していた。街外れの小さな漁港とは云いながらも、道内の拠点都市の一つに属していたから、その折々の漁期に合わせて人や車の往来でかなり賑わっていた。
 しかし今回初秋の時季に合わせて来て見て先ず感じたのは、私が好きだった鄙びの風情よりも、寂れが色濃く漁港全体を覆っていたことだった。それに漁港の近辺の家並みからの生活音が少なく、漁港の周辺一帯がひっそり静まっていた。

 この漁港の地域は街外れと云っても、海底炭として名高い「T炭砿」の鉱区と隣接していたから、それに関連した施設や、その関係者の住宅用の高層アパートなども建ち並び、そのうえそれら目当ての飲食街も出来て、かなり人口密度の高い地域となっていた。その盛んな活気の勢いは、むしろ街中の斜陽の地域を大きく凌いでいたほどであった。
 しかしその炭砿も、我が国を襲ったエネルギー革命とやらの大波に呑み込まれ、他の多くの炭砿同様に何時しか斜陽に陥り、最後まで頑張っていたものの、先年遂に閉山と相成って仕舞った。この炭砿の閉山の影響は大きく、その市全体の人口を大きく減少させるに至り、遂に大台の20万を大きく割るまでになっていた。やはりそれはこの漁港の地域にも現れ、人が減り小学校さえもが他の地域に統合されて仕舞った。

 私がこの漁港に特に惹かれる訳は、戦後の12・3歳頃に数年過ごした事のある、樺太の片田舎の漁港に余りにも似通っていたからである。その頃は子どもながらに磯舟に乗り込んで網起こしを手伝ったり、浜の子らと生まれたままのスッポンポンの裸で、浜辺や海水に浸かって遊び回ったりしたのも、その漁港の傍であった。
その頃の海の匂いが身体全体に滲みこんだ所為か、年に一度は海を見ないと気が済まない状態になっていた。だから引き揚げたところが道央の炭鉱町であったから、年に一度は小樽や留萌周辺の海岸へ海水浴に出かけていた。
 現在道内でも有数の漁港でもありまた商業港である、地域の拠点都市に住んでいるのだが、日がなその海を目の前近くにしながらも、余り癒やされた思いに成れないで居る。それは海辺には当然ある筈の砂浜が無く、色も艶も無い堅いコンクリートで固められた、ただ物々しいばかりの建造物に埋めつくされているからである。
私の中に在る海は、幾つもの埠頭に分けられた巨大な港で無くて、絶えず打ち寄せる波の洗われている波打ち際の、しっとりとした砂浜の上を、一つ一つ足跡を残しながら進み振り返っては、また進んでは振り返る、あの子どもの頃に親しんだ海であり、更に小さな漁船がポンポンとエンジン音を立てながら、まっすぐ沖に向かって進んで行く漁港の姿なのである。

 しかし今はそんな事は中々に叶えられそうも無い。昔子ども等と膝まで浸かって遊んだ事のある、身近な浜辺の波打ち際は、波除けのブロックか岸壁で覆い尽くされて、僅かな釣り人たちに利用されているばかりである。後に残るのは、車や人を全く寄せ付けない、岩場と絶壁の崖などだけである。

 もともと賑やかで活気のある漁港を望んで来たわけでも無いから、作業車らしき車と乗用車が数台停められている他は、全く人っ気が無く静まりかえった漁港の佇まいもまた乙なものと、漁港一帯が見下ろせる高台に車を進めた。

 ちょうど午後の網起こしにでも向かうのか、小型の漁船がただ1艘岸壁を離れて漁港を出ようとしていた。かなり離れていたから船のエンジン音は聞こえて来なかったが、真っ青な水を切り白い航跡を残して進む船を、やや暫らく眺めていた。

私の好きな街外れの漁港



ツール・ド・北海道始まる

2005-09-16 21:55:34 | 日々の雑記
  折からの秋晴れに誘われて、月初めからの懸案の所用を片付けるために、老妻と早目に家を出て、知人が住む阿寒町に向かった。
 一昨日の台風くずれの低気圧には、ストーブを点けるほどの低気温で驚かされたが、うってかわって今日は朝から、暖かで風も無く正に秋晴れで、空には刷毛で刷いたような薄雲が散らばって居た。

 海辺の国道から、通称まりも街道に入り内陸に進むにつれて、気温が徐々に上がり始め、おそらく20度を超えているだろうと思われた。先日設定した車内温度を、プラスからマイナスに切り替えたほどだった。僅か往復40キロ程度の道程ではあるが、最高のドライブ日和と云えた。

 所用を済ませて辞する時、昼食を是非にと誘われたが、今日の昼食は途中の評判の蕎麦屋でする事を、出掛ける前から老妻と共に楽しみにしていたので、丁寧に断って先を急いだ。

 その帰りの道中、街外れの山あいの街道に設けられた駐車帯に、多くの車が停まっていた。それ事態は別段珍しいことでも無かったのだが、車外に出ている人たちが、それぞれに小旗を持っているのに気付き、咄嗟に停車して訊ねた。
 それは昨日帯広スタートして始まった道内最大の自転車レースの一行が、間も無く此処を通過するとの事だった。そこで昨日の夕刊の一面に載せられていた、スタート場面の写真を思い出していた。そこで撮ったのが下の写真です。一団のスピードは想像以上に速く、満足に撮れていた写真はこれ一枚だった。

 帰宅して昨日の夕刊を取り出して見た。大きな文字で「北の初秋銀輪疾走」とあり更に「ツール・ド・北海道第一ステージ始まる」とあった。
 
車の制限速度を超えるスピードで駆け抜けるレーサーたち



ストーブを点ける

2005-09-14 20:56:02 | 日々の雑記
 昨日は今年2番目の暑さで27度にもなったのだが、一夜明けた今日は朝から冷たい小雨が引っ切り無しに降り続いている。この雨は、予報士の説明に因れば15号台風のなれの果ての低気圧だそうで、沖縄を掠めて一端は中国大陸に上陸し後、何の因果か俄かに向きを変えて、朝鮮半島から日本海を北上して、今日と明日に雨を齎すらしいことが分かった。私が住んでいる道東地域は未だしも、日本海側ではかなりの雨が予想されているから、正に招かざる客と云える。
 まだ朝の内はさほど気にならなかった気温は昼過ぎてから、一気に13度を割るまでに下がった。日課の昼寝から目覚めて余りの寒さに、くしゃみを連発、その上鼻水が止め処なく流れ出す始末であった。
 
 慌てて長袖シャツに着替えると同時に、老妻にストーブを点けさせた。室温を一気に20度に設定した。ストーブ点火は6月の朝晩以来のことである。
 ストーブの前に陣取って、燃え上がる青白い炎に目を凝らし、徐々に温まって来る室温に、何故か気の安らぐのを覚えつつ、折からのテレビでの気象情報に目をやると、関東以西は軒並みに30度を越す真夏日となっていた。余りにも違う気温に驚くとともに、やがて来るであろう冬の到来に思いを馳せて、更にストーブににじり寄った次第である。

 なお下の写真は、先日運動公園で撮って来たものだが、名前が判らず暇をみては調べを続け、今日も時間が在るのにまかせて検索した結果、どうやら「エゾイブキトラノオ」ではないかと、不安を持ちながら載せた次第です。今一つは「アカツメクサ=ムサラキツメクサ」です。
              エゾイブキトラノオ・・・?

                 同上

                 アカツメクサ=ムラサキツメクサ




庭に今年最後の花が・・・

2005-09-12 22:22:06 | 日々の雑記
 名付けて「郵政民営化選挙」は、想定どおりであったのか、或いは大方の意に反した結果であったのかは、人それぞれの思惑によるのだろうと思います。
 今回の選挙での一番の特徴は、民営化に反対する抵抗者を、何がなんでも封じ込めようとする激情型の感がありました。語弊があるかも知れませんが、それは正にドロドロと怨念に満ち溢れておりました。
 また今一つの特徴は、死語に近い「刺客」なる言葉が、堂々とまかり通っていましたが、今更これまでしなくても良いだろうにと、老い先短い私などは嫌気さえ感じていたほどです。
 今の世の中、国民が政治への関心を失い、年々減ってゆく投票率は、多くの心ある人の嘆きを誘い、更に悲観の材料にもなっていました。
しかしながら何が幸いするか判りません。いざ蓋を開けてみると、大方の予想を大幅に裏切り、なんと67・51パーセントという高率で、現選挙制度での過去最高になったと云う事です。
 これは怨念劇場型選挙お所為でしょうか。何はともあれ喜ばしい事に違いありません。後は政治家の皆さんに、色々な方面で身命を賭して頑張って戴くだけです。

 さて、たいして珍しい花でもありませんが、我が狭き庭に今年最後の花が咲き始めました。この花は、今亡き元職場の上司の家からの戴き物です。花の名前は「シオン=紫苑」と云うのだそでうす。
 喩えの「猫の額」に等しくて、正にそれピッタリの我が家の庭は、花が終わり愈々枯葉の季節に入ります。後は淋しくなって行くばかりです。庭の今年最後の、華やぎを留めて置くために、カメラに納めました。
             
              シオン=紫苑と云うのだそうですが?

              同上