昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

第60回終戦記念日

2005-08-15 21:03:49 | じゃこしか爺さんの想い出話
 例え60年という永い年月が過ぎたとしても、樺太で体験した終戦の日々の事は忘れられない。あの一連の出来事は未だに消える事無く、時折り夢にまでに現われる正に悪夢である。若しもと云う仮定は理に合わないことは充分に承知しているが、若しもあの戦争末期に、ソ連軍が不可侵条約を一方的に破って、樺太に侵攻して来なかったら・・・と云う思いについついとらわれてしまう。くどいようだが本当に若し、あの時日本の弱みに付け込んで、ソ連が戦争を仕掛けて来なかったら、父が命を失いまた長兄のシベリア抑留も無ったにだろうし、またそれを苦にしての母の病気再発も起らず、モットモット長生き出来たことだろう。
 
 しかし実際には母はそうしたことからの心痛に押しつぶされて、44歳という若さで他界した。更に私たちも既に戦争が終わっていることも知らされずに、ソ連軍の侵攻に怯え、機銃掃射に追い回されて数日間も山野を彷徨ようことにもならなかった。後になって判ったことだが、機銃掃射で追い回され、命からがらジャガ芋畑の中を這いずり回って逃げていたのは、戦争が終わった15日の数日後のことであった。
 
 子どもの頃に受けた事柄が今なお心に深く残り、それ以来ソ連という国には信用が置けず許す事は出来なかった。それは今も同じで、ソ連という国が崩壊してロシアとなった現在でも全く変わらない。
 だから今ビザ無し交流とか、医療関係での援助などは以っての外だと思う。その様な考えは人道的には間違っているのだろうが、彼の国の残虐な行為を身に沁みて味わされた私としては心情的には納得出来ないのである。
 あの国が一度手に入れた領土を、簡単に手放すなんて事は絶対にあり得ないことである。それは60年を経た今でも、そうした不信感は払拭されていない。
 これは事の大小の差はあれ、今度の戦争の空襲で家を焼かれ、親きょうだいを失った人々と、人類初の被爆を体験した広島と長崎の人々がアメリカを恨む気持と変わらない。これは間違った考えなのかも知れないが・・・しかし私は神様でも仏様で無いから、特に終戦の日を迎える頃になると、こんな過激な思いに陥ってしまう。

 なお終戦記念日ついては、昨年のブログにも詳しく載せてあります。

   ※ 終戦の日に想う
   ※ 避難
   ※ 避難の果てに白旗