昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

浅春の日々

2009-03-29 17:00:27 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 小さいながらも蕗の薹が硬い地面から顔を出しているのを見れば、春が近づきつつあるのは確かで、気温も4月中旬の気温の日があるかと思えば、一気に平年以下の日もあって、中々落ち着いてはくれません。
 
 三寒四温を繰り返しながら春はやって来るのだと分かっていながらも、アメダス予報に雪マークが出て実際に雪が降って来たりでもしたら、「又かい良い加減して欲しいものだ」と、本当がっかりさせられます。
 何もそんなに焦らなくても、雨や雪の日は家でのんびりと本でも読んで居れば良さそうなものなのですが、もって生まれた性分で昼間、明るい内は本など読む気などにはまったくなれません。
 何しろ元旦さえも、会社に一度は出なければ気の済まないほどの根っからの会社人間だったのですから、とにかく昼間は何かで身体を動かして居なければ気の済まない性分なのです。
 それが未だに抜け切って居ない所為なのでしょうか、外歩きの出来ない雨や雪の日などは、愛読書の月刊雑誌が三冊も溜まっているのですから、その時間を利用して本でも読めば良さそうなものなのに、狭い家の中を歩いたりテレビやビデオを見たり、またはパソコンで昼間を過ごしてしまいます。

 さて今日は、昨夜からの大雨は上がり、また夜っぴて家を軋ませていた大風もやっと弱まって来たので、さっそく外歩きに出掛けることにした。
 予報どおりに曇日だったが、昨日までは大違いの暖かさでもあった。どうやら今日は札幌よりも暖かくなり、日中には10度近くになるらしいとあった。
 {曇りのち晴れ}の予報を信じて、今日はブログのネタ探しがてらに河畔公園でもぶらついて来ようと、正午少し前に家を出た。
 河畔公園は、雪こそ残っていなかったものの、川原も土手も枯れ草ばかりで、如何にも寒々とした光景だった。 
 ただそんな中に、何が釣れるのか分からないが、二人の釣り人が流れに竿をかざしていた。二人の仲睦まじげな様子からして、どうやら夫婦者らしい。
 この時期雨鱒でも釣れるのかと、しばらくベンチに座って見ていたが、一向に釣れる気配が無いので、先にこっちが痺れを切らしてその場を離れた。
 せっかく出て来たのだのだし、それにまだ昼食には時間もあったので、今度は自転車道路をぶらつくことにした。
 ここもこれと言って目立つものは無かったのですが、帰り間際、住宅街の家の裏庭に福寿草が咲いているのをみ付けた。芽を出して咲いたばかりのまだ小さかったのですが、花の色の鮮やかさは、枯れ草の中で一際輝いていた。

 どうやら今日は先ずまずの日でしたが、気温が落ち着くのはまだまだ先のことでしょうからから、ブログのネタ探で彷徨うのは、これからも当分続くことでしょう・・・。

 まだ萌え出る物も無く寒々とした河畔公園

 夫婦連れらしき釣り人も寒そうだ・・・

 向う岸にも三人の釣り人が居た。いよいよ釣の季節・・・?

 咲いたばかり福寿草まだまだ小さい

 蕗の薹もすっかり大きくなった


じゃこしかの少年期の想い出から・・・

2009-03-26 17:34:06 | じゃこしか爺さんの想い出話
   < 冬の遊び >

 ・・・カルタ取り(小倉百人一首)・・・

 冬の室内での遊びで欠かせないのがカルタ(百人一首)で、雪に降り込められた夜長の遊びとしては、子どもばかりでなく大人たちも盛んに行われていました。 
唯樺太の、それは北海道でも同じだと思いますが、本州と違い「下の句カルタ」と呼ばれるもので、それに取り札は厚さ6ミリほどの木札でした。

競技は読み手が読んだ下の句で取り合うわけで、普通三人(守り・中堅・突き手)一組のチームで対戦するのですが、三人で相手の札を如何に多く取るかを競い合うです。
この突き手の活躍獲得枚数が勝負を決めることになります。 また中堅はその実力の度合いで持ち札を決め、同じ中堅同士で札取りを競います。
 守り手は残りの札全部を受け持ち、突き手の攻撃から自札を護り、この攻守如何もまた勝負の分れ目ともなりから重要な存在です。

 カルタ遊びの道具としては読み札と読み札は勿論ですが、室内遊戯なので畳を保護するために敷くズック製の敷物(100cm×300cm)が必要です。
 これらの道具類は、当時の子どもの居る大抵の家で用意してあったので、その日に当たった家の晩飯が済んだ頃を見計らって、仲間を誘い合って気軽に押しかけるでした。
 何処の家でも余ほどのことが無い限り、何も言わずに快く遊ばせて呉れました。 ただ親たちが口を出すのは、度を越えた大騒ぎや取っ組み合いの喧嘩、それに夜更かしくらいなもので、後はあまり干渉しませんでした。
 それが、親たちの暗黙の了解だったようで、時にはその家の親たちが混じって一緒に遊んだこともしばしばありました。
 時間の許すかぎり楽しく遊んだ後は、お互い満足して夜道を駆けて家に戻ったものでした。
 
  予断ですが・・・
 
  当時の大人たちの間で流行っていた最初の読み札を真似て、私たち子どもたち  の間でも、

 {忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな} 
 
 右近(うこん)女流歌人の和歌ををもじって ・・・
 
 {樺太の 能登呂岬で 身投げする 人の命の 惜しくもあるかな}

 と読んで得意がっていたものです。

浅春

2009-03-22 16:27:22 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 久しぶりの快晴に誘われて、数日振りに外歩きに出掛けた。ここ一週間ほどは、せっかく晴れていてもとにかく風が強くて、年寄りの外歩きなどは到底考えられなかった。
 幸い今日は朝から快晴で、昼近くの気温はプラス4度、風速8メートルとあったから、先ずまずの日和と言えた。
 初めは駐車場完備の河畔公園と思ったが、行っても白鳥はもう居ないのだと気付いて直ぐに方向転換、自転車道路道路に向かった。
 しかし、いつも車を停める橋の袂の広場は、珍しく満車状態で乗り入れる余地はまったく無かった。やはりこれは、今日の快晴を、首を長くして待っていた人たちが、キット多かったからだろう。
 せっかく出て来たのに、車を停める場所が無いからと帰るのは、この快晴が如何に勿体ないので、やや離れてはいたが{湿原の夢ロード}の鶴野駐車所へ車を走らせた。
 住宅街を抜けて幹線道路に出ると、先ず眼に飛び込んで来たのは、遠くの稜線で、いつもは靄で霞んでいるのに、今ははっきりと見分けられるほどだった。
 ・・・この分なら若しかして阿寒の山が見られるだろう・・・、と、とっさに判断して反転、阿寒連山全貌が良く望まれる住宅街の外れまで突っ走った。
 住宅街が途切れて一気に広がった視界の先には、雪を頂いき噴煙を上げながら陽に輝く雌阿寒岳と、その横にどっしりと構えた雄阿寒岳があった。
 その後夢ロードに向かう途中も、歩くことなどすっかり忘れて、街路樹の合間からの阿寒連山を撮りながら進んだ。
 駐車場はやはり混んでいたが、どうにか停めることが出来た。小用を済ませてから、いつも行く湿原の奥ではなくて、逆の方向に向けて歩き始めた。
ここから500メートルほど街並みに向かって行くと、阿寒の山並みが良く見渡せる畑地があったからだ。
 快晴と気温プラス4度とのことで、薄い方のコートを着て来たのだが、春にはまだまだ先のようで、たいした風でも無いのにけっこう身に沁みた。
 そんな中でも歩いている人たちが多くみられ、大半は老人たちで、中には見知った人たちとの顔もあった。
 特にびっくりさせられたのは、厚着の老人たちを尻目にジャージ姿でジョキング中の親子の姿だった。
 なんだかんだと言っても、春は目の前なのかも知れない。畑地のほん一部が萌え出ていたのと、芽を出したばかりのフキノトウが眼についた。
 
 久しぶりに見た住宅街外れからの雌阿寒岳

 上と同じ場所からの雄阿寒岳 

 走っている途中、路肩から見た雌阿寒岳

 湿原の夢ロードから見た雌阿寒岳

 やっと顔を出したばかりのたった一つのフキノトウ

 萌え出たばかりの草の芽が清々しい


(続)じゃこしかの少年期<冬の遊び>より 

2009-03-19 17:44:54 | じゃこしか爺さんの想い出話
 夜中には星が見られるほど晴れていたのに、今朝は今にも雪か雨でも降り出しそうな黒い雲が空を覆っていて、気温は昨日よりかなり低いようで、季節特有の海霧、それもかなり濃くてライトが必要なほどだ。
 こんな天候では、ブログの題材探しの外歩きなんてとうてい無理なので、前回に続いて、じゃこしかの想い出話を載せた次第です。

  ・・・スキー遊びから・・・        
          (Ⅰ) ゲレンデスキー
 
 同じスキー遊びでも色々とありますが、一番手っ取り早いのはスキー場でのゲレンデスキーで、空いた時間が少しでもあれば出掛けたものです。
 家の直ぐ前が急な山の斜面でしたから、わざわざスキー場のゲレンデまで行くことは無かったのですが、回転や直滑降などの練習には、やはり整備されたスキー場が必要でした。

 私はどちらかと云うと、こせこせした回転よりも特に急勾配の直滑降の方が好きで、回転の練習には直ぐに飽きてしまって直滑降を始める始末でした。
 山の頂上から約150メートルほどを一気に滑り降りるのですが、いざと云う時の「クソ度胸」は人一倍で、下に向かって「行くぞ!」と大声で叫びながら、並み居る大人たちを物ともせずに一気に滑り下りる爽快感は、まさに唱歌「スキー歌」そのものでした。

     ♪  山は白銀(しろがね) 朝日を浴びて
        すべるスキーの風切る速さ
        飛ぶは粉雪(こゆき)か 舞い立つ霧か
        お お お この身もかけるよ かける


 (Ⅱ) ジャンプ
 このスキー場では、回転や滑降にも飽きて来ると、ジャンプにも取り組みました。ジャンプと云っても今のように本格的なもので無く、子ども同士で遊び用に作ったもので、その高さも精々50センチから1メートルの高さで、使用するスキー板は普通のもので挑戦していました。
 手前味噌になりますが、これらのジャンプでも抜群に他の中間達を圧倒したものです。それに今で云う着地の姿勢の「テレマーク」も、自分で云うのも何ですが、見事なものでした。

  (Ⅲ) 山スキー

 これはツアースキーとも呼ばれ、主に山の中を滑るのです。約半日ほど掛けて山の中を滑り歩くのですから、子どもだけ単独では無理でした。たいてい誰かの親たちが一緒でした。三月の初めともなれば、降雪も少なくなりまた吹雪などの危険がぐんと減り、山の積雪状態は固まって滑りやすくなります。それに一番幸いなのは気温が上がり落ち着くことです。それでも一応その日の前後の気象は、前以てしっかりと見極めてから実行に移ります。
 当時良く通った山スキーの主なのは、隣町のM炭砿のスキー場への山越えコースでした。先ず良く乾いたタオルを広げて背中に当てから身支度、水筒、昼食、みかんやお菓子を最低限度に詰めたリュックを背にして、山を登りはじめます。

 頂上に着いたら先ず昼食ですが、これは山スキーの一番の楽しみで、昼近くになると腹がグウグウ鳴り出して来ますから、
「飯にするぞ・・・!」
リーダーのこの声が待ち遠しくて堪りません。
空腹と疲れた身体には、おふくろがこさえて呉れた握り飯は格別でしたが、親たちの中には小型コッフェル持って来る人がいて、それで沸かした熱い甘酒は身に沁みるような美味しさで、山スキーの最大の楽しみでもありました。  
そして麓のスキー場を目差して滑り降りるのですが、木々の間を縫うようにして滑るのには結構技術が要るものなのです。
前の人のシュプールに沿って滑れれば何のことは無いのですが、転んだりうっかりコース外れたりで、時間が掛かって遅れてしまいますから、それは必死なものでした。
そんな苦労の末にやっとM炭砿のスキー場の頂上に立った時の爽快感と満足感は、例え子どもとは云えながら、何にも替えられない貴重なものとして、今なお深く心に残っており、折にふれて想い出してもおります。

じゃこしかの少年期の想い出から・・・< 冬の遊び >

2009-03-16 14:56:14 | じゃこしか爺さんの想い出話
 ・・・初めに・・・

 ここ数日間は、風速20メートル近い強風が吹き続いていて、せっかく一時の暖気で公園などの雪が融けたと云うのに、歩きにも出掛けられません。
 この<冬の遊び>は、以前ブログに載せようと思って纏めたものですが、ブログの題材に事欠く冬季間に生かそうと思って、これまで延ばしのばしにとっておいたものです。
 白鳥が去り、また庭の餌台にも小鳥が姿を見せなくなった今、せめてフキノトウなどの芽が出るまでの繋ぎにしようと、年寄りの古臭い想い出話に過ぎないのですが載せたしだいです。 
 
 ・・・スキー遊び・・・
 
 真冬の寒中ともなれば日中の気温は、普通でマイナス20度から25度前後で推移しますが、特に厳寒期にはマイナス30度を超える日も少なくありません。   
そうした日の目覚めた時には、掛け布団の顔に当る部分が白くなっている事があります。それは明け方の室温が極端に下がったためで、寝息が掛かった部分が凍結したからなのです。   
 恐らくそんな朝は優にマイナス35度を超えていたのでしょうし、またブリザードまがいの猛吹雪の翌朝には、建て付けの悪い炭住の窓などからの隙間風が粉雪を運び込んで、掛け布団の一部を白くする事も珍しくありませんでした。
 しかし氷点下30度を超える日でも、吹雪いてさえいなければ、少しくらいの雪などには頓着せず、平気でスキー遊びに出掛けたものです。
 もともと炭鉱住宅の長屋は、殆ど山の中腹を切り開いて建ててあるのですから、本格的なスキーならともかく遊び程度のスキーなら、わざわざ遠くまで出掛けることは無いのです。家の前の山全体が、立派なスキー場なのですから。
 
 時「子どもは風の子」と言いますが、外は極寒でそれに家に近いながらも、スキー遊びの場所は吹きっ曝しの山の中ですから、それなりの防寒対策が必要です。  
 当時は今のような防寒具などとは全く無縁な時代でしたが、だからと云って子どもたちがオーバーなどを着てスキー遊びをしていたら、それこそ笑い者の種になるだけでしょう。何てたって、子どもは風の子でしたから・・・。
 その上殆どの物資が不足していましたから、子どもたちも大人のすることを見習って、靴の中に藁を敷き更にそ上に南蛮を入れたりもしたのです。
 他に戸外で働く大人たちを真似た新聞紙の活用でした。
 スキーの場合、身体の部分で一番寒風を受けるのはやはり身体の前面で、それも肝心な中心部です。
 排尿の場合で、特に切羽詰まった上に手が悴んで時には大変に苦労したものです。下手すると間に合わずお漏らし状態になり兼ねません。
 うっかり失敗した時の惨めさは何物にも替え難く、漏れ出た量に関係なく直ぐにバリバリに凍って仕舞いますから、もうスキーどころではありません。
 そんな時は、仲間の誰にも知られないように素早く家に戻るしか他はありませんでした。
 そうした失敗粗相を避けるための方法として、大人たちがしていたように適当に畳んだ新聞紙をズボンの前立ての内側に当てるだけです。しかしただそれだけで寒風を通さず、かなりの効果がありました。
 時には胸から下腹部にかけて覆って、出掛けたこともありました。多寡が新聞紙とは云いながら、その防寒効果には大きかったのです。
 更に長時間に亘るスキー遊びの際には、遊び途中のオヤツに凍れ餅を懐に入れて出掛けます。
 餡餅が主でしたが、餡餅の数には限りがありましたから、後は砂糖餅や豆餅で間に合わせました。
 出掛ける時こそカチンカチンに凍れていますが、ちょうど遊び疲れた頃には、懐の温みで食べごろの柔らかさになっています。
 遊び疲れと空きっ腹には、その餅の美味さったら格別なものでした。

                  ・・・続く・・・ 

まだ帰らずに居た白鳥

2009-03-13 17:58:53 | じゃこしか爺さんの見て歩る記
 夜中ずうっと大風と雨が続いていたので、雪は殆ど融けてしまっただろうと、久しぶりに河畔へ歩きに出掛けた。
 例年よりかなり多い雪で歩きにも儘ならかった道路は、思った通りに粗方消えていた。ただ土手下の所々に付近の住宅から投げられた雪が塊って残っていたが、歩く場所の舗装には多少の氷と水溜りが出来ているだけで、年寄りのぶらぶら歩きにはまったく支障は無かった。
 折よく日中の気温はプラス気温で、風もほどほどに吹く程度だったから、カメラを取り出して木々を飛び渡る小鳥でも写そうとのんびりと歩き続けた。
 しかし相変わらず警戒心の強い小鳥たちは、立ち止ってカメラを向けようものなら、素早く逃げてしまって一枚も写せなかった。
 仕方なく歩きに集中して支流の河口まで来て眼を瞠った。もうてっきり北へ旅立ったと思っていた白鳥たちが、まだ残っていたのでした。
 これはキット私が来るのを待って居てくれたなどと、まだ真っ昼間なのにそんな夢みたいなことを思いながら、手早く数枚カメラに収めた。
 なお明日からは全国的に強風と大雨の予報が出ているだけに、次の歩きは2・3後になるだろうから、白鳥たちとの出合いは今日が最後だろう。
 この数ヶ月間老人の無聊を癒やして呉れたことに感謝して、心行くまで眺めて帰ってきた。
 
 白鳥さん本当に有難う!北への旅たち・・・気をつけて!

雪が融けて歩き易くなっていた河畔遊歩道

見られるのは今日が最後かも知れない白鳥たち

同上

今月の初めに偶々通りかかった支流で見かけた光景・プライバシーからぼかしました

白鳥と仲良くしようと・・・手を伸ばす幼児


有難う・・・Qちゃん!

2009-03-10 17:07:45 | 日々の雑記
 
 先日のことですが、朝刊でQちゃんこと高橋尚子さんが、名古屋国際女子マラソンで引退記念の{さよならラン}が放映されることを知った。
 Qちゃんの大ファンとしては絶対に見逃すことは出来ないことだから、今日予定していたことは、取り止めたり時間をずらしたりしてがっちり観戦することにした。
 ただ雨や大風が続いた所為でこの3日間ほど買物に出て居なかったので、冷蔵庫はガラガラ状態だったから、特に毎日常食しているヨーグルト・牛乳・キウイなどがすっかり切れているとのことだった。
 老妻を急き立てていつもより一時間ほど早く家を出て、家から一番近場のスーパーへ行き、品選びもそこそこに買物を済ませて家に戻った。
 家に着いたのは放映時間ギリギリだったので、着替えを後回しにしてドッカとテレビ前に陣取って観戦。

 Qちゃんを初めて知ったのは、平成10年12月バンコクでのアジア大会で、当時の日本最高を記録して優勝した時でした。そして2000年のシドニーオリンピックでは、ルーマニアのシモン選手を堂々破って優勝を果たして、世界的に有名選手として活躍して来たのですが、やはり年齢には勝てず今回の引退{さよならラン}となったのです。
 号砲が近づいてゴール前に集まった選手の中から、一般選手のゼッケン番号{112番}を付けたQちゃんが大きく映された。そこにはいつものサングラスを外した、ただただ底抜けに明るい笑顔のQちゃんの顔があった。
 Qちゃんは、スタートしてから間もなくわざわざ先頭集団をはずれて一人きりで走りながら、Qちゃん特有の笑顔でさらに手を振って多くの観客に応えていた。
 その笑顔には、多くのファンに対してのこれまで応援してくれたファンへの感謝がこめられているのだろうと思った。
 その後Qちゃんの走る姿が何度か映されていたが、一番楽しみにしていたゴールの瞬間は放映されなかった。
 民間のスポーツ放送はいつもこんなものだと分かっていたが、せっかくの{さよならラン}だったのにと思うと、後々まで強い不満だけが残った。
 ただ救われたのは、アスリート同士の友情とでも云うのか、Qちゃんとは幾たびか競い合った仲間、日本でもお馴染みのルーマニアの{リディア・シモン}が一緒に走ったことと、その後のNHKテレビでQちゃんのゴールの瞬間と、花束を抱えた素敵な笑顔が見られたことだった。

  {Qちゃん・・・本当に有難う}お疲れさん!でした。

小さな空

2009-03-07 14:56:25 | 日々の雑記
 朝起きたなら直ぐに居間の大戸のカーテンを開けて、その窓いっぱいに広がる空を眺めるのが、私の朝の楽しみなのです。
 もともとが小さな家なのですから、大戸と云ったって二間と一間の小さな窓枠の極く限られた空なのですが、朝毎に開ける時の天気への期待感には大きなものがあります。
 前の日の予報で翌日の天気は予め分かっている筈なのに、カーテンを引く時のワクワク感は堪えられません。
 おもわず鼻歌でも出て来そうな明るい空には、一日の予定が早々と決まりますが、開けた瞬間にせっかくの快い寝覚めが吹っ飛んでしまうような暗い空には、その日の予定などはみんな打っ棄って、また床の中へ潜ってしまいたくなるほどの気落ちを感じます。
 
 上記のことから、私が如何にも大そうな仕事でも持って居そうに思われるでしょうが、そんなことは無く日々を無為に過ごしている年金生活者の一老人に過ぎません。
 とは云っても老人には老人なりに日々の過ごし方があって、春夏秋冬それぞれの朝に天気具合で、その日の予定を色々と立て、また変更したりするのです。
 窓から眺めた空に製糸工場の煙の状態で、その日の風の方向と有無・強弱を知ることが出来ますから、同じ外歩きに出掛ける場所、自転車道路・湿原の夢ロード・河畔 道路・市中公園など、朝の体調に合わせて行く先を選ぶのです。
 
 窓から空を眺めるのは、必ずしも朝ばかりとは限りません。一日中なにかにつけて眺めるのが癖になっていて、特に外歩きを予定している日には、その折々の空を見て一喜一憂するのです。
 また晴れた日は、夕方遅くまで部屋の中が薄暗くなってからもカーテンは引かずに、刻々変わってゆく夕暮れ空を眺めるのも好きです。
 朝のうちは曇っていても次第に空が明るくなってゆくのを見ると、自然と気持ちが晴れ晴れするのを覚え勇んで出掛けるのですが、それとは反対に、朝には晴れそうだった空が、何時の間にかどんよりと重たげな黒雲に覆われ、雪でも降って来そうな時には、本当にガッカリして出掛ける気力を無くしてしまいます。

 窓に広がるちっぽけな空に過ぎないのですが、青い空と流れる雲にひと時心を預けて、過去・現在・未来と奔放に過ごせる唯一の思惟の世界、・・・未来なんて有ったっけ?・・・あまり外歩きの出来ないこの時季のいわば老人の小天地・・・時の過ごし方なのです。

1~おもわず鼻歌でも出そうな雲一つ無い明るい青空

2~朝の一時黒雲が空を覆っていたが次第に薄れて来た・・・もう直ぐ晴!

3~青い空にポッカリと浮いた白い雲、心を預けて飛んで行きたい・・・

4~真っ青な青空に立ち上る製紙工場の煙・これで風の強さと向きを知る

5~夕焼けが焼けはじまる明日もキット晴れるだろう

6~陽の長さはもう浅春、5時半をまわったのに・・・この空の明るさだ!


ガリ版印刷

2009-03-04 17:38:30 | 日々の雑記
 先日の夕方の運転中、何気なく聴いていたラジオに出て来たガリ版印刷と云う言葉に、たまらない懐かしさを覚えた。
 ガリ版印刷と云う言葉は、とうの昔に死後になっているものとばかりに思っていたのですが、その時のラジオからすると、今静かなブームになりつつあるようです。これほど色々と便利な機器が出ている現代、何故だろうかと思って家に着いてからも家のラジオでなおも聴き続けたが、残念なことにガリ版ブームの原因などは聞き逃してしまったようで、その後は聴取者の回顧談ばかりが続いた。

 私が初めて体験したのは65年ほども昔のことで、確か小学校の4・5年生の頃だったと思います。
 ちょうど学芸会の時期で、先生がその台本づくりに日々追われていたころでした。おそらく猫の手でも借りたい思いだったのか、私たち生徒に印刷を手伝わせたのです。
 文字を刻むガリ版切り無理でしたが、印刷の方は要領さえ覚えれば、生徒でも間に合ったのです。
 謄写版のローラーを押すことや紙をめくることなど、そして刷り上った台本を順序立てから製本までは、殆ど生徒の手で仕上げたのです。

 その後実際に鉄筆を使って文字を刻んだのは、それから約10年後の就職してからのことでした。
 先ずガリ版印刷の諸道具の名前から、先輩に教えられました。鉄筆にも細字と太字の他に色々あること、また同じようにヤスリにも用途に応じて何枚か在り、更にロウ紙の原紙は方眼紙状だったことも初めて知ったのです。
 先輩から色々なことを教わった中で特に為になったのが、文字の間違いや力の入れ過ぎで傷つけた原紙をマッチ一本とロウソクで、簡単に手直しをする方法でした。
 文字や穴の箇所をロウソクで塗りつぶしてから、マッチを点けて直ぐに吹き消した後、赤く残った燃えカスを近付けるのです。
 蝋が融けて滑らかになった後は、大たい元どおり近くまでなります。ただこの時注意することはマッチ棒の寄せ方で、近付け過ぎると燃やしてしまいます。
 その加減が難しくて、随分と苦労したものでした。

 ラジオのほんの短い会話から先生や学友たち、また昔の職場の先輩たちが次々と、まるで絡まった糸がほぐれるように次と浮かんで来ました。それらは切ないほどの懐かしさにひたって、その後暫くラジオの前で立ち尽くしていたのでした。