ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「Call -Response」 20191127  20191013

2019-11-27 | Weblog

         https://www.youtube.com/watch?v=9FRCDDer6RQ&list=RD9FRCDDer6RQ&start_radio=1#t=2

 

「私」という生のフォーメーション──その固有性、展開と拡張可能性。

「私」という生のフォーメーションは、つねに無数の「私」がつくる無数のインターフェース、透明な回路をつうじて関係しあう関係的位相に照らされてかたちを結ぶ。

「私」の意志に先行するようにして関係は動いてゆく。なぜか、しばしば、勝手に、「私」に断りもなくそれは結ばれ、動いてゆくように感じられる。「私」はつねに事後的に、再帰的にそれを確認し、審議する。審議しながら、展開についての予期と企投を重ねてゆく。

しかたがない。意識主体としての「私」はそれに先行することができない。生の条件を構成する〝関係〟の先行的現われは、人間的生をつくる原理として受け入れるしかない。

回路を閉じて、そこから撤退する道もないではない。すると「私」は消える。しかし完全に撤退できるわけではない。選別する?いびつな入国審査。排除と差別、選択的生存権付与。やめよう。

透明な回路を開いておこう。相手を選ばず、黙って。目の前に現われるものが〝敵〟だと感じられても。

なぜか。〝発火〟の原郷をみずから閉ざさずに生きるため、関係の果実を享受する、その可能性の条件を捨ててはならない。なぜか、そう感じる。

人間的生、関係において生成するものの本質、メカニズム、その由来をたどりつくすことはできない。ただ経験において現われ、示されるものとしかいえない。ただ予期として、直観として訪れるものが告げる。

開いておけ、と。

インターフェースの連続的な接続、展開の結び目のどこかに、わずかなスキマが存在する、という直観が動くことがある。そこには相互性がある。つまり、相互に許し合い時間を与えあう「インターミッション」の位相がある。

選択に出会う──あれか/これかという単純な選択肢の提示ではない。ある種の「自由」の感覚、新たな記述が許されたフリースペースの感知がそこにある。経験の未踏の、未知の、未決の、拡張可能性が開かれるスキマ、あるいはトビラのようなものとの遭遇。インターミッションの位相。

「私」というフォーメーションの、魂と呼ばれるもののフリーハンドを許す、新たな「ありうる」が点滅する第三のエリア。呼びかけると応答するものがいる、その相互性そのものが人間的生の生成の原郷であるように現象する位相がある。

この位相を見逃すと、〈世界〉は「手のほどこしようのないもの」、あるいは「なるようにしかならない」ものとしてしか現われない。「因-果」連関の必然的展開としてだけ、ただ世界は無機的な存在同士の物理的な接続連鎖としてだけ記述され、全域化することになる。この位相ににおいて、シニシズム、ニヒリズム、ルサンチマンが受胎する。

それは、透明な回路をみずから閉じ、〈世界〉に完結したすがたを押しつけ、〝熱死〟を願う者たちのようにみえる。存在可能の死、ともいえる。絶望がたまると、やがて、一切が酷薄な「自然の法」「力の論理」に委ねられる臨界が現われる。

 

 

 

 

 

コメント