「いいかい。先のことを予測して動くことができるというのが動物の際立った特徴なんだ。
ネコがネズミに飛びかかるときには、着地の瞬間にネズミがどこまで走っているか予測を立てて、
それに合わせてジャンプのしかたを調節する。そういうことが動物にはできる。
そういうことができるからこそ、逆に動物の動きが予測できないものになってくるんだなあ。
この世でただ一つ、予測できないものに。…
人間の法律というのも、考えてみると妙なものだな。人間の動きが規則的でなくちゃいけない、
予測できるものでなくちゃいけないという考え方がベースにあるわけだ」
(ベイトソン「メタローグ」『精神の生態学』佐藤他訳)
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時間を記述する記述形式が展開本質に追いついていない
切り刻まれた時間の配列を守ることが先行している
グリニッジ標準、だれかが決めた時間配列にグリップされるとき
おれたちはおのれの時間が見えなくなっている
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思考と行動はひとりひとり、固有の「時間」と溶け合っている
いまここの「ある」から、いまここにない「ありうる」へ
この移行する時間的厚みのなかに、からだは住みついている。
生きられる時間──
スライスされた「ここ」の連結と連鎖ではない
「at here」はつねに「from here」を孕んで
「いまここ」という指定を許さない途切れのない展開のなかにある
生命は時間的展開を予期的に宿しながら「いま・ここ」を構成し
ひとりひとり、それぞれの固有の生の時間、世界を生きていく
それゆえ、「ある」を書き留め、「事実」として確定したい心は
生きられる実存の展開本質と必ずすれちがうことになる
この〝すれちがい〟は、人間がつくる関係世界に多発している
「実存の時間」に「客観的時間」がとって代わる倒錯とアディクト
エモノに飛びかかるケモノの姿を心に描いておこう
そこにおれたちの生の展開本質が写像されている