ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

G・ベイトソンの記述からの展開

2012-10-29 | twitter

『精神の生態学』(Bateson bot2より引用)―――

「生命にとって本質的な機能は、単一の変数の支配に任されてはならない。」

「私は、いかなる生命のシステムも――つまり生態環境も、人間文明も、この両者が合体してできるシステムも――相互規定的に動く諸変数の絡みとして記述できるものであり、その中のどの変数も、それを超えた時に不快と病理と(最終的には)死が確実に訪れる許容の上限と下限の値を持っていると考える。」


ベイトソンのいう「単一の変数の支配」は、次のようにパラフレーズできる。

1、システムの一部を切り取って特殊な陣地(=支配機構)がつくられる。
2、この陣地がみずからをシステム全体の制御の中心(司令塔)に位置づけ、権力化していく。
3、ここを拠点に、陣地外からのゲインと支配力の最大化が図られる。

一方、生命圏を含む地球全体は、この陣地を一部とする一つの巨大な自律的システムである。
また、宇宙という外部環境との間で物質とエネルギーが出入りする、開放系システムでもある。
このシステムは、地球の自然・生命圏・集団・個体・体組織・細胞など、
無数のサブシステムが階層的に積み上った構造をもち、
サブシステム同士は多重的に相互作用して、それぞれの作動の前提を供給しあう。

こうした接続関係の帰結はそのつど速やかに情報に変換されて次々にリレーされ、
巨大で複雑なコミュニケーションのループ構造を描いていく。
このことを、モリス・バーマンは「すべてがすべてとつながっている」と表現した。
(『デカルトからベイトソンへ/The Reenchantment of the World 』1981)

この全体構造において、陣地の形成=「単一の変数の支配」はどんな帰結を生むのか。
ベイトソンは、「単一の変数の支配」を「靴紐を引っ張って、自分の身体を持ち上げようとするようなもの」であり、
必然的にシステム全体の誤作動=「不快と病理と(最終的には)死」が確実に訪れると説く。

つまり、「陣地」はみずからがその一部に含まれる全体を、特権的に制御しうるという、
論理的には成立しえない前提(妄想)に従っていることになる。
なぜなら、この陣地はみずからの存続と作動に関わる全条件を、
みずからの基底をなすシステム全体の自律的な作動に負っているからである。

「陣地」の妄想は、「操作可能な因果の系列ですべて説明可能」とする思考形式への耽溺(アディクション)に拠っている。
この形式のフレームから外れる事象はすべて捨象可能な「ゴミ」「ノイズ」として片付けられ、
廃棄処理システムに乗せられていく。

「陣地」が制御に乗り出すことは、システム全体の自律的な作動に
致命的でありうるランダムネス(エントロピー)を生みつけることを意味する。
さらに、この陣地が巨大テクノロジーを携えたものであるとき、
システム全体は誤作動による壊滅的なリスクを孕むことになる。
当然、このリスクは全体の司令官を自認する「陣地」とその担い手たちにも及ぶ。

「陣地」はシステムとして機能するため、自己再生産のためのサブシステム群を呼び寄せる。
例えば、「陣地」への従属と貢献を他のサブシステムに埋め込むための教育システム。
「陣地」は教育プログラムを用いて、子供たち(若き生命システム)を「陣地」の将来の担い手として馴致すべく、
陣地コード(単一の変数による全体制御のノウハウ)のインストールを組織化していく。

このプロセスの教化的ゴールの最上位層には、
「政治・官僚システム」「軍産コンプレックス」「原発ムラ」「グローバル金融」など、
各種パワーエリートが協働して作り上げた「幻想の神殿」が存在する。
子どもたちが学習を動機づけられ、規範を埋め込まれ、選抜されていくその果てには、
最終の目標到達点としての「幻想の神殿」がそびえている。

過去140年以上にわたるこうした教育上の成果は、
世代をこえた社会文化的ヘリテージとして成就している。
少年少女期をこの教育プロブラムを学んだ人びとは、陣地コードを身体化して、
幻想の神殿を仰ぎ見てひれ伏し、日々の精励に準じていく。

しかし、少年少女たちにみずからが支払う犠牲やコストについては「知らされない」、
と同時に、知るための手段やルートや動機も消されている。
この消去法も、陣地が用意する教育プログラムによって存在深くインストールされている。

陣地コードをインストールする「学習指導プログラム」は、
①学ぶべきことを学ぶ、
②学んでならないことを学ぶ、そして、
③学ばないことを学ぶ、の3カテゴリーから構成される。
このうち③は、①と②に仕掛けられたサブリミナル・イフェクトとして埋め込まれる。

「陣地コード」の出力による効果は、
すべて「神殿は健全に保たれている」という上位命題への従属として理解できる。
神殿を中心とする「陣地」の防衛と拡大に与るサブシステム群は、
それぞれに洗練を極めていくことが可能だが、
比喩的に言えば、みずからが乗船する「船の航路」は主題化されない。

「航路」が主題化されない――、すなわちタイタニック号の航海において、
人びとは奢侈な船上生活を存分に享受することができ、十分に幸福でありうる。
しかし、この幸福は船と海(マトリクス)との関係については無意識の状態に置かれる。
船上生活の幻惑と幸福は、つねにタイタニック号の運命へのまなざしを塞ぐことを前提に成立している。

例えば、一人の詩人が示す「さいわい」(『銀河鉄道の夜』)には、
みずからとタイタニック号と海のすべてが参加する、
コズミックなシステム全体が主題化されている、ということができる。
すなわち、陣地コードが教える「船上の幸い(陣地内の幸い)」の内側で、
詩人のいう「さいわい」は完結することができない。
この詩人とっての本当の「さいわい」は、
いわば宇宙的システム全体が奏でるアンサンブルと結ばれている。

この詩人の厖大な作品群が暗示する「アンサンブル」は、
ベイトソンが語る「自然の一体性をよろこびとするような聖の肯定の基盤」と重なる。
このアンサンブルへのまなざしが消失したとき、
多くの場合、ある種の「知識や芸術」は奉仕へと駆り出されていく。
この奉仕において、「知識や芸術」は幻惑として、
権威の名のもとに特定の場所に人びとを集わせる魔法として機能していく。

こうした「全体の主題化」を担うのが、陣地的学習コードを超えていくサムシング、
例えば生命システムにそなわった「詩的感受性」のようなものである。
この働きは「美・調和・アンサンブル/醜・混沌・不協和」を分光する、
システム全体からみた一つのサブシステム=生命システム的機能と捉えることができる。
つまり、全体と調和しながら、定常的に生きるサブシステム(=生命)の本来的機能といえる。

これに反して、「陣地」は生命的な感受性を無力化することで生き延びていく。
詩的感受性の無力化は、「幻想の神殿」に連なる全組織の機能的要請として導かれる。
例えば、性、暴力、表現、言論、遊びなど、
「陣地」にとって制御不可能性を秘めた生命的な営みに予め制御をかけることで、
「幻想の神殿」と「陣地」全体の崩壊のリスクが回避されていく。
このとき「自由」と「秩序」は相反命題として記述される(=「行き過ぎた自由が秩序を乱す」)。

陣地コードが産出する事例の一つに、例えば「うつ病」をめぐるシステム的営みがある。
「ウツを大量生産する社会システム」に対する現状の維持と強化への多大な貢献によって、
精神医学&製薬&省庁&広告の業界コンプレックスは、厖大なシノギを獲得している。

うつ病はあってはならず、同時にうつ病はなくなってはならない。
この命題を維持するために、うつ病は生産され、治療され、生産され、治療され、……つづけていく。
この命題の階梯をさらに昇った場所に、上位命題「システムは健全に保たれている」がある。
この命題は、例えば「すべての刑事事件は法と証拠に基づき適正に処理されている」
「いじめと自殺との因果関係は認められない」など、
状況に応じて、さまざまなバリエーションにおいて表出される。

こうした上位命題に接続されたトップエリートたちの〝誠実な営為〟が、
「陣地」を一部として含むシステム全体の滅びの扉(「不快と病理と(最終的には)死」)を開いていく。
ベイトソンに摘出された危機から導かれるのは――、
こうした「陣地」の形成を担う命題および「幻想の神殿」は正しく滅びなくてはならないということである。
この要請は、生命システムにとって本源的要請ということができる。
この滅びのプロセスは、幻想領域で戦われるバトル、
すなわち「美 grace」をめぐる詩的営みに担わるというのがベイトソンの見立てである。
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「落合式/Without Strain」(参)

2012-10-28 | 参照
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「ただの人」に踊るメディア

2012-10-26 | comment
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2012/10/post_321.html
田中良紹氏「石原東京都知事辞職の憂鬱」へのコメント


「ただの人」が弄する文学的修辞テクが、ここまでメディアを踊らせる。
背景にあるのは、中身空っぽの教養主義的残滓でしょうか。
お利口さん階層の文芸コンプレックスでしょうか。

表層的コトバ遊びに長けた坊ちゃまの火遊びに付き合わされる国民こそ、いいツラの皮です。

ただ、文学・評論の業界も、一人の作家(人間)を正当に洞察する能力も見識も動機もない、
本質的にはただの「ムラ」ということだけは、あらためて白日化しました。

唯一その意味では、イシハラ的パフォーマンスは国民的学習サンプルとして有意義なのかもしれません。
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「エージェント問題」

2012-10-15 | twitter

【既存エージェントの作法と同期する個人】

みずからにとって「規定不能」「記述不能」な限界領域があるという自己認識は、
システムのガバナンスにおいて必須であり、合理的である。

各種エージェントの言説空間を特徴づける傲慢や奢りや恥知らずの背景には、
こうした限界領域にかかわる自己認識の欠落や意図的な無視がある。

「そんな見方もあるよね」といった表層的にみせる寛容さ・包摂性は、
すべては自らの文脈に収容可能と考える誇大妄想と結びついている。
あるいは収容可能のごとく「なりすます」ことが、ふるまいのコードになっている。

そしてこの表層的な寛容さを過剰評価し、妄想的願望的に権威を付与して、
この誇大妄想に同期するとき、個人(システム)は思考停止の洗脳を完了する。

実際には、こうした「情報」をめぐる一方向的関係ゲームは終わりつつある。
しかし、システムの祭司たちは断末魔の悲鳴を噛み殺しながら、
手段を選ばない最後のサバイバルに乗り出し、徒に酸鼻な光景を拡大している。

※各種エージェントシステム:政治・行政・司法・経済・メディア・教育・医療、etc.


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twitter 20121012

2012-10-12 | twitter

【文脈の変化】
犬は「刺激-反応」図式で動くマシンではない。
犬はみずからが関わる環境(実験者・ラボ環境)のコンテキストを読みながら、
行為と結果について学習し、記憶し、新たな行為法を組織していく。
「刺激-反応」図式の単純なデータがほしい実験者の素朴な期待は裏切られる。
犬は実験者が期待する通りに(或いはその逆)、文脈相関的に行為をチューニングしている。


【論理階型】
「遊び」は論理階型の多層性によって可能になる。
「遊び」はメッセージ(マジだよ)と、メタメッセージ(ネタだよ)がカップリングされ、
交換されるというポリフォニックなコミュニケーションによって実現される。
このゲーム性のなかに、文化的生産と同時に病理の発生起原がある。


【ワイスマンの壁】
コミュニケーションは基底的構造に備わる「柔軟性」(可動域)において起こる。
体細胞的変化はこの柔軟性内で起こる。
コミュニケートされる情報が基底的構造に侵入して構造を書き換えることはない。
この越えられない「壁」を越えて侵襲する外的要因、例えば放射能。


【公理系】
公理系の成立は、ある前提(世界の区切り方)を受容することを必須条件とする。
公理系の内側で整合的に成立する命題群は、
最初の前提の真偽を不問に付す(前提の自明性を承認する)ことを正当性を得る。
パラフレーズすると、「空気」内のどんな命題も空気の自明性(前提)を破れない。


【行為のフロー】
行為のフローに伴走するのは、「think」ではなく「feel」。
触覚・触覚性力覚・体性感覚等、
行為はゲシュタルトを満たす認知的内感とともに、歴史的に展開していく。
外部からの侵入的コマンドは「権力」として働き、フローの自然的展開を壊す。


【魂のインペリアリズム】
「まちがうことがあることを認めない人間は、ノウハウしか学べない」
⇒ 「ノウハウしか学ばない人間は、みずからの正当性を自明化させる」
すなわち、学習によってじぶんが変化しうることを理解せず、
「正しさ=ドクサ」から外れた人間を差別し、弾劾し、殺すことを正当化する。


【自己強化】
仕立ての悪い背広のごとく、存在のフォームと世界のフォームがフィットしないとき、
フィット感を得るための作法が分岐する。
①じぶんのフォームを変える。
②世界のフォームを変える。
③じぶんと世界のフォームの相互的歩み寄りによる着地点をさがす。


【宗教的かまえ】
仏教でいわれる「法」を迎え入れる作法があるのか。
たとえば、「ふるまひをやさしく、幽玄に心をとめよ」(心敬)。
「幽玄を」ではなく、「幽玄に」。
大いなる受身の存在的フォームが共振してキャッチする何か。


【生命のダンス】
生命は、即興のダンスを踊りつづける。
このダンスのフローを方向づける諸変数は、ダンス内部で完結することはない。
全体の「漸進的統合の決断」(ベイトソン)は、個別ダンスを一部とする、
さらに大きなダンス・システムのフローによって導かれていく。


【意識】
「意識のスクリーン」はシステムの一部である。
システムの一部でしかないスクリーンに、
「意識のスクリーンを含むシステム全体」が映されることは原理的に不可能。
だが、意識があたかも可能であるかのようにふるまうとき、
システム全体の作動はなんらかの異常(誤作動)を孕むことになる。


【天使のおそれ】
「意識」がみずからの起原および帰還地を、
みずからを含む非知なる全体性に置くとき、「祈り」の契機が生まれるように思える。
しかしそこに、祭司(エージェント)なるものの介入を許し、
「祈り」の領域が物象化されて操作が開始されると、
「精神」(全体性)の道具化が起こる。(この陥穽に世界は気づき始めたのか)


【情報の特性】
「情報=負のエントロピー」を生むシステムとしての生命現象。
不可逆な第二法則の進行に晒されつつ、システムとしての「定常性」を保つべく、
生命は「情報」を創発しながら、みずからのシステム状態を更新していく。
情報は、理想的には、ランダムネスに抗する生命の行為選択を方向づける。


【情報の特性】
「Aである」には、「非Aであらぬ」が貼り付いている。
一つの情報は、つねに「A」と「非A」のカップリングとして、
2層構造においてコミュニケートされる。
例えば、「日本人/非日本人」、「好き/嫌い」、「バカ/非バカ(賢明)」…。
例えば差別は、この構造(世界区分)に原郷をもつ。


【システムの保守性】
「ある種のシステム」にとっては、
「奴隷制」も「自然の沙漠化」も「ロボトミー」も目的に叶っている。
ある社会システムが自己維持(現状維持)を最上位命題とするとき、
各種のサブシステムは単なる制御対象となり、
システム維持にとって有効性のみが価値判定の基準となる。


【システム特性】
システムは現在的適応維持のため、みずからの組織特性を保守しようと努める。
だが、システム内の各変数の変動幅を限定することは、柔軟性喪失のリスクも孕む。
劇的環境変化に遭遇したとき、柔軟性を喪失したシステムは、
みずからの状態の根本的書き換え要請に応えられず、致命的な適応エラーが起こる。


【意識の特性】
意識による焦点化が起こると、行為は停滞や中断を余儀なくされる。
停滞や中断は、行為をプラス方向へ再組織化を促す契機でもあるが、
逆に、行為プロセスを致命的に壊すこともある。
外部からの計画的制御に慣れすぎた行為システムは、
自律的かつ創発的な作動のポテンシャルを失っていく。


【行為の自然性】
意識の作動は、行為にためらいや中断を停止をもたらす。
意識が前面化し、焦点化が過剰になると、「行為」は自然性を失う。
筆記も歩行もバッティングも、行為のフローが淀んでしまう。
システムの作動にとって、意識の不関与が積極的意味をもつ領域があり、
ここが「聖」と関連している可能性がある。


【システム危機】
制御的な「単一の変数」(ベイトソン)になりたがるオトコたちが、
東京都や大阪市に現われて一部喝采を浴びている。
「変数オトコ」を過剰評価して、身をまかせると、生態系は誤作動に陥り、
相転移して、暴走(ランナウェイ)する可能性がある。かつて旧軍がそれを演じた。


【「主人-奴隷」の関係フラクタル】
最上位にある「空虚な中心」を戴くナショナル空間構成があり、
そこから降臨したとされるコトバ(検証不可の天啓)が、
存在の空虚を埋めるコマンドとして機能しつづけている。
この一方向的コマンドの流れが、「主人-奴隷」の関係フラクタルを再生産する。
「デンキが足りない」も「第三の開国」も、同じ位相的機能をそなえている。
そして、現実には私益にまみれた司祭たちがその機能を回している。


【奪われる個の体験】
「連帯責任」を有効と考える愚かさが横行・席巻している。
学校およびスポーツの現場には、「個の体験」はなきに等しい。
「個の経験」を収奪して、規格化し、定常性を維持しつづける社会の見事なモデル、
例えば、全員マル坊主の仏式ベースボール。


【統治マインド】
「まだ沈まない。搾り取る余地はある」
「いままでもそうしてきた。顔はバレない。逃げ切れる」
不易の統治マインドによって、一国の自己修正能力は破壊され、全分野に波及していく。
一人ひとりの日々の業務遂行の精励と誠実の集積が、国土の焦土化を加速していく。


【聖性】
「聖」についての理解や解釈を権威的エージェントに委ねるとき、
内部的作動の全体性(integrity)は放棄され、外部的指令に服するものになる。
世界が「聖の領域」をもつのは、システム全体を駆動する第一原理の「不可知性」に由来する。
不可知性が可知性へと転換されるとき、権力システムの支配が具現化される。

フリーな立ち入りや言及が禁じられた領域=「聖」の領域が成り立つのはなぜか。
神社仏閣を含め宗教的な空間が、世俗と切り離された特別な位相をもつのはなぜか。
この領域への理解を権威的なエージェントに委譲せず、
みずからの内部的作動との関わりから、迎える作法を学んでいく必要がある。


【自己組織化の内部モデル】
生命が自らの内部状態、あるいは他の生命や環境との関係の質を知らせる内部アラーム=「feel」と考えてみる。
すると「美」は心地よく調和的で肯定的パターンの告知として、「feel」を訪れている。
ここから、「美」への接近=生命的な変化における普遍的課題として浮上する。


【美を迎える作法】
「理想のバッティングフォーム」が実現するとき、
意識はバットの握りやスタンスやヘッドの位置など、
身体的な「諸細目」への注目から完全に離脱している。
このとき識は諸細目への焦点化を止め、
「理想のフォーム」という全体相(イメージ)に「住み込む」(dwell in)。


ある種の体験はコトバに媒介されて物象化し、各業界の価値序列の陳列棚に並べられる。
宗教業界では、「悟り」が最高ランクの商品となる。
マーケティング、キャッチコピー、流通販売、人員配置など、
業界の収益システムが整備され、「ビジネス化」し、「体験」は奪われていく。


【状態遷移】
変化はデータの加算ではなく、全体の組織構成の変化を意味する。
システムが変化するとき、その一部である意識も変化の渦中にある。
このとき、全体を観察する特権的な位相はシステム内に存在しない。
「祈り」は、「なぜかそうなってしまう」という変化の作動を迎える作法としてある。


【限界領域】
「記述不可能な限界領域がある」という認識の欠落が、
現行メディアの「言語空間」(文脈)の傲慢や奢りや恥知らずを生産している。
「そんな見方もあるよね」といった表層的な寛容さは、
すべては自らが作る文脈に収容可能と考える「お気楽」と「誇大妄想」の表出を意味する。


【バッティング】
「聖の領域」に安易に操作的な手を突っ込むふるまいの背後には、
近代的な合理追求の思考、「脱魔術化」されたフラットな世界観がある。
ここで失われるものとは何か。
例えば、優れた打撃コーチは「教えない」。
バッターが自己組織化する領域に介入せずに、「気づかせる」。

独善的な打撃コーチがするように、「内容的十全性(integrity)」は、
異質なコンテキストへの権力的外部接続(強制始動・強制終了)によって破られる。
竹に木をつぐようなアドバイス(権力コマンド)挿入は、
「バッティングフォーム」(行為の十全性)に亀裂を入れ、才能を食い潰していく。






コメント

twitter 20121007

2012-10-07 | twitter
【論理階型4】
「行為の組織法(エピステモロジー)」を独立した関数と考えると、
そこから出力される「行為」(例えば、犯罪)は従属変数と捉えられる。
したがって、従属変数(犯罪)にどんな矯正・処罰・取締強化を施しても、
「行為の組織法」が変化しなければ根本的解決は無効である。


【論理階型3】
クラス(集合命題)とメンバー(要素命題)は論理階型が異なる。
この論理規則は簡単に破られ、
「ある中国人はウソつ=中国人はウソつき」というふうに変換される。
個別の経験・感情・信念が普遍化され、
「認知コスト」低減というボーナスが獲得され、ボーナス連鎖を生む。


【論理階型2】
公理系の成立はある種の前提(世界の区切り方)を受容することを必須条件とするが、公理系の内側で整合的に成立する命題群は、
最初の前提の真偽を不問に付す(前提の自明性を承認する)ことを前提とする。
パラフレーズすると、「空気」内の命題は空気の自明性を破れない。


【論理階型1】
会話における論理階型の上昇下降:「AはBだって」「へえ、そうなんだ」→(上昇)→「前提Xを認めたらね」→(上昇)→「前提Xのためには前提Yが前提される」→(上昇)→「言葉って何?」…。
一つの会話に上昇下降はランダムに起こり、論理規則は簡単に破られる。


【サブエンジン】
進化史的に造形された存在のフォームが環境に出会うとき、
おのずと展開する生命のプロセスがある。
人間にはこの形式の上に、相対的に自律展開して、
もう一つの進化史を形成するサブエンジン=幻想領域が接続されている。
このサブエンジンは暴走の危険孕む。


【行為のフロー】
システムの行為のフローに伴走するのは、「think」ではなく「feel」。
触覚・触覚性力覚・体性感覚等、ゲシュタルトを満たす認知的内感とともに、
個別の歴史的プロセスを累積させながら展開していく。
外部観察的な時空間座標から届くコマンド(強制始動・強制終了)は、
システムにとって「権力」として働き、フローの自然的自律的な展開を壊していく。

コメント

2012 手に結ぶ 1

2012-10-07 | Weblog

     *

色は匂へど/散りぬるを/我が世誰そ/常ならむ
有為の奥山/今日越えて/浅き夢見じ/酔ひもせず   ――「いろは歌」(十世紀末頃)

     *

いろはにほへと あさきゆめみじ 


いとにからみからまれほつれあひ
むすびむすばれちぎりちぎられし
かりそめならずやわれもおんみも
ひかりあるやなきやのうたかたに
つたなくめめしふさはこひこがれ
すかれきらわれあいしにくみあふ
あやなきよのことわりつれなくに
しのぶれどうたてうらみつらみに
かなしみねたみひそみものぐるい
よろこびいかりなげきうみそだて
こころあらばあはれにはかなくも
なでかころしころされさしちがえ
いづこよりきたりていづかたへか
まにまにであいわかれすれちがひ
よしなきたまゆらともにいきしに
いまわのはてにいとどなつかしき
あかずみじかよのみはてぬるゆめ


      *

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます ――宮沢賢治(1896~1933)『春と修羅』

      *

金子みすゞさんへの返歌


――二〇一一年十二月十六日
――日本国「冷温停止状態」宣言

明治期以来の伝統でしょうか?

 「クリーン」っていうと
 「クリーン」っていう

 「あんぜん」っていうと
 「あんぜん」っていう

そうして あとで
取り返しがつかなくなって

 「デンキが足りない」っていうと
 「デンキが足りない」っていう

こだまでしょうか
いえ おツムの作動停止といいます

いつも繰り返されることがらには
繰り返しのコードが貼り付いています

 「せんそう」っていうと
 「せんそう」っていう

 「しゅうせん」っていうと
 「しゅうせん」っていう

そのあいだに、
かぞえきれない策謀と扇動と恫喝と讒謗と蹂躙と簒奪と拷問と屈服があり、
無念に苛まれた生命のかぞえきれないいとなみと終焉が強いられました。

いまなお酷薄なコードが支配する二十一世紀です。
守るべきもの、育てるべきもの、創るべきものたちが、
容赦なく奪われ破壊されていく光景が広がっています。

――滅んではならないものが滅ぼされつづけていく

惨劇を導くコードは破られなければなりません。
正しく戦わなければなりません。

あなたの歌と遠く血脈を重ね合わせる、
十五世紀につづられた歌仙のことばがあります。

  心もち肝要にて候
  常に飛花落葉を見ても
  草木の露をながめても
  此世の夢まぼろしの心を思ひとり
  ふるまひをやさしく
  幽玄に心をとめよ       ――心敬(1406~1475)『心敬僧都庭訓』

室町応仁の乱の時代に生きたこの連歌師は、
「幽玄を」ではなく、「幽玄に」と語ります。

ここでは大いなる受身の形式において、
心が寄りそうべきよすがが見出されています。

  天地の森羅萬象を現じ
  法身の佛の無量無辺の形に變じ給ふごとく
  胸のうちなるべし
  是を等流身の佛と云ふ     ――心敬『さゝめごと』

なんのために?

哲の戦いにおける最大の武装がそこにあるからです。
そしていつか戦いから自由になるための作法が。

     *

  ひともわれもいのちの臨終(いまわ) 
  かくばかりかなしきゆえに 
  けむり立つ雪炎の海をゆくごとくなれど 
  われよりもふかく死なんとする鳥の眸に遭えり ――石牟礼道子(1929~)『天の魚』

  花ならぬ身をもいづちにさそふらん 乱れたる世の末の春風 ――心敬『権大僧都心敬集』

     *

3・11 One Year Later

     
とおい記憶の地平の向こう側へ
消息の途絶えたおもかげを追ったとき
あなたの詠む歌は悲恋でしょうか
それともおごそかにつづられる叙事でしょうか

いまこのとき この春に
あなたのまなざしの奥に小さくきらめく光は何でしょうか
それはだれにも語られない憎しみでしょうか

いくつもの物語をたどらなくてはそこに至れない
生命の深い森に連なるこのうえもなく貴重ななにかでしょうか

心がいつか必ずそこを訪ねたいと願い
願いつづけながら滅びてゆくかなしみでしょうか

あるいは深くわけ入ったとき 
道行きの途上でついには口ずさんでしまう
いにしへの歌謡に連なるなにかでしょうか

あなたと血脈を同じくする数多のまなざしが告げていました

そうでありうることがせつないのです
そうでありえないことがくるおしいのです

あめつちはじめてひらけしときより
あはれにはかなく 
かなしくむごたらしい
つねならぬつねの
つねになりてなりゆくありさまを
ただひとり見すぎたこの星の自然よ
おまえは倦むということがないのでしょうか

時のあわいにあるかなきか
 永遠のまにまに
 かつ消えかつ結びて
 なおも見わたせば
 春にひろがる情けのさざなみを

 或る人斯く曰はく、
  まことのひとのなさけ
  しごくまっすぐに
  はかなくつたなく
  しどけなきものなり

 重ねて曰ふ、
  つたなく執着尽きがたく
  めめしくあはれなるものなれば
  あはれの心をあはれのままに語れぞかし云々

 ひとのこころを種として
 まにまにかつ消えかつ結びて
 つたなくめめしふ詠みつくれば
 あやしふこそものぐるほしけれ

あなたのまなざしの向かう彼方に
結ばれる言の葉は挽歌でしょうか
あけそめの露に連なる頌歌でしょうか
 
よしなきいざないは止まず
遠いおもかげをよすがとするものが
終わりなき連歌のえにしにみちびかれ

踏破すべき一片のよしなしごととして
いまもこころに訪れているのでしょうか

     *

   手に結ぶ水に宿れる月影に あるかなきかの世にこそあれ  ――紀貫之(872~945)『拾遺和歌集』 

     *

手に結ぶ


万象流転
無常迅速 
諸行無常 
諸法無我 
一切皆苦 
一切悉無

幽明いよいよ近く 
無常迅速にして 
闇黒いよいよ深し

さはさりながら 
しかあれども
さのみのみおもふべきや

何故在世々百鬼夜行魑魅魍魎愚昧有象無象
不義瞞着詐欺横領隠匿偽計妨害偽造同行使
一切衆生生類山川草木悉有仏性 
如何せむ 如何せむ 如何せむ 如何せむ

  こころよ/では いっておいで
  しかし/また/もどっておいでね
 
  やっぱり/ここが/いいのだに

  こころよ/では/いっておいで  ――八木重吉(1898~1927)「心よ」

では、行ってまいります。


      *

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2012 手に結ぶ 9、10 

2012-10-04 | Weblog

    *

「《一分きざみ、一銭刻みで勘定する神。情欲に狂った、豚のようにうめく、なりふりかまわぬ神。ところきらわず舞い降り、下腹を投げ出し、愛撫に身をゆだねる、金の翼を生やした豚、そう、これがおれたちの神様だ。さあ、みんな乳繰り合おうぜ!》」
(L=F・セリーヌ『夜の果てへの旅』生田耕作訳)

    *

「接続エラーⅡ――地下鉄殺人」


あるフランス人の作家は、ありたけの呪詛をこめて言葉を綴った。
クソにまみれの社会に向けた、クソまみれの言葉が作品を埋めつくす。

「また淋しくなった。こんなことはもういい加減うんざりだ」

闇にいくらクソの言葉を吠えても闇が変化することはない。
昔も今もこれからも、クソはずっとクソのままだろう。

オレはじぶんがクソだということはわかっている。
世の中が輪をかけてクソの山だということも知っている。

そんなことはわかりきったことだが、
どうしようもなく感情がこみ上げてくることもある。
馬鹿げているが、オレにも呪詛を吐き出してみたくなる時がある。

  おお 厚顔で恥知らずの世界よ
  その暑苦しい身振り手振りよ

  真面目で見栄っぱりで
  儀礼に準ずる者よ
  マヌケな働き者たちよ

  愛しいものを求め
  わかれに嗚咽し
  崩壊を怖れながら
  みずから壊れていく

  自由を求めて隷属し
  隷属を拒んで支配に加担する

  秩序のコードに従って
  殺戮と蹂躙を繰り返す者よ

  冷酷で綺麗好きの
  お節介で役立たずの
  人でなしの呪われた

  たらふくエサを喰らい
  残忍に血を啜り
  丸々と貪りつづけるクソの山よ

  信じる格率はどこからきて
  最後にめざすものは一体何だ

  クソ真面目に食い尽くしたら
  また新しい獲物を探し出して
  果てしなく勝どきを上げたいか

ある日、オレは地下鉄に乗っていた。

ばあさんが乗り込んできた。
善良と品で固めたようなばあさんだ。

オレは座席を譲りたいような気分だったが、
あいにくオレには譲る座席がなかった。

オレは自分がクソだということを忘れたことはない。
譲る座席をもないただのクソ野郎でしかない。
けれど、永遠に不発弾でありつづけられるだろうか。

一瞬、ばあさんは冷たい視線でクソのオレをにらんだ。
真心をこめた、憎しみか軽蔑のようなものが滲んでいた。
ほんの束の間、オレをつつむ空気が静止して冷たく凍りつく。

「おばあさん、そんな目でオレを見ないでくれないか」

クソのオレはようするにどこにも存在しないが、
クソのオレのことを考える存在はどこにもいないが、
クソであるオレは、クソのオレだけに考えられている。

決まって嫌な感じがする記憶のホットスポットがある。
過去の何かがが先回りして、クソの現在を照らし出す。

オレが帰る場所は消滅したはずなのに、
記憶だけは放射能のように残留していく。

意味は汲み取ることができないけれど、
このどうしようもなく嫌な感じだけは鮮明だ。

どうでもいいことだが、クソにはクソの操作マニュアルがある。
オレだけが知っているオレ自身のための操作手順だ。
嫌な感じを処理する、クソ処理用のアルゴリズムもある。

けれども手に負えない現実は否応なくやって来る。
いつか積み重なった嫌な感じは満期を迎える。
借金が膨れ上がると誰かが必ず取立てにやって来る。

電車のドアが閉まる寸前に男が飛び込んできた
ドアの前に立っていたオレは不意をつかれた。

オレの背中にぶつかった男が舌打ちするのが聞こえた。
オレは男がどんな顔をしたのか、見なくてもわかった。

「いま、あなたはボクを虫ケラだと思いましたね」

視線が泳いだ途端にクソの毒が回りはじめる。
クソの血がたぎって脳ミソに逆流する。

たったそれだけのことが決定的なトリガーを引く。
少し揺れただけなのにメルトダウンが始まる。

「こんな場所に突っ立ってるんじゃねえよ」

すべては誰か仕組んだジョークなのだろうか。
それともオレの心がどこかで望んだ展開だろうか。

すべてのリンクが切られている。
すべての通信はブロックされている。
リンクのないラインに情報は流れない。
ラインの切れた光の道を虚ろな闇が包んでいる。

クソのオレにはどんな座席もないし、オレはどこにもいない。
どこにもない、も、どこにもない。

オレはビョーキだろうか。たぶんビョーキなのだろう。
でもそれがどうしたというのか。
座席の問題じゃないのはわかっている。
そんなことは豚のケツだ。ばあさんのことは許してやる。

ところが、オレに唐突にリンクを張ったバカがいる。
頼んだわけでもないのに満期がやって来た。

クソにはクソに固有の閾値のセッティングがある。
男の虚数的なまなざしと科白が、
クソの構造計算式にクソの解を与える。
嫌な感じの凝集が起こって、相転移がはじまる。

「かあちゃん、ここが臨界点らしい」

あってはならないことがありうるということ。
ゆるされない現実が現実に起こるということ。

想像する間もなく、なけなしのフォースが励起した。
あるかなきかのオレのひ弱なフォースだ。

――臨界を超えた津波は男の心臓にナイフを突き立てる。
――惨劇のさなか、一瞬だけ一縷の希望が立ち上り、消尽する。

最後のフォースは使い果たされた。
もはや絶望も希望もなにもない。
システムは完全にダウンした。

そして、この街にも一瞬システムダウンが起こる。
しかしそれはほんの束の間の出来事にすぎない。

街の視覚が凄惨な光景が捕獲しはじめると、
装填されたサブシステムにスイッチが入る。

総員によるまなざしの凝集が起こり、
失われた現実の一斉捜索が始まる。

どこかにあるはずの人倫を呼び戻すように、
凝集点では価値と反価値のボーダーをめぐり、
解釈コードの作動とエチカの再認証が始まる。

一般意志の貫徹を代行する執行ユニットとして、
選抜されたエージェントたちが召喚される。

「わたしにおまかせなさい村」の村長さんや村人たちも、
ボランティアとしてぞくぞく名乗りを上げる。

みえざる一般意志が一カ所に回収され、
サブシステムのエンジンに次々に充填されていく。

蝟集する感情の規模に従って、
執行グレードが調整される。
メモリの設定は最高グレード、レベル7。

オレは数えきれないまなざしに包囲されていた。
恐怖と憎悪と憤怒と呪詛の津波が襲いかかり、
二波三波四波と巨大な威圧がオレを呑みこんでいく。

フォーカスされたオレは次第に市場性を帯びていく。
マーケットメカニズムは抜かりなく作動している。

呪われたクソにとって街の地平は無限に遠いが、
自称のクソが公称のクソに転換すると、
どんなクソにも社会性のカケラが付着する。

オレとは別のどこかにいるらしいもう一人のオレは、
緻密に張り巡らされた需給メカニズムの網の目に拾われ、
マーケットへのささやかな参入を果たす。

――「the murderer」――

オレに一点の曖昧さのない認証カードが貼付される。
座席のないどこにも存在しないクソとして生きてきたオレに、
晴れてパブリックな公式の座席が与えられる。

特上プレミアム付きのピカピカの座席だ。
自称のクソから公認のクソへの企投と転換。
クソがたどりついた究極のクソがこれだ。

使い切りの消費財として需給の結節点をめぐった果てに、
完全無欠の分別を受けて汚物処理が執行される。

オレは圏外へ吐き出されて無限の闇へワープする。
オレという存在は宇宙のゴミとなって消えていく。

いや、オレの「存在しない」はもう一つラックアップして、
「オレ」も「存在しない」も過去に遡って存在しなくなる。

――地下鉄車内、キレた果ての凶行――

記憶のファイルには新たなラベリングが加えられ、
得体のしれない不安はクリーンアップされ、
巨大な一般意志の再起動が確認されていく。

「街は健全に保たれている」

呪文が響きわたり、
人びとは唱和し、不安を鎮め、
結界が結び直される。

濁りきった空気は換気され、
いつもの新鮮な空気に満たされ、
次なるイベントに向けて、
街はスタンバイの状態に入っていく。

    *



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