https://www.youtube.com/watch?v=QVhvX0vyaoo
「これが優れた音楽かどうか知らない。しかし私はこの音楽が好きだ」
「これが優れた音楽かどうか知らない。しかし私はこの音楽が嫌いだ」
〈世界〉はいつも端的な現われとして〝わたし〟を訪れ、
〝わたし〟にとっての〈世界〉の表情を示す。
絶対的主観(わたし)に訪れる第一次のメッセージに喚起されて
絶対的主観(わたし)の情動はうごき、色めき立つ。
音楽(第一次のメッセージ)が告げるものそれ自体に、「うそ」も「ほんとう」もない。
それは端的な現われにおいて「好き/嫌い」であり、「きれい/きたない」である。
世界経験の固有性、絶対性、一回性──
絶対的主観(わたし)にとって、ここが唯一の〈世界〉への入り口にあたっており、
この内部にあるかぎり、みずからの経験をうたがう理由も根拠も存在しない。
しかし〝わたし〟の〈世界〉経験にはかならず〝折り返し〟が後続する。
この折り返し=内省をうながす契機として、
絶対的主観(わたし)とは異質な生を生きる別の絶対的主観(あなた)がいる。
「これが優れた音楽かどうかは知らない」と語るとき、
絶対的主観(わたし)はすでにこの折り返し点に立っていることになる。
絶対的主観(あなた)と絶対的主観(わたし)との関係において、
それぞれの固有の経験は交換可能性をもつ、という前提が生きられているとき、
「私はこの音楽が好きだ」という固有の経験の絶対性は、
あなたの固有の音楽体験を受け入れるかまえにおいて、いったん留保される。
固有の経験を生きているもう一人の絶対的主観(あなた)という存在が、
わたしの内部においてリアルに確信されるとき、
わたしの経験の絶対性は一つの折り返しの契機をつかむことになる。
このメロディ、このリズム、この音楽を固有の感受性において経験しながら、
わたしとは別のエロスを味わっているかもしれない、
あるいはどんなエロスも味わっていないかもしれない他者(あなた)という存在。
それぞれの固有の音楽体験を交換しあうことができる──
という「関係のエロス」は、絶対的主観(わたし)の固有の音楽体験を拡張する契機、
あるいはそれぞれに新たな体験の位相=感受性をみちびく契機としていつもそこに開かれている。
この交換可能性は「他者一般」(普遍性)へとさらに拡張される可能性として存在している。