ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「Enfance 子ども時代」

2015-12-31 | Weblog

                https://www.youtube.com/watch?v=L-ToyNEYFmY


単一のゲームに一元化された世界(おとな社会)では、
別のゲームで動くもの(子ども)をみずからのゲーム内視線に取り込むことで、
そのゲームにとっての外部性=世界経験(子ども時代)を小さく剪定する力学が働く。

限定されたピッチとゲーム規則に準じることで、
新たなゲームを探索して遊ぶ〝主語〟が抑圧され、消去されていく世界。

己ならざるゲームの神々を主格として仰ぎ見ながら、
〝述語〟としてみずからを位置づける存在規定、そして従属変数としてのふるまい。
果たして、多様なゲーム創発の資源となる〝世界経験〟が社会から枯渇していく。

 

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「固有性と普遍性、関係のエロス」

2015-12-28 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=QVhvX0vyaoo


「これが優れた音楽かどうか知らない。しかし私はこの音楽が好きだ」
「これが優れた音楽かどうか知らない。しかし私はこの音楽が嫌いだ」

〈世界〉はいつも端的な現われとして〝わたし〟を訪れ、
〝わたし〟にとっての〈世界〉の表情を示す。

絶対的主観(わたし)に訪れる第一次のメッセージに喚起されて
絶対的主観(わたし)の情動はうごき、色めき立つ。

音楽(第一次のメッセージ)が告げるものそれ自体に、「うそ」も「ほんとう」もない。
それは端的な現われにおいて「好き/嫌い」であり、「きれい/きたない」である。

世界経験の固有性、絶対性、一回性──

絶対的主観(わたし)にとって、ここが唯一の〈世界〉への入り口にあたっており、
この内部にあるかぎり、みずからの経験をうたがう理由も根拠も存在しない。

しかし〝わたし〟の〈世界〉経験にはかならず〝折り返し〟が後続する。
この折り返し=内省をうながす契機として、
絶対的主観(わたし)とは異質な生を生きる別の絶対的主観(あなた)がいる。

「これが優れた音楽かどうかは知らない」と語るとき、
絶対的主観(わたし)はすでにこの折り返し点に立っていることになる。

絶対的主観(あなた)と絶対的主観(わたし)との関係において、
それぞれの固有の経験は交換可能性をもつ、という前提が生きられているとき、
「私はこの音楽が好きだ」という固有の経験の絶対性は、
あなたの固有の音楽体験を受け入れるかまえにおいて、いったん留保される。

固有の経験を生きているもう一人の絶対的主観(あなた)という存在が、
わたしの内部においてリアルに確信されるとき、
わたしの経験の絶対性は一つの折り返しの契機をつかむことになる。

このメロディ、このリズム、この音楽を固有の感受性において経験しながら、
わたしとは別のエロスを味わっているかもしれない、
あるいはどんなエロスも味わっていないかもしれない他者(あなた)という存在。

それぞれの固有の音楽体験を交換しあうことができる──
という「関係のエロス」は、絶対的主観(わたし)の固有の音楽体験を拡張する契機、
あるいはそれぞれに新たな体験の位相=感受性をみちびく契機としていつもそこに開かれている。

この交換可能性は「他者一般」(普遍性)へとさらに拡張される可能性として存在している。

 

 

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「People get ready ?」

2015-12-24 | Weblog

              https://www.youtube.com/watch?v=yC_j_dzkaVE


「われわれ」を構成する存在に含まれない、
別の「われわれ」を生きる存在にいかなる態度をとることができるか。
いかなるかまえ、関係配慮へと開かれることができるのか。

──People get ready ?──

なにに向かって「ready」なのか。
だれとだれを指して「people」なのか。

「われわれ」が戴く〝神〟を信じることは、それでいいとしよう。
しかし「われわれ」とは異なる別の〝神〟を信じる別の「われわれ」と、
いかなる関係を結ぶことができるのか。関係を結ばないのか。

そのことを「列車に乗り込む前に」問うべきではないのか。
このとき、新たな本質的な問いが生まれ、
「われわれ」が刷新される本質的な契機が生成するのではないか。

 

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「All Along The Watchtower」

2015-12-22 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=TLV4_xaYynY


         相互に支え合う前提の織りなす、
         果てしなく複雑なネットワークの中に捕らわれて生きること、
         これはすべての人間に共通の宿命だろう。
         逆にいえば、変化が起こるためには、この前提網の内部に、
         様々な弛緩と矛盾ができることが、どうしても必要だということである。

                             ――G・ベイトソン『精神と自然』(佐藤良明訳)


     意味をつかまえるまえに
     状況は状況を追い越し

     吟味するまえに
     切迫と焦燥が導かれ
 
     感慨を刻むまえに体験はからだをすり抜け
     新たなコードがぞくぞくと名乗りを上げていく

     名づけようのない場面転換の加速度に
     存在はハトのようにからだを丸くして
     呆然と風景に身を晒している

     どこにも「経験」が刻まれない世界──
   

 

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「アンサンブル」2015

2015-12-21 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=OWjxVrJMSMA


アンサンブル──
一人では体験として実現できないマルチ記述の位相が〝存在〟する。

一人では実現されない位相に出現する音楽体験は、
美と呼ばれたり、ハーモニーとよばれたり、
感動という言葉によって縮約されたりする。

いまだ顕現しない位相は物理的に特定することができないが、
アンサンブルに加わるすべてのプレイヤーの演奏は、
この非在の位相に虚数的にリンクされている。

ハーモニーの出現は約束されているわけではない。
アンサンブルの構成は一つの〝探索〟を意味する。

探索には成功もあれば失敗もある。陶酔もあれば失望もある。
出会えるかもしれないし、出会えないかもしれない。

しかしこの探索はつねにハーモニーが顕現しうるという予感にになわれている。
アンサンブルを構成するということ自体がその〝存在〟への確信を証している。

この〝一般意志〟に対する透明な信頼と合意が
アンサンブルという集合的構成と活動を支えている。

この位相をスコアに書き込むことはできない。
ただ、コードという一種の拘束条件を手がかりに、
アンサンブルは、いまだ顕現しない非在の体験を探索していく。

 

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「〝inform〟される」

2015-12-19 | Weblog

            https://www.youtube.com/watch?v=2PqhOrgk11A


      「私があなたに向かって「雨だ」というとき、そのメッセージは、
       メッセージと雨つぶがつくる全体に冗長性をもちこむ。
       そのとき、あなたはそのメッセージだけから、窓の外に見えるだろうものを
       ──ランダム以上の確率で──推測することができるわけである。

       メッセージに指示対象を加えてできた世界全体に、そのときのパターン、
       すなわち「フォーム」(形式)が与えられる。
       シェークスピア的な意味で、世界が正に「インフォーム」されるわけである。
       この「形式」は、メッセージの中にあるのでも、指示対象の中にあるのでもない。
       それは、メッセージと指示対象の照応を言うものである。」(ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳)


    メッセージ──

    それを受けいれる態勢が整えられているということ。
    そのことが相互に信じられている、
    ということが「わたし」に信じられているということ。

    応答しあう透明な回路が信じられ、
    「あなた」という存在のcallが聞こえるとき、
    一つのメッセージが「わたし」の中に生成する。

     ── time after time ──

    「コール」と「応答」はなんども入れかわり、
    〈世界〉を記述する新しいコトバをみちびいていく。

    相互作用しあう一人の視覚がもう一人の視覚と重なり、
    一人では実現されない冗長性が〈世界〉にもたらされる。

    二つのまなざしによる二重記述(double description)。

    透明な回路の上で単眼視覚は単眼視覚とまじわり、両眼視野を形成し、
    どちらにも帰属しない意味(奥行き)が創発し、
    わたしの〈世界〉に新しいフォームが「inform」される。

 

 

 

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「行為モードと観照モード」

2015-12-17 | Weblog

                            https://www.youtube.com/watch?v=xbwJnUHdg4M


             観照モード優位において、行為モードの進行はおろそかになる。
             おろそかになるという代償を支払うことで、
             行為モードにおいて組織される〈世界〉は変容の契機、
             なんらかの修正の手がかりをつかむことがある。

             このとき観照モードを別様の「行為モード」の一つとして、
             ポジティブにとらえることが理に適っている。

 

 

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「生のエロス」

2015-12-14 | Weblog

               https://www.youtube.com/watch?v=f99mfQOldx0


      自己再帰的プレーの反復はエロスが涸れていく。世界に閉じたある島国に似ている。
      エロスの低減とその息苦しさやアノミーが生活世界を覆うとき、
      穴埋めするように「全体(国家)」という物語がインフレーションを起こし始める。

 

 

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「So What ?」

2015-12-07 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=zqNTltOGh5c


                    創発する「音楽」──

                    確定され規定された〝全体(世界)〟の内部において禁じられるもの。
                    前提を検討にかけないという〝公理系〟に生成しないもの。
                    既知のコードによって構成され尽された〝エピステモロジー〟が廃棄するもの。

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「ストライク/ボール」2015

2015-12-04 | Weblog


命題「A」には命題「非A」が貼りついている。
命題「ストライク」のメンバーからなるクラスを漫画の吹き出しのように囲むと、
囲み線の外側には命題「アウト」のクラスが自動的に配置される。

「A」か「非A」のいずれか一方のクラスを強調するだけで、
このコンテクスト(世界の区切り方)は強化されていく。

ホームベース上の空間はストライクゾーンとボールゾーンに分割される。
二つの空間を分割する境界線は実体をもたず、虚数的に存在する。
ストライクとボールは相互に前提を供給しあい、どちらも単独では存在できない。

「A」か「非A」のいずれか一方のクラスを強調するだけで、
「A/非A」というコンテクスト(世界の区切り方)は強化されていく。

プレイヤーやサポーターたちは、この虚数空間における審議をめぐり、
殴り合いを始めたり、ときには殺し合いにおよぶこともある。

サッカーというゲームでは、ベースボールとは別の虚数空間が用意される。

 

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〝to Nick〟(参)

2015-12-03 | 参照

https://www.youtube.com/watch?v=8_U2cPNLSvg

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