7:52 - its SHOWTIME!!!
(「カクテルグラス」の実在について 2014-11-22)
もういちどぼくがカクテルを経験する場面に戻って考えてみよう。
「カクテルグラスの実在」について語るには、一つの前提がある。
つまり、〝客観〟について語り出すためには「ソレ」が、いつも、すでに、そのようにして、
ぼくの意識において経験されていなければならない、ということだ。
一つの確証――「ソレ」は確かにぼくの目の前に存在し、この実在を疑うことはできない――
というぼくの心に訪れる〝確かさ〟が、ぼくに「客観」としてのカクテルグラスを語らせている。
ところが、「人間の意識経験は、徹頭徹尾、主観的である」――
この事実は人間の思考にとって否定することができない原理としてある。
ここにはさらに大事な事実が存在している。
すなわち、ぼくの意識に内在するこうした確信(カクテルグラスは実在する)は、
この確信を成り立たせるもう一つの条件を必要としているということだ。
ぼくに訪れる純粋な内的な確信だけでは、グラスの客観的な実在という「普遍」には至れない。
なぜか。ぼくの見るカクテルグラスの印象について、もしきみが否定するなら、
ぼくのこの確信はただちにゆらぎはじめる、ということが起こる。あるいは〝信念〟の対立が起こる。
ぼくにとってと同じく、きみにとっても、このカクテルグラスは唯一同一のものであり、
共通の客観的実在として存在しているにちがいない、そうぼくの確信の構造は告げている。
自分にとってだけではなく、他者にとっても等しく同じものと同定できるものが存在している。
そのようなもう一つの確信によって、ぼくのカクテルグラスについての確信は支えられている。
この確信の二重性――、それはぼくの主観ときみ(たち)がつくる共同的な主観=間主観性の関係として、
すなわち、ぼくの主観の内部でうごいている二重化された構造として図式化できるはずだ。
つまり、もしきみやほかのだれかががぼくの言明に疑念をはさんだり否定したりすれば、
ぼくのこの経験は〝すべての人間にとって普遍的にちがいない〟という確信に達することができない。
くりかえせば、この事実は次のことを告げている。
ぼくボクの意識が体験している「客観としてのグラス」という確信の像は、
「みんなも等しく同じようにカクテルグラスを体験しているはずだ」という、
ぼくの主観の中にあるもう一つの確信に支えられている。
この確信の二重性は、あらためて次のような構造として整理することができる。
第一に、ぼくの体験するカクテルグラスの実在が確信の像として訪れるということ。
第二に、それがキミやみんなの体験しているものと一致するにちがいないということ。
この二重の確証が成立するという条件において、ぼくの意識が確信を手にするとき――
そのときはじめてぼくはきみとここに一緒にいて、カクテルを楽しむことができる。
あらためて問おう。そもそも人間にとっての〝普遍性〟(客観的真実)とは何なのか――
それはぼくにとっての世界がきみにとっての同じ世界であり、
そして、ほかのだれかにとっても同じ世界である――
という、ぼくの確信の二重性に支えられた世界が経験されている、という意識にほかならない。
一つの世界の情景をめぐり、
ぼくときみ、ふたりともにそう感じているだろう、
ときみも信じているにちがいない、
と、ぼくが信じている
この確信に至るときにはじめて、ぼくの意識は普遍性をもった像(確信像)を結ぶことができる。
そのような構造をもつ心的なメカニズムが、ぼくの〝経験としての世界〟を成り立たせているらしい。
端的にいえば、きみ(たち)の同意があるという確信がぼくの内部に成立するとき、
そのときはじめてぼくの確信はその根拠を疑うことができない確証を手にする――
この〝普遍性〟――すなわち世界認識についての「正当性/真理性/審美性/善性」をめぐる思考は、
つねに一人の人間の独我論的な精神の内部で完結することができない、という事実を示している。
ここから、固有の体験としての世界が〝普遍性〟にいたるための条件を語ることができる。
一つには、きみ(たち)=他者による承認非承認を介した「体験のたしかめ」、
二つには、そこから成立する「相互的な了解についての確信の意識」にほかならない。
そしてそのこと含め、すべてはひとえに、ぼくに内在する意識体験としてぼくに現象する。
そのことを理解することの意味ははかりしれないと思うのだが、どうかな。
つまり、人間の世界認識は根源的に「他者(の承認)を必要としている」ということでもある。
いま、ここで、こうしてきみと一緒にカクテルを楽しみことができるのも、
まさにそうした〝現象〟の中の出来事として記述できる。
別のアプローチからいえば、次のようにもいえる。
科学的記述、詩的記述、すべての記述をつくる世界認識は、
基底においてつねにすでに「感じる身体」「欲望する身体」としてのボクが
この世界という確信像を現出させる最初の作動に由来している。
そこから、〝客観的な記述〟という信憑が成立するとき、
からならずそこには二重化された確信の構造がうごいているということだ。
いわば〝一次過程〟から〝二次過程〟、その二極を循環する構造において、
人間の世界認識の〝確信〟は訪れる。あるいはその訪れを待ちわびる苦悩を体験する。