ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

相対主義──「回収者」のコトバ 20190130

2019-01-30 | Weblog

    https://www.youtube.com/watch?v=AqZceAQSJvc


「じつはそんな意見もほしかったんです」
「そうした見方もあるよね」

みずからは一歩も動かない回収者の言葉。
回収可能と考える回収者の理解のポッケは自足と安堵で膨らんでいる。

多様性を認める格律は未踏の合意点、相互的了解の〝発火点〟、
その探索に向かわなければ意味をなさない。
意味をなさず、回収者の不当な自尊において現実をバインドする。

知的特権を保有すると密かに自称する愚か者の群れ。
言葉の試行をくじく超越項の設営、そのエージェントとしての自足の言葉。

「無根拠性」
「虚数としての〈世界〉」
「贈与」
「汎神宇宙」
「人間の終焉」

みずからをただ一人の見者としてあらゆる人間の言葉の試行をくじき、
あらゆるコードを解体にみちびく、仮象の、いかさまの最終解。

「風呂の水と一緒に赤子を流す」ものでしかない、
そののぼせあがった言説の特権意識。その本質は「思考の制圧」にある。

  *

相対化の気圏はつねに人間の歴史に同伴してきた。

「人それぞれ、人生いろいろ」
「なるようにしかならない」

日常の底に埋め込まれた強いられた現実受容の諦念、その切実性。
生活意識、社会意識を貫くクリシェ、自らを慰めるコビニエントな用法。

しかしその歴史の基底をつくった実践的必然性を、
ひとり回収して密教化し、謎言語化し、宗門の入口に閂をかける僧侶たち。
そしてその無数の派生的バリアント。

「しかたがない」
「世の中そんなもん」
「結局、イロとカネ」

一歩も動かない時代、一歩も動かない世界。
変化に砂をかける社会の内側から分泌される自己修飾のコトバ。

   *

最後に決着の時を待つ「自然の文法」──弱肉と強食の論理。
その顕現に手を貸し、一切をそれに捧げることになる言葉の群れ。

関係世界、関係構造の定常性を維持するように、
社会体の内側から分泌され、個の体内に浸透してゆく「思考の更地」を用意する記述法。

相対化──ある根本、根拠、妥当性、正当性の普遍的基盤を形成しえないダイアローグ。
「終わらない日常」、現状維持、変化することの棄却へ向かわせる相対化の言葉。

僧侶たちのコトバ──その本質は「力の論理」に対抗できないだけではない。
「力の論理」の顕現の露払い、砂払い、司祭として機能する。

   *

だまされてはいけない。
だれにとっても、だまされないでいるための経験は目の前にある。

 

 

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ストーリーを超えて 20190126

2019-01-26 | Weblog

         https://www.youtube.com/watch?v=ZVJ3Ho83Ksg


第一次の過程は、つねに、そしてすでに、
「私」の意志をはみ出す「身体的な意志、情動」の湧出として、
「私」の意識の水面に現象している。

原的所与──〈世界〉という名のランドスケープの訪れ。

〈世界〉は「私」の意志の向こう側から訪れ、
ひとつの表情、感じ、肌ざわり、色づきとして意識を襲っている。
意味と価値に彩られた、その固有性、代替不可能な私性。

「私の意識が動くより早く駆けている内なる作動(私)がある」

うながし、ためらい、迷いを誘うものである〈世界〉の訪れに、
「私」の意識は染まり、染まることで生きることの理由が示される。

ただ、そのつど、そこに生きる主題(動機)を与える、
すべてに先行する起源として生成し遷移しつづける〈世界〉。

「私」は生きる理由と動機を与えるものの背後に回り込むことはできない──

  *

物語の生成──

この不可抗の力の作用に促され、あるいは苛立って、
「私」の中にその背後に回ろうとするもう一つの作動があり、
必然のように、「私」が「私」に語って聞かせる
「私の物語」が召喚され編みあげられていく。

このこと自体の真偽、善悪を問うことは意味をなさない。
端的な現象としてのいとなみがそこにあるだけである。

こうしたことの現象の根源的な原理を変更することはできない。
ただし現象するものの原理性、本質を看取ることはできる。

なぜなら、すべては意識の水面の出来事として現出している。

しかしこの看取を遂行するためには一つの大事な条件がある。
「物語」の生成とそれを使用する作動にストップをかけること。

インターミッション──いったんクラッチを切ること。
クラッチを切ることで看取り、一つの〝了解〟に至ること。

すなわち、私性と離れて〈世界〉は存在せず、存在することができない。
〈世界〉について語ることは、同時に、
みずからの生の主題=欲望を語ることであり、
欲望の刻印そのもののプレゼンテーションでもあること、
そのことの〝了解〟を手にすること。

看取ることで何が果たされうるのか。その目的は何か。
「私性」と「私性」が出会う場面、
関係しあう場面でそのことの了解は決定的な意味をもつ。

各自性、私性、固有の状況を生きるもの以外なにものでもない「私」、
ただそうであるものが、同時に、つねにすでに「関係世界」を生きる「関係存在」であり、
「関係子」を伸ばして生きるものとして、その生成性を目撃することで、
なんらかの変更あるいは修正の契機をそこでつかむことは可能である。

「物語」ではなく、原理に即したコトバを見出しカタチにすること。

よりよく生きる──とは、自明ななんらかの「よりよさ」(物語)ではなく、
この原理性を逸脱しないありかたにおいて、
ただ、相互に生きられるその生成性を見失わないでいるために。


 


 

 

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「9条2項」 

2019-01-20 | Weblog

 

The constitution of Japan
Chapter2 Renunciation of war

Article9: Aspiring sincerely to an international peace
based on justice and order, the Japanese people
forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph,
land, sea, and air forces, as well as other war potential,
will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

理念の言葉を真理化すると、そこですべてがバインドされる。
「世界」は「真理/非真理」という透明な分断線によって固定される。

冷却(修正)機能を欠いた、すなわち暴走に向かうシステムは、
ハードプログラムされた検証されざる前提から生まれる。

欺瞞にいたる「人権」の用法──

関係しあう者同士が相互に固有の〝真理〟をぶつけ合うだけなら最後は「力の論理」が決着する、以外ない。
しかし決着のつけ方には別の方法がある。真理の相対化、ではない。
双方にとって共有可能な新しい真理、価値の創成、たとえば「人権」。

〝我が陣営の真理〟として占有不可、取扱い注意の価値の本質。
すなわち自衛(軍)を正当化する用法が許されない価値としての「人権」。

一国の自衛(軍)の正当性の根拠とすれば、
普遍概念としての「人権」はただちにローカルな「ムラの掟」に転落する。
そして「普遍を名乗るムラの掟」という独断論(妄想)のまま突き進めば、
必然的にふたたび、「聖なる軍隊による聖戦」を繰り返すことになる。
 
ある概念が普遍性をもちうるには、最低の条件がある。
その価値、用法についての「普遍的な合意可能性」をあらゆる検証に晒しながら、
決して党派的な利用をしてはならないこと。

   *

オフサイドライン──サッカーという一平和ゲームの成立条件。
普遍的なルールはあらゆるプレーヤーを例外なしに拘束するものでありながら、
あらゆるプレーヤーによる先行的合意と承認によって支えられ、
同時に全員の合意と承認を条件としてその修正可能性に開かれている。

 

 

 

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「〝真理〟が台なしにしない間に」20190112

2019-01-12 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=tfJOW6-zejk

  *

ソレが直撃すると、われわれは速やかにコトバとは別の回路に入る。
ソレに染まり、情動は走り、官能が舞う。
この経験のモードはコトバに先行を許さないように動いてゆく。

  *

世俗のコトバだとナメてはいけない。

「キレイごと言ってなさい」
「あたしにゃ関係ない」
「そこ、どいてくれる」

ナメられる覚悟でナメられるコトバを吐く。
対等のプレーヤーとしての覚悟をもってナメられ倒されてはじめて、
同じピッチに立つ最低の条件の一つが生まれる、かもしれない。

  *

じぶんを利口だ、正義だ、真理だと考えている間に、
歴史は生きられ、作られてゆく。
この知恵がなさは本当のバカと呼ばれる。

  *

ともあれ、「キミは歌が歌えますか」

  *

「ところで一緒に踊りませんか」という幸いの、
最上級のコトバだけは知っておいたほうがよい。

  *


 

 

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「関係子」の生成 20190106

2019-01-06 | Weblog

          7:52 - its SHOWTIME!!!

          
(「カクテルグラス」の実在について 2014-11-22)


もういちどぼくがカクテルを経験する場面に戻って考えてみよう。
「カクテルグラスの実在」について語るには、一つの前提がある。

つまり、〝客観〟について語り出すためには「ソレ」が、いつも、すでに、そのようにして、
ぼくの意識において経験されていなければならない、ということだ。

一つの確証――「ソレ」は確かにぼくの目の前に存在し、この実在を疑うことはできない――
というぼくの心に訪れる〝確かさ〟が、ぼくに「客観」としてのカクテルグラスを語らせている。

ところが、「人間の意識経験は、徹頭徹尾、主観的である」――
この事実は人間の思考にとって否定することができない原理としてある。

ここにはさらに大事な事実が存在している。
すなわち、ぼくの意識に内在するこうした確信(カクテルグラスは実在する)は、
この確信を成り立たせるもう一つの条件を必要としているということだ。

ぼくに訪れる純粋な内的な確信だけでは、グラスの客観的な実在という「普遍」には至れない。
なぜか。ぼくの見るカクテルグラスの印象について、もしきみが否定するなら、
ぼくのこの確信はただちにゆらぎはじめる、ということが起こる。あるいは〝信念〟の対立が起こる。

ぼくにとってと同じく、きみにとっても、このカクテルグラスは唯一同一のものであり、
共通の客観的実在として存在しているにちがいない、そうぼくの確信の構造は告げている。

自分にとってだけではなく、他者にとっても等しく同じものと同定できるものが存在している。
そのようなもう一つの確信によって、ぼくのカクテルグラスについての確信は支えられている。
この確信の二重性――、それはぼくの主観ときみ(たち)がつくる共同的な主観=間主観性の関係として、
すなわち、ぼくの主観の内部でうごいている二重化された構造として図式化できるはずだ。

つまり、もしきみやほかのだれかががぼくの言明に疑念をはさんだり否定したりすれば、
ぼくのこの経験は〝すべての人間にとって普遍的にちがいない〟という確信に達することができない。

くりかえせば、この事実は次のことを告げている。
ぼくボクの意識が体験している「客観としてのグラス」という確信の像は、
「みんなも等しく同じようにカクテルグラスを体験しているはずだ」という、
ぼくの主観の中にあるもう一つの確信に支えられている。

この確信の二重性は、あらためて次のような構造として整理することができる。
第一に、ぼくの体験するカクテルグラスの実在が確信の像として訪れるということ。
第二に、それがキミやみんなの体験しているものと一致するにちがいないということ。

この二重の確証が成立するという条件において、ぼくの意識が確信を手にするとき――
そのときはじめてぼくはきみとここに一緒にいて、カクテルを楽しむことができる。

あらためて問おう。そもそも人間にとっての〝普遍性〟(客観的真実)とは何なのか――

それはぼくにとっての世界がきみにとっての同じ世界であり、
そして、ほかのだれかにとっても同じ世界である――
という、ぼくの確信の二重性に支えられた世界が経験されている、という意識にほかならない。

  一つの世界の情景をめぐり、
  ぼくときみ、ふたりともにそう感じているだろう、
  ときみも信じているにちがいない、
  と、ぼくが信じている

この確信に至るときにはじめて、ぼくの意識は普遍性をもった像(確信像)を結ぶことができる。
そのような構造をもつ心的なメカニズムが、ぼくの〝経験としての世界〟を成り立たせているらしい。

端的にいえば、きみ(たち)の同意があるという確信がぼくの内部に成立するとき、
そのときはじめてぼくの確信はその根拠を疑うことができない確証を手にする――

この〝普遍性〟――すなわち世界認識についての「正当性/真理性/審美性/善性」をめぐる思考は、
つねに一人の人間の独我論的な精神の内部で完結することができない、という事実を示している。

ここから、固有の体験としての世界が〝普遍性〟にいたるための条件を語ることができる。
一つには、きみ(たち)=他者による承認非承認を介した「体験のたしかめ」、
二つには、そこから成立する「相互的な了解についての確信の意識」にほかならない。

そしてそのこと含め、すべてはひとえに、ぼくに内在する意識体験としてぼくに現象する。
そのことを理解することの意味ははかりしれないと思うのだが、どうかな。

つまり、人間の世界認識は根源的に「他者(の承認)を必要としている」ということでもある。

いま、ここで、こうしてきみと一緒にカクテルを楽しみことができるのも、
まさにそうした〝現象〟の中の出来事として記述できる。

別のアプローチからいえば、次のようにもいえる。
科学的記述、詩的記述、すべての記述をつくる世界認識は、
基底においてつねにすでに「感じる身体」「欲望する身体」としてのボクが
この世界という確信像を現出させる最初の作動に由来している。

そこから、〝客観的な記述〟という信憑が成立するとき、
からならずそこには二重化された確信の構造がうごいているということだ。

いわば〝一次過程〟から〝二次過程〟、その二極を循環する構造において、
人間の世界認識の〝確信〟は訪れる。あるいはその訪れを待ちわびる苦悩を体験する。

 

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「関係子」の二つの契機──制圧と解放

2019-01-01 | Weblog


   *

関係子──客観、関係項、接続子、結びあわせるパターン、世界の諸相の一般意味。
集合的ゲームを営み、プレーヤーとして生きるかぎり、
関係子の生成、内面化、実践的企投における使用は必然となる。

そのことは人間的生の生誕と同時にはじまり、終わりまで変わることはない。

   *

人間的生の拡張可能性としての「関係子」、そして規定し制圧するものとしての「関係子」。
人間的生が構成する集合的な関係のゲームはこの二重性において展開していく。


第一の課題──「関係子」の専制への転位と「個」の制圧へと至る原理的解明と克服。

 

 

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