ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「コトバの域」 20191113

2019-11-13 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=NiNKcPrULOw&list=RDNiNKcPrULOw&index=1

 

 

ある深さ、奥ゆき、つつしみ、たおやかさが溶け合った言葉。そこに示されたシニフィアンはみずからの指示性をひそかに抑制するような表情をしている。抑制の背後にはたしかな意志が存在している。しかしそれは姿を隠すように語られ、つづられる。

輪郭の確定へ向かう記述をみずからいましめるように。「いま、ここ」にとどけられる言葉から、その生まれる起源とのつながりが失われないように。はじまりの泡立ちがそのままに生きられ、それ自身の生が保たれ、「いま、ここ」から生きてゆかれるように。

なぜ。言葉が果たしうること、果たしえないこと、その仕事の「域」があり、そこを超えうると信じられて侵犯が起こると失われる「私性」がある。言葉の領分、言葉が果たしうる仕事の域があり、そこを超える侵犯が起こると滅びの種を蒔くことになる言葉が言葉として生きられるためのオフサイドラインがある。

言葉はつねにその運び手を必要とし、つねに一体化している。言葉の原理的な「私性」。しかし「私性」から離脱するようにして言葉が運ばれるとき、すなわち、明に暗にみずからの〝普遍性〟を主張し強行されるとき、すなわち、あるべし、なすべしを告げる〝当為〟を構成するとき、、言葉はあるラインを超えて、「私性」と「私性」がつくる位相をはみ出すことになってしまう。

そのことの感知がみちびくつつましい言葉の用法が守られているかのように。「私性」と「私性」が出会うことができる位相を壊さないように。その〝域〟を守るように、走りすぎ、理解しすぎ、触れすぎ、語りすぎることで壊わすことにならないように、語られ、つづられる言葉がある。

 

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