「主語、一人称の消失」を導く世界記述(世界認識)の方法
ニーチェ風には「神々による収奪」
フッサール風には「事実学の席巻」
ウェーバー風には「精神なき世界」
まとめると、実体化した〝客観〟による〝主観〟の収奪
「さかしまの世界記述」が関係世界を席巻している
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個と個を結びあわせる〝関係子〟として生成する「客観」の本質
この本質の洞察を欠くと「客観」は「主観」の上位に君臨しはじめる
「客観」の展開形式──真・善・美、そのさまざまな派生態
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ソレが貢献すべき対象が見失われると
ソレが目的化し、貢献対象は手段化し
全体が自律的な運動を開始する
この展開は苛烈さを増して
貢献すべき対象を道具化し、資源化し
すべてを呑み込むように全域化していく
われわれはソレを利用するのではなく、
利用される存在として位置づけられ
さらに、みずからを位置づけることになる
この構造的な変異は再逆転されなくてはならない
抽象化すれば、つぎのようになる
客観からの規定としての主観、ではなく
主観からの規定としての客観
主観内に形成される「間主観的信憑」としての客観の本質
一切を主観における生成として捉え
「客観」(社会体)の本質を明らかにすること
そこから世界経験をたどり直す
われわれは根本的修正を必要としている
主語、一人称をキープしたままの〝客観〟の用法
世界記述の方法の根本修正を
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キャピタリズム的展開──目的と手段の逆転
ひとつの達成が新たな競争の基準点として再設定される
終わりのない基準点の再設定の連続として
相互に達成を相対化し資源化していく循環と高度化の回路
実現されるはずの「ゆとり、やすらぎ、ゆたかさ」は
次なる競争のステージの資源として再投下される
ゲームの達成と成果がただちに、味わういとまなく、
次々にセットされるゲームの資源としてリサイクルされる
すべてのプレイヤーは過呼吸の症状に襲われるように、
没落のおそれによって駆り立てられていく
競争からの脱落
プレーヤーとしての資格喪失
生の没落という恐怖
勝者も敗者も、もてる者ももたざる者も
等しく没落回避に向けて走り出す
没落回避という強迫に追い立てられて生きる日々
永遠に「さいわい」を先送りされる回路が生活の全域を覆うとき
不幸でしかありえない構造の中に閉じ込められることになる
この回路を「さいわい」に貢献するように正当に作動させるには
別の回路──ゲームを離脱することが「不幸ではない」回路
ゲームを包摂する上位の回路が開かれなけれならない
没落を回避しながら、関係世界を荒廃と滅びの道へ導く逆説
この逆説を回避したいと望むかぎりそうしなければならない