ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

Another Galaxy 20180130

2018-01-30 | Weblog


      *

ここにこうしてあらぬことへの距離において、
可能性のエロスがシステムに時制を滲ませる。

      *

新たな風景へ向かうまなざしの作動には、
いつもすでに遠い面影が忍び込んでいる。

単時点における状態の立ち上がりには、
時間の厚みと広がりが連結されている。

システム全域を覆う絶えざる流動の波頭は、
時制の介入によってはじめて意味を獲得する。

時制の両極からのまなざしの照射によって、
システムの巡航速度は照らし出されていく。

システムは不可抗の誘いと衝迫に包まれながら、
こうしてあることへの惜別を同伴させている。

システムの意思の発動は非知の作動に先行され、
訪れとしての体験には固有のfeelが刻印されていく。

システムは参照可能な全履歴を召喚しながら、
新たな企投とビジョンの創出をめがけている。

変わることと変わらないことのゆらぎにおいて、
システムはいつも非直線的分岐に遭遇しつづけている。

システムの作動は抗えない宣告に準じる苛酷して、
たえざる創発をめがける祝祭として現象していく。

      *

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「新しい朝のために」

2018-01-29 | Weblog

              https://www.youtube.com/watch?v=f99mfQOldx0


どんなに切実にソコ、ココに焦点化を促されても、
逸らしてはならない、外したらソレが消えてしまう、
キープされるべきまなざしのスコープがある。

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「暴力原理」20180127

2018-01-27 | Weblog


潜在するアトラクターとしての暴力原理──

手に負えない負債を紙くずに変えてリセットするには、
巨大なインフレーションを起こせばよい。

一人では取り除けない負債や不遇や不幸の意識も、
観念のインフレーションを起こしてメタ・ゲームを立ち上げ、
みずからを拘束し条件づけ意味づける現実の証文を〝紙くず〟に変える方法がある。

コンテクストが変化するとコンテクストを構成する細目の意味が変化する。
精神を苛む贖われざる負の刻印を聖痕へ変化させることができる。
みずからを包囲する価値の系列を根こそぎなぎ倒すマジカルな〝全体〟へ向かう通路がある。

拘束を根こそぎなぎ倒す巨大なインフレーションへの期待──
巨大な神格の降臨を待ち望む〝倫理的熱情〟と合体して歴史の惨劇を招き入れる。

世界とは、生とは何か。我とは、他者とは何か。すべてを統べる価値とは何か──
みずから預かり知らぬ存在規定、価値規定のすべてを消去する方法があり、
一切を焦土化することで生き延びようとする秘匿された意志があり、
普遍的なアトラクターとしての「暴力原理」がある。

  *

パワーゲームは〝戦線〟を必要とし、敵手を必要とする。
滅ぼすべき敵手を特定し、みずから点火し油を注ぐ実践的行為を必要とする。
コンテクストの一元的書き換えの強行、世界の区切り線の引き直しを必要とする。

  *

しかしアトラクターは数かぎりなく存在し、生成する。
「座った人間を立ち上がらせるチカラ」は暴力原理だけではない。

ゲバルトというアトラクターの作用と効果は限定的で外在的であり、
みずから内発し生成するアトラクターを蔽いつくすことはできない。

 

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「正義」は使えない。

2018-01-24 | Weblog

         https://www.youtube.com/watch?v=h4X3rAg6lhY


非戦のツールとして「正義」は有効ではない。
使ってはならないというべきか。

「正義」を強行すればかならず聖戦化する。
すべてに承認を与える聖戦がもっとも過酷な状況をつくり出す。
殺人に全的承認を与える〝正しい真理の戦い〟。

そこに必然的に「戦線」を生み出すことになる「正義/不正義」、
という世界に引かれる透明な区分線。
その意味で、「正義」は世界全域をおおうことが原理的にできない。

 *

正義・人格・価値観を問わない共通のルールを可能にする「ルール・ゲーム」。
正義・人格・価値観とは無関連に享受可能な「生のエロス」を提供するゲームの創出可能性。

「人格は問わない」とマイルスは云った。

 

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「臨界点」20180123

2018-01-23 | Weblog

   https://www.youtube.com/watch?v=8VE_dP90V84


「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。
私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」
ヒメのツブラな瞳はオレに絶えず、笑みかけていた。
オレはヒメの言う通りだと思った。オレも挨拶がしたかったし、
せめてお詫びの一言も叫んでからヒメを刺すつもりであったが、
やっぱりのぼせて、何も言うことができないうちにヒメを刺してしまったのだ。
今さら何を言えよう。オレの目に不覚の涙があふれた。
するとヒメはオレの手をとり、ニッコリとささやいた。
「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。
お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。
いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」(坂口安吾『夜長姫と耳男』)


「ありうる」をめがける根本動機の起点に未規定性(わからなさ)があり、
「ある」「ありき」のバインドをほどいて結び直すことが許された、
「ありうる」の予期がわき立つ〝踊り場 plateau〟がある。

いまここにたえず現象している〝生成としての世界〟を告げるように、
未規定性、不確実性を享受可能な資源に変換するように奏でられる音楽がある。

非知のただ中にあって、非知を非知のままに、
非知を既知のスコアに回収しない意思にみちびかれるように、
ただ、〝生成としての世界〟を生きるように対話するセッションがありうる。

非知を既知に還元し、
その先に「明徴のカミガミ」を見ることで
非知のクラウドは霧散する。

知ることとわかることと〈世界〉が一致すると、
生成としての〈世界〉を失うことになる臨界点がある。

 

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「悪法もまた法なり?!」(『教育』2018年2月号)

2018-01-21 | Weblog


パワーゲームの世界

ビジネスの世界では他人に対するやさしさや思いやりを
〝弱点〟とか〝欠点〟と考えるような人間に出会うことがあります。
こうしたあり方は結果がすべてという成果第一、
優勝劣敗といった一つの原理で動く世界における適応形態として、
ある意味で合理的といえる面があります。

経済ゲームがプレイヤーに求め評価するのは、
いわゆる固有の人格をもった「自由な個人」というより、
目的合理性にかなう機能的な能力だからです。
そしてそれ自体には「民主主義」「人権」「個人の尊厳」といった理念は
内在していないともいえそうです。
経済ゲームの世界に漂う〝非情〟の論理に異論を唱えることはできても、
現実的にそれを覆すことはそれほど簡単ではありません。

しかし、一つ確実にいえそうなのは、
この種の一元化した力の論理(パワーゲーム)が生活世界にまで及んで全域化すると、
私たちの社会はまちがいなく不幸になるだろうということです。
外からみるかぎりですが、現在の学校はこの種の成果主義や競争原理と地続きになっていないか。
子どもを力の論理が直撃する場所になっていないか。そんな懸念を抱きます。

学校で〝何〟を学ぶのか

学校は世の中のさまざまな利害関係や権力関係、固定した役割関係から独立的でありながら、
多様性に開かれうる数少ない場所だと思います。
言いかえると、単に多様性という理念を掲げるのではなく、
多様な生き方を認め合いながら共に生きていける方法を
体験として学べる空間であってほしいと思います。

けれども特定の世界観や価値観に従うゲームに一元化した途端に、
学校はそうした特性が失われる脆さをもつ場所でもある。
学校の自意識としてそのことも考えていてもらいたいなとも思います。

もちろん、子どもの学びの〝ルート〟は多様です。
学校という公式の学びの空間の外にも非公式の学びの空間を子どもは生きています。
たとえば民主主義や人権の概念を説明しなさいという設問に、
勉強秀才クンは百点満点の「模範解答」を提出できるかもしれません。
しかしそれが血肉として生きられているかはまったく別です。

むしろ、0点の子どもが民主主義的かつ人権主義的な生き方を
生活のなかで身につけているということもありえます。
問題はどちらがよいかということではなく、
そんな子ども同士がどんな関係を結びあえるか。
そこに「教育」ということの最も大事なテーマの一つがあるようにも思います。

ルール原理主義

極論をいえば、子どもは〝天使〟としても〝悪魔〟としても育つことができる存在です。
アフリカの戦場には歳足らずの少年兵やテロリストがいまも存在します。
子どもの成長のエネルギーがどこに向かうかは、
どんな関係のモデルと出会うかに大きく左右されるように思います。

たとえば、学校スタンダードと呼ばれる〝ルール原理主義〟。
人生のはじまりの時期に、これが〝理想〟という原理的モデルに染まるのは不幸なことです。
子どもの自由エネルギー、学びの能力や方向があらかじめ決められた枠組みに刈り込まれてしまうからです。
この不幸は、社会全体の不幸と結びついていくように思います。

古代ギリシャの時代、ソクラテスは国家の秩序を乱す異分子として
民主的な(?)裁判に従って、死刑判決を受けました。
「悪法もまた法なり、正義なり」といったルール原理主義のもとでは、
異質な存在や価値を受け入れる余地がないだけではく、
みずからのあり方を修正する外の視線が失われます。
むしろ社会は「悪法は法に値しない」と主張できる存在、
ルールを書き換えることで関係をよりよく鍛え上げることができる
という知恵を必要としています。

21世紀の社会は、どこかで再びソクラテスを殺すことになるかもしれない。
学校の外でそんなことを感じています。

 

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Another Galaxy 201801

2018-01-20 | Weblog

      *

内部観測と外部観測は相互に照らし合い、
交わる視線のハレーションになにかが兆す。

      *

「かくありき」から「かくありうる」へ。
虚無と諦念はある地点で刹那に破られる。

シグナルの無限連結が偶発的な転移を用意し、
超出の「窓」が開かれエロスの奔流が流れ込む。

聞かれなければ奏でられない音楽があり、
聞くことから最も遠い無音の旋律がある。

エモーショナルな走査線が風景を走り抜け、
一回的コンテキストが次々にピックアップされる。

期待の地平線が開示されるとき、
システムには光度が増していく。

相剋と蹉跌に打ちひしがれるとき、
新たなコードの創発が強いられる。

システムは絶えざる流動に晒されながら、
未踏の均衡点を際限なくめがけていく。

応答される応答するものの属性において、
応答関係が途絶えるとき関係はバインドされる。

絶えざる流動の波しぶきに洗われながら、
巡航速度はキープされなければならない。

      *

 

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「かなしい夜」 1983-2018

2018-01-19 | Weblog


地下鉄の工事現場から大学の構内を抜け
巨大なベクトルが
この惑星の心臓深く持続している

白昼といわず、深夜といわず、
かすめとられたイノチが歩かされている道があり

紅に輝く空のむこうには
哄笑に腹をかかえた不明の中心が
今日も暴利を貪りつづけている

小さな紛争は、小学校の校庭で
オフィスの片隅で、家庭の台所で
あるいはノスタルジーに締めつけられた
難民のキャンプ地で持続の状態にあって

不明の中心から遣わされた私生児のように
あたかも最後の答えをたずさえるように
正義と倫理と戒律が雨後のタケノコのように林立している

その貢献は本人の思惑の外にあり
あらゆるコミットメントとデタッチメントを
すべからく一つの全体へと整序していく

俺たちはベクトルを解除する方法を知らないが
それでもできることはあるだろう

〈偶然とは街〉とだれかが言った

あらゆる偶然を紡ぐように
こどもたち、おとなたちの夜がある

同じ空の下で、俺とおまえが一つ一つ
すくい上げなくてはならないのは、かなしい夜

この街が知らず
この街が教えることのない

どんな祭壇にも捧げられることのない
かなしい夜がある

 

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「親はあっても子は育つ?!」(『教育』2017年4月号)

2018-01-16 | Weblog


「学校メガネ」は外せない?

子ども時代を振り返るといくらかセピア調のフィルターが掛かっています。
しかし現役(!)の子どもにとって生きる世界はおそらく原色のままで、いつも空は青く、雲は白い。
子どもに寄り添おうとすれば、おとなのまなざしには若干の色調の補正が必要かもしれません。
あるいは過去へ向かうおとなの視線と未来へ向かう子どもの視線は、必然的にすれちがってしまう。
それゆえむしろ、寄り添うことの困難さを思い知るべきでしょうか。

誰にとっても子ども時代はいわば人生の原点です。
その原点についておとなの側がどう考えるのか。
人生のはじまりの時期をリアルタイムで生きる子どもたちを、どう迎え、もてなすか。
このことはおとな自身、あるいは社会のあり方や技量が問われるような
とても大きなテーマと言えるかもしれません。

ゲームの控え選手ではない

子どもはオギャーと〝裸一貫〟、予備知識ゼロ、まさに徒手空拳で生まれてきます。
一人では生きられないピカピカの人生のルーキーは、そのままでは〝ゲーム〟に入ることができない。
世の中でどんなゲームがどんなルールで展開しているのか、どう生きたらよいか一切知らない。
プレーヤーとして独り立ちするために、覚え、身につけなければならないことは山ほどある。
監督やコーチとしてはどんな準備をしてゲームに入らせるか、少なからず悩むところです。

しかし実際には、そんな計算や思惑とは関係なく、気づくとベンチの控え席にはいなくて、
子どもはすでに人生というピッチ上に立って固有のゲームを開始しているようです。
かつて子どもが保育園に通っている頃に訊ねたことがあります。
「みんなといる時、おならする?」
「しない」
「へえ、我慢するんだ」
「うん」
人前でおならをしてはダメと教えた覚えはありませんが、
すでにその場や関係に応じた自分なりの作法(プレースタイル)を身につけています。
あえて言えば「親はなくても子は育つ」、ではなくて、「親はあっても子は育つ」でしょうか。
いつの間にか言葉を覚えるように、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら、
子どもは一人のプレーヤーとしてのスキルを磨き、更新しつつ日々生き抜いているらしい。

子どもが何を経験し、感じ、考え、学んでいるのか。
何を大事にしながら、どのように成長しているのか。
本当のところはわかりません。
実感的には、監督やコーチが考える〝よいこと〟や〝お手本〟を示しても、
それはプレーの手掛かりの一つであって、
子どもが生きるゲームやプレーの全域をカバーすることはできない。
おとなに出来るのは、プレーできるピッチやボールをきちんと用意することくらいじゃないか。
当時、そんなことを感じていました。
もちろん、一人の経験や自力で獲得できる知恵には限界があり、
世の中には多様なプレーヤーやプレースタイルが存在するということは知ったほうが良い。
監督やコーチはそのためにいろんなゲームをセットしてあげる。
ゲームの中で多くのプレーヤーと出会い、プレーを試し、学び、
みずからプレーをバージョンアップしていけばいいとも思いました。

脱オーバーコーチング

スポーツ界で最近よく語られる「オーバーコーチング」(教えすぎ)という言葉があります。
過剰な指導が選手の内発的な思考や創造性を奪ってしまう。
あるいは監督と選手の「支配-依存」という関係が固定化して、選手が自立できなくなってしまう。
そんな意味で使われます。

例えばサッカー王国ドイツでは余りに定型化(スタンダード化)した指導への反省から、
草野球ならぬ草サッカーを推奨しているそうです。子どもにはサッカーを教えない時期を過ごさせる。
サッカーは楽しい、ただプレーする歓びを知ってもらう。
現在の王国復活の背景にはそんな共通了解があったと言われます。

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「世界の訪れ」20190114

2018-01-14 | Weblog


コスモスが朝の光に洗われ、風にゆれ、まなざしに交わり、
心的な変換規則に出会うと一つのアンサンブルが奏ではじめる。

世界は、ただの「ひかり、いろ、かげ」の構成としては現われない。
心的経験はそのように世界を捉えることができない。

「ひかり、いろ、かげ」という構成は、むしろ、
アンサンブルの体験ののちに二次的に再構成されたものでしかない。

「ひかり、いろ、かげ」が織り上げる差異の模様は、
はじめからアンサンブルが奏でるさまざまな諧調として訪れている。

アンサンブルの編成はわたしの「意識の仕事」とはいえない。
意識はアンサンブルの奏でる音をただ受け取ることができるだけである。

光と色と影のランダムな差異の連なりに、
タクトを振う超越的な存在がいるわけではない。

ただ、わたしのまなざしが風景に出会うと
固有の色あい、印象、意味と価値の構成が心を直撃する。

風景との遭遇は、ただ心的な体験としてだけ現象する。
わたしの中で泡立ち、色めき立つ作動がある。

そのことの理由をわたしは知らない。

世界の到来はほかでもないわたしの心的な出来事であるにもかかわらず、
わたしの意識にとって外部からの訪れのように現象する。

この訪れそのものが「真」である否かという問いは意味をなさない。
泡立ち、感じるという体験はただ端的な事実として経験される。

この訪れをわたしは拒んだり選択しないことができない。
わたしの意思の外側からわたしにおいてわたしを一撃するもの──
この端的な訪れそのものが、意識が起動するすべての源泉であり、一切である。

しかしわたしの経験はそこで完結することはない。(つまりそこで充ちることはない)
〝問題〟は到来性そのものではなく、それを記述し交換しあう位相において生じる。

それはウソか本当か、共通の意味と価値をもつに値するものであるのか──
相互に関係しあうと関係構造において「問い」が生成し、
体験記述の再帰的な交換から共有可能な〝ほんとう〟をめぐる審議のテーブルが生まれる。

審議のテーブルにおいて、どのような相互的「了解点」「納得点」へ向かいうるのか。
テーブルをひっくり返して決裂、血なまぐさい闘争へ向かうケースもある。

どこまで持ちこたえながら「審議のテーブル」を維持できるか。
社会(関係のゲーム)という項の包摂力がそこで試される。

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「ドーナツについて」

2018-01-08 | Weblog


自然には生えないドーナツ

「ドーナツは中心が空洞です」
「それがどうしたの?」
「パティシエはいつもこの形のイメージを思い描いてドーナツを作ります」
「うん」
「では質問です。ドーナツとドーナツのイメージはどちらが先に生まれたのでしょうか?」
「ドーナツ」
「でもドーナツをイメージしなければドーナツは作れない。どう?」
「そっか。イメージが先だな」
「ところが何もないところからイメージは生まれるものかな?」
「たぶん」
「どんなふうに?」
「ないものを自然に思いつく」
「なぜか思いつく。それでいいかな」
「うん」
「ドーナツをイメージすることから、おいしいドーナツは生まれる」
「そう」
「人間がいなければ、おいしいドーナツはこの世に存在しない」
「でも嫌いな人もいるよ」
「そうだね。好き嫌いを生むドーナツは、いつも人間とともにある」
「自然には生っていない」
「ドーナツのイメージがみずから転生してドーナツになることはない。
すべては人間の創造力のおかげといえる」

「人間が存在しなければ存在しないものって、ほかになにがある?」
「え~と、学校、宿題、スカイツリー、自動車、ケータイ、新幹線、遊園地、……数えきれないな」
「モノじゃないけど、いろんなゲームやスポーツもそうだね。
自然界にストライクゾーンは存在しない」
「アンパンマンも!」
「ぼくたち人間は、ほとんどすべて自分たちで作り上げたモノやゲームの世界の中で暮している」
「なんか神サマみたい」
「おいしいドーナツと同じように、神サマという存在も創られました」
「神サマっていないの?」
「神サマに出会った人はいません、たぶん。信じることはできてもね」
「会ったことのないものをどうして信じられるのだろう?」
「カタチのないものをイメージできるのが、人間のもつ創造力だからです」
「悪魔も?」
「イエス。天使もポテトチップスもドーナツも洗濯バサミも人間の創造力から生まれてきた。
廃品回収に出したいような、がらくたも一杯あるけどね」

「拳銃、戦車、戦闘機、ミサイル、ゲンバク。
思いつかないほうがいいものもたくさんあるな。なんでだろう」
「悪と戦うため」
「だけど戦争がはじまれば、数多くの人が傷つかないではすまない。それでもオーケー?」
「戦争のない世界をイメージする」
「いい考えだね。どんなふうにイメージしたらいいと思う?」
「ものすごくおいしいドーナツを作って、みんなで食べて仲良くなる」
「おお、いいね。でもドーナツが嫌いな人がいるって言ったよね。そんな人にはどうする?」
「戦争がバカバカしくなるような、ものすごく楽しいゲームを考える」
「一つ大事なことがある気がする。限られた人だけでストライクゾーンを考えても、
みんなが共感して同意しなければ野球のゲームははじまらない。
ゲームの楽しさを全員に伝える工夫が必要だ。仲間以外にも伝わるようにね」
「嫌いな人にも?」
「好き嫌いの感情を偽ることはできないけど、嫌いなピーマンもいつか好きになるような変化も起こる。
人間にはね。その可能性を信じることはできる。象やキリンは一生草だけ食べて生きるけど、
人間は変化する。変化するいい加減さは、プラスにもマイナスにもなるけど、
プラスになる方向で創造力を使えたらいいな」

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あゆみの言葉 20180103

2018-01-03 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=ugc96laV0ek


みんな、よい子でおりこうさん
そう思います

でもね、だれにとって、
なににとって、なのかな

ちょっと考えてみましょうね

小知恵はあるのです
小綺麗なうえに
小金だってあります
 
あり余るカインドネス
失くした財布は戻ってくる
 
おのれを空しくする和の作法
他国がうらやむ協調のふるまい
 
濃厚な礼と謙譲のもてなし
生活態度、マナーはほぼ満点
勤勉の含有率だって高いのです
 
センセイが呼び掛けると
一斉に「は~い」と応える
返事の仕方も立派です
 
ふるまいをやさしく
幽玄に心をとめる
自然に対する応答も見事です
 
クオリティの高さと均質性
ゴミ一つにも心を配る清潔観
すべてに並ぶものがありません
 
いわんや豊かな国土
電気は足りている
使える資源は十分あります
 
こんなに出来すぎなのに
やんぬるかな
いかんせむ
大事ななにかが足りません
 
食材はあふれている
据え膳もあふれている
ところが一つのレシピが見当たりません
 
給食を食べすぎたせいでしょうか?

ほんとうに食べたいものを
みずから作って食べる
ほんとうに大切なレシピが起動しません
 
「とりあえずビールね」
 
みんながみんなそう思うだろうって
みんながみんな考えているはずだ
と、ひとりひとりが考える

みんなのことを考える
みんなの考えることを考える

とても大事なことです、でもね
みんなのことを考えて考えて考えすぎると
とてもふしぎなことが起こります

〝わたし〟が消えた世界

どこをさがしても、だれにたずねても
〝わたし〟という存在どこにもいない

〝みんな〟というクラスは存在するけど
そのなかにはメンバーが存在しない
つまり、〝わたし〟が一人もいない

〝みんな〟という一人称だけが歩き回る
そんな不思議な世界が生まれます

数学の世界で考えられる空集合という概念に似ています
ひとりの部員もいない野球部のようなものです

そんなふうに考えると
「みんな、よい子でおりこうさん」という集合は
一人のメンバーも含まないことになってしまいます
とんでもないことですが……

ともあれ、おのれを空しくしすぎるあまり
ほんとうに食べたいものが
迷子になってしまうのかもしれません
 
迷子であることの意味も
迷子であることの自覚も
すべてが迷子のまま消えてしまう
 
センセイの教えに忠実なあまり
給食以外の味覚もじぶんも世界もまるごと
所在がわからなくなるのでしょうか?
 
超絶のチューニングとシーズニング
ご自慢のセレビリティ御用達
豊かさの指標はあちらこちらに溢れます
 
食べたことないのに本当でしょうか?
食べた後でも本当でしょうか?
 
出来すぎのパラドクスかもしれません
うるわしい美徳のジレンマかもしれません
 
いつも、いつのまにか
ひと前で「まずい」は禁忌の言葉
 
「まずい」というなかまには
「だまれ」という声さえ上がります
 
みずからのあり方を顧みながら新たなステージを開く
そんな大切な回路が閉じてしまうのでしょうか?
 
「好き嫌いを言わずに給食は残さず食べましょう」
 
クラスの完食記録に貢献するために
食べてはならないものを食べたために
死んでしまったアレルギーの子供もいました
 
おまかせのレシピに
おなかも心も一杯一杯になって
これ以上考えることがフリーズします
 
出会ったことのない料理に囲まれると
どっと疲れがあふれて
チャレンジするきもちが萎えてしまいます
 
だれかが考えるのではなくて
〝みんな〟が考えて

だれかが決めたわけでもなく
〝みんな〟が決める

だれも信じてないかもしれないのに
〝みんな〟が信じている
とだれもが信じることに頼るあまり

〝わたし〟が決めたのではない
〝みんな〟が決めたので
どこをさがしても責任者がひとりもいない

そんなことも起きてしまいます

あれやこれやそんなこんなで
だれかが決めたわけでもない
決まりこと約束ごとが立て込みすぎて

なんだかわけがわからなくなって
ヘトヘトにくたびれてしまって

いつのまにか食べること
生きることすべてが
空しくなってしまうのかもしれません
 
ちいさな疲れや不安がドロドロと積み重なって
しかたなくなんとなく
じぶんよりも〝おバカ〟を探し出す

みつけたつもりでホッとして
だんだん強気に居丈高になって
どっちがバカなのか
そんなことはどうでもよくなって

ただスッキリしたいだけのために
「殺したろか」
なんてことも起こります
 
じぶんを修正するのはとても面倒です
だれかをバカだと決めつけて
じぶんがじぶんのままガスを抜きたい

そうなる理由ははっきりしています
信じる世界をマップしなおすのはとても面倒です
そのうえ、そうする理由がみつからないのですね

でもね、クラスの外にはちがった風が吹いています
ちがったマップを描いて生きる人たちがごまんといます
もしも面倒なことがもっと楽しいことにつながっていたら?

「じぶんってヘン?」
 
ところが一方では
反省しすぎる特性も気になります

いつもいつも頭のなかに
コワいセンセイが住んでいるからでしょうか?
 
食べることばかりではありません
あれやこれや不安になると
いつもどこかにいるはずの
 〝エラいセンセイ〟を探す傾向も顕著です
 
みつけたセンセイに心を許し
人生まるごとおまかせして
あれよあれよと、めぐりめぐった最後の最後に
ホンモノの地獄につれていかれてしまう
 
いいすぎでしょうか?
 
今日も明日も明後日も
おまかせレシピを食べながら
おバカ探し、センセイ探し
そんなのばっかりで一日が暮れていく
おお、人生も暮れていく
 
あなたが心から食べたいものは何ですか?
 
かけがえのない資源も
ひそやかな思いや願いも
最後にはすべてがすべて

台なし
もち腐れ
見殺しのまま
 
もろともカタストロフを迎えるって
ほんとうに、ほんとうに
絶対にナシにしたいなと思います

でも、唐突ですが
希望をなくす必要は全然ありません

変化することも、変化しないことも
ほんとうは〝わたし〟が決めていることです

みずからのチカラの使用において
〝わたし〟たちが等しく選んでいることです

すべては〝わたし〟から始発するということ
始発点をけっして忘れないでいるということ

そのことの大切さをきちんと知ることから
空集合のガランドウを満たす実質的な契機が生まれる
そんなふうに思うのです

あなたはどう思いますか?──

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