竹田青嗣「意味と価値‐欲望論ノート1-」(『本質学研究』第1号)より抜粋
根本事実は、世界と存在者の存在ではなく、またそれを根拠づけるものの存在でもなく、
われわれのうちに何ものかに対する欲望-衝動が到来し生成してくること、
そのことによって世界が、根源的な意味と価値の生成として、
すなわちエロス的世界として現出していることなのである。
ひとつの欲望存在にとって、世界と対象は、衝動-欲望の到来によって
価値と意味の連接的秩序として文節される。
欲望論的な〈世界〉は、そのつど始発点、生成の起点をもち、
そのつど新しい〈世界〉の生成において消滅する。
この生の欲望論的体験の連続のうちで「世界」は一つの客体としての、
同一で唯一の存在者としての信憑を形成する(※「原信憑」)。
客体的な存在者としての対象、あるいは客観的な存在者の総体としての世界は、
欲望論的な生の体験のうちで構成される、第二次的形成体なのである。
人間は根源的には実存的世界を生きる。
しかしこの「世界」は、関係的経験の反復を通して〝間主観化〟され、
つねにすでに「客観的世界」として形成されている。
こうしてひとたび形成された客観世界の像(※「原信憑」)は、
もはや人の経験世界から決して引きはがすことはできない。
人間は、本質的に、かつ発生的な構造において、
実存的世界と世界的世界との二重性を生きている。
遠隔化知覚によって対象との直接的接触を避け、そこに心的領域の空隙を作りだす。
まさしく生き物は、この空隙を、待望し、努力し、耐え、延期し、
留保し、判断し、決定する心的領域として生成し、
まさしくそのことで「生の世界」を作り出すのである。
現代思想が「象徴世界」あるいは「象徴秩序」と呼んだものは、
すでに本体論的に表象されている。
人間の世界は、そのつど継承されて存続するシステムとしての「言語ゲーム」の世界であり、
この独自の、相互に、そして普遍的に承認しあう関係的言語ゲームが、
人間の世界の世界性を形成している。
この関係的言語ゲームが「象徴秩序」としての人間世界を持続的に構成している。
記号の意味が言語ゲームを成り立たせているのではない。
関係的な言語ゲームの遂行が、たえず、現成的に、記号を一般的意味として成り立たせている。
現代思想の論理相対主義は、貨幣の価値は本質的に無根拠である、
と論じることができるし、そう論じている。
同じ論理で、意味は無根拠であると論じことができ、そう論じている。
しかしこの相対論理は、ただ、すでに一般化され、客体化された地平で
「意味」の秩序を分析していることの結果にすぎない。
この分析からは、ただ論理的アポリアとパラドクスだけしか見出すことしかできないのだ。
われわれはつぎに必要としているのは、「意味」と「価値」の実存論的生成論にほかならない。