ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「現象学的展開」(参)

2015-11-30 | 参照


 竹田青嗣「意味と価値‐欲望論ノート1-」(『本質学研究』第1号)より抜粋


根本事実は、世界と存在者の存在ではなく、またそれを根拠づけるものの存在でもなく、
われわれのうちに何ものかに対する欲望-衝動が到来し生成してくること、
そのことによって世界が、根源的な意味と価値の生成として、
すなわちエロス的世界として現出していることなのである。


ひとつの欲望存在にとって、世界と対象は、衝動-欲望の到来によって
価値と意味の連接的秩序として文節される。
欲望論的な〈世界〉は、そのつど始発点、生成の起点をもち、
そのつど新しい〈世界〉の生成において消滅する。

この生の欲望論的体験の連続のうちで「世界」は一つの客体としての、
同一で唯一の存在者としての信憑を形成する(※「原信憑」)。
客体的な存在者としての対象、あるいは客観的な存在者の総体としての世界は、
欲望論的な生の体験のうちで構成される、第二次的形成体なのである。

人間は根源的には実存的世界を生きる。
しかしこの「世界」は、関係的経験の反復を通して〝間主観化〟され、
つねにすでに「客観的世界」として形成されている。
こうしてひとたび形成された客観世界の像(※「原信憑」)は、
もはや人の経験世界から決して引きはがすことはできない。
人間は、本質的に、かつ発生的な構造において、
実存的世界と世界的世界との二重性を生きている。

遠隔化知覚によって対象との直接的接触を避け、そこに心的領域の空隙を作りだす。
まさしく生き物は、この空隙を、待望し、努力し、耐え、延期し、
留保し、判断し、決定する心的領域として生成し、
まさしくそのことで「生の世界」を作り出すのである。

現代思想が「象徴世界」あるいは「象徴秩序」と呼んだものは、
すでに本体論的に表象されている。
人間の世界は、そのつど継承されて存続するシステムとしての「言語ゲーム」の世界であり、
この独自の、相互に、そして普遍的に承認しあう関係的言語ゲームが、
人間の世界の世界性を形成している。

この関係的言語ゲームが「象徴秩序」としての人間世界を持続的に構成している。
記号の意味が言語ゲームを成り立たせているのではない。
関係的な言語ゲームの遂行が、たえず、現成的に、記号を一般的意味として成り立たせている。

現代思想の論理相対主義は、貨幣の価値は本質的に無根拠である、
と論じることができるし、そう論じている。
同じ論理で、意味は無根拠であると論じことができ、そう論じている。
しかしこの相対論理は、ただ、すでに一般化され、客体化された地平で
「意味」の秩序を分析していることの結果にすぎない。

この分析からは、ただ論理的アポリアとパラドクスだけしか見出すことしかできないのだ。
われわれはつぎに必要としているのは、「意味」と「価値」の実存論的生成論にほかならない。

 

 

 

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「ムッシュ・サルトル」を読む

2015-11-21 | Weblog

              
                  わたしを「他者」として体験している「他者(あなた)」がいて、
                  「他者(あなた)」が体験している「他者としてのわたし」に関心を寄せるわたしがいる。

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「SOCCER 12 ~希望の原理」(2013/2015)

2015-11-16 | Weblog


          なんども新たに出発しなければならない場所がある。
          なんども新たに、すべてを捨てて立ち上がらなければならない場所がある。
          そしてなんども新たに、
          ただ希望が到来するように行為しなければならない場所がある。

                   ――河本英夫『システム現象学―オートポイエーシスの第四領域』


         ゲーム展開がどんなプロセスをたどるかはつねに未規定である――
         未規定ゆえに活性化していく作動と、
         未規定ゆえに不安に押しつぶされる作動がある。

         希望と絶望――すべてのプレーはふたつの極性においてゆらぎ、
         ゆらぎのカオスが、ゲームのダイナミクスの震源をつくっていく。

         展開は、つねに制御の意思に先行して目の前に開かれ、
         展開が告げる意味連関が次のプレーを解発していく――

         展開の先行性は、プレーにとって規定性として現われ、
         同時に未規定な選択可能性の領域が照射され、
         新たなプレーの可能性が開かれる初期条件をつくる。

         プレーヤーは展開を引き受けることで相関的にセルフ像を結び、
         展開とセルフの関係構造から次のプレーイメージを描き出していく。 

         規定性を規定性として受け容れる――
         未規定性を未規定性として受け容れる――
         希望あるいは絶望を一方的に強いるものをしりぞける――

         すぐれたプレーヤーはそのことをプレーの格律として、
         その場所に、プレーの自由とエロス=可能性の原郷が存在するように、
         展開に修正を加えうるプレーイメージを探し、実効的な希望を立ち上げていく。

 

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「神殿崩壊」(2012/2015)

2015-11-11 | Weblog

 

       *

――滅ブベキ滅ビユクモノガ道連レヲ選ブヨリ前ニ
――滅ビノ道ガ正シク示シメサレナケレバナラナイ
――ソレハ生キル道ヲ明ラカニスルコトデ示サレル

よりよき生を信じて「神殿」に忠誠を誓い、
学ぶべきことと 学んではならないこと、
学ばないことを学んだオトナたちは、
子供たちに勉学の意味と精励を諭した。

いま、その学習と教育的成就において、
世界は酷薄でむごたらしい光景を晒している。

 「神殿は健全に保たれている」

――オマエタチガソレデモ幸セダトイウノナラ幸セナノダロウ
――ケレドモ「シカタガナイ」ト思ウ瞬間ニ滅ビノ扉ガ開カレル

巨大なみえない一つのコードが、
ふるさとの大地から都市の中枢を抜け、
 神殿に連なる俺たちの心臓深く貫通している。

 白昼といわず、深夜といわず、
かすめとられたイノチが歩かされている道があり、
 情念のノロシを消されて憔悴に埋まった街がある。

 紅蓮の炎と原子の毒が吹き上げた空の彼方には、
 不明の中心が哄笑に腹をかかえながら、
いまもどこかで暴利を貪りつづけている。

ちいさな紛争は、小学校の校庭で、
オフィスの片隅で、家庭の台所で、
あるいはノスタルジーに締めつけられた、
 避難民のキャンプ地で持続の状態にあって、

 最後に帰るべき場所を見失った人びとは、
いつわりの帰還地を示され、
せつない希望にすがり、
 教えられたモラルと戒律に従った。

 真摯な営みの貢献は願いの軌道を外れ、
あらゆる感情とコミットメントは、
すべからく神殿の供犠のために回収されていく。

 俺たちはコードを全解除してしまう方法を知らないが、
それでも知るべきこととなすべきことがあることを知っている。

――ミエザル神殿ヘノ憧レト夢ニ魅セラレ血脈ヲ重ネ合ワセナガラ
――滅ブベキモノト滅ンデナラヌモノハ何処カデ分岐スル道ヲ辿ッタ

《偶然とは街》《変幻する街》〉と誰かがいった。
 夢を見るために、大人たちが「神殿」を築き上げた街がある。

 野心と宝石と男と女の夢が織り上げた煌びやかなファンタジーが、
いまこの街で、歴史の帰結をまのあたりにして震え上がっている。

――滅ブベキモノガ正シク滅ビナイトキ
――滅ンデナラナイモノガ滅ボサレテイク

 そして、子どもたちのみる夢がある。
 同じ空の下で、俺とおまえが一つ一つ、
すくい上げなくてはならないのは、かなしい夜。
 枕元に靴下をおいた、孤児たちの夢。

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「Call and Response」

2015-11-09 | Weblog


「call&response」が消えるとき「関係」はバインドされる。


開かれた対話をつうじた連続的な二重記述、マルチ記述の展開において、
個(単眼)では実現できない〝世界の奥行き〟が生成しつづけていく。

〝世界の奥行き〟が生成するには、個(単眼)の生が十全に生きられ、
十全に生きられる固有の経験と経験が出会うことが条件になる。

個と個のへだたり(差異)においてのみ生成する「世界の奥行き」がある。
「個」の「個」による受容。リスペクト。

一つの運動として「call&response」。
「関係」のたえざる編みなおしの契機としての「call&response」。

「わたし」にとって、大事な資源として存在しうる「他者」の経験。
そして資源として活かせる範囲を確定する「わたし」の経験の質。

動的なゲーム。経験の交換ゲームとしての「call&response」。
相互の承認にもとづく、相互資源として生きられる固有の経験のトランザクション。

「call」も「response」も無限のバリエーションにおいて生起している。
言葉、言葉以前、身振り、手振り、表情、沈黙、接近、遠ざかり、……。

受信可能なもの、受信不可能なもの。
そのすべてを知りえないという不可能性。

その「非知性」に根拠を置く「知」(こころ)のあり方が存在する。

 

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「SOCCER BOY」(2013/2015)

2015-11-04 | Weblog


ありえない高見をめがけるファンタジスタは、
敗北を一つの果実に位相変換する思考のフォームを必要とする。

みずからの経験が失われてしまわないように、
心は「ことば」という公理系の外にくちびるを向かわせる──

公理系──。ラング。一般言語表象。
ありうるプレー・モード、あるうべきプレー・モードを記述する、
共同信憑として確定された定理のクラス。

ほんとうに望んだものをそのものとして見ることはできない。
しかし望んだものから遠い位置にいるという、
空を切るような〈経験〉だけは鮮やかだ。

完璧な敗北から予期が立ち上がる。

めがけるべきエリアX。それが何かは本当はわからない。
しかし公理系に記述されないプレー・モードがどこかにある。

みずからが試し、経験し、生きたプレーのクラスとは別の、
非知のプレー・モードとたどるべきルートがある。

敗北しきらないかぎり、動き出さない予期がある。
敗北しきらないかぎり、立ち上がらない意志がある。

矛盾、齟齬、異和、かく乱のノイズ。
ソレを感じ取るのは自分の感覚以外にはない。

あらかじめ明示可能なプレーの方向性が存在するわけではない。
明示可能なプレーのクラスに完結しない、という感覚だけがある。

〝ソレ〟は永遠に顕現しないかもしれないが、
ソレをめがける経験のモードはつねに同伴している。

公理系の生成──
無数のプレーとその果実、記憶が編み上げてきた経験のクラスがある。
あらゆるプレーヤーがそれを前提として信じ生きる定理のクラスがある。

クラスの外へ。

前提。疑われざる前提。習慣の海に浮かぶプレー・モード。
前提を検討にかけないという習慣の海を離脱するには、
エリアXという「虚数」を必要とする。

 

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