ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「How do we can stop the rain?」20180627

2018-06-27 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=sqg5yRx2Lsg&index=1&list=RDsqg5yRx2Lsg


血が流れる前に「戦線」は引かれている。
血が流れる条件をつくる「戦線」は、いつも、必ず、
さまざまな意味と価値が交わり対抗し構成する日常を起源としている。

生きることにおける世界を分節することと自らを組織することの相即性。
よい/わるい、きれい/きたない、ほんとう/うそ、敵/味方。

のっぺらぼうの世界は存在しない。
のっぺらぼうの世界をわれわれは生きることはできない。

この世界を生きることの基底をなす「心地よさ/心地わるさ」。
その告げ知らせとしての絶えざる情動生起と企投的展開。

  *

われわれは日々、いまここで、さまざまな「戦線」を構成し、
「戦線」の向こう側に「ガン」を飛ばし合う日常を生きている。

  *

われわれはみずから分節された世界を生きる以外ないという「限界」(根本事実)。
しかしこの「限界」の内部にとどまりながら、
あるいはむしろ限界の内部にとどまることだけができることはある。

超越項(カミ、あるいはそれを代行するさまざまな関係項・関係子)に主体を委譲しないこと。
それが、「限界」内にとどまることを意味する。

無数の戦線が引かれ構成される現実を「信仰」の強度で埋め尽くすことはできない。
むしろそう願うことで戦線は太く引き直されることになる。

  *

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「問い」20180616

2018-06-16 | Weblog


なぜ・なに・どうしたら── 
「問い」をたずさえる未決のフォーメーションとしての「実存」。

未決性を推進力とするように、過度の自明性に破れをみちびくように、
新たな「問い」を分泌しつづける形成運動としてのフォーメーションがある。

世界を意味と価値のランドスケープとして分節しつづけながら、
同時にみずからのフォーメーションを変化させる運動が持続している。

未規定性、不確実性を資源としてながら、
意味と価値がそこから創発する推論が起動し、
たえざる肯定と否定の弁証が展開していく。

世界了解、自己了解、他者了解が過度の自明性をもつとき、
そこで閉じられることになる形成的運動がある。

スキマを開く──これはこれ、あれはあれ、それはそれという確定記述、
因-果的記述に破れ目をみちびく内的原理があり、
新たなフォーメーションの手がかりを探索するたえざる作動がある。

問い──新たなフォーメーションの手がかりの探索、巨大な問いを生きる子どもがいる。


   *

確定記述──clystallization、世界の結晶化。
いらだってカタチを与えることで見失われる〝発火〟の原郷がある。

知ることわかることの内側にすべてを収納可能と考え、
わからないことのわからなさを手放すとき、
新たな形成運動の手がかりは途絶え、
巨大なわからなさ、「問い」の地平は遠ざかっていく。

「なに」「どうして」「どうしたら」──未決の主題はつねに生成する。
問いに駆動され、問いをたずさえ、問いを手がかりとする組織化特性。
フォーメーションはつねに問いのゆらぎの中にある。

   *

「ありうる」をめがける根本動機の起点に未規定性(わからなさ)があり、
「ある」「ありき」「あるべき」のバインドをほどいて結び直すことが許された、
「ありうる」の予期がわき立つ〝踊り場 plateau〟がある。

いまここにたえず現象している〝生成としての世界〟を告げるように、
未規定性、不確実性を享受可能な資源に変換するように、
問いを分泌し、問いに駆動され、奏でられ、描かれる無数の表出があり、
非知のただ中にあって、非知を非知のままに、
非知を既知のスコアに回収しない意志にみちびかれるように、
ただ、〝生成としての世界〟を生きるように対話するセッションがある。

   *

 

 

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「ぼくの好きな先生」201507

2018-06-12 | Weblog


〇先生の授業

「ぼくには翼が生えています」
「うそだあ」
「そう思うでしょ」
「ぜんぜん見えませ~ん」
「ぼくにははっきりと見えています」
「どこに」
「目の前に」
「えっ?」
「目の前にいるキミたち一人ひとりが、ぼくにとっての大切な翼です」
「わけがわかりません」
「心の翼といいます」
「なんだあ。ほんとかと思った」
「クラス全員がぼくの翼です」
「翼がありすぎでしょ」

〇重力の法則に従わないという法則

「心の翼ってどんな翼なの?」
「順番に説明しましょう。世界には重力の法則というものがあります。飛行機は重力の法則、つまり自然のルールに従った正しい飛び方をしなければいけない。右の翼だけでも左の翼だけでもだめで、片方の翼だけで空を飛べると考える人はおバカさんと呼ばれます」
「あたりまえじゃん」
「でも心の翼は、重力の法則とはまったく別の法則に従います」
「どんな法則だろ」
「それはね、重力のような自然のルールには従わないという法則です」
「どういうこと?」
「心の翼は、しばしば人間が決めたルールから外れて〝空〟を飛びます」
「いいの?」
「心の翼は自由なのです。心の翼は人間のもつ自由な想像力に従います」
「じゃあ、〝みんながぼくの翼〟ってどういう意味?」
「心の翼は、たくさんの翼をもつほど遠くまで飛ぶことができるという点も重要です」
「1人じゃだめなの?」
「1人でも大丈夫。だけど心の翼が多く集まるほど、高く舞い上がる風をたくさん集めることができます」
「ふ~ん。じゃあ、飛んでみせて!」
「じつはいま飛んでいる最中です」
「おぉー」

〇廊下は走ってもオーケー?!

「ルールは守らないといけないよね」
「もちろんです」
「廊下を走ったら叱られる」
「でも学校が火事になったら?」
「う~ん」
「ダッシュで逃げましょう」
「ウ〇コがもれそうなときも!!」
「走らないと大変なことになるな」
「先生」
「なんでしょう」
「じゃあ、ルールには守らなくてもいいときがあるわけ?」
「ルールの中身次第です。答えはイエスでもありノーでもある」
「意味がわかりません」
「地震や火事のとき、廊下を走ってもオーケーという先生の合図を待っていたら大事な命を守れません。ウ〇コも守ることができない」
「当然。一体何がいいたいの?」
「翼をもつ鳥に飛ぶことを禁じたら、鳥は死んでしまうかもしれない。心の翼をルールで禁止したら人間も死んでしまう…かもしれない」

〇職員室と重力のカンケイ

「だから?」
「先生は、人間が生きる世界は法則やルールが教える世界より広くて豊かだと思います。もちろん法則やルールを無視して生きることはできない。けれどもルールのために人間がいるわけではありません。人間には心の翼があるので、ルールをよりよく書き直すことだってできるのです」
「どんなふうに?」
「そのことについては、みんなでゆっくり考えてみてみましょう」
「ねえ、先生はどうしていつも職員室にいないの?」
「あのあたりは、ちょっと重力が強すぎるのですね。飛ぶのが難しい」
「げっ」

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「理解」20180605

2018-06-05 | Weblog


「理解すること」それ自体に価値がある、とは断定できない。
「理解しないこと」それ自体に価値がない、とも断定できない。

「理解」という言葉は、つねに先行的前提に基づいて成立する言葉である。
理解という言葉を用いるとき、理解とその対象との合致が前提されている。
しかしこの合致を確証する〝客観的〟な便利な装置はどこにも存在しない。

「理解」という言葉は、つねに、それを可能にする価値区分が先行的に前提されている。

なにに照らした「理解」なのか、なにに照らした「無理解」なのか──
そのことを外した「理解」は恣意性を免れることはできない。

理解の仕方のちがいを取り払って世界経験の内部に分け入ると、
そこにはつねに、どんな場合にも、あらゆる対象を前にして
なんらかの「理解」を充てて生きている存在がいる

なんらかの「理解」を充てることなく世界を経験することはできず、
「わかる/わからない」という固有の理解(解釈と評価)を経ることなく、
われわれは〈世界〉を経験することができない。

こちらから見て「なにもわかっていない」「誤解している」ように見えても、
そこには必ずなんらかの「理解」の仕方を充てて、世界を経験し、
みずからを組織している固有の存在者がいる。

なにに照らして、どんな価値の分節コードに照らしてなのか。
「理解」の恣意性はあるいは「理解」の党派性はそのことが問わなければ乗り超えることができない。

 


 

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