ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「経験の位相」

2016-05-11 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=H9Nso94ZMgY     

                         https://www.youtube.com/watch?v=vC0Qt1lvLq8


意識(認知)には、変数を「定数化」して捉える機能的特性がある──

あるいは、変数を変数のまま捉えることができない機能的限界のために、
経験を経験のままにとらえることができないということに無自覚なために、
生きられる地平とすれちがうように〈世界〉に区切りを入れるということが起こる。

無数の変数のネットワーク=〈世界〉における一つの変数としてありながら、
人間の意識はみずからの視点を〈世界〉の外に置くという虚数的ふるまいが常習化している。

「よい/わるい」「ほんとう/うそ」「きれい/きたない」

一つの変数あるいは変数の集合が示す時点的なふるまいに透明な切れ込みを入れ、
ことばを与え、評価し、数値化し、定数として切り取り、
経験の地平=無数の変数が織り上げる動的なネットワークに押しつける。

「すき/きらい」「いい感じ/いやな感じ」

虚数的なふるまいは、みずからの生の経験に対しても向けられ、
変数としての経験の流動をみずからせき止めるということも起こる。

人間の意識世界ではそうした作法が幅を利かせている。
われわれは毎日、生きられる現実世界を定数化して情報を採集し、
それぞれに固有の標本図鑑にピンで留めてコレクションするという生活を送っている。

しかし生きられる経験の地平は、つねに、すでに、意識に先行して展開している。
「経験」は、いつも、すでに、あらゆる場所で、途切れのない連続的な展開の途上にある。

〝あの経験〟や〝この経験〟、〝あの存在〟や〝この存在〟という分割、その評価と分類。
そうした恣意的な認知の分割的作動を許す分割されざる「経験」の連続的な展開において、
つねに〝わたし〟という存在のまとまりが保持されている。

たとえどんな停滞や切断の意識に襲われても、停滞や切断の意識も巻き込みながら、
変数のネットワークの内側で、「経験」は新たな局面をめがけて連続的に展開していく。

 *

経験が経験として成就するとき、そこにはある種の〝礼節/作法〟が現象しているように思える。
たとえば「意識」に先行することを許さない音楽を聴くという経験──

「経験」という変数を切り取り、時点的な意味へと変換し、
定数として固定するのではなく、〝われ知らず〟情動の流動にみずから溶け込んでいく。

〈世界〉に透明な切れ込みを入れるのではなく、
〈世界〉そのものを生きるように、あるいはみずから変数としてあるままに、
「意識」は背景にしりぞくことを一つの〝礼節〟として受け入れている。

そのことは意識されることなく、その間だけは、経験が経験として成就する原理に準じるように、
なんらかの内なる配慮がはたらいているように思える。

 

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