ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「生態系と適応課題」(参)

2009-04-29 | 参照

『THE JOURNAL』田中良紹「国会探検」~検察の国家観~
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/


(コメント欄)より
「西松」「テポドン」「クサナギ」をめぐる大手メディアの報道は、
あらためて国民に重要な学習機会を提供してくれたように思います。

この国のTV・新聞はジャーナリズムの看板を掲げておりますが、
実体としては、島国の特殊な「地場産業」ではなかろうかと思えてきました。

言い換えると、島国の生態系に残る希少な適応形態と見ることもできます。
その表現型が「オレオレ」あるいは「なりすまし」ジャーナリズムということです。

いきなり門戸開放すれば、「地場産業」は絶滅してしまう可能性が高い。
そんな危機意識が無理スジの適応行動に向かわせていると考えると、いろんなことが辻褄が合います。

話を広げれば、「政・官・業・報・学のペンタゴン」(田中康夫氏)を中核とする生態系において、
それぞれの防衛動機・行動がバランスしながら、この国のガラパゴス化を推進しているとも言えます。
今回の検察、メディアのふるまいは典型的な適応行動のサンプルとなりました。

しかし考えるまでもなく、グローバライゼーションの荒波は島国全体を洗っています。
ガラパゴスの民は新しい適応課題に直面しています。
田中良紹さんのおっしゃるように、幕末期に匹敵するビッグな課題かもしれません。


コメント

「エントロピー増大の踊り場」(参)

2009-04-20 | 参照

(P・アトキンス『ガリレオの指』斎藤訳2004早川書房)より

(エントロピー~変化の原動力)
変化の要因は何か。……その答えは熱力学と呼ばれる、エネルギーの変換―とくに熱から仕事への変換―を研究する科学にみつかる。……変化の自然な方向は、物質の所在であれ、エネルギーの分布であれ、位置であれ、温度であれ、無秩序の度合いが増す方向になる。秩序は自然に無秩序に崩壊し、エネルギーは弱まり分散する。好むと好まざるにかかわらず、世界は衰えつつあるのだ。……第2法則が明らかにした宇宙の原動力は、エネルギーや物質が、無秩序へと拡散する、とどめようのない崩壊である。

どんな変化も孤立した活動ではない。変化は、相互に関係した事象のネットワークなのである。ある場所で崩壊へ向かう変化が起きても、その結果がほかの場所の構造を秩序立てることもある。

われわれの周囲の世界では、花びらが開く、木が伸びる、考えが形成されるという複雑な事象が起きて、乱雑さが減っているように見えるが、……その作用が、どこかほかの場所に、より大きな乱雑さを生みだしている。……エントロピーの変化全体の総和……全体としての乱雑さが増す……われわれは、いやすべての構造物は、カオスすなわち乱雑さが、局在的に減少した存在にすぎないのである。



(蔵本由紀『非線形科学』07年集英社新書)より

(自然の「能動因」とは何か)
少なくとも地球上の現象に関する限り、そのような(熱的死の)徴候は見られません。……実は、現代物理学の知見からは、このような能動性の原因をことさら考える必要はないのです。坂を転げ落ちる車を押しとどめて、それを押し上げるような力を考える必要はないのです。それどころか、この活動性の源は、先ほど述べた「すべてのものを熱平衡へと駆り立てる熱力学的な力」そのものであるといえます。つまり、エントロピーの生成をうながし、構造や運動の消失へと向かわせるこの駆動力が、同時に構造や運動を生み出す力なのです。

限られた量のエネルギーの下では、それぞれの物質内の原子分子のざわめきは十分におだやかなので、物質としての個性を優に保持することができるのです。……私たちを取り囲む低エネルギー世界では、たとえエントロピーが増えきっても、万華鏡のような物質的多様性を享受できるのです。
コメント

MANGA的「現実」(参)

2009-04-19 | 参照

『THE JOURNAL』金平茂紀の「NY発・チェンジング・アメリカ」
~NYタイムズ『劇画漂流』激賞の悦ばしさ~
http://www.the-journal.jp/contents/ny_kanehira/2009/04/post_10.html


(コメント欄)より
『THE JOURNAL』の読者としましては、
「軒並み脱力感を抱かせるものが多いのだが」とか、
「なかには「おたく」的な傾向が強すぎるものが強調されたりして、苦笑することもある」とか、
「世界から取り残されて自閉しないことをここニューヨークの地から祈っている」とか、
そのような余裕しゃくしゃく、「一人だけ別バラ」的おっしゃり方以前に、
もう少し喫緊な情報を提供して頂けないものだろうかと思い、一筆挿入させて頂きます。

たとえば、
訪米中とされる安倍晋三氏や前原誠司氏等の発言内容、およびそれに対する現地の反応、
あるいはテポドン発射に対する全米やビッグアップル界隈での受けとめ方、
また、次期駐日大使と目されるJ・ナイ氏への突撃インタビューなども考えられます。
(せっかく彼の地におられるようですから期待は大きく膨らみます)

少し大げさな言い方になりますが、
そうした現地情報ルートの恩恵を通じて、島国においてはより広範な文脈構成が可能になり、
ひいては蒙を啓きつつ、多事争論、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」とあいなり、
めぐりにめぐった果てには、
次世代「辰巳ヨシヒロ」誕生を促す土壌の肥しとなることもありましょう。

ぜひ、国内の課題と直結する現地情報のハンティングを実施され、
国内読者の学習動機および機会を拡張するようなレポを拝読できれば有難く存じます。

不遜を顧みず、蛇足ながら一言申し上げれば、
メディアの動向は、いまや「監視対象」にあるという認識が圧倒的に重要でありましょう。
愚民もいれば賢民もいる、一人の人間が愚であるときも賢であるときもある、
それはメディアにおいてもあらゆる分野においても正規分布する、
ということが明らかになってきたのが現在の状況だろうと思われます。

ただ、コラムを読ませていただいて気になりますのは、
昭和前・中期風の時にペダンチックで目くらまし的な文体でございます。
情報格差を前提とする舶来教養主義的エリーティズムはいささか古風に過ぎます。
(一部、これに呼応するお仲間層も残存しているようではありますが)

たとえば、本格的に「MANGA」を語るには相当な覚悟が必要だということがあります。
(この国の「MANGAの読み」の伝統・深さ・広がりは他国を圧倒しております)
NY紙のひとつの記事を権威づけながら、
「世界から取り残されて自閉しないことをここニューヨークの地から祈っている」というのでは、
それこそ「MANGA」的に過ぎるのではないでしょうか。
(あるいはそこに個人的な実存にかかわる動機が潜んでいればまた話は別でしょうが)

ということで、御無礼を顧みず一筆したためさせて頂きました。了
コメント

「ニイタカヤマノボレ」(参)

2009-04-12 | 参照
『THE JOURNAL』田中良紹「国会探検」~仮想敵国日本~
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/

(コメント欄)より
テポドン発射をトリガーに、「パブロフの犬」的リアクションに走る忠犬ハチ公の群れ。
一方、国権の最高(最悪)機関において「大将ごっこ」に興じる丸裸のオレ様王様野郎。
騒動を尻目に、これ幸いと間隙をぬって法文のリライト、根回しに走る国賊の有象無象。

「喜び組」を看板に一意専心私益追求をこととする後は野となれ山となれの電波媒体群。
「情けない」「見るに堪えない」の詠嘆、慨嘆連発の、じつは共犯的カルテルの代理人。
さらに、アホバカ一杯!オーケーあるよ!計算通りGood!I've got it!の異人さんたち。

「臨時ニュースを申し上げます」
「何?」
「ニイタカヤマノボレ」
「ウソだろ」
「聞いてねえよ」
「まさか」
「そんなのカンケイねえ」

帰結としてはそんなところでしょうか。
あるいは緩慢な集団的自殺が待ちうけているのでしょうか。

ゲームの水準とプレイヤーたちは恐ろしく低レベルですが、
国の命運、もっと言えば人びとの幸いにかかわる、
最近でいえば最も本格的な帰結を生むゲームが進行中と言えるかもしれません。




コメント

「環境を含む協調システム」(参)

2009-04-10 | 参照
(佐々木正人『アフォーダンス入門/知性はどこに生まれるか』96年講談社)より

「姿勢とは身体全体で環境とリンクする、知覚の器官をとりこんだ関係のネットワークである。(中略)全身のネットワークのやっている止むことのない調整のことをベルンシュタインは「協調」(コーディネーション)とよんだ。」

「赤ちゃんを倒すためには力はいらない。わずかの光学的流動をまわりに起こすことによって彼らの姿勢はバランスを失い倒れる。力学的なエネルギー交換(手で押す)だけではなく、光学的情報との遭遇によっても身体は協調のあり方を変化させる。人の動きを変えるのにいつも力がいるわけではない。情報があればよい。」







コメント

「全国一斉模試」(参)

2009-04-09 | 参照
『THE JOURNAL』田中良紹『国会探検』~さまよえる解散がようやく~
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/04/post_182.html#comments

(コメント欄)から
「国家的オレオレ」「メディア的オレオレ」が蓋う社会にあって、例外的にコトの核心をえぐりつづけている、
醒めきったまなざしが本当に見つめているものに興味が湧きます。

この国のレベルを測る「全国一斉模試」が迫っているのかもしれません。
これを「楽しみだ」「見ものだ」だとほざいて稼ぎまくる特権的オレオレ犯たちは、
その結果から、また新たなオレオレ手法を生みだすことでしょう。





コメント

「注!国家的オレオレ」(参)

2009-04-09 | 参照
(夏目漱石『漱石文芸論集』岩波文庫)より

ただもう一つご注意までに申し上げて置きたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜(やかま)しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団とみる以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなってくるのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。
コメント

「下手をこくな」(参)

2009-04-03 | 参照
『THE JOURNAL』田中良紹「国会探検」~小沢辞任論の「公」と「私」~
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/03/post_180.html

(コメント欄)から
辞める必要は一切ないということだと理解しました。そう考えるとよくわかります。
政治が何のためにあるか。そのことを理解できれば、現在の大手メディアの論点・視座はすべてゴミとして映ります。
じつにシンプルな問題であるように思います。

田中さんは、現在いろいろなものが炙り出されているとおっしゃいます。
一般の人間にとって差し当たり重大なのは、メディアの問題だろうと思います。

メディア自身には「私」をめぐる現行のゲームから降りるつもりが微塵もないようにみえます。
(露骨にいえば、「公をかたって私を貪る姿」が誰の目にも見えるようになりました)
結果、メディア発の言説はすべて現行のゲーム内で完結しています。
現行ゲーム内のルール違反を問うこと、それだけが現代版岡っ引きならぬメディアの仕事になっており、
別のゲームへの移行(大政奉還)は思考の埒外にあるようです。
したがって大手メディアに望みをかけるだけ「下手をこく」ということになりそうです。

本サイト内に載った某氏や某氏のコラム原稿にそのことは顕著です。
なぜダメなのか。現行ゲーム内のレトリックの洗練だけが主題化されているからです。

田中良紹さんのご健筆に期待するとともに、くれぐれもご健康にご留意くださいませ。

コメント

夜景Ⅱ

2009-04-03 | photo
コメント