(G・ベイトソン「ヴェルサイユからサイバネティックスへ(1966年)」『精神の生態学』佐藤良明他訳)より
人間を含めた哺乳動物が生きていくうえで最も重要な問題というのは、個々のエピソードではなく、自分たちの関係のパターンです。……われわれはみな、関係のパターンに心を砕いている。面と向かった相手との間に結ばれている愛や憎しみや尊敬や依存や信頼等々の抽象の中のどういう位置に自分が置かれているのか、これは哺乳動物として生きていくのになにより重くのしかかってくる問題です。この点で相手から欺かれるのは、誰にもつらいことです。あることを信頼していて、それが信頼に値しないことが分かったとき、あるいは不信の念を抱いていたものが実際は信頼に値することが分かったとき、われわれは感情的ダメージを受ける。この種の間違いから人間と哺乳動物の同胞が、時にどれほどの苦しみを受けるか、それはもう他の苦しみの比ではないと思います。
だとしたら、歴史のなかに重要な転換点を求めるときには、関係性の中でのわれわれの「構え」(attitude)が変化した地点を探すのでなくてはならないでしょう。人々の間に、ある価値体系が定着していて、その価値が裏切られるがゆえに苦痛が生じるという地点です。
子供に何かを約束しておいて、それを反古にする。しかもその全体を、高次の倫理的枠組の中に組み入れて、みんなのためだからと言いくるめたらどうでしょう。そのやり口をフェアでないと思えば、子供は親に敵対するばかりでなく、おそらく自分の行動の道徳的なセッティングを変えることになるでしょう。世の中への「構え」が変化するわけです。
ヴェルサイユの背徳が、ドイツ人の恨みを買い、結果的に第二次大戦を招いたというだけでは不十分です。重要なのは、一国の国民へのあのような仕打ちが、彼らのモラルを崩壊させるだろうことが、最初から予見できたという点です。一方の側のモラルが低下すれば、それと争う側のモラルも低下することは免れません。この意味で、私はヴェルサイユ条約が、道徳的なセッティングにおける重要な転換点だったと述べたわけです。
(ドイツに降伏を決断させるための懐柔提案「十四箇条」を立案したPRの専門家)ジョージ・クリールに十四箇条の弁明を求めたら、一般的な善(the general good)を力説するに違いありません。たしかに彼の小細工のおかげで、一九一八年の時点では、何千かのアメリカ人の命が救われたとはいえます。しかしそれと引き換えに、第二次大戦で――さらに朝鮮とベトナムで――どれだけの命が支払われなくてはならなかったか、想像するだけで気が遠くなる。ヒロシマとナガサキの惨劇を正当化したのも、一般的な善でありました。これ以上アメリカ人の命を失うな、と。……だとしたら、ヒロシマの運命は、ヴェルサイユで決まったということになりそうです(Was the fate of Hiroshima determined at Versailles?)。