ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「一義性への収れん」(参)

2009-10-31 | 参照

(清水博『生命を捉えなおす 増補版』1990中公新書)より

人間ばかりでなく、動物も、おそらく植物でさえも、本質的には自由を求める存在です。自由は競争原理の基礎でもあるのです。しかし、生命を持つものの自由と自由が時には衝突しあう中でお互いの自由を確保するためにも調和が必要となるのです。調和とは個の自由の上に立つ秩序です。(これが散逸構造の意味です。)一般に、不均質な要素からできたシステムの中でこのための秩序ができるためには、要素が多様な自由度を持ち、その多くの自由度のうちのある部分を協力しあって拘束することによって、他の多くの自由度を開放することができるのです。
(中略)
これに反して日本の社会のようなタイプのシステムでは、要素が均質的で密着性が高いために拘束度が強くなり、狭い次元での競争を誘って秩序をつくり出す面が強いと思われます。つまり生成的ではないのです。さらに重要なことは、システムの閉鎖性のために、フィードフォワードよりもフィードバックが強く働いて、秩序が自己組織される傾向が強いことです。このようなシステムではその拘束性の強さから、秩序の一義性が目立ってきます。
(中略)
私が主張しようとしているのは、システムの(さまざまな)環境へのセマンティック(意味論的)な開放であり、また要素の多様性に立つ秩序であることをあらためて指摘しておきたいと思います。



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「a castle in the air」(参)

2009-10-24 | 参照

「Liberalism began as a preserve of the elite in the 19th century, and true democracy is never handed down by elites. It is always fought for and struggled for.」(John Pilger)
(「自由主義は19世紀の特権階級のカルトとして生まれました。真の民主主義が特権階級から譲られたことはありません。常に戦いで勝ち取ってきたのです」中野真紀子訳)


「自由は、初期のハイエクが考えていたように人々に好まれる自明の価値ではなく、むしろ維持する制度的なインフラがなければ壊れてしまうような、不自然で脆弱なメカニズムなのである」(池田信夫『ハイエク~知識社会の自由主義』08年PHP新書)



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「他有化された自己」「間身体的な場の共有」(参)

2009-10-16 | 参照
(市川浩「〈身〉の風景」『身の構造』1984年青土社)より

主体としての身体、対象として(しかし二重感覚とともに)とらえられる身体、さらに他者によってとらえられる身体、これらが分かちがたく統合されているのが、私の具体的な身体です。

相手がにっこりすると思わず私もにっこりします。……逆に相手の顔がこわばっていると、自然に私の顔もこわばってしまう。つまり他者の身体というのは、決して科学が扱うような客観的な身体ではなく、表情をもった身体であり、私の身体もまた気づかぬうちに表情や身ぶりでそれに応えています。つまり身体的レヴェルでの他者の主観性の把握と、私の応答があるわけです。

このように表情的であるのが他者の身体ですが、さらに物も実は表情的です。


*外延されたトポスの力学のもとにシステム的作動があり、意味形成価値形成の起源がありつづけている。
システムの恣意をこえて作動は訪れると同時に、システムの応答(表情)において力学(表情)も変化していく。






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「舟歌op.60」

2009-10-10 | photo
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blue sky blue

2009-10-07 | photo
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2009夏Ⅲ 蟷螂 

2009-10-01 | photo
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