ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「接続関係」→「創発関係」

2010-10-20 | 参照
(安冨歩『複雑さを生きるー柔らかな制御』2006年岩波)

ある種のカオスにノイズを加えることで、秩序を創り出すことができるという観察が知られている。
「ノイズがある」ということは、カオスになんらかの「外部」が接続されている、ということであり、カオス単独の場合よりシステムは複雑になっている。
ところが、カオス単独の場合よりも、「カオス+外部」という、より複雑な場合の方に、より高い秩序が見られるのである(津田一郎、1996)

非線型性を持つ要素同士を相互作用させると、逆に高次のレベルで、操作しやすい部分があらわれるという予想を述べることが可能ではないか……。このような制御のあり方を「やわらかな制御」と呼ぶことにする。

人間は実行不可能と思われるような複雑な操作を実現するために、自らのシステムの中の複雑さを利用する、という手法を用いているのではないか。

対象とすべきシステム(投手の場合はボールの流体力学的複雑さ)を制御するには、身体の非常に多くの部分を参加させて複雑なシステムを用意し、これを対象システムに接合し、複雑さをさらに高くすることで、そこに安定的なダイナミクスを創り出している、と。

(コーチと選手の場合)
双方向にコミュニケートするなかで、ひとつの複雑なシステムが構築され、そのなかでコーチングという現象が立ち現われるような力学が構成されることで実現される。……コミュニケーションの構成するコンテキストのなかで、単純なコマンドが意味を持つ形で立ち現われることで、操作可能性が見えるのである。

(「共生的価値創出」→個々に内部的複雑さをもつ主体の相互接続)
働きかける側と対象となる側に切り分けるのではなく、両者を、相互に依存し、影響しあう1つのシステムとして認識しようとする姿勢。……
これを実現するには、ある場面において利用可能な資源を、並列に検討することから始めるべきであり、目的を定めるところから始めてはならない。
両者にある資源を、並列の関係で考え、……どのように接続して新しい価値を創り出すかが問題となる。

コーチによるメソッドの強要は選手の動きをぎこちなくする……。
「コミュニケーションの活性」「動的な過程がうごき出すような接続関係」へ。

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熱力学第二法則がアフォードする→「動的平衡 dynamic equilibrium」(参)

2010-10-12 | 参照

(福岡伸一『生物と無生物とのあいだ』2007年講談社)

生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである。……身体のありとあらゆる部位、それは臓器や組織だけなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらも、その内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。
入れ替わっているのはタンパク質だけではない。貯蔵物と考えられていた体脂肪でさえもダイナミックな「流れ」の中にあった。

すべての原子は生命体の中を流れ、通り抜けているのである。……私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと出ていく分子との収支が合わなくなる。

「生命が生きているかぎり、栄養学的要素とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化してやまない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」(シェーンハイマー)


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事後的追尾としての「現在」(参)

2010-10-05 | 参照

(河野哲也『〈心〉はからだの外にある』2006年NHKブックス)

結論しよう。私たちは環境に埋め込まれた存在である。そうであるかぎり、自己のあり方を問うことは、自分の「内面」を問うだけではすまされない。内面とは、自分の周囲の環境を既存のものとして受け入れた後の残余にすぎないからである。自己への問いとは、私たちを取り囲む(自然的・人間関係的・社会的)環境のあり方までを含めて、自己のあり方を問い直すことである。そして、そこには、それまでの環境設定への批判が含まれることがあるかもしれない。私たちがなすべきは、心理主義にとらわれたままで、無自覚のうちに自己を既存の社会システムに過剰に適応させてしまう「自分探し」などではなく、環境リテラシーを通じて、自分(たち)自身で環境と自分(たち)との関係性をリデザインすることである。本当の自分探しとは、自分が充実して生きられる環境(ニッチ)を自ら形成し、再形成してゆくことなのである。



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