ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

往相と還相

2017-02-25 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8

        https://www.youtube.com/watch?v=Gh9WX7TKfkI

ひとたびソレとの出会いが存在を呑み尽くし
信仰の高みにまで変質したとき

それについてうまく語った者に威光を授け
語られた言葉以上に
感染する者たちを生み出し

ただじぶんに訪れたソレがソレであると信じるために

ひそかなカタルシスとともに
いまだソレを知らない世界の人びとを
嘲笑し侮蔑することになった

目にみえる世界と
 その背景をつくる未踏の領域のすべてを含んで

画然と分けられた
〈ソレ〉と〈ソレでないもの〉があると信じられたとき

煉獄の風景として
世界は開かれ

そこにとどまるかぎり
世界は貧血したニヒリズムを
滅びの種を
みずからの糧として構成するようにみえた

 

 

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〈世界〉との界面が溶ける

2017-02-25 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=n65w1DU8cGU

──ソレが直撃すると、われわれは速やかにコトバとは別の回路に入る。
  ソレに染まり、情動は走り、官能が舞う。
  この経験のモードはコトバに先行を許さないように動いていく。

回帰すべき場所はどこか
 めがけるべき未来はどこか

話は、じつは単純さ
 そんなものはどこにもありえないのさ

 なにもないということがすべての背景だ
 なにもないガランドウというわけさ

 なにもないという、この朗らかな真実が
俺たちの本当のふるさというわけさ

 いったいどういうことかわかるか

 この上ない風通しのよさにおいて
鼻歌がよく響くということさ

 この清らかな真実において
 なつかしさの原郷が広がっている

無-意味、無-価値、偶然の戯れ
 おお、木の葉のように
風に吹き飛ばされる存在の心もとなさよ

 それはただ、意味を求める弱虫の人類が分泌する
固有の感情だけに由来している

「本当か!」

 然り。本源において
拝跪すべきどんな存在も絵空事である

 みずからを捧げるべき
 どんな対象も理由も意味をもたない

 その了解の果てに
 ガランドウには気もちのいい風が吹き抜ける

愛する理由はいらない
憎む理由もいらない

 いつも、すでに、あらゆる場所で
 それは、ただ訪れる

「本当にそうか!」

 然り。それが俺たちの生の核心だ
訪れの疑えなさにおいて
 そして、その未規定性において

 いつも、すでに俺たちは
 ガランドウのなかを歩いている

回帰を拒むことにおいて
未来を語らないことにおいて
 ふるさとは清らかに保ちつづられていく

「この酷薄さに堪えられるか!」

 然り。ブタだけが愛を語り、倫理を語り、善を語る
 カバだけが正義について、未来について僭称する

愛も倫理も善も正義も未来もただ生きられるだけで
語ることで生まれたことも生まれてくることもない

 ただ生きられることの延長において
未規定の現在が一つの必然に転位していく

「拝跪する感情もそうではないか!」

 然らず。されど倒錯された必然
ヘンタイとしての人間の歴史があり
 そのエサは至るところに撒き散らされている

 だれかが、みんなが、そうするという理由だけで
 だれかが、みんなが、そうしないという理由だけで
一人の人間はみずからの生存を瓦解させることができる

 その恐怖に堪えきれず
人間は目をつむり
 おのれならざる「なにか」に向かって跳躍する

 エサは撒かれる
 ブタはすり寄る
 ブタは喰らう
 ブタは丸々と肥る

 おもうツボで
仕上げは人間のとんかつだ

「それを喰らうのはだれだ!」

 共喰いさ。エサはどんな形にでも変幻する
Aに代入されるB、Bに代入されるC

 無限に変幻するとんかつゲームにおいて
 その中心はいつも空虚である

 いつみても、どこをみても
差し押さえを喰らいながら
空虚なゲームが展開していく

 このありえなさにおいて
人間のふるさとには固有の陰影が加えられる

 ブタのエサは至るところに溢れている
振りかえればいつも
 だれかが据膳して待っていることだろう

平和とはいえないな
 ツラの皮を厚くしながら
文化が序列を配して卑俗を見下している
 そういう定式が出来上がっているということさ

 ブタ主義、カバ主義がまかり通る土地柄だ
自然は受けつけないシロモノということさ
 どん詰りには逆上だけが待っていることだろう
崩壊は必然だろうよ

正義と正気を語る者たちが
全体において狂った算段で裁きを繰り返す
 その基本は不信ということだろう

裸体のむせびがすり替えられたということさ
微笑めばなにかが返ってくると
 どうもそういう仕掛けになっているらしい

 わかっていただきたい紳士たち
かなえていただきたい淑女たち
 そして、わたしにおまかせなさいの頓馬たち

 この凸と凹のコンビネーションが
 いつも同じ風景を構成している

絶えずなにかを拝んでイノチをすり減らす者と
絶えずエサを撒いてイノチをかすめとる者と
時に応じて攻守入れ替わりながら
死の種を配分しあっていく

 そうした常套に制御された土地の光景が
 ガランドウには鮮やかに映し出されている

愛の裏側。平和の裏側。正義の裏側。戦争の裏側。

 閉ざされた視覚に支配された
 みせかけの安寧とみせかけの争いの外に
 ぐつぐつと燃え盛る紅蓮の炎が見える

「だれがそれを見ているんだ!」

 貴様が見ろ。ガランドウの先に
大地を焦がし、空を染め上げ
 いつも冷たい灼熱が舞っている

訪れるものはいつも
俺たちの存在を迅速に染め上げていく

 まなざしが交叉すると
電撃が走り
 なにかが壊れ
 なにかが点火する

押し寄せる情動の高波に耐え切れずに
 こころは結界を破られる

「おお」

 愛なのか憎悪なのか
正体を確かめるまえに
俺たちにはいつも届いていた

 エネルギーの凝集において
愛も憎悪も一つの感化にほかならなかった

求めることにおいて
求めないことにおいて

高鳴る心臓の拍動は
 いつも同じ強度を刻んでいく

俺たちをいま照らすものが
希望なのか絶望なのか

 こころは問うより早く
新たな結界を生き始めていく

俺たちは希望を決断して希望することはできない
俺たちは絶望を企画して絶望することはできない

俺たちの心臓に近接した場所に
俺たちの生の前線があり

絶対の速度においてそれは
俺たちの現在を照らしていく

善人ぶろうが悪人ぶろうが
知ったかぶろうが何だろうが

俺たちは俺たちの前線を決して追い越すことはできず
俺たちはそれを追いかけることだけができるだけた

俺という存在は俺という生の前線から
俺において事後的に抽出され
俺の思惑をこえて俺自身を生き抜いていく 

 聞こえるものは頌歌なのか悲歌なのか
未来へ向かうのか過去へ向かうのか 
 欲望としてか献身としてか

俺たちはほんとうは
 なにも答える必要がなかった

俺たちはいつも生の前線から
俺たち自身を告げられ

 すべての時制が織り上げる
未決の現在へ誘われていく

俺たちは世界への着生を告げられ
生存の可能性と危機が同時に開かれる

 いまを灼熱の光で焦がしつづけている
永遠に未踏の清らかなふるさとがある

俺たちにとっていつもそこが
新たな結界への入り口にほかならなかった

 

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音楽を聴く

2017-02-18 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=4b1YWll-ykM

音楽を聴く。すると、われわれは速やかにコトバとは別の回路に入る。
音に染まり、情動は走り、官能が舞う。
この経験のモードはコトバに先行を許さないように動いていく。

なぜかそう感じる──という「経験」の始元的な所与性。

なぜ、この音楽、このメロディに官能するのか。
音と響きへの感応の由来を問うことに先行して、いつもすでに、
われわれは「音楽の経験」を完了させている。

感応の由来、根拠、理由を問うこと、意味づけること。
そのこと自体が「完了した経験」からはじまっている。

情動は走り
世界は開かれ
コトバはおくれて
かたちを結ぶ

すべてのはじまりとしての「経験」。
その連続的な継起のなかで「経験」は次々に組織化していく。

「なぜか」と問いは、答えられない問いであるにもかかわらず、
この不可能な問いを発するものが、存在の一部として組み込まれている。
「意識」とみずから名乗るものが、経験にはつねに同伴している。

意識としてのわれわれは経験の裏側に回り込むことができない。
にもかかわらず経験にスキマを生んで〝何事か〟を企てようとする存在が同伴している。

知ることよりはやく、考えることよりはやく、
わたしは〈世界〉と出会い、〈世界〉と交わり、
つねにすでに、〈世界〉にまみれ、〈世界〉に棲みついている。

音楽を聴くという経験のモードは意識の先行を許さない。
先行を許した途端に経験は成就することを止めてしまう。

ところが経験の成就、自己完結することを拒むもう一つの機制──

経験に区切りを入れ、ことばを与え、数量化し、定数(事実)として切り取り、
「知る」という位相に配置する──
「経験」の連続性に切れ込みを入れることで、
「経験」を別の位相へと切り替えることになってしまう。

そしてそのことには避けられない必然と根拠がある。
──二次の過程へ向かう「関係存在」としての必然的展開。

経験を交換可能にするコトバ(という信憑)がみちびく関係的位相への移行。
そのことを促す「関係のエロス」というものへの志向。

 

 

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フォーメーション

2017-02-12 | Weblog

         https://www.youtube.com/watch?v=TNT2dto_wCM

         https://www.youtube.com/watch?v=SNv0kLsAMDA

         https://www.youtube.com/watch?v=_qxOxiFOSXM

         https://www.youtube.com/watch?v=EiUgJnndVNU

フォーメーション──それは欲望であり、絶えざる形成運動であり、
形成運動としての〝わたし〟であり、〝あなた〟である。

フォーメーションの励起に相即して〈世界〉は現われ、相貌を変化させる。

フォーメーション──それは〈世界〉の訪れ、〈世界〉との邂逅、
そしてなにより、色あい、感触、意味と価値に分節された〈世界〉、
新たなのランドスケープの生成と一体している。

美しい風景をなす岩山は、登攀の意思(欲望)が励起すると同時に、
巨大で峻嶮で無慈悲な懸崖に変異する。
観照的なまなざしがみずからを一部する親和的な自然として捉えていたもの、
それが新たなフォーメーションの形成運動にとって、
意のままにならない巨大な外部に変化する。

しかしフォーメーションの核心をなす欲望はそのことを「望む」。
われ欲す──ゆえに、〈世界〉は生成することを止めない。

生成する〈世界〉のランドスケープは拘束条件であり、自由の条件でもある。
この両義性としての現実=世界の受け止めから、
フォーメーションは作動の方向を思考し実践的に動いていく。

 

 

        

 

 

 

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「ポリフォニー/からだ/意識」

2017-02-07 | Weblog

https://www.youtube.com/watch?v=06AXV0MRz5M

https://www.youtube.com/watch?v=XhILpwXcIeo

ポリフォニックな欲望が出会う交差点としての「意識」──
多数の欲望が出会い、ぶつかり、乱舞し、せめぎあい、渦を巻き、飛散するトポス。

欲望の無数のコマンドが縦横無尽に飛び交っている。
あれか、これか、いい、すてき、だめ、いや、どれも、かれも、……。
乱流に抗して、審議し、交通整理し、優先順位を決め、選択し、留保し、あるいは混乱する。

そうした決定にあずかるコード、流儀そのものが形成運動の渦中にある。

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