ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

冬の空 strange shade of winter

2008-01-25 | photo
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資源化と貧困化(参)

2008-01-20 | 参照
結局、われわれは自分を「一人」だとおもいこみすぎたのである。きっとこれこそが「近代」が中世の魔術に代わって平均的市民のためにつくりあげた魔術というものだった。これは、私と同い年で、コーネル大学で数学を専攻していたモリス・バーマンが試みに「世界の再魔術化」(reenchantment)とよんだことである。(1995年筑摩書房/松岡正剛『フラジャイル』より)


時代はすでに次のステージに突入して、再魔術化の再脱魔術化、すなわち「一人」の解体あるいは縮減化による「資源化」が進行している。
「資源化」の目的は、全域化したマーケット・メカニズムの展開に対する貢献である。
有形無形のマーケット・プライスを刻印された各資源は、変動する相場のもとで市場相関物としての日常を生きている。
主観的な独立自尊のマインドの有無とは別に、そのまなざしは汎神的な市場のフィルター(色メガネ)を経由し、相互規定的に資源化された現実を追認し合い、市場適応的な生存を強化し合うことになっている。
こうした現実の住み心地は、ポジションや志向する価値によってさまざまに分岐するが、生存のオプションの寡少という点だけをみても、貧困の社会と言うことができる。そして、この貧困は極貧へ向けて加速しているように見える。


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1980 美への配慮

2008-01-14 | Weblog
「記録されたそのとほりのけしきで」

そこに描かれたものが美しいと思えるのは、最初に目撃したまなざしが、瞬間に迸ったものを描き出しながら、自らの素性を伏せながら、人に対して存在しないように存在したからだろうか。

それは客観を構成せず、
明示されたシグナルをもたない、
存在と非在のあわいに明滅する淡い光の、
刹那に放電した虚数空間のきらめきに殉じるように、
それ以上の言及を禁じ、
再帰するまなざしの回路を封じ、
世俗とっては異端とさえいえる流儀と、
そこにだけ許された秘蹟の作法に従っているようにみえた。

「イツモシヅカニワラッテヰル」かどうかはわからないけれど、
いつも「第四次延長」のどこかへ姿を隠すように、

それはあたかも、
「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」、
まなざしを、人が、自分自身のものと感じることができるために、おのれの気配や介入の痕跡を消して、決して名乗り出ないかのようだった。

(引用/『宮沢賢治詩集』草野心平編)
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1993 永遠の祭礼

2008-01-11 | Weblog


みえない腕に抱かれ
またひとり
おんなが名前を呼ばれ

呻吟の海を渡り
コスモスの闇を抜ける

誘引は心臓深く染みわたり
始源の温もりが肉を焦がし

清らかな光が凝集し
儚い視覚を洗い

そのまなざしの子宮に
太古の祭礼が屹立する

むせびに震え
涙がこぼれ
悲しみが流れ
無限の闇に氾濫する

永遠の律動に騎乗し
遠く近く
熱く冷たく

未知の分娩を幻視して
祭礼は遥かに駆け上り

夢に濡れた夜に
精霊たちの白熱が貫通する

轟音となった細胞の共振は
緊縛されたセルフを道連れに
陶酔の極北へ加速した

昇天の熱が涙を溶かし
かなしみを埋めた辺境に
せつない嗚咽が木霊し

太古と永遠を結ぶさざ波が
孤独のひだを洗い
小さな死が唇を重ねる

彼岸をめがけ
喪神の祭壇に踊る
可憐な宇宙の巫女たち

酷薄な刻印をうがたれた
コスモスの生け贄なのか

儚いまなざしの内側を照らす
祝福の閃光なのか

幻想の涙に濡れ
無限の闇が身震いした



永遠をつむぐ祭礼が
忘却の愛撫につき添われ

遥かな時間の流れにそって
孤独な気圏の小径を過ぎていく

小さな心臓を捧げた陶酔に
何度もわかれの挨拶を交わし

いつか夜の果てに辿りついたとき
巫女たちは戻る者なのか

みえない戒律にうながされ
惑星のせつない歌謡に
滅びていく者なのか

それとも悲しみの向こう側へ
抜けて行く者なのか

巫女たちの祭礼は
しきたりに導かれるように
遠い足音を響かせながら
数百億の夜を過ぎていった
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