――グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(佐藤良明他訳)より
【冗長性 redundancy】
音素の連なりでもいい、一枚の絵でもいい、一匹のカエルでも、一つの文化でもいいが、
なんらかの出来事または物の集合体に、とにかくなんらかの方法で「切れ目」を入れることができ、
かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、
残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができるとき、
そこには冗長性またはパターンが含まれることになる。
これを、切れ目の片端にあるものが、もう一方の側にあるものについての情報を含む、
あるいは意味を持つと言ってもいいだろう。
(たとえば)
樹木の地上の出ている部分を見て、地下にある根の存在が推測できる。
このとき、上の部分が、下の部分についての情報を提供している。
実際に描かれた円弧を見て、円周の残りの部分、
つまり描かれていない円弧の位置を想像することができる。
冗長性、意味、パターン、予測可能性、情報等々を作り出し、
あるいは「拘束」によってランダム性を減じることが、
コミュニケーションの本質であり、その存在理由なのである。
メッセージというものは、単に内的にパターンづけられているだけでなく、
それ自体が、より大きなパターンの世界文化ないしその部分をなすものだ。
人間関係の場でも、絶えず多くのメッセージが意識されぬまま行き交っている。
われわれが伝えようとするメッセージは、おのずと表出される意図されないメッセージにつつまれる。
そのために、このように複数のレベルで同時に発せられるメッセージを交通整理するメタ・メッセージが、また必要になってくる。
芸術作品が、芸術家の技能(腕)を伝える場合も話は同様である。
芸が「うまい」という事実そのものが、芸術的パフォーマンスにおける
無意識の要素の豊かな広がりを証明しているのである。
芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズであると言える。
この種のコミュニケーションがより十全に行なわれるように
われわれの精神を鍛練することをひとつの働きとする、遊戯行為であるとも言える。