ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「バンザイマジック」2

2014-12-31 | Weblog


手に負えない巨大な負債を紙くずに変えてリセットするには、
さらに巨大なインフレーションを起こせばよい──

一人では取り除けない精神の負債や不遇や不幸の意識も、
観念のインフレーションを起こして〈神格〉を立ち上げ、
それらを条件づけ意味づける現実の約定を〝紙くず〟に変えることができる。

精神を苛むみずからの負の刻印をそのまま〝聖痕〟へと意味の転移させる。
みずからを囲む価値の系列を根こそぎなぎ倒すマジカルな〝全体〟へ向かう通路がある。

みずからを苛む拘束を根こそぎなぎ倒す巨大なインフレーションへの期待──
巨大な神格の降臨を待ち望む〝モラル化〟した熱情が再び歴史の惨劇を招き入れる。

世界とは何か。我とは何か。他者とは何か。関係とは何か。価値とは何か。
ニンゲンとニンゲンの関係が生み出す現実のすべてを、
一つの意味の中心に帰属するものとして再記述するメタ・コンテキストが自生していく。

 

 

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「歩く2」

2014-12-29 | Weblog


「歩くという行為は、環境と一緒に情報のサーキットを形成して生きるという生命固有の営みです」
「生きることぜんぶに関わるといいたいわけ?」
「まさしく。きわめて重要なポイントです。
つまり、〝歩行という一般像〟はその具体的な現場の体験から概念として抽出されたものでしかなかい」
「概念が人間社会では幅を利かせている」
「そう。それは悪いことではない。けれども概念が先行して体験を阻害するということが頻繁に起こります。
概念の先行──そのことが及ぼす影響は甚大です。端的には、〝生命的な体験の収奪〟を意味します」
「おおげさじゃない?」
「固有の体験が奪われると同時に〈世界〉との対話が消失して、
生命活動は外部にいるなんらかのエージェントに捧げられることになる。そんなことが起こります」

「ただ散歩することが歓びである、といった人生の楽しみ方があります」
「お年寄りの話?」
「老若男女を問いません。直立二足歩行は人間の最も基本的な世界体験の形式です」
「だから?」
「歩くことが楽しいと感じることは、そうした生命システムの作動そのものを感じることでもある」
「どういうことかな」
「広く運動という行為は、環境全体と連れ立ってみずからを組織化する生命固有の営みです。
つまり、歩くという動作は、世界とのコミュニケーションをつうじて立ち上がっていく。
光と影、重力、気圧、風、地面の起伏、流れる雲、川沿いに咲く名前を知らない草花、……など、
このコミュニケーションにはそうした自然を構成するさまざまな存在が参加している。
あるいはその日の気分や体調など、無数の参加者との間でいわば〝対話の祝祭〟が展開している。
もちろんそうしたことが意識の水面に浮上することはない。
けれども微細にみれば、そこには〈世界〉そのものが参加していることがわかります」

「まあね」
「さらに歩くということには、かつて・いま・これからという、
その人がたどりつつあるそれぞれの固有の歴史性も畳み込まれている」
「どういうこと」
「歩くという運動の始点と終点という完結した一定の行為としての散歩ではなく、
散歩を一部に含みそこに至りそこから展開していく人生という時間の流れ、その人の歴史の一コマが生きられている。
生命活動の全シークエンスは、本当は一部を切り取って記述するわけにはいかない。
なぜなら、すべてのことはすべてのこととつながっているからということができます。
世界は操作の対象としての客体ではなく、生命みずからを一部に含む住処であり、
世界から切り離された独立した散歩という行為はどこにも存在しないということです。、
すべてがつながる環境のなかで、たとえば歩くという行為は、
みずからの存在の固有の形式を住処との関係においてそのつど発見的に組織化しつづけるということを意味します」


「けれどもそれを意識しつづけることは不可能だから、
便宜的にあるいは機能的に意識という特殊な演算装置に合わせて〝散歩〟という行為を切り取って説明する。
この概念化して説明するという要請は、ことばを交換しあう人間の共同性において生まれます。
しかしそのことがしばしば固有の生命活動を、共同的な一般像という超越的概念への還元をもたらしてしまう」

「さらにいえば、二足歩行には類的進化というさらに上位のプロセスも刻印されている」
「ずいぶんすごい話だね」
「身体の内部に目を向けると、骨格・筋肉・呼吸・心拍・血圧・ホルモン分泌・エネルギー代謝など、
さまざまな身体部分や機能の組み合わせが、それぞれの強度と関係においてめまぐるしく調整されつづけている」
「まだ云いますか」
「そうした無数の手がかりに身体をあずけながら、統合的に〝歩く〟という行為を創り出していく。
歩行という運動は、そうした無数の参加者=変数をまとめて包括する複雑なコミュニケーションの結節であり、
人間という存在が〈世界〉とのコミュニケーションから出力する一つの応答のかたちであり、
つねにみずからの最適状態をめがけるシステム的な作動ともいえます」

「歩きたいから歩くだけだけどね」
「そう。けれど道を歩けば棒に当たる。出会いは未規定であり、歩くたびに何らかの発見もある。
気分も変われば、歩く目的や意味もさまざまに変化していく。
身体の内外をまたく無数の変数との対話空間はつねに変動しながら展開していく。
歩くことはその中で一回的な統合をめがけそのつど発見的にみずからと環境の関係を編み上げていく、いわば〝創発の祝祭〟ともいえます」

「そんなこと言い出したら、生きること全部がそういうことになる」
「まさしく。生きるとは世界との対話を介して自らを組織化する行為にほかなりません」
「一体何が言いたいのかな。そんなこといちいち意識していたら息が詰まるでしょ」
「もちろん意識しませんし、その全貌を意識に収めることもできない」
「そんなこと意識しないのが生きることじゃないの」
「はい。そして意識がそこに直接関与しないことで生きることの自然性が保たれます」
「逆に意識は余計な存在と言いたいわけ?」
「いいえ。ただ、意識が全貌を捉えられない出来事の進行に意識が乗っていることを自覚することは、
そうした不可知的な営みに対して人をして謙虚にさせるように思います。
この謙虚さにおいて生きることが、みずからそして他者の体験を大事にして生きるカギでもあるかもしれない。
概念あるいは一般像の先行において失われる〝体験〟に寄り添いながら、創発する祝祭の一回性を味わう、それが〝散歩を楽しむ〟ということかもしれない。
そしてその自覚は、生の享受において決定的に重要な意味をもつように思います」

 

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「〝合意形成〟とマトリクス」2013年6月11日

2014-12-22 | Weblog


口をきかない(対立状態の)二人がいる──
 
二人の間には〝口をきかないという合意〟が成立している。
コトバを交換する「意味付与-意味解釈」という循環の回路において、
「コミュニケートしない」というコミュニケーションが継続中、ともいえる。
 
二人のコミュニケーションは、相互のメッセージの交換のループを描いたすえに、
「口をきかない」という一つ合意点(相互了解)に達する──
このプロセスは相互に抱かれた相手の言語的理解への信頼に担われている、ともいえる。
 
投げたメッセージの意味をデコードできる能力をもつ相手であること、
たとえ「意味付与」=「意味解釈」でなくても言語を交換しうる回路が開かれているということ。

そのことへの相互的な「信」がたしかに存在する──、
という一人の心に内在する「信」がコミュケートする行為のマトリクスとして機能している。
 
口をきかないという合意点は、コミュニケーションのマトリクスが存在するかぎり、
そして対立の合意点においてバイオレンスが介在して、
どちらかあるいは両者が存在を破壊され尽くされないかぎり、
さらに別の合意点に向かって動いていく潜在的可能性を秘めている。

──そのことを告げるなにか、基底的なドライブがたしかに存在している。
 
この潜在的可能性を手放さないということにおいて、
同じことだが、このマトリクスを前提に新たな「合意点」を探索する意思において、
コミュニケーションは一定の礼節と作法を求められる。

 

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「歩く」

2014-12-20 | Weblog


「結論的にいうと、頭でっかちの生命は死にます」
 「頭でっかち。なぜ?」
 「頭でっかちは、傲岸・不遜・自我肥大・誇大妄想・自信過剰とも言います」
 「どういうこと?」
 「行為に〝行為の演算〟は先行できないのです」
 「逆に、演算してから歩くとどうなるの?」
 「外部世界からの入力が途絶えます」
 「環境と切り離される?」
 「イエス。環境から孤立すると、歩くという行為全体が破壊されます」
 「なぜ?」
 「ムカデの歩く行為は、ムカデだけで成り立つわけではありません」
 「〝歩行〟という抽象的な行為は存在しない?」
 「しかり。ムカデの歩行は、森や草むらや人家や道路といった具体的な環境を離れて存在しません」
 「環境ですか」
「一匹ごとに、それぞれのムカデのそれぞれの現実、つまり生きられている場所はすべて異なる。
すべてが異なる現実の中に、すべてが異なるムカデの歩行がある。
これを一般的な概念としての〝ムカデの歩行〟に解消しつくすことはできません。
環境とのそのつどの固有のインタラクティブな動的関係が、歩くという行為です」
 「情報がそのなかを駆けめぐっている?」
 「そう。情報を生成する環境との対話がめまぐるしく両者の間を駆け回っています」
 「ムカデと環境が一つになって」
 「歩くという行為は、環境と一緒に情報のサーキットを形成して生きるという生命固有の営みです」
 「生きることぜんぶに関わる?」
「まさしく。きわめて重要なポイントです。
つまり、〝歩くという一般像〟はその具体的な現場の体験から派生する概念でしかなかい。

 「なんとなくわかる気もするけど」
 「生命活動は、つねにすでに計算に先立って動いているという点が重要です」
 「ちょっとわかりにくいかな」
 「計算しようという動機は、生きられる現実から生成します」
 「後づけでしかない?」
 「ええ。生きる現実のなかで、なぜか説明したいという動機が生まれる」
 「なるほど」
 「しかしそれは事後のことでしかない。この順番は普遍的です」
 「生きることが最初で、説明はその後」
 「どんな精緻な説明も、生きられる体験を源にしている。そして説明は結果に先行することはできない」
 「それが原理的ということ?」
 「人間は結果の説明でしかないことを行為の動機に適用しますが、一種の倒錯ともいえます」
「じゃあ、考えるなって?」
「いいえ。よりよく考える方法があります」
「どんな?」

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「ラフスケッチ」

2014-12-15 | Weblog


〈世界〉についてのラフなスケッチを、
そのまま世界の姿だと思い込むことがある。
 
ラフなスケッチは認知の推進力を生むと同時に、
過誤の種をみずから育み、〈世界〉から遠ざかっていく──そんなことが頻発する。
 
「サタンがやさしい心を知らないと思ってはいけません」
 
悪しき心だけで出来た純度100%のサタンは、
〈世界〉への着生の手だてを失いそのまま気化してしまうことになる。
 
善き心を知ることで、善き心を裏切り、善き心を利用することにおいて、
サタンはサタンであることとの属性を十全に発揮することができる。
 
〈世界〉は画然とわけられた異質な分子間の住み分け空間ではなく、
相互に居住の位相が重なりあう複雑なハイブリッドの生成場として存在する。

このハイブリッドの生成場から「サタン」も「善」も立ち上がる。
 
同一分子が均一に分布する集合空間が転移のダイナミズムへ向かうとき、
──すなわちそれは〈世界〉のダイナミズムそのものの動向であるが──、
熱平衡的な安定性を「対称性の破れ」へ導き、
〈世界〉のダイナミズムを触発する〝トランザクションの位相〟が必ず存在する。
 
悪は悪の構成素だけから組織化され悪をなす、あるいは、
善を知れば、善に立場を移せば善をまっとうすることができる――、
という〈世界〉のラフなスケッチを前提に思考を回しても、
サタンがその全貌を現わすことも、善が善として機能することもない。
 
全体から切り取られた部分への凝視によってシステムの作動原理、
すなわち〈世界〉が回る関係のネットワーク=トランザクションの群発空間を射止めることはできない。
 
部分だけを点描する思考のカーソルは、関係のダイナミズムを触発し、
駆動しつづける「対称性の破れ」の連続的な生起を見逃してしまう。
 
〈世界〉のラフなスケッチへの過度の依存や信頼は、
探索の対象のみならず思考みずからの理解においても適用される。
 
かくして、〈世界〉は見失われ、現実はすれちがい、錯誤は拡大され、
不毛の思考と歴史の決算がなんども反復されていく──そんなことが頻発する。
 
世界の全貌は知り得ない。
全貌を知り得ないという知恵の自覚と覚悟において、知恵を行使すること――
 
不可視の〈世界〉の「全体性」へ向かう〝ただ一つの真の関心〟、
〝正常さへ復帰したいという欲望〟、その志向と知の構え──、
それは正しく〝原理の思考〟という方法の名でも呼ばれてきた。

 

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「新しい朝 -readiness- 」

2014-12-12 | Weblog

 
     カーテンを開ける音と一緒に
     朝の光がベッドルームを洗う

      「あっ、雨」

     
     魔法のつぶやきが響き
     まどろみが破られる

     
     眠り足りない
     待ち受けのフォームに

     
     メッセージが運ばれ
     やさしい朝のかたちが
      ……インフォームされる

      「おはよう」

     
     まぶたを開くより早く
     ぼくのこころは
     十二月の雨に濡れ

     
     いつのまにか
     新しい朝のフォームに変化している

     
      -readiness-
     

     いつも、いつのまにか
     準備は整えられ

   
     魔法の訪れを待ち望むように
     こころはいつも
     無形のフォームをまとい

     
     新しいメッセージにみちびかれ
     くちびるを重ねるように
     みずからを変化させていく

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「〈帝国〉の論理」

2014-12-10 | Weblog


「フィリップ・K・ディックという作家の言葉があります」
「はあ」
「──〈帝国〉と戦うことはその錯乱に感化されることである。これはパラドクスである──」
「どういうこと?」
「世界の区切り方を一元化して敵と味方に二分すると、それ以外の捉え方は排除され、みずから帝国化します。
たとえば、悪の帝国に対抗しようとするとき、善の帝国が樹立される」
「いけない?」
「正義、真理、一般に善として疑いのないように思えるもの、その扱い方には警戒や慎重さが必要です」
「疑いようのない善なのに?」
「〝善=絶対の真理〟とは、すべての帝国が例外なく掲げる絶対の超越概念といえます。
つまり、帝国の価値体系をささえるアンタッチャブルで修正不可能な絶対の真理として存在している。
ゆえに、それとは異なる別の帝国が掲げる〝善〟同士は調停しあうことができない。
みずから信じる正義の論理をどんなに精密に積み上げても、
別の場所では別の正義に基づく〝帝国〟がつくられ生きられている。
多種多様でありうる世界のあり方を考えると、このことは不可避です。
そして、それぞれの〝善〟には異なる〝善〟との間に調停をもたらす原理が先験的には内在しない」

「絶対正義を掲げる帝国が乱立して、みずからの正当性を競いあうわけか」
「〈帝国〉同士が出会って利害が衝突すれば、それぞれの正義を掲げた戦いがはじまる。
そうした惨劇を回避するには、それぞれが掲げる価値とは別の原理が要請されます」
「どんな?」
「あれかこれか、どちらが正しいのか――、こうした問題設定の仕方はかならず応答の形式を拘束します。
なぜでしょうか。あれかこれか、善か悪か、右か左かといった問題設定の中には、
みずからの〝善〟をカッコに入れて相互の主張をすり合わせる動機が最初から消去されている。
〈帝国〉という存在があり方が依って立つ〝絶対の真理〟がもたらす必然的な帰結といえます。
いいかえると、〈帝国〉にはみずからの陣地形成そのもののメカニズム、
その由来や根拠、真偽や正誤を問い直す契機が存在しない。
そのために両者が立ち上がる〝普遍的な岩盤〟を見いだすことができない」
「どうすればいいのさ」
「端的にいえば、〝交際するためには、まず槍から手を離さなければならない〟」
「槍から手を離せば、相手からやられてしまう」
「そう。結論的にいえば、〈帝国〉の内部に〈帝国〉そのものを再帰的に捉えるまなざしが生まれる必要がある。
〈帝国〉同士の対立が限りなく不毛であることに目覚めたまなざしともいえます。
そして、そうしたまなざしを第一にはメッセージとして発信する、そしてそれを受け取る存在がいる。
このメッセージの回路が〈帝国〉間に誕生すること、そのことが対立の構図を崩すための第一歩の原理でもある」
「むずかしいな」
「両者を調停するような別の原理をみちびくには条件があります。
すこし難しくいえば、一つには人間の思惟の限界領域を自覚すること。
そして、各帝国が樹立されるみなもと、人間がそれを求める欲望の本質を解き明かすこと。
異なる〝善=絶対の真理〟が立ち上がる根本的な原理の由来、理由、根拠を明らかにすること、
つまり、みずから信奉する〝善〟と同時に異なる〝善〟も含め、その由来、理由、根拠を相互に理解しあうこと。
これができなければ帝国同士の戦いは攻撃力を強化しあって殲滅戦に陥る以外にないでしょう」
          

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「オキュパイド・ランド」20141205

2014-12-05 | Weblog


わかるかい。この国は魂の占領軍が支配している。
 ボクもキミも魂をオキュパイされた悲しい国の住民だ。
 
占領軍の実体は存在しない。しかし、あらゆる魂に遍在する。
 中央の制御盤はないけれど、呪術的コマンドが心を捕捉する。
 
人びとの魂は発令されたはずのない戒厳命令に従うように、
 不安と不信と不寛容の警戒ラインを相互に向けて走らせている。
 
日々の暮らしは、警戒のまなざしと繰り返しのコードに制圧され、
 私空間も公空間も魂のモニタリングスポットが埋め尽くしている。
 
「みなさんそうしていらっしゃいます」
 
占領地一帯は、共感呪術が支配する部族集団の風情を帯びている。
 誰もがすることを誰もがする、という安堵の幻想が魂を占拠する。
 
システムは戦前のマジカルな動員システムと血統を同じくする。
 主人と下僕のコマンド連鎖が階層ブロックを積み上げていく。
 
70年前には、赤紙一枚、向う三軒両隣がこぞってバンザイ三唱して、
 数百万の若者を無間地獄の戦場へ送り出した動員実績を誇る。
 
粒よりの極悪人たちがサタンの心で国民を欺いたわけではない。
 すべては善き心と日々の精励の蝟集が一つの歴史的帰結を準備した。
 
同じ巨大なシステムが改訂版のリクルーティングシステムを回している。
 新たな世代がぞくぞくと、システムに魂を捧げるかのように、
 学びの共同体の教唆にしたがって占領コードをインストールしていく。
 
――だれかが仕組んだものでもなく
 ――だれかの犯罪が導いたものでもなく
 ――だれかとだれかの悪意や逸脱や計略が原因でもなく
 ――だれかとだれかの呪いやルサンチマンが持続しているのでもない
 
――みれば溢れる善男善女
 ――街は分別の四則演算と
 ――話せばわかる良識にむせかえり
 ――意を汲みあい
 ――知恵を絞りあい
 ――感情の股と股をこすり合わせながら
 ――加担することなく加担し
 ――悪意することなく悪意し
 ――共犯することなく共犯し
 
――いまここに
 ――進化のフロントラインは生きられているのであり
 ――だれか悪党を探し出してシラミ潰しに撲滅しよう!
 ――そんなスローガンはもう誰も信じない
 ――だれかが決めたシナリオがあるわけではなく
 ――だれかが望んだ状況に収斂していくわけでもない
 
 ――システムはただ回っている。
 ――回すために回されている。
 ――猛烈な回転速度で回っている。
 ――なにもかもが素通りしていく。
 ――現実は速やかに希釈され、新しい現実に入れ替わる。
 ――新しいコードがぞくぞくと名乗りを上げる。
 ――へえ、そんなこともあるんだ。
 ――はい、次どうぞ。
 ――感情や思考は一ヵ所に留まることができない。
 ――学習課題は次々に陳腐化していく。
 ――ノウハウの更新速度は追尾しきれない。
 ――課題は与えられ、与える人間にも与えられる。
 ――次の展開が行列を作って待っている。
 ――じゃあお先に失礼します。
 ――帰って宿題片付けなくちゃ。
 ――ちょっと待ってよ、じゃなかった、こっちも時間だ。
 ――さようなら。
 ――魂と魂は一度も出会うことなくすれちがう。
 ―ーバイバイを交わしあう日々だけがある。
 
――ところが行き着くべき未来はどこにもない。
 ――もはや定点はどこにも存在しない。
 ――帰還すべきふるさとも消えた。
 ――ゴールはどこにもないし、イメージもできない。
 ――人も感情も思考も環境も、ただ迅速にワープしつづける。
 ――無限のスパイラルだけが虚空を埋めていく。
 ――異常も日々つづけば、やがてそれが正常になる。
 ――なにはともあれ決済と査定の日は必ずやってくる。
 ――支払いと受取り、評価のルールは厳密に守られる。
 ――命を削りながら日々精励する人びとの背中には、
 ――くっきりとマーケット・プライスが貼り付けられ、
 ――次なる展開へのスタンバイがスタンバっていく。
 
悲しい国の住民は世代的任務を果たして死んでいき
 魂をオキュパイする強靭なコードだけが生きのびていく。

この愚かさの極み──それを支える鬼畜なるものがどこかにいるわけではない。
ほかならないぼくときみ、日々の精励においてみえざるコードにしたがっている、
一人ひとり以外にないというシンプルな事実だけがある。

 

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