「歩くという行為は、環境と一緒に情報のサーキットを形成して生きるという生命固有の営みです」
「生きることぜんぶに関わるといいたいわけ?」
「まさしく。きわめて重要なポイントです。
つまり、〝歩行という一般像〟はその具体的な現場の体験から概念として抽出されたものでしかなかい」
「概念が人間社会では幅を利かせている」
「そう。それは悪いことではない。けれども概念が先行して体験を阻害するということが頻繁に起こります。
概念の先行──そのことが及ぼす影響は甚大です。端的には、〝生命的な体験の収奪〟を意味します」
「おおげさじゃない?」
「固有の体験が奪われると同時に〈世界〉との対話が消失して、
生命活動は外部にいるなんらかのエージェントに捧げられることになる。そんなことが起こります」
「ただ散歩することが歓びである、といった人生の楽しみ方があります」
「お年寄りの話?」
「老若男女を問いません。直立二足歩行は人間の最も基本的な世界体験の形式です」
「だから?」
「歩くことが楽しいと感じることは、そうした生命システムの作動そのものを感じることでもある」
「どういうことかな」
「広く運動という行為は、環境全体と連れ立ってみずからを組織化する生命固有の営みです。
つまり、歩くという動作は、世界とのコミュニケーションをつうじて立ち上がっていく。
光と影、重力、気圧、風、地面の起伏、流れる雲、川沿いに咲く名前を知らない草花、……など、
このコミュニケーションにはそうした自然を構成するさまざまな存在が参加している。
あるいはその日の気分や体調など、無数の参加者との間でいわば〝対話の祝祭〟が展開している。
もちろんそうしたことが意識の水面に浮上することはない。
けれども微細にみれば、そこには〈世界〉そのものが参加していることがわかります」
「まあね」
「さらに歩くということには、かつて・いま・これからという、
その人がたどりつつあるそれぞれの固有の歴史性も畳み込まれている」
「どういうこと」
「歩くという運動の始点と終点という完結した一定の行為としての散歩ではなく、
散歩を一部に含みそこに至りそこから展開していく人生という時間の流れ、その人の歴史の一コマが生きられている。
生命活動の全シークエンスは、本当は一部を切り取って記述するわけにはいかない。
なぜなら、すべてのことはすべてのこととつながっているからということができます。
世界は操作の対象としての客体ではなく、生命みずからを一部に含む住処であり、
世界から切り離された独立した散歩という行為はどこにも存在しないということです。、
すべてがつながる環境のなかで、たとえば歩くという行為は、
みずからの存在の固有の形式を住処との関係においてそのつど発見的に組織化しつづけるということを意味します」
「けれどもそれを意識しつづけることは不可能だから、
便宜的にあるいは機能的に意識という特殊な演算装置に合わせて〝散歩〟という行為を切り取って説明する。
この概念化して説明するという要請は、ことばを交換しあう人間の共同性において生まれます。
しかしそのことがしばしば固有の生命活動を、共同的な一般像という超越的概念への還元をもたらしてしまう」
「さらにいえば、二足歩行には類的進化というさらに上位のプロセスも刻印されている」
「ずいぶんすごい話だね」
「身体の内部に目を向けると、骨格・筋肉・呼吸・心拍・血圧・ホルモン分泌・エネルギー代謝など、
さまざまな身体部分や機能の組み合わせが、それぞれの強度と関係においてめまぐるしく調整されつづけている」
「まだ云いますか」
「そうした無数の手がかりに身体をあずけながら、統合的に〝歩く〟という行為を創り出していく。
歩行という運動は、そうした無数の参加者=変数をまとめて包括する複雑なコミュニケーションの結節であり、
人間という存在が〈世界〉とのコミュニケーションから出力する一つの応答のかたちであり、
つねにみずからの最適状態をめがけるシステム的な作動ともいえます」
「歩きたいから歩くだけだけどね」
「そう。けれど道を歩けば棒に当たる。出会いは未規定であり、歩くたびに何らかの発見もある。
気分も変われば、歩く目的や意味もさまざまに変化していく。
身体の内外をまたく無数の変数との対話空間はつねに変動しながら展開していく。
歩くことはその中で一回的な統合をめがけそのつど発見的にみずからと環境の関係を編み上げていく、いわば〝創発の祝祭〟ともいえます」
「そんなこと言い出したら、生きること全部がそういうことになる」
「まさしく。生きるとは世界との対話を介して自らを組織化する行為にほかなりません」
「一体何が言いたいのかな。そんなこといちいち意識していたら息が詰まるでしょ」
「もちろん意識しませんし、その全貌を意識に収めることもできない」
「そんなこと意識しないのが生きることじゃないの」
「はい。そして意識がそこに直接関与しないことで生きることの自然性が保たれます」
「逆に意識は余計な存在と言いたいわけ?」
「いいえ。ただ、意識が全貌を捉えられない出来事の進行に意識が乗っていることを自覚することは、
そうした不可知的な営みに対して人をして謙虚にさせるように思います。
この謙虚さにおいて生きることが、みずからそして他者の体験を大事にして生きるカギでもあるかもしれない。
概念あるいは一般像の先行において失われる〝体験〟に寄り添いながら、創発する祝祭の一回性を味わう、それが〝散歩を楽しむ〟ということかもしれない。
そしてその自覚は、生の享受において決定的に重要な意味をもつように思います」