ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「ピンナップ」 20220228

2022-02-28 | Weblog

 

 

写真による切り取り 
視覚による切り取り 
言葉による切り取り
感情による切り取り 

すべての透明なリンクが外れ
〝このこれ〟として実体化した世界

ピンナップとしてのヒト、世界、
アウトラインが定まった静止画像

物象化された世界ではすべてのリンクが消えている
消すことで認識のフレームに収めることができる

世界の姿はこうなっている
存在の姿が確定した、ぼく、きみ、かれ、かのじょ

ことばを用いたピンナップの提示と交換
その連続的展開としての言語ゲーム

ゲームの記録、痕跡としてのことば
ピンナップの集合としての言語世界
一般意味 一般解の集合としての言語体系

大事なことがある

ピンナップ、ことば、一般意味、一般解
ゲームを動かすものをこれらのなかに収めることはできない

透明なリンクを取り戻してはじめて息を吹き返す

 

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「自然倫理」20220227

2022-02-27 | 参照

 

 


 ──竹田青嗣『言語的思考へ』から

  嘘は悪い、暴力は悪い、戦争は悪い等々といった自然倫理は、
  ある側面では人間生活上の普遍的な倫理性として意味をもつが、
  しかし、それはまた一般的な善意や同情の感情性として
  共同体的習俗の中に埋め込まれているものでもある。
  この自然倫理は、生活世界の中では基本的なものだが、
  社会関係や政治的関係では、思想化されることなくして
  共同体間の問題を超えていくことができない。
  したがって、「倫理」の問題の本質考察のためには、
  むしろこの「自然倫理」が検証し直されなくてはならないのである。

  社会の全体性から見れば、すべての人間が有徳な存在(=善)として
  生きるということは明らかにこの上ない社会の理想的目標であるが、
  しかし各人の実存のうちにはこの目標に向かう原理が存在しないのだ。

  さしあたりいえば、ここ(※ジャック・デリダ)で示されている国家=法=暴力=悪=非正当性
  といった直観的推論の根拠となっているのは、さきに見た素朴な「自然倫理」にすぎない。
  暴力は「悪」である、戦争は「悪」であるといった一般的な自然倫理は、
  人間社会における支配関係や暴力といった現在のところ不可避な理由をもつ現実性に、
  純粋かつ無垢な理想理念を端的にかつ二項対立的に対峙させるのだが、
  まさしくこのことでこの現実性の条件を適切につかみ出しこれを解除してゆく
  という課題を設定することができず、単なる理想要請主義として終始するほかないのである。
  
  「正しさ」における「信念対立」のアポリアは、自覚された倫理性の内的本質である。
  まさしくその理由で、内的な「倫理」は、このアポリアを克服する原理に向けて
  自己を外化し普遍化するという課題を通って、もう一度実存論的領域へ帰還して
  くるのでなくてはならない。そうでなければ、「倫理」の問題は、
  「善悪」の規準についての一般的な「判断」、嘘や自己中心性や暴力は「悪」である、  
  という「善悪」についての一般的表象や一般信念にとどまるほかはない。
  ここでは「倫理」が「倫理」であることの本質条件が欠けている。
  なぜならそこで「倫理」は、各人の生を実質的なかたちで、
  つまりその実存的自由の本質の中で動かすものとはならないからである。

  「倫理」は最終的に実存論的な思想として根拠づけられなければ、
  つまり各人の生のうちの自由の本質として生きるのでなければ、
  結局、単なる理想についての趣味判断の問題に終わるのである。

 

 

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「Backstage」20220226(20210313)

2022-02-26 | Weblog

                     蝉時雨/w-inds. @LIVE TOUR 2008 Seventh Ave. - YouTube

 

 


 Finally, the system will be capable of uniting with 
 other similar systems to make still larger wholes.

 そしてこのシステムは、類似したシステムと合体して、
 より大きな全体を形成することが可能である。

    ──ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳、2022年版

       *

呼吸し、摂取し、代謝し、感じ、思考し、関係する
一つにまとめると、欲望としての生

Backstage──
すべては内なる根源的作動に由来している

Backstageは火を灯すように
生きる理由と資源を与えるように
心の水面に世界を示し、心を走らせる

この根源的作動に心は手を差し入れ
直接的に関与、操作することはできない

疑いようのない世界の訪れ、情動の泡立ち
「いまここ」を示す始原的告知と触発

固有の色づき、固有の価値と意味の配列
世界と名づけられたランドスケープ

ここよりほかにない生の絶対的地平

いまここ、これをおいて、どこにもない
ただ、〝わたしにとって〟顕現する世界

だれかが親切に教えてくれる世界ではない

いちどかぎりの顕現において
みずからに生成する世界、消えてゆく世界

水面はいつも知と非知が溶けあってゆらいでいる
ゆらぎ、泡立ち、乱反射する光

そして、示された世界への完結を拒むように
光はべつの光にリンクを伸ばし、交わり
〝関係〟という可動域の拡張をめがけていく

ことば──光と光を結ぶ関係子
世界と世界を混ぜあわせる〝関係材〟としてのことば

心と心は合流し、交わり
世界をことばに変換し、結びあわせ、混ぜあわせる

立ち上がる第三のランドスケープ
創成する新たな世界、第三領域

     *

半身において固有の世界を生きながら
半身において第三領域を生きる

生成する世界の芽を宿す存在として
覚えておくべきことがある

生成の芽を決して摘み取らないように
心を走らせるちからの源を涸らさないように

世界の姿を確定すると生成はストップする、この原理について

 

 

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「中洲の夜」20220225

2022-02-25 | Weblog

 

 


そうありたいと思うことはある
それがひどく難しいことはわかっている
そして、それがなければ救われないこともわかっている

本質的な思考は礼節に満ちている
命令や要請や義務や当為がきれいに消えているからだろう
より正確にいえば、自由と必然が交わる生の可能性を主題に据えている
それはゲバルトの成分を抜き取るように進んでいく

そのための原則が一つある──「物語に頼らない」

     ***


「世界はおのれの記述の通りであれかし」

世界を記述する心は早くピリオドを打ちたいと願う
あまりにも異なる記述にさらされて生きるのは疲れる、辛すぎる
世界記述の決定項、確定項を求める心は友を求める

「わかるか。わかるよな」
「うん。わかるわかる、わかりすぎるほどわかる」
「なんていいやつなんだ」

焼酎が売れる。

「結局、人生は×▽*※◇である」

能書きを垂れてから動く、動いてから能書きを垂れる
垂れ流しの心やさしい野郎どもが酌み交わしながら
それがなければ生きて行けない固有の物語を紡いでいる

きょうも泣き虫たちが焼酎と物語を喰らっていた
居酒屋で腐るほど見た、カウンターの内側で皿洗いしながら

 

 

 

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「結節点」 20220224

2022-02-24 | Weblog

 

 

すれちがうまま見送り、遠ざかる
はかり知れない展開のゆくえ

視覚に映し出すことができない面影
生の波形に表示されない透明な瞬き

孤独な光の明滅
哀のシグナル

たった一つだけの結節点
はかり知れなさが交わる地点でシグナルを交換する

 

 

 

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「信念対立」20220224

2022-02-24 | Weblog

 

 

 われわれの世界に現われているさまざまな信念対立、
 宗教主義、思想信条、道徳的、政治的諸理念などの対立は、
 思想がその妥当性、正当性、普遍性の根拠をどこにも見出しえないことから現れれている。
                       (竹田青嗣『欲望論』第一巻、29)


いいかえると、それぞれの思想的な真理性、普遍性についての主張を根拠づけ支えるのは、
ただ自己の確信の意識とその共同性(ローカルな信念共同体)だけであって、
みずからとみずからが帰属する信念の共同性をいったんエポケーしたうえで、
信念の多様性多数性をブリッジ可能にする共通了解創出へ向かう意志の不在、
あるいは、意志を糾合する集合的位相の不在を意味する。

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「バックパス」20220223

2022-02-23 | Weblog

 

 

とっつぁんになるなよ(なるわけないか)

一つだけ注意(蛇足かもしれない)
世界の姿を確定すると自分の姿が確定される
そんなことがある、すると
なだれ式に、すべての関係がバインドされていく

決めつけられるまえに決めつける
それは決めつけられることと同じになる

記述を確定するちからが世界を貧しく蝕んでいる

潔さのパラドクスに呑み込まれないように
覚悟を決めることと世界の姿を確定することはちがっている

世界を耕し、豊饒に、享受したいと願うなら

本質的な変化の起点、意味と価値が生成する原郷
最初に共生すべき相手、「おのれ」を柔らかくキープしよう

 

 

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「夜行列車」2022022

2022-02-22 | Weblog

 

 

深夜の駅で二つの列車が偶然のように隣り合う
外は音もなく深い闇に溶けている
視線を感じて見ると窓ごしに女が顔がある

どんな意味も無意味も構成しない
ただ視線だけが交わり
交わったまま逸らすことができない

かき消えていく瞬きの時間
女のまなざしが突き刺さったまま列車が動きだす

たったそれだけのことに心が引き裂かれている

 

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「拡大教室」 2020222

2022-02-22 | Weblog

 

 

制圧の銃弾が心臓を射抜く
 
「ちがうだろ」

〝正解〟の鎧で身を固め
黒板の前に立った男の声がする

「教えてやろう」

一つの視線、一つのスコープに収めるように
かたちを確定するように視線が動く

姿、意志、感情、歩み、存在まるごと
ソレ、アレ、コレとして記述の確定へ向かうものがいる

「それでいい」

しばしば懐柔の視線を伴って
ときに威嚇の表情を貼り付けて
つねに全体価値の順守を迫るように

光源は向こう側に置かれ
おのれの姿が照らし出される

まなざしは閉じられ
照らし出されるまま
照らし返せないまま
外の視線とスコープに丸ごと収められる

個の価値下落、価値剥奪、主語の外部化
イニシエーションとしての学校

教師と生徒、エージェントとクライアント

知獲得のプロトタイプ、知の位階制
心的なスタンダードとして
生涯にわたる関係構造が埋め込まれていく

主語、一人称が消えていく世界
主語の代行が全域化する拡大教室

消えた主語の反乱、錯乱を必然化する
ルサンチマンの累積
荒廃と自己崩壊の種をみずから胚胎する世界

拡大教室に決定的に欠落しているもの──
主語が主語として生き、遊ぶフリーハンド
配慮を外したフリースペース

 

 

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「工学部建築学科さん江、駄文、21才」

2022-02-21 | Weblog

 

 

大学生には時間が溢れている。
そこには当然、退屈という悪魔が存在しているわけです。
この悪魔は非常に勤勉に僕らの生活のそこここに姿を現わして
ひどく陰湿な感情を知らしめるのですが、
そこで僕ら自身の身の振り方が問題となってくることも、
これまた当然の話でしょう。
おそらく僕らはそこに大いに自分自身の創造力
(あるいは想像力)というものが試されるのを見るに違いありません。
各自のオリジナルな身の振り方の一つの方法としては、
まずそこで僕らは大いに意識的に、日常の企画を立てて
それに従って大いに切磋琢磨するということがあります。
また、その逆に、退屈という悪魔の訪問を潔く甘受して、
それを熟読玩味するといったこともありましょう。
また一つの手段としては、この二つを併用して、
生活に変化をもたせて、少しでも彩りを添える
といったシャレたものもあります。
いずれにせよ、僕らはその手段の責を負うことになるのですが、
社会の中の大学生としての独自性とは一体何ぞやと問えば、
単に僕らは若いとか、秘められた可能性にあふれているとか、
コンパがあるといった、およそみもふたもない定義に甘んじてよいはずがありません。
これは僕の勝手な考えですが、大学はそこに何か社会の規範とかモラルにおいて、
理想といおうか、そんなもののミニチュアをここに実現すること
(あるいは、しようとすること)で具体的に社会に提示する。
その存在の意味もあるのではなかろうかと思うのです。
その自由の雰囲気をつくっていくことで単なる社会の一構成部分
という味気ない役割から抜け出せるのではなかろうか。
そして結局、大学生の身の振り方もそこのところで明らかになってくるのでは
なかろうかと、まあ、一人空想するわけです。

 

 

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「ブランク」20220220 (20211024)

2022-02-20 | Weblog

 

 


「類的歴史の労作」(マルクス)としての知覚・感覚・感情・思考
個体発生、系統発生、獲得形質、史的展開、変異、進化、構造、原理

       *

「世界」を記述の系に変換、転位して理解のポッケに収める
世界をマップして、絵を描き、みずからをそこに定位する

この展開に先行して現象していることがある
あらゆる記述に先行して、はじめに世界との出会いがある

たとえば、世界を「涙の谷」(マルクス)として捉えるまなざし

「私」と「世界」との出会い
この出会いの場面から一切が開始される

マルクスを走らせ、だれかを走らせ、新たな記述へ向かわせる
ひとりひとりを走らせる基底の作動がある

触発、衝迫、発火、誘因、無意識、第一動者、欲動──
さまざまに知のことばが語る内なる作動
世界記述の系を新たな展開へ向かわせる原的作動がある

記述のスペースはつねに開かれ
記述のスペースを拡張するように動ていく

未記述の本源的ブランク
完結されることのないフリースペース

 人間は生きているかぎりは自分がいまだ完結していないこと、
 いまだ自分の最後の言葉をいいおわっていないことを
 生の糧としているのである。
   (バフチン、桑野隆『生きることとしてのダイアローグ』P15/16)

世界記述としての自己記述
自己記述としての世界記述

ふたつのことを一つとして記述は展開する

記述──その視線はつねに〝関係〟をめぐっている
他者、世界。そして、すべての起点にはつねに「自己」がいる

いっさいを記述に収めようと動きながら記述は必ずループする
ループする全体は未記述のブランクをめがけ
自己に回帰しながら記述は無限に多重化していく

このループにおいて世界との出会いは更新され
描かれた絵も定位された自己も更新されつづけていく

記述する腕はただ記述する対象に向かうだけではなく
記述と記述を重ね合わせる多重記述の位相をめがけ
新たな記述対象を創発するように動いていく

この無限性への視線を手放さないでいるとき
つぎつぎに新たな了解点、納得点をめがけるように
記述の確定をしりぞけるように動いている記述の意志が見える

この記述のサーキットが光度を増すとき
巨大な未記述の領域、〝ブランク〟に照らされている

固有の歴史的来歴をもつボディと感受性には、つねに
新たな記述へブーストするフリースペースが同伴している

 

 

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「3歳」 20220219

2022-02-19 | Weblog

 

 

「おとうさん、なんで雨は上から降るの?」

世界との接続の仕方は全然定まっていない
理解のポッケはスキマだらけ
問いはつぎつぎに湧き出てくる
スキマを埋めたいという意志に満ちている

自明性に埋まった世界とはちがう世界
記述に汚れていない世界がそこにある

「下から降るとズボンが濡れちゃうからかな」

問いが生まれる場所に帰還するように
記述に汚れた場所からことばを選んでみる

 

 

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「コンテクスト」20220218

2022-02-18 | Weblog

 

 


関係意識、関係感情が溶けた関係のコンテクスト

  Je t'aime.

恋のあけそめにおいて
ことばは価値の極相を帯びて固有の意味を煌めかせる

恋のたそがれにおいて
ことばは枯れて痕跡としてことばの海に溶けていく

一つのコンテクストがほどかれ
新たなコンテクストへ移行するとき
コンテクストを構成することばたちは
一斉に意味を変化させていく

コンテクストを結ばれたことばの意味の生成と消失、あるいは相転移
このインターバルは、一夜でも、一瞬でも、永遠でもありうる

コンテクストの変化に気づくことができないとき
変化したコンテクストを受けいれることができないとき
心はみずからの一貫性を保つこと難しくなって
新たなコンテクストを見出すまでのあいだ
さまざまなジレンマ、齟齬、苦悩、混乱を生きることになる

 

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「自由、人権」20220217

2022-02-17 | Weblog

 

 

A man walking is never in balance 
but always correcting for imbalance.(Bateson)

「均衡状態ではなく不均衡状態の連続的修正としての歩行」

     *

歩くことと生きること──この二つは直喩で結ぶことができる。

実存──ゆらぎ、変化し、つねに記述の確定を許さない生の展開本質。
「自由」「人権」といった理念の基底には、この本質洞察が埋め込まれている。

そして、この洞察から理念化へ動機づけたのが、展開本質を脅かすもの、
生の姿を確定して利用しようとするもの一切への対抗、と言える。

 

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「返信」20220216

2022-02-16 | Weblog

 

 

おつかれさま(^-^)v

そのつど、適切に対応する
くらいのスタンスが疲れなくていいかも、と思いました
今回の田代さんのように(^^)v

前提を固定すると、適切に情報が抽出できなくなる
そんなことかな、科学者のマインド😃

取り急ぎ、チャオ

p.s.
以前に話した「とっつぁん理論」の話と通じます
世の中に溢れているものです、右も左も関係なく
世界中に、といえるかもしれない
こいつがガンです。科学の思考も蝕まれている
だれがというわけではなく、思考のパターンね

年齢性別思想信条信仰学識学歴、ぜんぶチャラのメタ論理ね

 

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