https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8
二つの記述が担う情報が、別々に集められたものである場合、
あるいは別々の記号で表されている場合、
原則的にそこに―比喩的な意味で―何らかの"奥行き"が加わると言ってよい。
(グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』佐藤訳)
端的な知覚や情動、欲望の訪れそのものについて、わたしは疑う理由をもたない。
疑う理由は、自分とは異なる主観との出会いを契機としてやってくる。
たとえば同じ料理を、わたしはオイシイと言い、きみはマズイと言い、だれかはマアマアと言う。
同じことがらの経験の「意味」について交換しあう場面において、
わたしは自分の味覚についてはじめて対象化する契機に出会うことになる。
このとき経験のモードになんらかの変化が起きている。
経験の直接性は間接化され、絶対性は相対化される、というように。
譬えると、われわれがそれぞれの経験を交換しようとする場面で、
それぞれの経験の意味は自明性から少し浮き上がった場所に移動する。
このとき単独の経験の位相とは異なる「なにか」、別の位相が予期されている。
この単独の経験の位相とは異なる位相(という信憑)は、
個人史の初期のどこかの段階からか、けっして引き剝がせないものになっていく。