ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「セルフ・プレゼンテーション」20180331

2018-03-31 | Weblog


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欲望そのものを対象化して取り出すことはできない。
それ自体が基底であり、原因であるものの裏側に回り込むことはできない。

しかし欲望本体ではなく、その現われ、痕跡を追尾する手がかりはある。
それは、本体の発火という現象、「感情、feel」の作動において告げられている。

「feel」が動くとき、そこにある種のプレゼンテーションが起きている、ともいえる。
〝それがまさしく実存の核心にあるもの=欲望の一端である〟ということ、
そのことを告げ知らせるメッセージとして「感情、feel」を受けとめ、モニターすることはできる。

すべては「感情、feel」に媒介されてみずからに告げられ、
思考や表現という日々のふるまいへ接続される。

世界との関係式を告げるセルフレポートとしての情動の作動。
「感情、feel」は自己再帰的に遷移しつづけている。

ここには思考や表現というアウトプットが速やかにインプットされるという、
「感情、feel」を回転軸としながら展開していく循環の構造がある。

この接続関係に「エポケー」というスキマを開くことはできる。
「feel」と思考・行為との直列関係に「エポケー」をはさむことであらわになることがある。

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「純金の理念」20180328

2018-03-28 | Weblog

     https://www.youtube.com/watch?v=8VE_dP90V84


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純金の理念、クリスタルな無謬命題──自明性の絶対地平

おのれの「価値」(善・正義・真実)に目がくらむと、
必然的に、見えなくなるものがある。

クリスタルな逆光に視覚が呑みこまれていく。

おのれ、おのれの仲間の「善性」という自意識は、しばしば、不可避的に、
おのれ、おのれの仲間に向けられる他者のまなざしを見えなくする。

ひろく、みずからの視覚の拡張を望むなら、
あまねく、他者のまなざしの本質をとらえることを願うなら、
そこで、自意識はいったん解体しなければならない。

他者のまなざしは、千とおり、万とおりのあり方で存在している。
それだけではない。千とおり、万とおりの価値の多数性と多様性が存在している。

おのれの「善性」というおのれを見るおのれのまなざしに、
千とおり、万とおりの他者のまなざしを収れんさせることはできない。

同じく、一つの価値にすべての価値を収れんさせることはできない。
価値(善・正義・真実)を一つに収れんさせたければ、
歴史のネジを巻き戻して「神権国家」をめざすほかはない。

神を待ち望む──あるいは代替可能な超越項、決済項を渇仰する。
そのタネはいまもいたるところで、あらゆるかたちで蒔かれている。

  *

しかし、絶対解、最終解は存在しない。
たとえば、音楽の本質はそのことを教えてくれる。

メロディが過剰なとき、メロディが過少のとき、
あらたな音楽の生成のトリガーが引かれる。つねに。

  *

 

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「強化のメカニズム」(参)

2018-03-27 | 参照

ベイトソン「〈自己〉のサイバネティックス──アルコール依存症の理論」『精神の生態学』佐藤訳──


軍事競争、隣家同士の見栄っ張り、スポーツ競技、ボクシング・マッチ等々は、
一般に見られる対称的な関係の数々である。
支配-服従、サディズム-マゾヒズム、養育-依存、見る-見せる等々は、
一般に見られる相補的な関係のかずかずである。(*教え-教えられる)

これらの病的発展性を秘めた一方方向的変化が現れる原因は、
対称型のシステムにも相補型のシステムにも、
冷却(修正)機能を欠いた、正のフィードバック機構が組み込まれている点にある。

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「文明の審級」20180326

2018-03-26 | Weblog

 
――「情報空間の特性」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、ユニラテラルであり、クローズドであり、エクスクリューシブであり、収束的である。
 「高貴な文明」は、インタラクティブであり、オープンであり、インクリューシブであり、展開的である。

――「子どもの教育」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、規律・協調・集団・標準・位階、総じて線形的な価値コードに準じて、
  人権にまさる愛国と忠君、自己犠牲を子どもの心に書き込むことができると妄想する。
 「高貴な文明」は、歴史が成就したすべての悲劇と錯誤と不実の由来を悲しみと共に学び、
  子どもの非線形的で自律的成長に最大の敬意を払い、愚かさの感染を防圧する知恵の果実を蓄える。

――「代表者のクオリティ」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」には、自由と秩序がゼロサムのゲームだと考えるトンマたちと、
  サムライのつもりで吠えるだけの誰かの番犬でしかないなりすましが溢れる。
 「高貴な文明」には、未規定な現実の遷移に開かれた、終わりなき探求者たる智者の群れがいる。
  自由と調和が一つに結ばれる、未だ顕現せざる包括的ゲシュタルトの探求がその主題を構成する。

――「エージェント(権威者・専門家)との関係特性」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、エージェントに過剰に依存し、学ばないことを学び、生命の簒奪と毀損を放置する。
  単体として作動できないメンバーたちは、絶えず接続先を探してエージェントの宇宙をさ迷い続ける。
 「高貴な文明」には、無数の思考が織りなすギャラクシー上に、新たな星座が奇跡のように出現していく。
  エージェントは出現した星座を最初に指さす人として存在し、メンバーたちはその役割を相互に交換しあう。

――「外交の手法」から、文明の審級を知ることができる。

 「愚かな文明」は、外なるものへの敵対と罵倒にブルータルな血をたぎらせ、寛容なき滅びの美学に自滅していく。
  世界の区分線はコンクリートに固定され、神話化され、「価値/非価値」をめぐる確定記述へ思考を収束させる。
 「高貴な文明」は、すべての魂に寛ぐスペースを誂え、エレガントな〝もてなしの作法〟であらゆるゲストを迎える。
  もてなしの作法は、エコメンタルなコスモスのゆらぎに共振しながら、みずからと世界の区切りを更新していく。

 「愚かな文明」は、実線で太く描かれた漫画の吹出しに似た、特殊な公理系の宇宙を至上化してノイズを排除する。
 「高貴な文明」は、メンバー一人一人の内部に、公理系の外とつながる〝第四次〟のアンサンブルの宇宙を夢見ている。

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「Another Galaxy」30180325

2018-03-25 | Weblog

                https://www.youtube.com/watch?v=bq126uwwOBo


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不可視の未来的均衡点、新たな了解の地平をめがけるように、
同期と非同期の切換スイッチが連続する。

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宥和、敵対、連結、分割、包摂、捨象、切断、転位。
不易の志向性が未決のオペレーションを未決のまま駆動させる。

インターフェイスの界面はあらゆる対象に開かれているが、
運動を組織する選択契機は持続可能性に条件付けらている。

内なる環境と外なる環境の同時モニタリングを起点に、
フィードバックとフィードフォワードが繰り出される。

親和と異和のスペクトルを微細に分光しながら、
システムは〈世界〉を分節することで分節されていく。

変化と差異へのまなざしのフォーカスにおいて、
システムは組織化の契機を獲得していく。

運動と構造の同時遷移を導く未知の均衡点への誘いが、
新たなコマンドを次々に走らせている。

要素群の新たな配列を導くイメージの生成と、
運動のシークエンスを紡ぎつづける再帰的物語の生成。

流動に抗うには定常性がキープされなければならない。
定常性をキープするためには変化しなければならない。

見えざる均衡点と了解点は永遠に先送りされ、
先送りされることで運動エネルギーが解発されていく。

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「インターミッション3」20180323

2018-03-23 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=8WupsWuMHUg

             https://www.youtube.com/watch?v=dzIEaNRoj3k

             https://www.youtube.com/watch?v=51MagA8o7Ow

             https://www.youtube.com/watch?v=nRbVymAGReU


   *

あれはあれ、これはこれ、それはそれ──
世界が確定された記述に覆われてしまわないないように、
インターミッションがそこに用意される。

すこしでも急ぐことでソレが消えてしまうかのように、
ちいさな休止符が日常の楽譜に書き込まれ、
お互いに魂に息つぎするスペースが与えられる。

   *


 

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「情動生起──〈世界〉の生成」20180321

2018-03-21 | Weblog


「このこれ」(フッサール)──すべての起点をつくる原的所与としての〈世界〉の現われ。

〈世界〉はただ個的表象としてだけ像を結ぶ。
個以外に、世界像を描く第二、第三の主体はどこにも存在しない。

「個にとって」──このことのほかに〈世界〉は現われる方法を知らず、
このことのほかに〈世界〉という表象は存在しないということの原理性。

「個にとって」のみ〈世界〉は生成し、「個にとって」のみ〈世界〉は消失する。

個(主観)は個(主観)の外に出ることができない。
この原理的事実から視線を外さないことで見えてくるものがある。

最初に描かれた世界像が行動(企投)とともに修正されることはある。
この修正は、ある時点における現われと企投の帰結との差異の認知によって導かれる。

世界の現われの変化、世界像が修正される契機は、
〈世界〉の内なる現われの継起的展開においてのみ現象し、
内的に生成する「時制」(記憶・想起・予期)にになわれている。

「だれかにとって」──このことも個にとっての現われ以外には告げられない。
しかし他者に出会い、交わるとき、個は「かまえ」を変化させる。

個はみずからに〝外部〟(という理念化された世界)を与えるように「かまえ」を変化させる。
いわば個と個とつなぐ「接続子」(関係項)というべき外部=客観世界を自己内に生成する。

ここからさらに次なる展開が開始されていく、すなわち、
「万人にとって」──個の体験をこえた普遍的な意味本質をもつ理念の自己内生成。

    *

理念化はおくれてやってくる、つねに、すでに〈世界〉という経験は成就しつづけている。

しかし、つねに先立つものとおくれてくるものという先行関係が、
人間的「時制」においては逆転することがある。

外部化された「理念」が意識生を規定する、先行的な超越項として位置づけられる。
そういうことがしばしば起こり、ある意味で、常態化しているともいえる。

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「G」の生成 20180320

2018-03-20 | Weblog


集団(チーム・クラス・国家)別対抗ゲームという世界観の内側で、
全体主義的チーム編成と指導理論が、左右問わず、いまだに幅を利かせている。

ひとつのゲームにはゲーム固有のゲインがありロストがあり、
ゲインの最大化をめざすチーム綱領と戦略、フォーメーションがあり、
そこにチーム全体を統制する「G」の圏域が生成する。

どんなクラス・党派の様態を問わず、対抗関係の意識を前提に圏域が構成され回るとき、
「G」の圏外に出られないプレーヤーたちが「G」を支えるというトートロジカルな循環が生まれる。

さまざまな「G」空間をつらぬく特性も存在する。
没我、すなわち「自分を勘定に入れずに」という美徳、倫理的共通特性。

そこには、没我を他者に説くこと、それに唱和する共感呪術的快感と高揚、
自我という持て余す存在とのかかわりを脱するクリスタルな境位がある。

     *

生命的作動を構成するそれぞれの物質的要素=メンバーは、
物理化学的な原理にしたがう存在であるが、
それらが集まって一つの生命(クラス)を構成するとき、
物理化学的な原理とは別の上位に位置する別の原理(クラスの原理)に従っている。

さまざまなメンバーからなるクラスの原理は、
クラスというまとまりが生きられるとき、
メンバー個人を動かす原理にとって上位の原理であり、
メンバーはこの上位の原理による制御を受ける。

このとき各メンバーはクラスが調和的に動くかぎりにおいて、
かならずしも「不-自由」ではない。
しかし統制的原理はかならずさらに上位の原理を創発する潜在的可能性とともにある。

この可能性が封じられるとき全体は物質的特性を帯びてくる。

 

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「閉軌道」 20180318

2018-03-18 | Weblog

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「ぶつかりあういくつかの存在が、複雑な学習やコミュニケーションをなしうる有機体である場合には、
それらのシステム全体は、均一状態か体系的差異化に向けていずれにしても
より単純な方向へ─急速に変化する。それはいわゆる組織化にほかならない。」 (『精神の生態学』)

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非知を既知に還元し、
その先に「明徴のカミガミ」を見ることで
非知のクラウドは霧散する。

知ることとわかることと〈世界〉が一致すると、
生成としての〈世界〉を失うことになる臨界がある。

  *

善/悪、正/偽、美/醜、聖/穢という透明な区切り(見切り)は、
企投のポリフォニー、未決の審議空間を閉じる機能をもち、
〈世界〉というランドスケープの記述を確定する方向へ向かわせる。

不確実性、未規定性に対するおそれ、不安、恐怖──
確定記述という思考と認識上のアトラクターはつねに潜在している。

あれはあれ、これはこれ、それはそれ──
あらゆる「問い」を抹消するように立ちあがる、
〈世界〉というランドスケープの確定記述。

変化へ向かう創発のポテンシャルを廃棄することで、
(廃棄するという代償を支払うことで)、
自足可能な組織化をめがける──確定記述というアトラクター。

しかしそこには別の、そして決定的に重要なアトラクターが存在する。
不確実性、未規定性を資源として立ち上がる享受可能なエロス(歓び)がある。

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「スタンダード2」20180317

2018-03-17 | Weblog


もし包括的存在の諸細目をこまかにしらべるならば、意味は消失し、
包括的存在の観念は破壊される。…またピアニストは、指に注意を集中させるときには、
動作が一時的にそこなわれることになろう。部分をあまりに拡大してしらべるならば、
パターンとか全体相が見失われることになる。(M・ポランニー『暗黙知の次元』佐藤敬三訳)

    *

単純に記述命題(要素命題)を並べて「知」として集積格納するだけでは変化は起こらない。
単なる量的変化は質的変化を導くことができない。

変化が起こるには連続的に結び合わせて包括するまなざし、
そのまなざしに創発する全体包括的な〝意味〟の生成を必要とする。

いわゆる論理階型を一歩踏み上がること。
そうしてはじめて〝発火〟する生理学的な臨界がある。

    *

変数「A」はそれが産出する帰結Bによって変数「A´」へと変化していく。
この循環的構造が「学習と変化」の本質をつくっている。
変化は循環的でありながら、変数は質的に同じところにとどまることはない。

この循環的な状態遷移は、時点的切り取りによっては捉えることはできない。

意識が〈世界〉を切り取る行為そのものが新たな変数として加算され、
存在は次なる相互作用と経験の形成へと向かって、
つねに、すでに新たな〈世界〉を駆けている。

    *

たとえば──

子ども(経験主体)の経験と、それを教師(観察者)が記述する経験とは同じものではない。
この自明性はひんぱんに忘却され、隠蔽されるように「同じもの」として同定される。

「経験」はつねに「ここ-そこ-あそこ」「かつて‐いま‐これから」という、
経験主体に固有の空間的時間的な広がりにおける「from‐to」の展開の途上にある。

この経験の固有の展開はどんなに普遍化された言葉によっても包括することができない。
できるとすればその「不可能性」を併記しながら、
子どもの経験に包括されることを願うことができるだけである。

(記述とは別に、あるいは同時に、生きられている〝関係〟がある。)

子どもの固有の経験の意味は、子ども自身においてのみ生成し、
子ども自身においてのみ目撃され、〝ぼくにとって〟という当事者性の外には存在しない。

観察はつねに「いまここ」という時点的な「at」における切り取りである。

  *

「標準像」(スタンダード)と固有名をもつ子どもが示す経験との差異に注目して、
両者の整合・不整合を観察し評価するまなざしに、
子どもにとっての固有の経験の「意味」は映ることはありえず、捨象されている。

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「Another Galaxy」20180316

2018-03-16 | Weblog

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価値階梯化と価値判定は先行的に遂行されるが、
システムは定位と観照を許さないゆらぎに包まれている。

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環境のランダムな要素群の流動から生存は獲得され、
環境のランダムな流動において生存はキープされる。

全体はシステム群を一部としながら変化している。
自明性を破るコンテキストは次々に出現している。

ときにオフェンシブであり、ときにディフェンシブでありながら、
一貫して保たれるシステムのまとまりがある。

一貫性をキープするには変化しなくてはらない。
変化するには一貫性を留保しなければならない。

矛盾する命題群を生き抜くために時制が幻視され、
そこに「かくありうる」の転位態が分泌される。

システムは転位のエロスに触発されながら、
いまここからの離脱と着地の円環的作動に準じていく。

状態遷移のシークエンスを生き抜きながら、つねに、
志向性のベクトルは回帰曲線を描きつづけている。

センサーによるコンテキストの連続的ピックアップと、
運動の持続的組織化が新たな着地点を試行していく。

まなざしを凝らす条件と時間はかぎられている。
情動は泣き濡れて完結することができない。

展開と意味はあるいは酷薄な構成として、
時として偶発的な寛恕としてシステムを訪れる。

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システムは新たな自己記述へ向けてスタンバイしながら、
ギャラクシーに応答のパルスを明滅させつづけている。

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「アポリア」2018014

2018-03-14 | Weblog


スタンダード──「標準仕様」の子どもの養成に邁進しながら、同時に、
「個性的であれ」とさとすことは完璧なアポリアを子どもに突きつけ、
日々、アポリアを生きることを強いることを意味する。

真剣あるほど、マジメであるほど、両立不可能な命題の間で、
子どもは心理的な引き裂かれ状態に陥ることになる。

ことばの意味、論理的一貫性を貫こうとすれば、
「ロボットになりなさい」と語ることが適切であり、整合的であり、スッキリする。

標準仕様の王国──秩序と調和を願う「大審問官の倫理」はよろこぶにちがいない。

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人間は「アポリア」を生き切ることはできないように出来ている。
それは一つの病、集合的な病理(まともさの表れ)としてかならず表現されることになる。

 

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「スキマ」20180313

2018-03-13 | Weblog


情動と行為が直列状態のまま事態が進行するとき、
行為の自然性を貫くように、意識は行為領域の背景にしりぞいている。

情動と行為がスキマなく直列に結ばれた状態──
情動と行為が一体化し、両者を媒介する何ものも存在しないようにみえるとき、
事態はある「因-果」的に〝定まった〟方角をめがけて動いていく、ようにみえる。

行為の帰結から行為をふりかえった後に、
「感情のままに」「衝動にかられて」という言い方をすることがある。

行為の進行のさなか、意識の反省機能は出現の機会を与えらない。
ところが「記憶」──行為の軌跡をトレースする作用は〝自動的に〟働いている。

意識と切り離された位相で、行為の進行をモニターし、
みずからの内部に記述する「メモリ機能」は作動している。

行為と行為の間に開かれる非空間的スキマ──
スキマを開くように動いているものは常に存在している。

学習と変化、新たな行為領域を開く契機となるような内発するスキマがある。

   *

定常状態でうごている「運動する身体」に、意識の視線は向かわない。
ただ、トゲがささって痛みのためにうまく指が動かせないような局面で、
意識は事後的にふだん主題に上らない指同士の連携関係、身体組織間の接続関係に気づく。
このときなんらかの修正や接続のし直しを促すようなスキマが自動的に生まれている。

運動が自然に進行するとは「意識しないこと」であり、
その必要がないことであり余計なことである。

新たな形成運動の引き金は身体と環境との再対話をうながすスキマにおいて現われる。
形成的であるとき、定常性から少しはずれた場所に身体の思考がそこに現われる。

いまだ獲得されていない新たな運動の形成。
たとえば自転車に乗れるようになること──乗りこなすことで享受可能になる新たなエロスの訪れ。
その予期において、定常性を拡張するようなエクササイズが動機づけられる。

この予期は運動そのものであるというより、
行為の定常性を破るように生まれるスキマを起源とする内発的な〝外の視線〟から訪れる。

スキマを開くことの動機と展開──
モニター機能、記憶と想起、未獲得の運動の獲得可能性の予期、
内発する現状と可能態との落差を埋めようとするエクササイズの実行。

新たな危機あるいはエロスの予感を引き金に、修正可能性へ向かおうとする、
内在する構造的な新たな動機生成のメカニズム。

 

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「311」 20180311

2018-03-11 | Weblog


 ………………

  遠く空を見やるそのまなざしが
 孤独と希望の原郷なら

 あなたのまなざしは世界を
 心臓深く刺し貫くものであるのか
 
 それとも古代への追憶とともに
 忍辱の民謡がみちびかれ
 
 忘却という対価が支払われ
 葬送の儀式がくりかえされるのか

 ………………

 希望を語ることが
 虚偽に相転移する境界があり

 どんな歌謡が奏でられても
 唱和を拒む心がある

 かなしみを噛み殺しながら
 埋葬を許さないものがいる

 ………………

 語りうる水準で語りあうのではない
 わかりあえる水準でわかりあうのでもない

 わかりあえないことがかなしいのではない
 わかりあうことで消えていくものがある

 とかろうじて感じられるとき
 保たれるはかない関係のテーブルがある

 わかりあえないことのわかりえなさ
 語りえないことの語りえなさ
 知りえないことの知りえなさ

 相互に非知として
 生きあうかぎりにおいて
 非知のカケラがなにかを告げる
 
 とかろうじて信じられたとき
 そこに生きられるはかない関係のテーブルがある

 ………………

 あなたの古代をなつかしむ心が
 あなたとなかまたちの事件を
 なかったことにするかもしれない
 
 無償の饒舌に担われたあらゆるコムパは
 なぐさめるものと引きかえに
 一人一人の事件を供犠に捧げるように

 いつもそのことを望んでいるのかもしれなかった

 ………………

 草の息がひそむ場所は神聖だ
 湿ったイノチの戦慄は終らない

 ………………

 ふたたび事件がはじまるとき
 一つのシグナルが明滅する

 古代をほんとうに懐かしむために
 あなたは永遠に
 訣別を知らない者にならなければならなかった

 それは訣別によって滅ぼされていくものを
 なんどでも奪還することを意味した

 ………………

 

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「関係原理」20180310

2018-03-10 | Weblog

 

二重記述(多重記述)、あるいは両眼視覚がみちびく「客観」生成──
(人と人が出会えばかならず組織化を媒介する〝関係子〟、〝接続子〟が生まれる。)

「客観」(関係項・関係子)の生成と遷移可能性の動因をつくる、
相互的な(未生の)〝了解点〟をめぐる探索活動としての関係原理。

関係了解の過度の自明性がゆるむことで、
開かれていく新たな経験と再組織化へ向かう位相がある。

関係了解の過度の自明性がゆるみ、
相互の「非知」性がオープンになることで、
逆説的に生まれる形成的な関係の位相がある、

関係了解の自明性の強度が増すことで、
閉じられ、バインドされていく関係的な構造がある。

どちらも本源的原理から発しながら関係のゲームの「質」が分岐する。

 

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