もし包括的存在の諸細目をこまかにしらべるならば、意味は消失し、
包括的存在の観念は破壊される。…またピアニストは、指に注意を集中させるときには、
動作が一時的にそこなわれることになろう。部分をあまりに拡大してしらべるならば、
パターンとか全体相が見失われることになる。(M・ポランニー『暗黙知の次元』佐藤敬三訳)
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単純に記述命題(要素命題)を並べて「知」として集積格納するだけでは変化は起こらない。
単なる量的変化は質的変化を導くことができない。
変化が起こるには連続的に結び合わせて包括するまなざし、
そのまなざしに創発する全体包括的な〝意味〟の生成を必要とする。
いわゆる論理階型を一歩踏み上がること。
そうしてはじめて〝発火〟する生理学的な臨界がある。
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変数「A」はそれが産出する帰結Bによって変数「A´」へと変化していく。
この循環的構造が「学習と変化」の本質をつくっている。
変化は循環的でありながら、変数は質的に同じところにとどまることはない。
この循環的な状態遷移は、時点的切り取りによっては捉えることはできない。
意識が〈世界〉を切り取る行為そのものが新たな変数として加算され、
存在は次なる相互作用と経験の形成へと向かって、
つねに、すでに新たな〈世界〉を駆けている。
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たとえば──
子ども(経験主体)の経験と、それを教師(観察者)が記述する経験とは同じものではない。
この自明性はひんぱんに忘却され、隠蔽されるように「同じもの」として同定される。
「経験」はつねに「ここ-そこ-あそこ」「かつて‐いま‐これから」という、
経験主体に固有の空間的時間的な広がりにおける「from‐to」の展開の途上にある。
この経験の固有の展開はどんなに普遍化された言葉によっても包括することができない。
できるとすればその「不可能性」を併記しながら、
子どもの経験に包括されることを願うことができるだけである。
(記述とは別に、あるいは同時に、生きられている〝関係〟がある。)
子どもの固有の経験の意味は、子ども自身においてのみ生成し、
子ども自身においてのみ目撃され、〝ぼくにとって〟という当事者性の外には存在しない。
観察はつねに「いまここ」という時点的な「at」における切り取りである。
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「標準像」(スタンダード)と固有名をもつ子どもが示す経験との差異に注目して、
両者の整合・不整合を観察し評価するまなざしに、
子どもにとっての固有の経験の「意味」は映ることはありえず、捨象されている。