(熊谷晋一郎『リハビリの夜』2009年医学書院)より
「身体を構成するさまざまなパーツは、各々ばらばらに動いているわけではない。あるパーツの動きを他のパーツが拾って応答し、その応答をさらに別のパーツが拾うといった、動きや情報の流れがある。この流れが、身体協応構造を形作る。
身体協応構造が順調に流れているときには、私は特にその流れを意識することはない。しかしその流れに、衝突やよどみや隙間が生じると、私の意識はそちらのほうへ向く。
便意というものも、そうした流れの隙間を私の意識が感受したものだと言える。すなわち、腸の蠕動運動は身体内協応構造の流れから来る運動だが、排泄を保留するために肛門を閉めるという運動は、身体外協応構造(社会規範)の流れから来る運動で、その二つが私の下腹部で互いに衝突することによって生じる。それが便意なのだ。
そしてその二つの流れが衝突する場所に空いた隙間において、便意と私とのあいだで、対話や交渉が行われることになる。」
「排泄規範に限らずあらゆる規範というものは、「あってはならない」運動・行動の領域を設定する。しかし私の経験を通して言えることは、失禁を「あってはならないもの」とみなしているうちは、いつ攻撃してくるかわからない便意との密室的関係に怯え続けなくてはならないということだ。……規範を共有することだけでなく、同時に「私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね」という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。」
「解放と凍結の反復が他者へと開かれたときに、そこに初めて新しいつながりと、私にとっての世界の意味が立ち現われる。そして、他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。」