ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「便意」という他者(参)

2011-05-17 | Weblog

(熊谷晋一郎『リハビリの夜』2009年医学書院)より

「身体を構成するさまざまなパーツは、各々ばらばらに動いているわけではない。あるパーツの動きを他のパーツが拾って応答し、その応答をさらに別のパーツが拾うといった、動きや情報の流れがある。この流れが、身体協応構造を形作る。
身体協応構造が順調に流れているときには、私は特にその流れを意識することはない。しかしその流れに、衝突やよどみや隙間が生じると、私の意識はそちらのほうへ向く。
便意というものも、そうした流れの隙間を私の意識が感受したものだと言える。すなわち、腸の蠕動運動は身体内協応構造の流れから来る運動だが、排泄を保留するために肛門を閉めるという運動は、身体外協応構造(社会規範)の流れから来る運動で、その二つが私の下腹部で互いに衝突することによって生じる。それが便意なのだ。
そしてその二つの流れが衝突する場所に空いた隙間において、便意と私とのあいだで、対話や交渉が行われることになる。」

「排泄規範に限らずあらゆる規範というものは、「あってはならない」運動・行動の領域を設定する。しかし私の経験を通して言えることは、失禁を「あってはならないもの」とみなしているうちは、いつ攻撃してくるかわからない便意との密室的関係に怯え続けなくてはならないということだ。……規範を共有することだけでなく、同時に「私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね」という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。」

「解放と凍結の反復が他者へと開かれたときに、そこに初めて新しいつながりと、私にとっての世界の意味が立ち現われる。そして、他者とのつながりがほどけ、ていねいに結びなおし、またほどけ、という反復を積み重ねるごとに、関係はより細かく分節され、深まっていく。それを私は発達と呼びたい。」


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知覚に先行する「本質直観」(参)

2011-05-14 | 参照

(河本英夫『臨床するオートポイエーシス』2010年)

「経験科学者であれば、リンゴの本性を知るためには、できるだけ多種多様のリンゴを集めてきて、そこから共通性を引き出す手順によって、リンゴの本性を知ることができる。この手順が帰納と呼ばれる。だがさまざまなリンゴを集めてくる段階で、ナシやカキは除外しているのである。ということは調べてみる以前に、リンゴが何であるかはよく知っていることになる。この調べてみる以前によく知っている場面で作動しているのが本質直観である。これは生存を賭けたほどの知である。……世界内のシバリ(本質直観の形成)は、最初の秩序とも呼ぶべきものであり、これはみずからと環境との関連の組織化のための手掛かりである。」

「本質直観は、知覚の手前にあって、類型的なイメージ直観であり、見て知るとは別の仕方でよく知っている行為的直観である。人間の場合、この類型的なイメージ直観から知覚が出現する。これによって次の動作に踏み出すさいの「予期」が可能になってくる。」



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