https://www.youtube.com/watch?v=bBpAHucHJdc
ある詩人は詩の一節にそうではないものへメッセージをとどけるようにつづった。
「きみは自分をおろかだと信じたことのために死ぬだろう」
ぼくは決して死ぬことのないきみを知っている。みずからの愚かさ(と感じるもの)へまなざしを向ける、愚かさとは別のまなざしが生きられている。ぼくは知っている。だれもその裏側に回り込むことのできない、きみの生が立ち上がるはじまりの場所を告げる、はじまりの意志でありつづける光に満ちたまなざしを。
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新たな展開をみちびくために知っておくべき知恵がある──
「ムリだ」――既知の内部で思考が完結するとき、可能-不可能のボーダーラインが確定される。思考と運動のパターンはあらかじめ決められたフォーマットに準じ、プレーの出力は閾値内に収束していく。「できる-できない」の世界区分は固定され、不可侵の領域が定められその聖域化が現象する。
聖域化された不可侵の境界線を破り、プレー生成の新たな地平が開かれなければならない。なぜか。内発する生の主題(欲望)が告げる。生の全域性、新たなプレーが生成する地平がここでは失われている。
みずからにとって異質な存在、異質なプレー、異質な関係、他者の他者性、未知の未知性に開かれているとき、カオスはかならず出現する。
予測可能性に埋め尽くされた内部に不連続なゆらぎやノイズを導き入れるように、プレーヤーは自由エネルギーを解放するカオスと遭遇しなければならない。定型的な運動と不連続のゆらぎが交わり、閉じたループが破られる。プレーを構成する無数のパーツはいったんシャッフルされて、新たな構成へ向かう。
このときプレーヤーはカオスに呑み込まれるのではなく、「カオスの縁」を駆けている。