交わされるメッセージに先行して関係があるのではない。
メッセージが 相互に組み上がり結びあっていく、
そのコンビネーション・パターンを、
言語的コードによって記述したものが、たとえば『愛』であるわけである。
生活のコンテキストの学習は、
一個の生物の中で論じられるものではなく、
二個の生物間の外的な関係として論じなければならない。
そして関係とは常に、二重記述の産物である。
相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
この両眼視野こそが関係なのである。
この発想に立つことは、大きな進歩である。
――G・ベイトソン『精神と自然』『精神の生態学』佐藤良明訳
相互作用しあう〝ふたり〟の関係は、左右の眼の関係に喩えることができる――
〝ふたり〟が出会い、相互に作用しあう特別な観念のルートが開かれ、
そしてメッセージの交換が開始され、結びあう固有のパターンが形成されていく。
メッセージはメッセージを呼び、よびかけと応答の連鎖から一つの形式が生まれ、
その「コンビネーション・パターンを言語的コードで記述したもの」が、
たとえば「愛」とよばれ、あるいは「憎しみ」とよばれる。
交わされるメッセージに先行して結びあうパターン――「愛、憎しみ」が存在するのではない。
〝ふたり〟を両端とする観念の回路をめぐる連続的なメッセージ交換から、
関係が積み上がり、固有の組織化特性=結びあうパターンが自生していく。
〝ふたり〟はそれぞれの単眼視覚を持ち寄って、〝ふたり〟だけの両眼視覚をつくる。
この両眼視覚こそが関係であり、この二重記述されて生じる第三のまなざしから、
世界の「奥行き」という「経験のボーナス」が獲得される。
このとき二つの視覚は、それぞれの単眼の視覚像への〝執着〟を脱して、
より大きなあるいは拡張された全体(右眼+左眼)としての両眼視覚を生きはじめる。
単眼視覚が教える経験のモードは、このときいったん放棄されることで、
〝ふたり〟が「関係」するための基礎的な条件がつくられていく。
機械的に左右の視覚を重ね合わせてもそれ自体が「奥行き」を生むわけではない。
そこには、生命――両者の差異(視差)を情報として受け取り、
みずからの視覚=あり方を変化させる存在がいる。
〝あなた〟の微笑みはそれ自体に「意味」があるのでもない。
〝あなた〟の状態の変化――時間の流れに沿って変化する微細な表情の変化を、
ある受信体(だれか)が一つのメッセージ=情報として感受することで「意味」が生成する。
生成した「意味」はただちに関係のサーキットをめぐり、もう一人の受信体=〝あなた〟に伝えられる。
この「意味」は「A=A」というデジタルな伝達ではなく、両者の解釈・変換を経て進む。
「意味」はこの相互的連鎖・循環において、多重記述のプロセスをたどり、次々に転位していく。
第三のまなざし――それは単眼同士の親和において、時にせめぎあう関係において生成し、
新たな結び合わせるパターンという新たな世界の見え方として創発していく。
世界に「奥行き」を与える両眼視覚は、左右いずれの視覚にも帰属させることはできない。
どちらか一方が制御し制御されるという線形的関係とも異なっている。
結び合わせる超越的な「コネクター」(連結装置)が実体として存在するのでもない。
先験的な関係のコードとして左右それぞれの視覚に内在しているのでもない。
「第三のまなざし」は、右眼にも左眼にも、空間上にも時間上にも位置づけることができない。
「関係とは常に二重記述の産物」であり、どちらにも帰属しない結び合わせるパターンとしてある。
さらに、二重記述のマジカルな作用は、〝あなた〟という観念がめぐるサーキット内部でも現象する。
たとえば、「距離」という観念と「時間」という観念を一つの差異として受け取って組み合わせる――、
すると距離を時間で割り算した「スピード」という、また一つ非実在的な観念が創発していく。
一個の生命=〝ひとり〟をとりだして、その生命についての独立した特性、
例えば「攻撃性」とか「プライド」とか「依存性」とか云々してみても何の意味もない。
なぜか。それは「攻撃性」「プライド」「依存性」といった関係概念であるものを、
〝ひとり〟の特性に還元して記述するために用いるという錯誤を意味するからである。
「生活のコンテキスト」とは、つねに生命間の二重記述において構成される関係にほかならず、
「攻撃性」「プライド」「依存性」とはその関係特性を言語的コードで記述したものでしかない。
それぞれの単眼視覚はそれぞれが生命が生きる世界経験の前提であり条件である。
それぞれの生命はそれぞれに固有の身体性――感じ、思考し、行動する身体――において生きている。
しかしそれぞれの「単眼視覚」の特性をいくら微細に分析し尽くしても、
〝ふたり〟がつくる「関係=両眼視覚の特性(奥行き)」にたどりつくことはない。
プレーヤーの個性や特性そしてゲーム規則はゲームの拘束条件を構成するが、
サッカーというゲームはそうした前提を離陸するように展開していく。
〝ふたり〟の関係も同じく、それぞれの単眼という前提の地平を離陸するようにして動いていく。
この離陸はそれぞれの固有の身体性から演繹不可能な位相で関係が動いていくこと意味する。
二つのまなざしが出会うという秘儀的な出来事によって、
それぞれが単眼では実現できない両眼視覚――〈経験としての世界〉に新たな表情が加えられていく。
〝ふたり〟の間で生成した固有のコンビネーション・パターンは記憶に刻まれていく。
直接の相手との交渉が途切れたのちも第三の視覚という経験は記憶されリレーされていく。
――生活のコンテキストにおいて、情報処理はつねに〝ひとり〟の内部で完結することができない。
――〝あの人〟は何をみて、何を感じ、何を味わい、何を願い、何をしようとしているのか。
――相互に反応しあう回路の内部で、次の〝プレー選択〟にはつねに相手の視点を加算しなければならない。
――〝ふたり〟が出会うことで「奥行き」という〝ひとり〟では経験されない世界のもう一つの位相が開かれる。
――そしてその経験と記憶の累積から、ハイアングルから「関係」を見ている、〝もう一人の自分〟が立ち上がっていく。
〝あなた〟は、風景の一角に咲く一輪の花として現われることもある。