ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。 (中原中也「朝の歌」)
夕ぐれの風景に
かたちのない喪失が響き
なにかが壊れ
なにかが萌していく
だれにも告げられない
小さな孤独とひきかえに
聴かれないかぎり奏でられない
聴くことから遠い
透明な旋律がこだまし
ここにあるコトは
ここにないコトと交わり
永遠の遠ざかりを追うように
心はクラス(公理系)の外に唇を向けていく
(*参照)
ひとは誰でも必ず、つねにすでに言語の海の中に投げ込まれているという条件を生きている。
だから人間のどんな自己表出性(〈私にとっての対象の固有の意味や在りよう〉)も、
すでに成立している言葉の指示性を使ってしか表現され得ない。
しかし言葉が新たな指示性をつけ加え、その網の目を拡大していくためには、
すでに成立している言葉の指示性の連関だけでは十全に表わし難いと感ずるような固有の関係の意識にひとが出逢い、
そこで従来の指示性を押しひろげるようなモチーフを受けとるのではなくてはならない。
これを小林秀雄の文脈にそって言えば、心が自らの深く動いた「情」を意識し、
それを日常の知恵、分別の秩序に位置づけきれないと感じたときだけ、
ひとはその言い難い想いに「カタチ」を与えようとする動機を持つということになる、
そういうときこの新しい「カタチ」は、言葉の規制の指示性を踏み破らざるをえないからだ。
小林が宣長に見た「言霊」とは、言葉のそういうありようを意味している。
しかし、小林が「一般言語表象」に回収されない実存的体験に強く照射するのに対して、
吉本がその(「一般言語表象」≒「客観的世界像」)の不可避性をとらえていくことにおいて両者は袂を分かつ。
小林の見解からすれば、「言語名称観」や「客観的世界像」など、
ふつうのひとが日常生活のなかで形成している「源信憑」というようなもの自体が虚偽であるということになる。
しかし、そうしたものが成立していることにはそれなりの意義があるはずだ。
吉本には、それを見取っていこうとする観点があった。
――竹田青嗣『世界という背理』