ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「SOCCER 18~ 自由エネルギーの用法」

2014-02-27 | Weblog
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「あゆみの言葉」2014

2014-02-23 | Weblog


小知恵はあるのです
小綺麗なうえに
小金だってあります
 
あり余るカインドネス
失くした財布は戻ってくる
 
おのれを空しくする和の作法
他国がうらやむ協調のふるまい
 
濃厚な礼と謙譲のもてなし
生活態度、マナーはほぼ満点
勤勉の含有率だって高いのです
 
センセイが呼び掛けると
一斉に「は~い」と応える
返事の仕方も立派です
 
ふるまいをやさしく
幽玄に心をとめる
自然に対する応答も見事です
 
クオリティの高さと均質性
ゴミ一つにも心を配る清潔観
すべてに並ぶものがありません
 
いわんや豊かな国土
電気は足りている
使える資源も十分あります
 
こんなに出来すぎなのに
やんぬるかな
いかんせむ
一番大事なものが足りません
 
食材はあふれてる
据え膳もあふれてる
ところが一つのレシピが見当たりません
 
給食を食べすぎたせいでしょうか?
 
ほんとうに食べたいものを
みずから作って食べる
ほんとうの知恵のレシピが起動しません
 
「とりあえずビールね」
 
みんながみんなそう思うだろうって
みんながみんな考えているはずだ
と、一人一人が考える
 
おのれを空しくし過ぎる余り
本当に食べたいもの飲みたいものが
迷子になってしまうのかもしれません
 
迷子であることの意味も
迷子であることの自覚も
すべてが迷子の可能性さえあります
 
センセイの教えに忠実なあまり
給食以外の味覚もじぶんも世界もまるごと
所在がわからなくなるのでしょうか?
 
超絶のチューニングとシーズニング
ご自慢のセレビリティ御用達
豊かさの指標はあちらこちらに溢れます
 
食べたことないのに本当でしょうか?
食べた後でも本当でしょうか?
 
出来すぎのパラドクスかもしれません
麗しい美徳のジレンマかもしれません
 
いつも、いつのまにか
人前で「まずい」は禁忌の言葉
 
「まずい」といえる仲間たちには
「だまれ」という声さえ上がります
 
現状の批判を経由して新たな肯定へ赴く
大切な回路が閉じてしまうのでしょうか?
 
「好き嫌いを言わずに給食は残さず食べましょう」
 
クラスの完食記録に貢献するために
食べてはならないものを食べたために
死んでしまったアレルギーの子供もいました
 
おまかせレシピだけで
お腹も心も一杯一杯になってしまって
これ以上考えることがフリーズします
 
出会ったことのない料理に囲まれると
どっと疲れがあふれて
チャレンジする心が萎えてしまいます
 
だれかが決めたわけでもないのに
だれも信じてないかもしれないのに
立て込んだ約束事に潰れてしまいそうです
 
あれやこれやそんなこんなで
ヘトヘトにくたびれてしまって
 
いつのまにか食べること
生きることすべてが
空しくなってしまうのかもしれません
 
小さな不安がドロドロと積み重なって
しかたなくなんとなく
じぶんよりも〝おバカ〟を探し出す
 
みつけたつもりでホッとして
だんだん強気に居丈高になって
じぶんが本物のバカちんになっていく
そんなことも起こります
 
じぶんを修正するのはとても面倒です
誰かをバカだと決めつけて
じぶんを修正せずに安心するのは簡単です
 
「じぶんってヘン?」
 
ところが一方では
反省しすぎる特性も気になります
センセイが怖いからでしょうか?
 
食べることばかりではありません
あれやこれや不安になると
いつもどこかにいるはずの
 
〝偉いセンセイ〟を探す傾向も顕著です
 
みつけた偉いセンセイに心を許し
人生まるごとおまかせして
あれよあれよと、めぐりめぐった最後の最後に
本物の地獄につれていかれてしまう
 
言い過ぎでしょうか?
 
今日も明日もおまかせお料理を食べながら
おバカ探し、センセイ探し
そんなのばっかりで一日が暮れていく
ああ、人生も暮れていく
 
あなたが心から食べたいものは何ですか?
 
かけがえのない資源も
ひそやかな思いや願いも
最後にはすべてがすべて

台なし
持ち腐れ
見殺しのまま
 
もろとも落日を迎えるって
本当に、本当に
絶対にナシにしましょうね

希望をなくす必要は全然ありません

変化することも、変化しないことも
みずからのチカラの使用において
等しくわたしたちが選んでいることです

そのことを深く知ることから
新たな変化の契機は訪れるでしょう

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「SOCCER 17~ 存在企投」

2014-02-07 | Weblog


        Inanimate nature is self-contained  ――Michael Polanyi
        (「非生命的存在は、自己完結的である」)


      「できる-できない」――内部では「自問と自答」が鳴り響いている。
      自問自答する意識の対象化の営みにプレーの自由の実質が存在する。

      応答としてのシステムの作動があり、
      探索としてのシステムの作動がある。

      いまだカタチのない希望と可能性の確信において、
      「かくありうる=存在可能」への企投が創発する。

      プレーヤーの自己意識において、
      「ありうる=存在可能」が消えるとき、
      ピッチ上の展開と関係構造から遠ざかり、
      プレーは自己反復的に完結していく。

 

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