ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

2012 手に結ぶ 12

2012-06-30 | Weblog

    *

  空ぶりのバットのむこうにいわし雲   (小四男子『現代こども俳句歳時記』)

    *

バッターボックスの中で、一人の少年は秋空に見とれていた。
「おい、試合に集中しろ」。コーチの怒鳴る声がした。
少年はビクッとしたがすでにピッチャーは振りかぶっていた。

ベンチに戻っても三振した恥ずかしさが消えなかったが、
いわし雲の浮かんだ夕焼け空はすごくきれいだった。
夢はプロ野球選手だが、からだは自然が投げるシグナルにも応答する。

生命の創発に沸き立つ少年のからだの奥深くで、
世界が奏でる不協和音の調べが鳴り響いている。
プロの強打者になることを夢見る少年にとって、
野球は大切な世界の一部だがすべてではない。

キミが小学生野球チームのコーチだったら、
一瞬注意をそらした少年の心に気づいただろうか。
それとも少年より先に秋空に見とれていただろうか。

    *

「子供たちは、我々以上に、表層の生活と深層の生活とを合わせ持っているものだ。表層の生活はごく単純だ。なにがしかの規律で片がつく。だが、この世に送り出された子供の深層の生活は、創られたばかりの世界が奏でる不協和音の調べだ。子供は一日また一日と、地上の悲しさ美しさをひとつ残らず、その世界に納めていかねばならぬ。それは内なる生命が払う巨大な労苦なのだ」(L=F・セリーヌ『ゼンメルヴァイスの生涯と業績』菅谷暁訳)

    *

大人たちが決めた規律やしきたりや掟のボーダーラインは、
少年たちの営みによって日々刻々、軽々と破られつづけている。

ボーダーラインの向こう側にあるものが輝くとき、
何かが点火して世界は拡張の契機を獲得していく。

天文学者も宇宙物理学者も詩人も月見だんごも、
みんな星空を見上げた少年たちの心から生まれた。

教師やパン屋や銀行員や建築士やラーメン職人に分岐する前も後も、
少年たちの心は秋空を含む広大なコスモスと通信を交わしあっている。

少年の意思に先行してコマンドは走り抜け、
自由エネルギーに従う「feel」が駆けていく。

  たかいたかいしてゆうやけがみたいから  (幼児学級女子)

ここにあるものとここにないものの隙間で光が点滅をはじめ、
呼びかけと応答が交響するギャラクシーが少年のからだを包む。

ギャラクシーは数え切れないランダムなシグナルに満たされ、
同期と非同期のイルミネーションが絶え間なく輝き合っている。

少年の心は空位の形式においてギャラクシーに出掛けて行き、
考えられるかぎりの拡張可能なランデブーの探索を開始する。

  あいうえおかきくけこであそんでる  (小二男子)

少年はハンターとして、貪欲な狩人としてこの世に生まれてきた。
少年はモノだけでなく、感情や生き方もハンティングしていく。

いつか見た物語のなかの憧れのヒーローやヒロインだけじゃない。
大人たちや仲間のふるまいにも感応すること。それがハンティングだ。

生意気で計算高く小賢しく駆け引きに命をかける抜け目ない小さな狩人たち。
誰かのカッコよさを見つけると、ともかくシェイプをハンティングしてみる。
シェイプもボイスもフォルムもスタイルも表情もまるごとハンティングする。

自然も社会も人と人がつくる関係も、見るもの聴くもの触れるもののすべて。
音楽、ファッション、ドラマ、お笑い、ゲーム、食べ物、映像、あらゆる遊び、
ちょっとした仕草や冗談も、この世はハンティングの獲物に満ち溢れている。

  なしかじりけんかのわびを考える  (小六男子)

次々に手に取り、耳をそばだて、臭いを嗅ぎ、指でつつき、舐めたりしてみる。
気に入ったらしばらく付き合って、飽きたら後腐れなく放り投げる。

ハンターには善悪より、美醜を嗅ぎわける始原のコードが巻きついている。
染まりやすい白無垢の生地でありながら、リスクを回避する知恵もある。
時として大人より残酷で、時として大人よりやさしく、深い孤独もある。

  あじさいの庭まで泣きに行きました  (小六女子)

ハンターはビートを刻みステップを踏んで街々を歩く。
ハンターはジャンプやショートカットしてケガもする。
ハンターは笑い、叫び、踊り、歌い、怒り、噎び泣く。
ハンターは思いっきり喧嘩してキモチよく仲直りする。
ハンターは封印された秘密を暴いてこっそり教え合う。
ハンターは日暮れの時間が迫り切ない感情に襲われる。

    *


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2012 手に結ぶ 7

2012-06-26 | Weblog

    *

「祈り」と「フロー」

    *

じゃあ、一つの思考実験として聞いてみて。
テーマは「祈り」について。

――ボクらの世界体験は、意識が関与しない広大な領域から出来ている。

例えば、キミが腕を伸ばしてコーヒーカップの取っ手をつまむとき、
キミの手がカップの直前でやさしく減速していることを、キミは知らない。

散歩コースの地面がコンクリートや芝生や土や砂利道などに変化するとき、
接地面の硬さに応じて、両足は踏み込む強さを繊細にチューニングしている。
キミは歩きながらそのことに気づいているだろうか。

脳科学の実験では、意識による身体制御は錯覚らしいことが知られている。
キミが手を持ち上げようと決断して意識的に動作をはじめると、
神経細胞のネットワークはすでにコンマ数秒先んじて作動を開始している。

ボクらの意識は世界体験のコントロールセンターというより、
体験に随伴するサブシステムであることが徐々に明らかになっている。

一つ一つの体験は、生命と環境がつくる有機的ネットワークから創発していく。
ボクらの体験はこのネットワークが記述する必然のコードが巻きついていて、 
意識は全体の作動に遅れてついていくということ。ここが大事なポイントになる。

――ここからパラフレーズしてみる。

「体験」は、同時に「観察」であることはできない。
「観察」は、つねに「体験」の後に産声をあげるもの。
つまり、「観察」は「体験」に先行することはできない。

「体験」はつねに先行者としてフロンティアを生きている。
「観察」は「体験」の過去を記述したものにすぎない。

にもかかわらずボクらは「体験」という生きられる現在に、
「観察」という過去を、切れ込みやクサビのように打ち込んでしまう。
バッティングコーチがバッターに罵声を浴びせるようにね。

――「脇を締めろ」「壁とつくれ」「ボールを追うな」「ヘッドを動かすな」

すると「体験」は淀んで、自然な流れを生きられなくなる。
バランスは崩れ、失速して、「体験」はバラバラに壊れてしまう。

けれども、バッターはバッティングという体験の流れを生きる。
ダンサーだったらダンスという体験の流れを生きる。

ケーキや大根やニンジンを切り分けるように、
バッターとバッティングに分断線を引くことはできない。
ダンサーとダンスを区別することはできない。

「バッティング」や「ダンス」の理想形がどこかにあるわけではない。
理想状態は無数の「観察」が事後的に構成したものにすぎない。

「ダンス」や「バッティング」という言葉は、
本当は世界のどこにもない、観念としてのみ存在する。

バッターボックスで時速150kmの速球に向かうとき、
身体に書き込まれたバッティングのパターンが対応する。
この身体的パターンはゲシュタルト(形態)と呼ばれる。

自転車に乗れるようになるためにコトバはいらない。
体験のなかで起こっているのは、「think」ではなく「feel」。
「feel」の積み重ねのなかから、ホンモノのスキルが生まれる。

マウンドとバッターボックスの全体をつつむ小宇宙のなかで、
バッターは「feel」に導かれて、一回的体験の流れに入る。
時速150kmで飛んでくるボールを迎え打つために、
ゲシュタルトの感受性は全開の状態に置かれなければならない。

体験の全体性、あるいは十全性が保持されるための条件がある。
ゲシュタルトは純粋状態をキープしなければならない。

純粋状態を言いかえると、一つのまとまり、
「観察」が混じると損なわれる統一性(unity)ということ。

このとき、意識して努力をするのでなく、努力をしないことをする――
身体のこわばりと解いて、感受性を全開にする。

そのために「意識(観察)」はみずからの作動を控え、存在を消すように、
「祈り」の態勢に入る――

「体験」と「存在」が結ばれて、一つの流れをつくるとき、
観客や監督コーチなどの外部の観察も彼方に遠ざかっていく。
この体験の流れが、新たな身体のゲシュタルトとコスモスを開いていく。
バッターとして成長したキミは、もう以前のキミに戻ることはない。

「feel」を十全に開くための、「祈り」という厳かな作法がある。
というのはどうかな。抽象的な言い方だけど、いい線いってないかな。

    *

ひとことで、没入状態。「フロー状態」という言い方もある。
要するに、一つの作業プロセスが、滑らかに流れている状態。
この状態で集中力が高まると、むしろ脳の活動電位は下がるらしい。

日常的にこの状態を生きる可愛らしい動物が、われわれの身近に存在する。
幼い子供たちだ。彼らは日々「フロー状態」を生き抜いている。

例えば、歩行中のムカデに、次の一歩はどの足か質問したら、大混乱に陥ったという話もある。
このことについて、偉大な学者グレゴリー・ベイトソンは、システムが適切に作動する条件として、
内部をめぐる情報マップにある種の「知識勾配」が必要かもしれないと語っている。

これは、「観察」が消えた状態=「祈り」の世界を導くためには、
知識ゼロ(非知)の地平が開かれていなければならないということだと思う。

     *

この問題は、さらに大きな地平とつなぐことができる。
ポイントとしては「フロー状態を阻害するもの」とまとめられる。
まずは、一人の作家が一九四八年に書いた次の文章を読んでほしい。

(例文)
「如何に生くべきか、ということは文学者の問題じゃなくて、人間全体の問題なのである。人間の生き方が当然そうでなければならないから、文学者も亦そうであるだけの話である。如何に生くべきか、が人間のあたりまえの問題でなくて、特に文学だけの問題のように考えられているところに、日本文学の思想の贋物性、出来損いの専門性、一人ガテンの独尊、文学神聖主義があるのだろう。(中略)今の文壇は出来損いの名人カタギの専門家とその取りまきで出来上っている遊園地みたいなところである。 」(坂口安吾「新人へ」)


【設問】次の命題群に共通するキーワードは何か?
例文参照し、カタナカ6文字(または漢字3文字)で答えよ。
※ヒント:「他力」を信じすぎてはいけない。

○出来損ないの支配者たちは、国民の生命と財産を簒奪しながら私欲を満たしてきた。
○出来損ないの医者たちは、ウソと検査漬け薬漬けで患者と死者を大量生産してきた。
○出来損ないの宗教家たちは、本人が信じないホラ話をまき散らして丸儲けしてきた。
○出来損ないの学者たちは、デタラメを真実に見せかけ地位と金と虚栄に溺れてきた。
○出来損ないの司法検察は、正義を騙り白と黒が逆さまのカフカ的世界を作ってきた。
○出来損ないのメディアは、茶番と捏造と馬鹿笑と裏取引で国民の正気を奪ってきた。
○出来損ないの官僚たちは、失政に次ぐ失政を重ねて国賊的無能を晒して続けてきた。
○出来損ないの教育者たちは、妄想的教育で子供を人質にとり生の体験を封じてきた。
○出来損ないの文学者たちは、出来損ないの作品と幻想の遊園地で遊びつづけてきた。
○出来損ないのコーチたちは、威圧と罵倒と恫喝で若者の人生を喰いモノにしてきた。
○出来損ないの評論家たちは、素人をカモに詐欺と虚言とアブクの生を謳歌してきた。

    *

【答え】「エージェント」「代理人」
    
【解説】人間システムの「自力」に対して、無節操に接続される「他力」。
    素人の善意・無知・怠惰・卑屈を温床に、出来損ないが大量発生する。

    一言で、「生のフローを破壊するもの」と定義できる。

    エージェント発生の力学には、3種のプレイヤーが関わる。
     タイプⅠ:おしえていただきたい紳士&淑女
     タイプⅡ:かなえていただきたい紳士&淑女
     タイプⅢ:わたしにおまかせなさいの紳士&淑女

    理想=「安心しておまかせすることができる」
    現実=「まかせるとトンデモない収奪が起こる」(※現在進行フォーム)

【結詞】 
   「代理人 まかせてたまらず バカヤロウ」
   「壮大な ウソ社会 豚のケツ」

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2012 手に結ぶ 11

2012-06-22 | Weblog
    *

「打ち消しあう奇跡」

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オフィスにはブラインド越しに朝の光が差し込んでいる。
デスクの前を若い女性が通り過ぎる。仕事への意欲に満ちた二十代前半。
窓際に並んだ書棚に資料を探すのか、女性は朝の光のほうへ歩いていく。
白のブラウス、淡いグレーのスーツに身をつつんだ、意思的なまなざしをもつ魅力的な女性。
さりげなく開いた胸元にシルバーのネックレス、センスの良さを感じさせる薄化粧。
ありふれた職場の情景のなかで、ボクは退屈にまかせて勝手に想像してみる。

この女性が将来のどこかで、結婚し、子を産み、育ててく毎日の姿を。それは十分ありそうな未来に思えた。
魅力的な彼女にふさわしい魅力的な旦那。愛情と分別と気配りが混じり合った幸せな家庭生活。
小さな波乱や脱線を乗り越えていく知恵。経験から学ぶことを知っている謙虚さ。
人生を彩るさまざまな思い出、陶酔、悲しみ、怒り、孤独。
一人の女性は人生のスタートラインに立って、たくさんの夢をみる権利が与えられている。

ボクは目の前の情景から、さらに妄想の翼を羽ばたかせてみる。
その女性が生むかもしれない子どもになりきって、未来の方から逆向きに回想してみる。
二十年後、三十年後あるいはもっと先の未来から、成人し、いっぱしの男子として、
独立した自分の人生を歩んでいるその子の未来から、この若い女性の姿を眺めてみる。
いまボクのまなざしに映る情景は、その子にとってどんな意味と重さをもつことになるだろうか。
その子が決して直接に見ることができない、遠い過去の母親と職場の情景。

平成○○年○○月○○日。どんな記憶の痕跡も残さないような、
なんの変哲もない、淀んだ朝の時間が流れるビジネスの谷間のようなひととき。
空調と照明が快適に整えられたオフィスビルの一室。かすかに聞こえる空調機の音、整然と並んだデスク、
パソコンを叩く社員、ガラスで仕切られた会議室、壁に貼られたポスター、来客を迎えるゆきとどいたマナー、
ときおり空気を揺らす電話のコール、誰かがコーヒーをすする音、おしゃべり、窓の外に広がる高層ビル群と青空。
それらがつくる一角に、若さと未来を輝かせながら働いている、自分の大切な人間の姿がみえる。

もしいまボクがみているように、この女性が産むかもしれない子が、
そのままの情景を自分で見ることができるとしたら。それは一つに奇跡にちがいない。
まだ自分を産んでいない、うら若い女性である母なるもの。
ボクは、その子どもに代わって静かな奇跡の情景を目撃していることになる。
なんの変哲もない、ありふれた情景。それが意味を変える。
この世界は奇跡に満ちている。ボクはぼんやりとそう思った。

――どんなエージェントにも媒介されない、そんなものを召喚する必要もない。
――そこに奇跡とよばれるものがあり、世界を満たしているという端的な事実。

一瞬一瞬、刻一刻と、世界は奇跡のなかで存在している。
世界には次々に息つく間もなく、新しい奇跡の扉が開かれている。
奇跡の無限の連鎖のなかで、ボクらは生きている。そんなふうに妄想してみる。

あるアメリカの作家は、皮肉をこめて「人生はクソの山」と書いた。
この世のすべてが奇跡だとしても、一体どんな意味があるというのか。
奇跡はクソであり、クソは奇跡であり、何と表現しようと現実は変化しない。

それぞれの奇跡は同等の権利をもって、お互いの奇跡性を生きている。
奇跡と奇跡は前提を相互に供給しあい、支えあい、せめぎあいながら、
総体としてフラットな関係性に着地点を見出していく。
つまり、ニンゲンとニンゲンのつくる関係は、相互に牽制しあい、
相互の奇跡性を打ち消しあうように維持されている。
そして時に、奇跡はクソ以上の酷い現実をアウトプットする。

「暇そうですね。○○さん」
書棚から戻った女性は、新しい企画のための資料や本を抱えている。
ボクのデスクの前を通りぎわに顔を向け、いたずらっぽく微笑んだ。
きっと間抜けな顔をしていたにちがいない。
ボクは妄想のまどろみを破られ、表情をつくれずにうろたえる。

けれども気配りにぬかりのない若い女性は、少し間を空けるように、
ボクが立ち直るための時間をさり気なく用意する。
飾らない天使のマナーが、日常の関係に小さな華やぎを創りだす。

――小さなインターミッションが入れられ、魂が動くスペースが空けられる。
――決して打ち消されることのない奇跡の人による奇跡のようなもてなし。

そして、再び振り出しにもどる。
クソであり奇跡でもある、変哲もない現実がまた動き出す。

    *
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予選敗退、涙雨

2012-06-21 | photo
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2012 手に結ぶ 10

2012-06-17 | Weblog
     * 

最後のフォースは使い果たされた。
絶望も希望もいらない。システムはダウンした。

この街にも一瞬システムダウンが起こる。
しかし凄惨な光景が無数の視覚を捕獲しはじめると、
装填されたサブシステムにスイッチが入る。

惨劇の出現に続いてまなざしの凝集が起こり、
総員による失われた現実の一斉捜索が始まる。

どこかにあるはずのエチカの用法を確かめるように、
凝集点では価値と反価値のボーダーをめぐり、
解釈コードの作動と一緒に「人倫」の捜索が始まる。

この街のみえざる一般意志が一カ所に回収され、
サブシステムのエンジンに充填され、
エージェントたちが召喚されていく。

一般意志の貫徹を代行する執行ユニット。
蝟集する感情の規模に従って執行グレードが調整される。
ランクは最高グレード。レベル7。

オレは数えきれないまなざしの包囲を感じていた。
恐怖と憎悪と憤怒と呪詛の津波が襲いかかり、
二波三波四波と巨大な威圧がオレを呑みこんでいく。

フォーカスされたオレは次第に市場性を帯びていく。
マーケットメカニズムは抜かりなく作動している。

呪われたクソにとって街の地平は無限に遠いが、
自称のクソから公称のクソへの転換において、
どんなクソにも社会性のカケラが付着する。

オレとは別のどこかにいるらしいもう一人のオレは、
緻密に張り巡らされた需給メカニズムの網の目に拾われ、
マーケットへのささやかな参入を果たす。

「the murderer」

一点の曖昧さのない定冠詞付きの固有名詞。
座席のないどこにも存在しないクソとして生きてきたオレに、
晴れてパブリックな公式の「座席」が付与される。

特上プレミアム付きのピカピカの座席だ。
自称のクソから公認のクソへの企投と転換。
クソがたどりついた究極のクソがこれだ。

使い切りの消費財として需給の結節点をめぐった果てに、
完全無欠の分別を受けて「汚物処理」が執行される。

オレは圏外へ吐き出されて無限の闇へワープする。
オレという存在は宇宙のゴミとなって消えていく。

いや、オレの「存在しない」はもう一つラックアップして、
「オレ」も「存在しない」も過去に遡って存在しなくなる。

――地下鉄車内の座席争いの果ての凶行――

得体のしれない不安をクリーンアップした果てに、
無数の心たちは記憶のファイルに共通のラベリングを施し、
巨大な一般意志すなわち「世間」への再接続を確認する。

やがて「みんな」が信じると信じる「結界」が結び直され、
街は新たなイベントに向けてスタンバイの状態に入る。

「神殿は健全に保たれている」

吹きさらしの腐りきった空気が抜きぬけ、いつものように、
わたしにおまかせなさい村の村長さんたちが一斉に動き出す。

    *
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2012 手に結ぶ 9

2012-06-16 | Weblog
 
    *

「《一分きざみ、一銭刻みで勘定する神。情欲に狂った、豚のようにうめく、なりふりかまわぬ神。ところきらわず舞い降り、下腹を投げ出し、愛撫に身をゆだねる、金の翼を生やした豚、そう、これがおれたちの神様だ。さあ、みんな乳繰り合おうぜ!》」
(L=F・セリーヌ『夜の果てへの旅』生田耕作訳)

    *

「接続エラーⅡ」

    * 

「また淋しくなった。こんなことはもういい加減うんざりだ」
同じフランス人作家は、ありたけの呪詛をこめて作品を綴った。
クソのような社会に向けたクソのような言葉がつづく。

闇にいくらクソの言葉を吠えても闇が変化することはない。
昔も今もこれからも、クソはずっとクソのままなのだろうか。

ある日、オレは地下鉄に乗った。ばあさんが乗ってきた。
オレは座席を譲ってもいい気分だったが、
あいにくオレには譲る座席がなかった。

オレは自分がクソだということはわかっている。
譲る座席をもないただのクソ野郎でしかない。
けれど、永遠に不発弾でありつづけられるだろうか。

一瞬、ばあさんは冷たい視線でクソのオレをにらんだ。
真心をこめた憎しみか軽蔑のようなものが滲んでいた。

「おばあさん、そんな目でオレを見ないでくれないか」

クソのオレはようするにどこにも存在しないが、
クソのオレのことを考える存在はどこにもいないが、
クソであるオレは、クソのオレだけに考えられている。

決まって嫌な感じがする記憶のホットスポットがある。
過去の何かがが先回りして、クソの現在を照らし出す。

帰る場所は消滅したのに、記憶は放射能のように残留していく。
意味は汲み取ることができないけれど、
このどうしようもなく嫌な感じだけは鮮明だ。

どうでもいいことだが、クソにはクソの操作マニュアルがある。
オレだけが知っているオレ自身のための操作手順だ。
嫌な感じを処理する、クソ処理用のアルゴリズムもある。

けれども手に負えない現実は否応なくやって来る。
いつか積み重なった嫌な感じは満期を迎える。
借金が膨れ上がると誰かが必ず取立てにやって来る。

オレの背中にぶつかった男が舌打ちするのが聞こえた。
オレは男がどんな顔をしたのか、見なくてもわかった。

「いま、あなたはボクを虫けらだと思いましたね」

視線が泳いだ途端にクソの毒が回りはじめる。
クソの血がたぎって脳ミソに逆流する。
たったそれだけのことが決定的なトリガーを引く。
少し揺れただけなのにメルトダウンが始まる。

すべては誰か仕組んだジョークなのだろうか。
すべてのリンクが切られている。
すべての通信はブロックされている。
リンクのないラインに情報は流れない。
ラインの切れた光の道を虚ろな闇が包んでいる。

クソのオレにはどんな座席もないし、オレはどこにもいない。
どこにもない、も、どこにもない。
オレはビョーキなのだろうか。たぶんビョーキだろう。
でもそれがどうした。座席の問題じゃないのはわかっている。
そんなことは豚のケツだ。ばあさんのことは許してやる。

ところが、オレに唐突にリンクを張ったバカがいる。
頼んだわけでもないのに満期がやって来た。

クソにはクソの固有の閾値のセッティングがある。
男の虚数的なまなざしが、クソの構造計算式にクソの解を与える。
嫌な感じの凝集が起こって、相転移がはじまる。

「かあちゃん、ここが臨界点らしい」

あってはならないことがありうるということ。
ゆるされない現実が現実に起こるということ。

想像しただけで、なけなしのフォースが励起した。
あるかなきかのオレのひ弱なフォースだ。

――惨劇が繰り広げられる真下、一瞬だけ一縷の希望が立ち上がる。

     * 


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2012 手に結ぶ 8

2012-06-15 | Weblog

    *

「接続エラー」

    *

エージェントとの関係について、おさらいをしよう。
エージェントが溢れる国の人びとの存在フォームを整理して一般化すると、
「be+過去分詞」=完全なる「受動態(the passive voice)」と定式化できる。

「教えてあげる-教えていただく」
「治してあげる-治していただく」
「知らせてあげる-知らせていただく」
「解決してあげる-解決していただく」
「支配してあげる-支配していただく」
「捕まえてあげる-捕まえていただく」

このフォームのリスクは、主体性の全面放棄に向かうことにある。
最後に考えられるのは、「殺してあげる-殺していただく」という事態だ。

エージェントは自己増殖してつけあがる特性をもっている。
日々警戒を怠らぬようにしたい。
のみならず、時に応じて「能動態(the active voice)」へと
存在のフォームを即座にチェンジできることが重要だ。

最大のリスクは、「主体性の空白地帯」が生まれることにある。
エージェントにとってこの広大な空白地帯は、収奪のフロンティアとなる。
例えば、何十年もの間、極東の島国では全域に収奪の嵐が吹き荒れている。

いま起きていることは、端的に「接続エラー」と表すことができる。
属人的な存在エラーではなく、接続関係としてのエラー。
ポインティングできる誰かや誰かの「vice悪」というより、
ニンゲンとニンゲンの「関係のフォーム」が狂っていることが大問題。


    *

ここでいう「他力」は、親鸞さんのとはちがうのかな?
Never!全然ちがいます。
親鸞さんのいう他力は属人化されえない如来さんのもの。
有名な『教行信証』には「他力といふは如来の本願力なり」とあります。
如来さんは西欧の「God」と異なり、命令も罰も与えない。
あえていえば「巨大な願い」、「祈り」が溶けていく地平とでもいいましょうか。

かたやエージェントは?
バリバリの俗人さんです。
「わたしにおまかせなさい」の他力とは、
要するに誰かになりかわって自力を行使すること。

ほとんどが自信満々の野心満々が志願してなるものです。
「権威」に吸い寄せられやすいという共通の資質特性もある。
もちろん例外もあります。決めつけてはいけないけどね。

問題は出来損ないのエージェントが介在するとき、
「情報の一方通行」が起こるということ。
情報は生命体にとって、かたちのない「主食」。
情報の流れが一方向的にコントロールされる状況では、
生命的なフローが停滞して阻害される。

なぜか。
一番の問題点は、フィードバックが起こらなくなること。
つまり、生命としての試行錯誤プロセスが起動しなくなり、
行為の結果についての反省も理由の検討もされることがなくなる。

おまかせで学習しなくてもいい状況が生まれるから、
みずからに備わった学習機能を起動させようという動機が生まれない。
学習がなければ変化することができない。
この学習機能の停止は、生命の適応戦略にとっては致命的だ。

まとめると――
「操作の技術と権利」の一極集中、背後でささえる「依存」と「服従」。
この関係がアプトプットする生の「収奪」と「破壊」、そして全体の「絶滅」。

マンモスも恐竜もサーベルタイガーも滅びの道を辿った。
自明性に溺れ切った「種」は消えていくしかない。
このことは自然界の鉄則といえる。

「一つの良き習慣が世界を堕落させぬように」(テニスン)という格言もある。

世界にはいたるとろに自明性のワナが仕掛けられている。
例えば、無菌状態・快適指数100%の居住空間に長く適応しすぎた生命は、
みずからの免疫システムや代謝システムなど生体機能全般を退化させ、
たった一匹のウイルスに殺られてしまうこともある。気をつけようね。

    *

「究極のエージェント」

    *

「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。これが宗教の秘密である。」(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳)

フォイエルバッハという十九世紀の哲学者が命をかけるように語ったのは、
超越的存在に高められた理念としての「究極のエージェント」の本質について。
この著作では、世界の全域を統べるとされた神格の接続のし直しがなされる。

絶対的「他力」として外部化したエージェントはあらゆる存在を制御対象とする。
教会や僧侶などのプチ・エージェントは世俗的媒介としてその実行部隊をなす。

フォイエルバッハはこうしたエージェントとの接続関係を切断して、
外在的な神格をニンゲンに内在する絶対的本質として再接続する。

かくして神格(愛)は、やんごとなき外部から降臨するものではなくなり、
ニンゲンの存在の基底から内発的に湧き上がる自らの本質として位置づけられる。

    *

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2012 手に結ぶ 6

2012-06-01 | Weblog
    *

「変えることができないことを受けいれる静かな心と」
「変えることができることを変える勇気と」
「そして、そのちがいを見分る賢さを」

The serenity to accept the things I cannot change,
The courage to change the things that I can,
And the wisdom to know the difference.    (「The Serenity Prayer」Reinhold Niebuhr)

    *

骨格、サイズ、代謝機能、体温バイアス、化学的組成などは、
どんなに逆立ちしてもボクらが勝手に変えることができない。
生物進化というロングスパンのなかで、変わっていくだけだ。

ひどく当たり前のことだと思うかもしれないけれど、
このことを意識することはとても大事なことだと思える。

なぜ?

ハードプログラムされた自然の母体は保守的な特性がある。
保守的という意味は、ボクらの作為にとってということだけどね。
別言すれば、有限な個体が介入できない高い壁に守られた領域がある。

でも、テクノロジーによる介入や開拓はどんどん進んでいるよ。
体細胞と生殖細胞を隔てる「ワイスマンの壁」には穴が空いているとか。

わかるよ。
けれども絶対に超えられないものがあることは確かなことだ。
例えば、「意識」とシステム全体との関係だけ考えてみても、
部分として生きるものに全体についての報告がなされることはないし、
じぶんが生きる文脈の外に出て、じぶんを語ることは原理的に不可能だ。

仮に語ることできるとしたら、すでに別のじぶんになっていることを意味する。
つまり、新しいコンテキストを生きるじぶんがすでに生きられていることになる。

この限界や矛盾から離れるには、自力では不可能ということを知る必要がある。
唐突ないい方になるけれども、
祈りは、そのためのおごそかな作法に通じているように思える。

祈りは自己放棄ではない。外在する神的な何かに、じぶんを委譲することでもない。
それは、じぶんがどこかでつながる「大きな知」の訪れ、それへの信頼ともいえる。

ある意味で、「祈り」には生物学的なきちんとした根拠があると考えることもできる。
とても不思議な感情に襲われるけれども、
「祈り」は、ニンゲンが一部をなすシステムの作動に対して、
「意識」が全体性につながるための作法に通じているようにも思えるのだけれどね。

  変えられないものを受けいれる静かな心と、
  変えることができることを変える勇気と、
  そして、変えられないものと変えられるものを見分ける賢明さを。

「語りえないことについては沈黙しなければならない」ということかな。
でも、もう少しわかりやすく。

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